菫の花束
淡い光の合間に目を細めた。
随分と大きな木の下にいるようで、その健やかな木漏れ日に目を細める。
菫の花の咲く柔らかな下草が揺れて、多分大切な誰かの笑い声が聞こえた。
森の枝葉から朝露が落ちて、
初夏の夜明けの匂いに、胸の奥がつんと熱くなる。
ああ、これはいつもの夢だ。
夢を夢見ていても許された頃の、幸福で、残酷な夢。
(私は失くしても、みんなは持っているのに)
この世には、叶わないものと叶うものがある筈なのに、どうしてこの足元には残骸ばかり散らばっているのだろう。
だからまた、こうして豊かな森の香りに揺蕩う。
(…………でも、私の手の中は、もっとキラキラしてたような)
それはもしかしたら、夢の中のことだったのかも知れない。
だとしたら、ずっと眠っていてもいいのに。
わあっと全てを投げ出して、どこか遠くにある素敵な国へ旅にでも出ようか。
綺麗なドレスを着てオペラでも観に行くとか。
一人で。
一人で。
ずっと。
でも目を閉じると、やはり世界は美しい。
無垢さに許されたおとぎ話の国はもう年齢オーバーだけれど、眠りの淵で眺めるその対岸は美しい。
心が静謐なら、対岸からこっそり覗き込めるのだ。
情けなくて悲しかったり、惨めで胸が潰れそうな日はこうはいかない。
だから多分、毎日はこうして穏やかであるべきだろう。
今日は奮発して、仕事帰りに花を買って帰ろうか。
それとも、時間をかけて美味しいものを作ろうか。
こうして澄ませて、澄みきるところまで澄んでゆくと、孤独もまた美しく輝く。
(ううん、……でもやはり、もっと幸せなことがあった筈なのに)
例えばそれは、今日あったことを誰かに伝えたり、後ろから忍び寄って、誰かの頭のてっぺんに口付けを落とすような。
(まさかそんな)
さすがにそれは夢を見過ぎだ。
度を越した夢を見ると、お腹を空かせたピラニアに心を食い荒らされてしまう。
ほら、こうしてまた、息が止まりそうになる。
「……………む」
そこで、ぼさりと肩口に落ちてきたものに起こされた。
片目を開けてそっと窺えば、慎重な眼差しでこちらを見ているぞくりとする程に美しい魔物がいる。
真夜中の暗闇の中でも、その瞳は身を切るほどに鮮やかだ。
「怖い夢を見たのかい?」
「……………どうでしょう。ディノは、私が見ている夢だったりしますか?」
「困ったね。私は夢ではないと思うよ」
少し体を起こして丁寧に髪を撫でられて、その心地よさにうっとりと目を細めた。
こういう気持ち良さは、両親からしか与えられたことがなかったが、他の誰かからも貰えるものらしい。
魔物が知らないことも多いが、こうやってネアだけが知らないことも多いのだろう。
「…………もっとです!」
「いいよ、ご主人様。いくらでも」
甘えると嬉しそうにするのはなぜだろう。
こういうことは、ネアにもよく分からない。
他人を愛したり愛されたりすることは、随分と高みの出来事であった。
形式としては知っているものの、自分には向かない戦場だったらしく、実際の運用がわからない。
主に心と犠牲心のバランスは、とても複雑なものだった。
(例えばここで、ずっと頭を撫でていて欲しいから、今夜は隣で寝ればいいのにと言ったら、私は横暴なのだろうか)
よく分からない場合は欲望に忠実な暴君になるのだが、大事さの天秤が魔物の側に傾いてくると、あまり粗雑に扱いたくないという欲求も出てくる。
だとすればここは、もう巣に戻ってゆっくり寝ていいよとなるのだろう。
(待つのだ。……こうして寝台に既に上がってるということは、今夜はお泊まり会をしたい寂しん坊の日なのかもしれない!)
それだととても好都合なので、魔物の要求を飲むフリをしてこのままにしておける。
「難しい顔をしているね。今夜は傍にいようか?」
「………それはもしや、なし崩しでこのまま違法滞在をする気なのでしょうか」
「ご主人様………」
「やむを得ません。頭を撫でてくれたので、今夜は滞在を許可します」
作戦は滞りなく成功し、ネアはほくほくと勝利を噛み締めた。
「…………ディノが夢ではないのなら、先程見ていたのは怖い夢です」
「場合によっては違うのかい?」
「前の世界にいた時は、とても幸せな夢でした。………でも、もっといいものを知ってしまったので、心が贅沢になりました」
「いくらでも贅沢になるといい。ほら、こっちにおいで」
「………自分の毛布を持ってきたのは良いことですが、私までそちらに包まるとなると個別包装ではなくなります。自由睡眠万歳」
「………ネアは、頑固だね」
「むぅ。………私は、頑固なのでしょうか。伸び伸びと眠る気持ち良さを知ってしまったので、その幸福を譲りたくないのです。ディノにも傍にいて欲しいのですが、この安眠も手放したくありません」
「では、どうして欲しいんだい?」
「…………お隣で、ちょびっと触れるくらいのところで眠っていて欲しいです。個別包装で!」
「じゃあそうしようか。君が、また怖い夢を見たら嫌だからね」
甘い甘い囁きに、ネアは目をぱちくりさせた。
突然包容力のある大人の男性になられても、何だかそわそわしてしまうではないか。
「………ディノは、今夜は怖くないのですか?」
「君が怖いと思う日は君を守りたいからね。私にも恐ろしいことはたくさん出来たけれど、君を守っていられるととても幸福なんだ」
「………それなのに、狐さんを寝台に入れようとすると荒ぶってしまうのですね」
「ご主人様…………」
「もふもふの可愛いやつと寝台で一緒に眠るのは、子供の頃からの夢でした」
「では、私がいつか獣の姿になってあげるよ。それでいいだろう?」
「………艶々もふもふの毛皮のやつになってくれますか?ムグリスのような毛並みで、狐さんや狼さんの形が好きです。雪豹なら尚良しです!」
あっさり欲望に負けて、もふもふなら何でもいいことがバレてしまったが、毛並みや形の指定が出来るならこれ程楽しいことはない。
「…………そう言えば、ネアは毛皮があると布面積を減らすんだよね」
「素敵な毛皮を堪能する為とあらば、やぶさかではありません!」
「ふうん。では楽しみにしていよう」
「ディノ?こちらは通常仕様ですので、触れても楽しいことはないと思いますよ。代わり映えのしない、ただの人間の皮膚です」
ネアが不思議に思ってそう言えば、ディノはなぜか少しだけ困ったように微笑んだ。
「無用心なご主人様だね。特別なものではないのなら、触ってもいいのかい?」
「ええ。ほら、どうぞ。少し寂しくなってしまいましたか?…………ディノ?」
そう言ってネアが片手を差し出してやると、なぜか魔物は自分の毛布に顔を埋めてくしゃくしゃになってしまった。
先程までのどしりとした安心感はどこへやら、すっかりお馴染みの魔物である。
「………ネアはずるい」
「また始まりましたね!」
「最近は飛び込みもしてくれないのに、触るのは構わないなんて………」
「狡いという範疇ではありませんよね。ほら、手を繋ぎますか?」
「…………どうせなら、もう少しかな」
「もう少し?」
「もう少し君に近いところがいい」
「む。では、腕を組むのを許します。仕方がありませんね!…………ディノ?」
謎に打ちのめされた魔物が毛布に潜ってしまったので、ネアは少し驚いたが、毛布からはみ出ている真珠色の髪の毛を見ている内に、口元が緩んできた。
(ああ、わたしの手の中にあったのは、このキラキラだったんだ)
毎日取り留めのない話をして、頭を撫でてやれて、優しく頭を撫でてくれる尊いもの。
「…………菫の花が沢山咲いていたんです」
「夢の中で?」
「はい。小さい頃に裏手の雑木林にたくさん咲いていて、よく毟ってきたのでその影響でしょうか」
「菫の花が好き?」
「ええ、大好きです。でも香水になると噎せてしまうので悔しいです」
「香水はどんなものが好きなんだい?」
「爽やかなものか、森の香り的なやつですね。薔薇の香りは、ちょっとヨーグルトのような爽やかな方のものだけ。濃密な花の香りは噎せるので、果実の香りと合わせたものがいいです」
「香水を買ってあげるなら、一緒に行った方が良さそうだね。君の好きな香りを見付けるのも楽しそうだ」
「ディノの香りも好きですよ。ほっとします。実はヴァーベナ系のかなり好きな香りなのがノアで、アルテアさんはちょっと大人の香りです」
「………浮気」
荒ぶると個別包装を引っぺがそうとしてくるので、ネアは大人しく話題を変えた。
「そして、腕はいらないのでしょうか?使わないのなら毛布の中にしまいますので……ふぁっ?!」
優しさから腕を差し出してあげた筈なのに、ネアは腕どころか体ごとがっしりと抱き締められてしまう。
これでは下敷きになった腕が疲れるし、気軽に寝返りを打てないから嫌なのだ。
「ディノ!これは接触ではなくて拘束です!!」
「…………ネアが、毎日ずっとここにいればいいのに」
「変な不安を煽らないで下さいね。私はずっとここにいますよ」
両手の自由は奪われているので、こつりと頭突きをしてそう言ってやれば、魔物は綺麗な目を丸くしてから、嬉しそうに微笑んだ。
「そうだね。私も頑張るから、もう少しだけ待っていてくれるかい」
「む。………………何を頑張るのですか?あまり危ない方面は開拓しないで下さいね」
「君の為に、少し緩衝剤になるようなものを作ってもいいし」
「怪しいものを作ってはいけません!世にあるもので、幸せに生きています」
「………まずは、ネアが諦めないように注意しないとかな」
「………え、私が諦めるかもしれないくらい厄介なことをしようとしているんですか?」
その日、魔物はとても安心したように幸せそうに眠っていた。
魔物曰く久し振りにずっとという単語をネアが使ったからだそうなのだが、ネアは不安でいっぱいで夜明け前まで眠れずにいた。
翌朝、昨晩の会話でヒントを得た魔物から、可愛らしい菫の花束を貰って幸せな気分になっても、まだその疑問は消えずにいた。
(緩衝剤が必要で、諦める可能性があるようなそちらの趣味って何だろう………)
この不安が後に、第二回夜のアルビクロムで学ぶの会を実現させるのだが、ネアはこの決断を終生後悔することになる。
決して開けてはいけない扉は、案外近くにあるものだ。