果ての薔薇と氷菓子
「では、今日は一日、こちらの狐をお借りしますね」
そう伝えれば、ネアは微笑んで頷いた。
終焉の魔物が遊びに来ていたせいか、あまり頓着する様子もない。
今回の一件以降懲りたのか、ディノは自分の不在時に随分と高位の魔物を置いてゆくことにしたようだ。
ディノが出かけているようなので寂しがるだろうかと期待していたのか、狐は少しがっかりしていたが、気を取り直して小さな歩幅で転移陣に入ってくる。
今回は少し距離を飛ぶので、公式な転移門で他国に渡ることにした。
リーエンベルクの転移の間を開けること自体が久し振りなので、私用で使うことに微かな後ろめたさを覚えてしまう。
南方の大国に足を運ぶのは、実はかなり久し振りだ。
そんな思いで下り立ったのは、朝の光でも肌を焦がすような独特の熱気のある町だった。
市場には色鮮やかな鳥達が囀り、甘い果実の匂いに強い香料の香りがする。
熱せられた砂が軽く風に舞い上がり、森狼達が露店の料理を狙っていた。
この地域では住人の半数が妖精なので、羽を隠さずとも構わない。
ああここは、随分遠いところなのだと思ってしまった自分に、ヒルドは僅かな郷愁の念を覚えた。
こんな濃密な緑に囲まれた土地に、かつて住んでいたことがあったからだ。
「で、どこの森なの?僕はね、あの通りの向こうにある氷菓子の店が好きだな。ヒルドも好きだと思うよ」
振り返れば、そこには銀狐ではなく、灰色の髪の背の高い男が立っている。
この国の気温には不似合いな漆黒のロングコートを羽織っていて、おまけにその容貌は白い髪の時と変わらない美貌なのだ。
通りを行き交う人々が注視しないので、何かの魔術を敷いているのは間違いない。
「ネイ、ここからまた少し転移しますよ。中継地を設けないと流石に難しい距離でしたので」
「特殊な魔術の鉱脈があるとなると、この先にある熱帯雨林の奥にある山の麓かな」
「おや、ご存知でしたか?」
「あの辺りだと、変なものが多いんだ。ネアとか好きそうだよね。………あれ?暗い顔になった。大丈夫?」
「………ええ。そのネア様のために、手に入れたいものがありまして」
「ふーん。でもあんまり思い詰めないようにね、何だか普通の品物じゃなさそうだ。…………最近、シルハーンの様子も変だし、何かあった?」
「ええまぁ、そのようなものですね」
「もしかして、禁止系統の呪いかな。ヒルドの話し方が変だしね」
「…………わかりますか」
相変わらず、飄々としているがよく気のつく男だ。
ぼさぼさの灰色の髪を結んでいるのは、ネアとお揃いのリボンである。
ネアは嫌がりそうなので止めるように言ったのだが、同じものを店で見付けるとついつい買ってしまうのだとか。
同じ毛布を探していたのでそれは止めさせたが、もはや病気に近い。
「ネアの周りのことでしょ。……うーん、そうなるとよくわからないな。あの子何でもしでかしそうだし。………でも、シルハーンが変な感じだよね。となると深刻な呪いで、シルが悩むくらい。うーん、咎竜じゃないしね」
そう言ってこちらを見たネイは、眉を顰めて首を傾げる。
「……ありゃ、咎竜なのかな。でもだとしたら、気のせいじゃなくて?」
「さて、私の立場では何も言えませんので」
「ヒルドはシーだから大丈夫かな。はい、こっちに来て」
そう言って連れ込まれたのは、魔術の道であった。
かなり濃密な魔術領域であるので、抵抗値が低いものであれば昏倒するであろうし、可動域が低い者ではそもそも入れない。
「ここだと少し自由だから、呪いを受けた当人でもない限り、普通に話せるよ」
「…………驚きましたね。ディノ様でも苦労されているようなのに」
「……………ああ、そうなんだよ」
少し複雑そうな顔をして、ネイは微笑んだ。
苦い微笑みではあるが、魔物らしい老獪な目をしている。
「昔ね、シルハーンを怒らせて心臓を取られちゃったことがあってね。階位落ちしたまでは、楽だし別にいいかなって思ってたんだ。でも、統一戦争の時に大きな力を切り出せなくて後悔したから、今は仮の心臓を入れてるんだよ」
「………仮の心臓ですか。そのようなことが可能だとは思いませんでした」
「あはは。ほら僕はさ、魔術の根源を司る塩の魔物だからね。本来ならもっと色々出来るんだけど、さすがに心臓が行方不明だからなぁ。でも今は少し補填していて、シルはそのことを知らないんだと思うよ。因みに今入れてるのは、とある人間の心臓。すごく派手な呪い避けをかけてたから、呪い周りではこんな風に変わったことが出来るんだ」
「つまり、こうして呪いの禁則を緩められるのは、その心臓のお蔭なのですね」
「そう。その心臓と僕の組み合わせの副作用みたいなやつ。時々役に立つんだよね」
ネイの魔術の道は簡素だった。
舗装すらしていない剥き出しの土の道で、良く使うのか固く踏みしめられていた。
またこんなところで彼の意外な一面を見て、一つ頷く。
「ところで、その心臓の呪い避けは少し異質ですね。もしや、どこかの国の王のものでは?」
「あー、しまった。………んー、正直に言ったら嫌いになる?」
「私は元々、王妃に献上された隷属ですので、あちらにはさしたる感情は湧きませんよ」
「良かった。じゃあ言うけどね。ヴェルリアのバーンチュア、先代の王の心臓だよ」
「………実際にお会いしたことはありませんが、あの方の呪い避けは、確か咎竜の恩寵だったのでは?」
「そう。契約していた竜が捕まえた咎竜の子供を逃がす代わりに、どんな呪いも受け付けないって呪いをかけさせたんだ」
「………十中八九、捕まえてきたのはドリーですね」
「あの竜、相変わらずすごく強いよね。祝いの子の中でも特殊なんじゃないかな。僕は嫌いだけれど、ネアは好きみたいで複雑だ……」
同じ竜族の中でも滅多に祝福の子が生まれない火竜なので、ドリーは稀有な魔術を持つ竜であった。
過ぎたる力に同族でも扱いに困り、人間に引き渡してしまったのではないかと囁く者もいる。
拮抗する程の力を持つとなると、嵐竜の災いの子、そしてここ二百年程姿を見せていない為に、既に死んだという噂の夜竜の祝福の子くらいだ。
「ドリーはよい男ですよ。一度話してみれば印象が変わるかもしれません」
「うん、この前一緒にいた間だけでも、そうは感じるんだけどね。やっぱり赤いのはちょっとね……」
「ネア様は、赤くて珍しいから恰好いいそうです」
「時々あの子の嗜好が、幼子のように思えるのは何だろう」
困ったように肩を竦めてから、鮮やかな青碧の瞳が向けられた。
珍しく眉を顰め、深刻そうな顔をしている。
「ヒルド、もしかして果ての薔薇を試そうとしている?」
「……………ええ。あれ程にわかり易いものはありませんから」
「やっぱりかぁ。それ、やめだ。やめ!」
「ネイ、………駄々をこねていても仕方ないでしょう」
果ての薔薇というものがある。
ある意味これも魔術の理による特殊な領域のもので、とある山の麓にある火山湖の中心地に咲く薔薇によく似た砂の花だ。
悪しき魔物や巨大な獣たちの跋扈する森を抜けて辿り着き、果ての薔薇に願いをかければ、その者のもっとも大切な思い出と引き換えに願いは叶う。
失うものの重さと得るものの重さを天秤にかけ、ヒルドはこの薔薇の力を頼ろうと決心した。
幸い、日頃からいざという時の為に日記をつけているので、記憶がなくなっても特に支障はない。
「あれが奪う記憶は、意外に堪えるんだ。昔それで厄介な目に遭った子がいてね。それに、シルがいるなら時間稼ぎくらいはすぐにどうにかするよ。もう少し待った方がいい」
「ネイ、後であの時にこうしておけば良かったと後悔するのは、一番嫌いなんですよ」
何事にも絶対はない。
何があるのかわからないのだ。
例えばもし、自分が躊躇している短い時間の内に、あの果ての薔薇が枯れてしまう可能性だってあるではないか。
「でも取り敢えず引いて。僕は女性関係ではほとんど事故るけどさ、こういう勘は鋭い方だよ。多分、果ての薔薇は必要なくなるんじゃないかな」
あまりにもきっぱりと言われたので、ヒルドは続ける言葉を失った。
この魔物は、ほとんどどうしようもない時もあるが、こうして強く自分の意見を発するとき、やはり高位の魔物らしい揺るぎなく強い。
「あの子が咎竜を狩ってきたときにね、僕が一番心配したのは咎竜の呪いなんだ。でもね、僕が覗いたときには何も感じなかった。確か、その時にはシルも大丈夫だって判断してた筈なんだけれどね………。とは言え、あらためてシルが動いている以上は、ネアがその呪いをかけられたということは確実なんだろうけれど、何かの要因でまだ定着していないのかもしれない」
定着しない呪いというものには残響がある。
もしその状態であるのならば、ディノやダリルが正確な判断を下せていないのもわからなくはない。
しかし、咎竜の呪いを定着させないだけの要因など、どれだけ狭き門なのか。
「竜の呪いを退けるとなると、竜の媚薬くらいですが、そのようなものは服用していないとダリルが聞いています」
「じゃあ、何だろう。僕の心臓の前の持ち主みたいに他の呪いで防いだのかな?あの子、知らない間にものすごい呪いとか祝福とか貰ってそうで怖い」
「………それはあり得ますね。ただ、やはりディノ様が動かれている以上は…」
「うーん、シルはそもそも、魔術の理の範疇は不得意なんだよね。あれってさ、シル避けの為に設立された抜け道のようなものだし」
「…………そうなのですか?」
「だからほら、前に話してた雪食い鳥の時も自分の手元でどうこう出来てなかったでしょ?」
そんな事を話している内に、ヒルドも冷静になってきた。
昨晩にダリル経由で咎竜のことを知り、気付かずにいた後悔からやはり動揺していたのだろう。
ネイに同行を頼んだのは、自分が場合によっては忘れてしまうことを、同行者に覚えていて貰う為だった。
万が一のことに備えて、帰還に支障をきたす記憶を失うことも配慮したのだ。
塩の魔物であればあの危険な森に連れて行っても問題ないし、それがネアの為であれば彼も嫌がらないだろうと考えた。
「………ヒルド、駄目だからね?」
「あなたのお蔭で少し冷静になりました。その確認が終わるまでであれば、ひとまず待ちましょう」
「ヒルドは頑固だなぁ!」
「誰かを失うというものは、嫌なものですよ」
「うん。それはわかる。………とりあえず、せっかくここまで来たんだし、氷菓子食べて行こう!それから、珍しい香辛料でもネアに買っていってあげようよ。あの子喜ぶよ」
「そう、……ですね」
あっという間に主導権はネイに移り、簡素だが清潔に整えられた氷菓子の店に入る。
つい先程まで雪と氷の中にいたのに、今はこうして暑気払いに氷菓子を食べているのは不思議な感覚だ。
「僕は西瓜のやつね」
「では、私は檸檬のものを」
「二人とも冒険しない派だね。この、ドリアンのやつとか誰かに試して欲しいけど」
「私は食べませんよ」
「うん。僕も絶対に嫌だ。ゼノーシュとか普通に食べられそうだけど」
「ダリルも平気そうですね……」
「ねぇ、それってエーダリアの代理妖精だよね?物凄い美女だって聞いたんだけど!」
「ドレスを好んで着ているので大変わかり難いですが、ダリルは男性ですよ」
「………絶望した」
余程悲しかったのか机に突っ伏してしまったが、やがて立ち直って体を起こした。
「……きっと、近場で遊ぶなっていう戒めだね。気を付けよう」
「ダリルはお勧めしませんよ。そもそも、リーエンベルクの周りでは、女性は少ないですし」
「そう言えば、それって何で?」
「エーダリア様も私も、王都での生活の結果、貴族の子女にはあまり信用を置けません。それに加えて、ウィームでは人外者と関わることの多い政治の場に、あまり女性は好まれませんから」
「……もしかしてそれって、恋愛絡みで大騒ぎになるから?」
「エーダリア様の前にウィーム領主をしていた方が、身内のその問題で身を滅ぼしましたからね。領主周りの人間のほとんどが命を落とす大惨事でした。人外者の恋人や伴侶の扱いは、人間には理解出来ないようです」
「恋人になった段階で、みんな伴侶を隠しちゃうよね。他の男と喋ってたりしたら割と見境なく殺すし」
「………そう考えると、ディノ様は寛大ですね」
「………うん。ネアの為に我慢してるんだろうけど、ちょっと泣きそうになった」
そこで氷菓子が運ばれてきた。
魔術で取り寄せた天然氷に、この土地の果物のシロップをしっかりとかけてある。
見事に檸檬の香りが残っており、器の底には檸檬のジャムも敷いてあるようだ。
西瓜を選んだネイの器には、西瓜のゼリーが乗っていた。
窓の外を、ギャァギャァと声を声を上げて真紅の大きな鳥が飛んでゆく。
その姿を見て、ネイは少しだけ眉を顰めた。
やはり、赤くて翼を持つ生き物は苦手なのだろう。
「僕さ、シルには幸せでいて貰いたいんだ」
「唐突ですね」
「うん。今頃になってやっと、昔の僕がどれだけ酷いことを言ったのかわかったからね」
「酷いこと、ですか?」
ゼリーだけを先に食べてしまうのが彼の食べ方らしい。
程よく崩れてきた氷を口に運び、幸せそうに口元を緩めた。
「僕は昔ね、彼にあなたには心がないとふざけて言ったんだよ。今のシルを見てるとわかるんだ。きっと彼は、心を動かしきれないことが苦しくて苦しくて堪らなかったんだろうね。だから、あの言葉に珍しく怒ったんじゃないかな。…………その時もいつもみたいに微笑んでいたけれど、もしかしたら凄く悲しかったのかもしれない」
しょんぼりとそう言い、ネイは西瓜の氷菓子をスプーンで食べる。
暫くさくさくと食べていたが、ヒルドはまだ彼が話したがっていることを察して黙っていた。
「カルウィでもね、シルが少し怒ったんだよ。と言うか僕は怒ったと思ったんだけど、ネアは、シルが怖がってるって気付いてた。あの時に僕はさ、過去の自分が無責任にシルを傷付けていたことに気付いたんだ。………あの一言はきっと、彼がそれだけは言われたくない一言だったんだろう。外野の誰かが同じことを言おうと気にならなくても、側にいる僕が言っていい言葉じゃなかったんだね」
僕たちは多分、昔は友達に近い存在だったんだよね、とネイは淡く微笑んだ。
ネイが、カルウィの一件で同行している魔術師であることは聞かされていた。
「友達だよねってふざけて口にしてたけど、僕は実際にはそんなの無理だろうなって線を引いていたんだ。だから、シルが怒った時には驚いたけど、僕はその後も彼を放っておいたんだ。……もし、シルが傷付いているってわかってたら、きちんと謝れたかな。………でも、あの頃の僕なら、面白がって笑っただろう」
二人とも氷菓子がなくなり、何となく窓から見える熱帯雨林を眺めた。
白亜の建築のその奥に、濃密な緑と水の気配がした。
あれだけ豊かな森だと、妖精や精霊、そして魔物も多いだろう。
様々な危険がある土地だからこそ、果ての薔薇は辿り着くことが難しいともされていた。
「今からでも遅くはないでしょう。伝えてみれば?」
「心臓を返して欲しい訳じゃないんだよ。あの後に心臓と再会したことがあったんだけど、滅茶苦茶感じの悪い鳥になってて、二度と会いたくないと思ったし」
「そういう理由からではないと、わかって下さるのでは?……それと、仮にもご自身の心臓なのでしょう?そのままでいいのですか?」
「そうかなぁ。……あと、あの心臓についてはもう無理だね。あんな鳥を自分の中に入れるのとか、絶対に嫌だよ」
「………心臓とは何なのでしょうね」
「それ、ネアにも言われた!」
小さく笑ったネイが、さてと呟いた。
「だから僕もさ、ちょっとシルを見てこよう。それでやはり咎竜の呪いがあるようであれば、少し話し合ってみるよ。きっと果ての薔薇も、君が行かなくてもいい使い方があると思うんだよね。まぁ、えげつないやり口になるだろうけど」
その後二人で、近くにある香辛料の市場と、工芸品の店舗を見た。
幾つかの香辛料を連名で買った後、ヒルドは香木を材料にした細工物の小さな箱を選び、ネイは同じ柄の模様が刺繍された布製のボールを選んだ。
「………ボールですか」
「そう。僕専用だから、グレイシアには使えないやつだよ」
「………ネイ、また出かけましょうね」
「うん。嬉しいけど、……もしかして、狐になり過ぎてて心配されてる?」
「自覚がないでしょうが、危険な領域にありますよ」
「………ボールだけじゃなくて、こっちの綺麗な花も買っていってあげよう!切り花なら屋内で楽しめるし、飽きて嫌になることもないからね」
「ボールは外せないんですね」
「………うん」
その日、ウィームに帰ってから土産を手渡せば、ネアはとても喜んでくれた。
ネイがボールを渡して頭を撫でてもらっている時から気になっていたが、ネアはもはや完全にこれは狐だという認識に切り替えたようだ。
以前にはあった僅かな躊躇いのようなものが消えて、ほぼ愛玩犬を撫でる仕草になっている。
そしてふと、彼女の微笑みを見たヒルドは、眉を顰めた。
今朝確かにこの目で確かめ、胸を痛めたばかりの翳りのようなものが消えていたのだ。