エメル
エメルは水竜だ。
免疫力が低く、あまり屋敷の結界の外には出られないが、有事の際には穢れを洗い落としやすい竜の姿になり大きな力を振るう。
竜の姿は妻に好評なので、ダリル曰く“力仕事”に従事するのが、エメルは待ち遠しかった。
そしてその日、妻は卵まみれの悲惨な姿で廊下を走って来るとこちらに悲しげな目を向けた。
「エメル見て、卵が爆発したわ!」
「何をしたんだ、何を………」
妻はとても料理が下手で、その代わりに舌鋒鋭い政治的な才覚を持つ。
師の片腕として相応しい鋭敏さで、難解な事件や込み入った書類をばっさばっさと処理済みにしていくのだ。
エメルがいつも、見惚れてしまう鮮やかさで。
「料理なら俺がするよ。君は包丁を持たないようにと言ったじゃないか」
「包丁は持ってないもん。魔術で卵を温めたのよ」
「………で、爆発したんだろ」
「エメル!何で笑ってるの?!大事な奥さんが卵まみれなのよ?!」
「ごめん、ごめん、つい。ほら、水で綺麗にしてあげるから許してくれ」
「水!羽を濡らしたら許さないから」
「何で俺が怒られてるんだろう」
エメルの伴侶は、ダリルに師事した同期の弟子であった。
それまでダリルの一番弟子であった二人の男を二人で蹴落とし、共に一番弟子になってから数年。
会えば喧嘩ばかりしていたところから、お互いを意識し始めた頃が最悪の喧嘩続きだった。
祝祭日の前日に大喧嘩をして二人揃ってダリルから二ヶ月間の職務停止とされた事件を経て、ダリルの一番弟子の座を取り戻した男達の憎たらしい嘲笑が我慢ならずに、二人で話し合ってきちんと問題を解決したのだ。
(まぁ、結婚すると報告したら、違う意味で激怒されたが……)
わかり難い形ではあれ、ダリルは自分の娘を溺愛しているのだ。
その娘を奪うのだからと、血反吐を吐きそうな仕事を幾つも与えられたが、意地でも全てを解決させてもう一度頭を下げた。
思うように許可は下りなかったものの、最終的には妻が大暴れしてダリルも黙らせ、二人は晴れて夫婦になっている。
同族である水竜の国には、もうだいぶ長く帰っていない。
結婚の報告の際に一度訪れたが、やはり閉鎖的な国の民達からは祝福を得難かった。
心からの祝福を与えてくれた第一王子の妻は半なりだが、竜の血が流れてはいるのだ。
その親だった異種族婚をした最初の水竜も、随分と前に人間の流行病で命を落としている。
となると、こちらも追放された身であるし、あまり妻には居心地の良いところではなかった。
それでも足を運んだのは、いざという時に同族の認知を得ておく為だ。
この先、偶然の事故で水竜とぶつかることがないとも言えない。
幾らでも保険をかけておかねばならないのだと、身近な者達から学ぶことも多かった。
そんなことを感慨深く思い出していると、地を這うような低い声が耳に届き、ぞっとする。
「エメル、………よくも羽を濡らしたわね」
「………す、すまない!考え事を…………こ、こらっ?!鱗を剥がすな、鱗を!!」
激怒する妻には、とても良いお手本がいたようだ。
この凶暴さはとある女性から学んでしまったものであり、喧嘩をして勝てたことは一度もない。
今回のように、彼女が望まないときに羽を濡らしてはならないだとか、事前に言い含められていた約束を破った場合には、仕返しも格段に凶暴になる。
でも、この凶暴さも、まるで料理が出来ないことも、読書の最中に声をかけると無視されるところも。
全て、全て。
全てが、エメルの生涯の宝物であった。
心を狭く整え、信仰だけに溺れていたあの頃の自分が、こんな風に家族を持つとは思ってもいなかった。
(あの日、囚われて千年迷路に投げ落とされて)
幾つもの滅びた国の残骸や、飲み込まれて彷徨う罪人の群れの住まうところ。
そんな迷路の中を半年も彷徨い歩き、獣のように罪人達を狩り生き延びて、ようやくドリーに助け出された頃には、この心は完全に干上がっていた。
自ら命を断とうとしてもそれも許されず、あの頃は随分とダリルを恨んだものだ。
しかしあの苦難の日々もまた、必要なものだったのだろう。
あの迷路の中はとても孤独で、けれども決して孤独ではなかった。
どこかが自分とよく似た罪人達と廃墟で語らい、争い、そして生き延びてみれば、あの日々があったからこそ、誰かと共に在りたいとか、家族が欲しいというような欲求が芽生えた気がする。
そんな欲求が生まれたところに、まだ雑用係だった自分に与えられた最初の仕事が、生まれたばかりのこの司書妖精のお守りだった。
「卵を爆発させなければ、濡れなかったんじゃないか?」
「…………へぇ、よくもこの状態で言えたわね?」
「どうして俺を頼らないんだ?何でもやってやるって言っているのに」
ただ不思議に思ってそう尋ねれば、柳眉を逆立てていた妻は分りやすくしょんぼりとした。
こうして項垂れていると可愛いので、また怒られるのを覚悟で頭を撫でてやりたくなる。
「だって、いつも料理は全部エメルが作るでしょう?私は奥さんなのよ」
「でも、外に出て働いてくれているのは君じゃないか。俺は滅多に外に出れないから、買い物に行くのも一苦労だ。いつだって、君が一人で重たい野菜を買って帰ってくるくせに」
「季節を馬鹿にしてるの?今は冬なのよ。エメルが死んだら嫌だもの」
「俺も君に重たい買い物袋を持たせることを我慢する。だから、君も料理は俺に任せてくれないかな?」
「…………私は司書妖精だから力持ちなのよ?あの買い物袋ぐらい楽勝だわ。それでも?」
「ああ。それでも」
「…………わかった。じゃあ、もう卵は爆発させない。その代わり、今度掃除を教えて」
「えっ…………」
「待って、どうして真っ青になってるのよ。私の掃除に何か不安でもあるの?!」
「先週は、洗濯籠を爆発させたばかりじゃないか!」
思わずそのまま反論してしまい、しまったと思った時にはもう遅かった。
緑の瞳がみるみる涙目になり、薔薇色の唇を噛み締めて震えている。
前回にこの失態を犯した時には、一週間も家に戻ってこなかったのだ。
(と、とにかく捕まえておこう!)
「……………何をしているの?」
ひとまず傍にあったものでぐるぐる巻きにしていると、不審そうにこちらを見上げて鼻を鳴らした。
まだ泣いてはいないが、とりあえず夫の奇行に泣く直前で踏みとどまっただけの状態だ。
「君がいなくなると困るから、逃げないように捕まえておこうと……」
「そんな理由でか弱い妖精を紐でぐるぐる巻きにしたの?お馬鹿な竜ねぇ」
「だ、だがこの前は………!!」
「そうよ。たった一週間ぽっち家出しただけで、あなたったらひと月も体調不良で寝込むんだもの。竜の宝物になると、その竜から離れてはいけないなんて知らなかったわ。死んじゃったら困るし、もう家出はしないから」
「……………本当に?」
「その代わり、エメルに苛められたってダリルに言ってやるの」
「…………ララ?!」
また違う趣の命の危険に晒され、エメルは必死で謝り倒した。
何とか、夕食に大好物の牡蠣のグラタンと林檎のケーキを作ってやることで手を打ってくれたので、今回は騒動にならずに安堵する。
思ったままのことを口にしてしまうのは悪い癖だ。
この弱点があるからと、ダリルは決してエメルを駆け引きの場には連れて行かない。
そういう現場で有能なのは、いつだって頭の回転の早いララの方だった。
きらきらとシャンデリアの影が揺らめく。
栗色のララの髪にその光が落ちて、そんな煌めきに触れてみたいと思った。
今日はグラタンだったから、明日の朝食には何を作ってやろうか。
昼食は別々なので、その次の夕食は。
この屋敷にはプールがある。
あまり外出が出来ない代わりにそれなりに苦労して作ったもので、週末はそこで二人で泳ぐのだ。
そのプールはいつも、入浴すら嫌がる司書妖精のララも気に入るように、特殊な魔術の水を湛えている。
水の中にいる水竜程に美しいものはないと、ララはいつも目を細めて笑う。
なんて美しいのでしょうと。
本を持つ司書妖精程に美しいものはないので、エメルは毎日そう思っている訳だが、流石に毎日はそう言わない。
とっておきの時に伝えて、妻のとびきりの笑顔を楽しむのだ。
テーブルには花を飾り、毎日磨いて磨いた綺麗な水を飲ませてやる。
寝相が悪いので夜明けにはいつも蹴り飛ばされて、真夜中にこっそり美しい妖精の羽に触れてみる。
どこまでも。
どこまでもずっと、二人で行けるだろうか。
愛想を尽かされることなく、誰かに引き裂かれることもなく。
ララの大好きなお伽話のように、めでたしめでたしと結べるだろうか。
「エメル、週末には私の書斎の湿気取りをしてね」
「わかった。リエ都市の水路の地図が欲しいんだが、調べられるか?」
「ダリルと一緒に、水路を使って悪さするのね!後で成果を教えてね。ねぇ、明日はビーフシチューが食べたいわ」
「いいね。サラダは何にする?」
でもまずは、ララが持っても重たくない野菜を使ったビーフシチューを考えよう。
将来のことを考えるのはそれからだ。