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88. 魔物を甘く見ていました(本編)



風の強い夜だった。


雨樋に当たる枝の音に意識が散漫になる。

あの杏の木は、伸び過ぎた枝を落とした方がいいのだが、果実の呪いというものがあり春までは手が出せないらしい。

どうやら、果実を無駄にした家事妖精が呪われてしまったという一件から、呪いが解けるまでは刺激しないようにしているそうだ。


(こういう世界だから、祝福も呪いも沢山のものがある)



それは奇妙だったり、美しく楽しかったり、そして恐ろしかったり。

この世界は、決して指を傷付けない温室の花ではない。



「ディノ、怒っていますか?」


すとんと膝の上に座ってみたが、いつものように無邪気に喜ばないので、ネアは懐柔するのは難しそうだと判断する。

であれば、この姿勢である必要はない。

そう思って立ち上がろうとすると、するりと腕を腰に回されて拘束された。


「そうだね、少しだけ」

「危ないことをしたからでしょうか?」

「安心したから、こんな気持ちになれるんだろうね。君が咎竜の呪いを受けていないとわかるまでは、ただ苦しかった」


率直な言葉に、ネアは体を捻って伸び上がるとディノの頭を撫でてやった。

冴え冴えとした水紺の瞳が眇められ、ひたりとこちらを見据える。


「君は、………あの夜、どうしてアルバンの山に行ったんだい?」

「将来を見越して不安になり、雪菓子を蓄えておきたかったからです」

「それだけなのかな?」

「そして、癇癪を起こしていたからですね」


ディノが見通しているのは承知の上なので、ネアも普通にそう答えた。

小さく溜め息を吐いた魔物は、まだ魔物らしく酷薄なままだ。


「…………だから、咎竜の呪いを受けても、それを私に伝えようとはしなかったんだね?」



そうなのだ。

ディノがどれだけ稀有な存在なのかを、ネアは重々知っている。

伝えられないという呪いがあれど、疑問を持たせるとか、幾らでも知らせる為の努力は出来た筈だ。

でもネアは、その努力については一欠片も切り出さなかった。



「やっと望むようなものを手に入れたと喜んでいたとき、………やっと着心地の良い素敵なセーターに巡り合えたと安心していたとき、もしそのセーターが実は肌に合わずにかぶれてしまう素材だと分かったら、私はどうするでしょう」


「………ネア?」


「喜んでしまっただけ、頭にくるのです。つまり、そんなセーターはくしゃくしゃに丸めて遠くに投げ捨てます」


そう言って微笑めば、魔物は少しだけ不安そうに目を瞬かせた。

いつもの無防備さではなく、老獪な男性の目で狼狽えられるのはいささか愉快にも思える。


「冷静になってから考えたら、あの日の私はそれをしたのでした。セーターをくしゃくしゃにするべく、あえて無謀なことをしたのでしょう。ディノ、私はこの通り自分勝手で残虐な人間なのです」

「……そうなのかな。結局君が損なったのは、君自身だろう?」

「ふふ。癇癪を起こした狐さんが、よく走り去って行くのと同じ原理ですね。前を見ていなくて壁にぶつかっても、最初から壁にぶつかる為に走っているわけではありません」

「山に行ったのは癇癪の所為だとして、私が戻った後も君は、決して私を頼ろうとはしなかったよね?」


例えば、咎竜の呪いだと知らせずに知恵を借りるとか。

何でも良かったし何かはあったのだとも思う。


「………ディノ、私は咎竜の呪いを受けたとき、癇癪を起こして馬鹿なことをしてしまったと己を恥じました。………でもね、少しだけすっとしたのです」


微笑んで言うものだからどう捉えればいいのかわからないのだろう。

ディノは目を瞠ったまま、返す言葉を失っている。


「事実を最後まで知らせないことで、私が死んだ後でこのことを知って、ディノがちょっぴり後悔すればいいとも思いました。そんな嫌なやつなのです」


ざわざわと風の音がする。

しゅわりと鳴ったのはストーブで、中で薪が崩れたのだろう。


「……だから、私には言わなかった?」


静かな声にまた少し微笑む。


「いいえ。それはディノがいなかったところまでですよ?……でも、そう考えてしまったことは事実なので、自分の陰湿さにはとてもがっかりしてしまいました。割と自分至上主義で生きてきたので、こんな風に誰かに癇癪を起こしたことがなかったんです」

「ただ、言わなければ良かったのに」

「ディノはとても怖がっていたでしょう?そんな風に怖がっているひとに、清廉な顔をして私は酷い目に遭っていると言えるでしょうか。ましてや私は、自分があと一年ぽっちしか生きられないかも知れないという説明をせずに、指輪を返して貰いましたし……」


唇の端を微かに持ち上げて、ディノは淡く苦笑した。


「私はこんなにも愚かになっているのに、君はそれでも、私はどんな君でもいいからと言うとは思わないんだね」


伸ばされた手に髪を撫でられて、ネアは少しでも自分の中の気持ちを整理しようと頑張った。

上手く説明したいのだけれど、この魔物が勘違いしないように補足すればする程、本当に言いたいことが霞んでしまう。


「もし、ディノが少しでも、それでもいいからと言えなくなると困ったから蓋をしたんでしょうね。全部が解決して笑い話になるまでは、私はこんな嫌な奴だと知られたくなかったのです」


「無事に終わったからと言って、今回のことは笑い話にはならないよ。君を怖がらせたのは私だし、レーヌの罠を取り零したのも私だ。……ただ、君が私に何も伝えようとしなかったことが、そうする必要がないからだと思っていたのではなくて、少し安心した」


少し苦く微笑んだ魔物に、ネアは容赦なくその秀麗な額を叩いた。


「……っ?!…………ネア?」

「何て高慢な魔物なのでしょう!全部がディノの取り分ではありませんよ。ディノが反省するべきは指輪の取り戻し方が雑だったことで、それはもう事情も知りましたし、謝っても貰いました。咎竜のことは私の自損事故です」

「でも、……」

「罪とてその人の持ち物なのです。私の行いまで勝手に持ち去らないで下さい。それに、私は今回のことも、解決した今はそこまで後悔していません」

「………後悔していないのかい?」

「私も例に漏れず愚かな人間の一人なので、また癇癪を起こしたら同じような荒ぶり方をしてしまうかもしれません。性格というのは変え難い素質ですから。だからディノ…」

「……私の方が年上だから、君にそんなことをさせないようにすればいいんだね?」

「はい!」


そう微笑んで頷けば、ディノはふわりとネアを抱きしめて首筋に顔を埋めた。


「私には、まだわからないことや慣れないことばかりだ。でも君を失くしたくないから、学ばないといけないな」

「……何となくですが、ドリーさんに聞くと良いような気がします」

「…………ネア」


何気なしに言ったのだが窘められたので、ネアは小さく笑った。


「ふふ。私もこの領域は新参者なので、我が儘を言う割には才能がなくて。そんな私の面倒を見るからには、生来の能力が高そうな人に頼るのが一番だと思うのです」

「……それが、あの火竜だと?」

「ご近所のみなさんは割と一人上手なので、この分野に長けている人が少なさそうですものね……。あとはダリルさんとか、……グラストさんも良さそうですが、案外天然な気もしませんか?」

「………火竜か、」


たいそう面白くなさそうに呟いた魔物の髪の毛を引っ張ってやり、ネアはこちらを拗ねたように見た魔物に微笑みかける。


「ごめんなさい。本当は、合わせて貰う方の私がしっかりしているべきなのですが、きっと万全ではないと思うのです。普段は私も頑張るので、私の様子がおかしい時や、何だか拗れたぞという時には専門家の手を借りて下さいね」


ここでネアは、人間らしくしたたかに議論を先導した。

魔物であるディノの価値観や感覚に合わせるという道もあるのだが、その方向は気付かれない内にさらりと潰しておく。

寝台での個別包装なども含め、ネアが楽しく生きるために、合わせて貰えないと困ることが多いからだ。


「頑張るよ。だからネア、これからは何か困ったことがあったら必ず私に教えて」

「む。………危ないことをしないようにとは言わないのですか?」

「そう言えたらどれだけいいだろう。でも、狩りや反撃を止めたら、………多分だけれど、君はひどい癇癪を起こしそうだ」

「ディノは、とても頼れる年上の婚約者です!」

「ご主人様…………」


良い条件で着地しそうなので狡猾に褒めて地固めすれば、ディノはすっかり恥じらってしまった。

婚約者という呼称には、まだ抵抗力が足りなかったようだ。


「わかりました。困ったことがあったら、必ずディノに相談しますね!」

「それと、危ないことをするときには、必ず誰かを道連れにすること」

「…………もはや、同行者を選ばなくなりましたね」

「私も君から目を離さないようにするけれど、それでも君は、いつか私の目がないときに一人で無茶しそうだから」

「………私は犯罪者なのでしょうか」



お互いの条件交渉が落ち着けば、魔物はふにゃりとしたいつもの魔物に戻る。

何でこうなってしまうのかと首を傾げていたら、不思議そうにこちらを見上げた。


因みに、この段階で魔物は勝手にうつ伏せ型の膝枕に移行している。

よくわからないが、拘束と甘えている感じが両方楽しめるらしく、お気に入りのようだ。



「………ネア?」

「なぜディノは、こうしてすぐにくしゃくしゃになってしまうのでしょう?」

「…………ご主人様」

「今は攻撃していませんよね」

「………ネアがここにいるし、生きているからかな」

「なぜか背筋が寒くなったので、基準値を是非に見直しましょう」

「どうしてだろう。これで充分に幸せだよ」

「あら、それでは狐さんを抱っこしていてもいいですか?」

「…………ひどい」



その後ネアは、すぐに晩餐準備のあれやこれで魔物が邪魔になってしまい、甘えているらしいディノをぺいっと膝の上から落とした。


「ネアは残酷だね」

「やっと心に一点の曇りもなく、ただ美味しくご飯が食べられるのです。ディノに構っていられません!」

「私と晩餐なら、どちらが大事なんだい?」

「生活欲求以下なのは間違いないですね。それを越えようとするのは難しいですよ。私には、誰かを自分より大事にする能力が足りませんから。今回のことでよくわかりました」

「………食事以下」

「睡眠も優先します!」

「何だろう、他にも勝てないものがありそうな気がする………」

「でも、ディノは私が生きているだけでいいんですよね?」

「…………ずるい」


(でも、今日は少しだけ荒ぶってしまったけれど……)


後で叱られてもいいからと、指輪に害を為そうとした水竜を蹴飛ばしたのだと告白したとき。

あの時にネアは、それをどれだけ大切にしているかを熱弁し過ぎてしまった。

幸いにも全然伝わっていなかったが、何だかそれはそれでむしゃくしゃした。


(元々特殊な趣味だし、普通の言い方じゃわからないのかしら)


そこでネアはようやくブーツの手入れを終え、室内履きに履き変えた。

竜を蹴った日なので、丁寧に布で拭いておいて靴紐もほつれないようにしていたのだ。


これから手を洗ってうがいもするので、へばりついた魔物はもう一度捨てていかなければならない。


「私は、そんな風に私を思ってくれる、今のディノが大好きです」

「………ずるい」


幸い、魔物はその一言で崩れ落ちて離れてくれた。

引き剥がす手間が省けたので、次回からはこの手でゆこう。



しかし、移動するとそのまま付いてきてしまった。

袖を捲っていれば、なぜか魔物も同じ動作をしたので眉を顰める。


「手を洗うのかい?洗ってあげるよ」

「時間がかかるだけなので却下します」

「ほら、手を貸してごらん。前に、君に洗って貰ってとても嬉しかったからね」

「………断り難い言葉を選んできましたね。しかし、私は個人主義です!」

「我が儘なご主人様だ」

「………解せぬ」


結局手を持っていかれてしまったので、ネアはものすごい渋面のまま手を洗われるに任せた。


(…………あれ、)


きっと足元も洗面台もびしゃびしゃに濡らすと思っていたのだが、魔物はとても綺麗にネアの手を洗い上げてゆく。

その器用さにふと、あの手も洗えないような無防備さの演出は何だったのだと眉を顰めた。


「………でも、ネアはもう、私をいらないとは思わなくなったんだね」


丁寧に指先を泡立てられながら、ぽつりとそう呟く。


「その懸念は、昨年に解決したのでは?」

「………もう少し私に近い形で、必要としてくれるようになったかな」

「基準値が謎めいています」

「いないなら、この世界には何の意味もないんだ」

「…………それは特殊形態なので、私はそこまでは到達出来ません」

「相変わらず残酷だけれどね」

「一般人はなかなかに慄く領域ですので、きちんと自覚して下さいね」

「おや、そうだろうか。確か、君も新参者なのだろう?」



唇をカーブさせて微笑む魔物を鏡越しに見ていて、ふと背筋が寒くなった。


洗面台の前の柔らかな照明の光を浴びて、真珠色の髪が角の取れた丸い煌めきを帯びて美しい。

その艶麗さに嫌な予感を覚える。



「………ディノ、……まさか全部わかっていて不慣れな振りをしてはいませんよね?」

「していないよ。疑い深いご主人様」

「確信犯だった場合は屑判定となるので、隠していたら容赦しません」

「ご主人様…………」


疑い深く言葉を強めれば魔物はしょんぼりしたが、ネアの手を洗う指の動きは繊細で艶かしい。

ふと、この魔物は真っ当な関わり合いを知らないだけで、その余禄の部分は充分過ぎる程に経験値があるのだと、今更ながらにネアは思い出した。


(……出会ったばかりの頃は理解していたことを、どうして失念してしまったのだろう)


無防備なところ、無垢なところ、そして愚かなところ。

積み上げられた彼の足りない部分を知れば知る程、経年の老獪さが霞んでしまっていたが、それもまたこの魔物の特性なのだった。



「ま、待って下さい。こんなに指先を磨き上げられる必要がありますか?」

「ネアが洗ってくれた時もこのくらいだったよ」

「あの時は、ディノがお外の生き物を掴んでいた直後だったからです」

「では今回も同じだ。あの水竜が触れたようだし」

「ふ、普通に洗って下さい………!」

「あの時の君にはもっと色々されたけれど?」

「なぜにいつも加害者にされるのだ!!」



抵抗して暴れると、しっかり背後から抱き込まれて体を使って押さえ込まれた。

泡で滑る指先のなめらかな動きに動悸が激しくなる。

特に目的から外れたことはされていないのだが、何かがとても駄目な感じがした。

とても楽しそうに手を洗われ続けるので、ネアは必死に脱出方法を考える。


「あんまり洗われてしまうと、人間の皮膚はかさかさになってしまいます!ディノは、私の肌の潤いを奪う悪い魔物なのですか?」


あわあわしながらそう訴えれば、魔物は悲しげに溜息を吐いた。


「………何で君は、そうやってすぐに逃げてゆくのだろう。婚約者なのに」

「婚約者の手をかさかさにするとは、もっとも重い罪ではないでしょうか?」

「………やっぱり、きちんと特別な日に求婚した方がいいのかな」

「それとこれは結びつきません!呪いでもないのに指輪を取り上げたら許しませんよ!」

「ほら、洗うのはもうお終いにするよ。クリームを塗ってあげるからおいで」

「クリームくらい自分で塗れる、自立した人間でありたいです」

「ご主人様は、手がかさかさになるのは困るんだろう?」

「………そうです」

「困ったことがあるなら、私に言うようにと約束したよね」

「おのれ、悪徳商法か…………!!」



その後、結局ネアはクリームも塗られてしまい疲労困憊して晩餐に出たので、さぞかし叱られたのだろうとエーダリアに優しくして貰えた。



素敵な鶏肉料理を多めに貰えたので、今日も良い一日だったと締め括るしかない。






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