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アクス評価帳と竜の媚薬



「ネア、今日は私の代わりにウィリアムを置いてゆくから」

「…………はい?」


朝一番に魔物に言われたことは、まるでお出かけの間のシッターが来たよとでも言いたげな内容だった。


起きてきて、まだ身支度を整えたばかりだ。

朝食の前のことだったので、完全に不意打ちだったネアは固まる。


「ディノは、お出かけなのでしょうか?」

「外せない用事が出来てしまったから出てくるけど、ウィリアムから離れないように」

「…………ウィリアムさんのご都合は、大丈夫なのですか?」


ネアがそう問いかけてしまったのは、部屋の窓辺にすらりと立っているウィリアムが、とても忙しい魔物であることを知っているからだ。

しかし、恐る恐るそう尋ねられた終焉の魔物は、穏やかに笑って頷いてくれた。


「ああ、大丈夫だ。今日は夕方まで時間があるからな」

「それはもしや、久し振りの貴重なお休みというやつでは……」

「ネアと一緒にいるなら、のんびり出来そうだな」

「ウィリアムさん………」


相変わらずのほっとするような空気に肩の力を抜けば、ディノがそこはかとなくじっとりとした空気を纏った。

そこで視線を戻し、こちらを疑わしげに見ている魔物の三つ編みを引っ張る。


「ご主人様………」

「ディノは、危ないことや、危ないところだったりはしませんか?夕方には帰ってきてくれるのですよね?」

「………ずるい」


すっかり恥じらってしまい、真っ当な受け答えが出来なくなった魔物に夕方までには戻ると約束させ、ネアは久し振りに魔物と離れ離れになった。



「やっぱり寂しいか」


そう尋ねられたのは、朝食からの帰り道だった。

ある日突然、部下が契約の魔物の代わりに終焉の魔物を連れてきたので、エーダリアはかなり動揺していたが、ウィリアムは持ち前の話しやすさで場を和ませてくれた。

リーエンベルクの朝食は美味しかったらしく、ウィリアムも楽しそうだった。


しかし、休日であるヒルドと銀狐が外出するらしく挨拶に来たのだが、その際にウィリアムを認めた狐が拗ねていたのが気がかりだ。

またお風呂に入れてやる羽目になるのだろうか。

先日、ボトルを入れ替えて秘密裏に獣用シャンプーを使った際にとてもハラハラしたので、もう少し心を整えてから二回戦に挑みたい。


「ここ暫くべったりでしたので、少し寂しいような気もしますがほっとしました。自分の時間も過ごせるようなら一安心です」

「時々シルハーンが気の毒になるな。ネア、それはあんまり彼には言わないように」

「むぅ。………しかし自立した大人なのですから、お風呂の時以外離れないというのは問題だと思うのです」

「いや、言っていることは間違ってないんだが、時期的にかな」

「いつになったら心が穏やかになってくれるのでしょう」


あの咎竜の一件が発覚してからだということは分かっている。

なので心配するのも最もだが、咎竜の呪いのことまでは知らないのだし、常に監視されていても可哀想になってしまう。


レーヌの負の遺産問題が解決したばかりなのだ。

きっとディノにだって、一人になりたい時くらいあるだろう。


「今日は休日なんだよな。何かしたいことはあるか?」

「実は、ウィリアムさんにお願いがあります。ディノには頼めなかったことなのです」


ウィリアムがシッターになると聞いた時から、このお願いをすることを考えていた。

眉を持ち上げて穏やかな目で首を傾げた魔物は、ネアが知る限り一番言葉の裏を読んでくれる魔物だ。


「秘密のお願いなら聞くしかないな。ただ、アルビクロムの偵察は勘弁してくれ」

「………あちらの探求は、現在無期限凍結中です。今日は、実はアクス商会にお買い物に行きたくて」

「アクス商会か。またどうして?」

「女子たるもの、男性には言えないお買い物があります。それをこっそり手に入れたいのですが、ディノにはその繊細な心の機微が理解出来ません」

「うーん、そう言われるとシルハーンが不憫だが、確かに理解出来なさそうだ」

「なので、お買い物に同行して貰い、購入現場だけは一人にして欲しいのです」


そう頼めば、渋るかと不安だったがすんなりと了承してくれた。


「活動しているのはいい兆候だな」

「………活動?」

「案外しっかりしてた」

「これっぽっちでその評価となると、私はどう見られていたのか不安でいっぱいです。それと、実はアクス商会には、アルテアさんの同伴で入ったことしかありません」

「おっと、そうなるとアクス商会の評価帳次第によっては、取引を拒まれるかも知れないな」


初めての情報にネアは目を瞠った。

かなり雲行きが怪しくなりかねない話だが、それは一体何だろう。


「その評価帳とは何やつなのでしょう?」

「アクスは、商会としての格式が高いんだ。特定の顧客としか取引をしない。断られた時は俺が代わるけど、何が欲しいんだ?」

「…………竜の媚薬です。補足しますが、決して浮気用ではなく、なぜかとても竜に対して用心したい気持ちでいっぱいなのです!」

「………あれは、予防薬だがそれでいいのか?」

「はい。またお仕事で水竜さんと会う可能性もありますし、予防も大事なのです」


予防薬とは言え、その影響を断つ薬なのだ。

何の効果もないかどうかは、試してみなければわからない。



転移ではなく堅実に歩く主義のウィリアムに同行して貰い、イブメリアに訪れた高級テーラーのような店に入れば、そこには以前と同じ店員が立っていた。


「ようこそおいで下さいました、ネア様」

「彼女個人での買い物は初めてなんだ。個室は空いてるかな?」

「勿論でございます」


ウィリアムが尋ねてくれ、ネアはどうやら謎の評価帳を自分がクリアしているようだと知る。

ほっとして息を吐きかけて、まだまだこれからなのだと背筋を伸ばした。


勝手に物凄い期待をかけて乗り込んできたが、この店に竜の媚薬の取り扱いがあるかどうかわからないのだ。


(でも、ウィリアムさんが普通にしてたから、きっとあるんだろうなぁ……)



「本日は、当商会に足をお運びいただきまして、有難うございます」


真紅の絨毯を敷いた廊下の途中に、黒衣の男、アイザックが立っていた。

彼はネア達の姿を認めて慇懃に一礼すると、まるで全ての事情を察しているような問いかけをした。


「お連れ様は、隣室でお待ちいただきますか?」

「はい。お願いいたします」

「ネア、これでも留守を預かった身だから、迷子紐をつけるぞ」

「迷子紐………。それは一体……」

「どこかに迷い込まないように足元の場を繋ぐだけだから、秘密の買い物の邪魔はしないよ」

「なぜか迷子に縁があるので、やむを得ません」

「それと、資金が足りなかったら俺にツケておいていいからな」

「ふふ。こう見えても貯蓄してますよ」



アイザックは特に口出しをしなかったので、店側としては迷子紐とやらに問題はないらしい。

黒髪を揺らして一礼すると、彼は特に感慨もなくウィリアムを見送った。

明らかに彼がどんな魔物だかわかっている顔なので、ネアはこの商人がどんな立ち位置なのか不思議になる。


(今日は、お店のロゴの鍵だわ)


アクス商会を示す紋様の鍵が回り、扉にさあっと細やかな術式陣が動く。

こうしてたった一つの扉から、幾つもの部屋への分岐があるのだろう。


そして今回通されたのは、落ち着いた黒檀色の部屋だった。

カーテンは見事な織物でずしりと重く、芥子色と青緑を基調にしている。


絨毯はなく見事な床のモザイク画を見せ、テーブルは黒曜石を彫り出したように黒く深い。

いつの間にかそこには良い香りのするカップが置かれていて、ネアは手で促されたままに優美な椅子に腰掛ける。



「さて、本日はどのようなものをお求めになられましたか?」


向かいの椅子に座ったアイザックが、全く光の入らない暗い瞳を不躾なくらいに真っ直ぐに向ける。

そのべったりとした暗さに気圧されそうになったが、ネアは高価なものを買い求めに来た客に相応しい品位を意識して、穏やかな微笑みを心掛けた。


「竜の媚薬が欲しいのです」


どんな説明も出来るのだ。

購入動機や、もっと言えばここの卸した商品がリノアールに回り、それをネアが買うところまでがアクス商会の仕事だったのかとか。

どうやってその道の先に、咎竜を用意したのかとか。


でも彼は商人で、顧客の情報を軽々しく明かすような愚かな商人には思えなかった。

明かすとしても、それは俄か客であるネアにではないだろう。

だからネアも、ただのお客として振る舞う。



「成程、竜の媚薬でしょうか。困りましたね………」


アイザックは小さく微笑みの形に唇を持ち上げると、感情の窺えない瞳を細める。

ただこちらを見ているだけなのに、評価されているような気持になってしまうのか、本当に何かを秤にかけられているのかどちらなのだろうか。

こんな眼差しを、イブメリアの日にも何度か見ていた。


「そのご返答は、売っていただけないのでしょうか。それとも在庫がないということでしょうか?」

「いえ、そのどちらでもありませんよ」

「どちらでもない……………?」

「私どもは、既にその商品をネア様に納品しております。てっきり、本日はそのお支払いも合わせて伺っていただいたのだとばかり思っておりましたが、商品はお気に召しませんでしたか?」


あまりにも予想外の返答に、ネアは瞠目した。


(……………え?!)


見開いてしまった瞳を今度は訝しげに細めて、確かにこの店で買い物をしたことはない筈だと記憶を辿る。


件の携帯用の転移門は、リノアールで購入したものだ。

リノアールの商店にアクス商会が品物を卸していると考えれば、気付かずに手にしている可能性もある。

そう考えかけたが、であれば料金の請求をされる訳もないと思い直した。


「ごめんなさい。お恥ずかしながら、私には、その商品をどこからどのような形で納品していただいたのかわからないのです。教えていただいても宜しいでしょうか?」


曇りの気配すらない艶やかな銀縁の眼鏡の向こうから、真っ黒な瞳がこちらを見ている。

その無機質さに少し怖くなったが、ふと、アイザックの気配が好意的であることに気付く。


(………なんだろう、この感じ)


相変わらず温度は一切ないが、上得意と向き合うような特有の穏やかさがある。

この人物がどんな存在なのかはわからないが、無機質さは一種の個性なのだと割り切るしかないようだ。


「勿論ですとも。お買い上げの納品書はこちらに」


ひらりと魔法の様に現れた真っ白な紙に、正方形の商品絵が貼られていた。

商品名の下には、購入者であるネアの名前と、届け先住所の記載もある。



(…………これ、)



その納品書に目を通したネアは、自分が見ているものが信じられなくて、三回読み直した。



「…………アルバンの、山。座標…………。この絵のものって、まさか」


しかしそれは、自然派生したものではなかったのだろうか。

であればあこぎな商売なので文句を言おうと考えて、商品状態に野生という文字を見付けてしまった。


「……………野生」

「ええ。野生のものを、我々が保有しまして、ネア様が収穫に訪れるまで管理しておりました。他のお客様にお売りしました商品の価値を損なうことはしませんが、こちらはまた別のものですからね」


そう言われて、ネアは納品書にある商品絵を指でなぞる。

よほど腕のいい画家が描いたものか、こちらの世界の商品カタログなどには、写真とも見紛う精緻な絵が添えられていることが多い。

その手のものと同じ、とても写実的な絵だった。



(この絵とまったく同じものを、私は見たことがある)



どうやら、ダリルが持っていた書に描かれていたのは、精製された薬としてのものだったようだ。

今ここに描かれているのは、自然界に派生したばかりのもの。



淡い薔薇色をした、雪菓子にそっくりの結晶である。



「………私は、あの夜にこれを見付けました」


雪菓子だと思って、この欠片を二つほどあの夜に食べていた。


(…………咎竜に呪いをかけられる前だった)


あの、甘く瑞々しい苺のような味わいは覚えている。

あれが、竜の媚薬だったとは。



吸い込んだ息を飲み込もうとして、変な声が出そうになった。

目の奥がじわりと熱くなったのは、安堵の所為かもしれない。

指に嵌めた魔物の指輪を見て、小さくだけれど唇の端を持ち上げる。



ああそうか。



あの瞬間、竜の媚薬は既に、ネアの胃袋の中にあったのだ。



(だからドリーさんは、呪いの気配がわからないと言ったんだわ)

(そしてだから、私はノアに、うっかり呪いに近いようなことを話しても大丈夫だったんだ)


「…………どうして、私にこの商品を卸して下さったのですか?」

「我々は商売人ですから、需要のある場所に売れ筋の商品を揃えるのは至極当然です。ですが、今回に限りましては、ネア様が今後上得意になる可能性というものも見込んでおりますね」

「まぁ、私はまだこちらでお買い物をしたものはありませんが……」

「ネア様がおられる限り、アルテア様もシルハーン様も、一定のお買い上げが見込めますし、何よりもあなた様が揃える品物も素晴らしいと伺っております。可能であれば、アクス商会にも品物を卸していただきたいと思っているのですよ」

「…………もしや、狩りの成果物のようなものでしょうか?」

「ええ。ですので、本日お持ちいただいた、相影の竜のような稀少な生き物の遺骸はとても有難い」


(私が、相影の竜を狩ったことを知っている……)


その情報を有していることにひやりとしたネアは、布袋に包んでから腕輪の金庫で持ち込んだ竜のことを考えた。

個人的には卑劣な覗き魔だが、ディノですら珍しいと話していたのでこのような商会では高値がつくのだろう。


「こやつでのお支払いで、過不足は出ますでしょうか?」

「まずはお品物を拝見しても?」

「ええ。この袋の中です」


あまり触りたくなかったので布袋状態でテーブルに上げると、アイザックは白手袋の手で丁寧に相影の竜を取り出している。

たくさんある足が見えてしまい、ネアはわざとらしくない程度にすっと目を逸らした。

あまり見ると網膜に焼き付いてしまう怖さなので、出来ればもう二度と会いたくない。


「……………素晴らしいですね。節足の欠損もありませんし、鱗も傷付いていない。即死だったのでしょう、他の組織も綺麗です。これは高値になりますよ。本来の竜の媚薬だけであれば、ある程度の金額のお戻しが出たでしょう」

「と言うことは、私に納品いただいたものは、通常の竜の媚薬ではなかったのでしょうか?」

「ええ。特定の場所での管理など、人件費もかかっておりますから」

「………人件費。確かにかかりそうですね。寧ろ、あの特定の状況下で竜の媚薬を管理していただけたことが不思議です」

「それは企業秘密とさせていただきましょう」


また不可思議な微笑を見せ、アクス商会の代表は指先で眼鏡を押し上げた。

相影の竜を丁寧に布袋で包み直すと、漆黒のトレイのようなものに乗せ、何かメモ書きのようなものを横に置いている。

どうやらこれが、店内で回す査定内容の証書のようなものであるらしい。


「等価値でのお取引といたしましょう。是非、今後ともアクス商会をご利用いただけますよう、御贔屓にしていただけることを期待しております」

「有難うございました。はい、このような持ち込みでの買い取りがあるとわかりましたので、時々利用させていただきますね」


一般的な狩りでは、やはり、身内でもあるリーエンベルク内で処理したい。

しかしアクス商会との繋がりを維持する為にこちらに卸す商品を作っても、エーダリア達は怒ったりしないだろう。


(エーダリア様達では扱いに困るようなものは、ここに持ち込もう)



帰り際にネアは、納品書を小さな上質紙の黒い封筒に入れて渡してもらった。

ある意味記念のものでもあるので、首飾りの金庫にしまい込み、ほっと一息つく。


「ところで、我が商会では、時価にてお客様評価帳をつけております」


不意に、アイザックがそんなことを口にした。

社交会話のようなさり気なさだが、これから彼が話すのはとても大事なことだとネアは直感する。


「時価、ですか?」

「ええ。ですのであの日、私は判断に少し苦しみました。イブメリアに、アルテア様とシルハーン様を同伴した貴方様のこれからの評価に賭けるか、夕刻に訪れたレーヌ様とのこれまでのお付き合いを優先するか」

「………それは」


ネアは、目を瞠ってアイザックの黒い瞳を見上げる。

ネアはとうに過去に放り込んでしまっていた、あの日のことだ。

そんな時に自分の運命が天秤に乗っていたのかと思えば、生き延びた今であっても背筋が寒くなる。


「しかしあの日、レーヌ様は我々に少なからずの損害を出しておりました。ウィームで疫病が流行ると言われ、我々は決して少なくない抗体薬を用意しておりましたので」

「…………凝りの竜によるものですね!」


あの日、アルテアはアイザックが店に出ていたことに驚いていた。

付き合いが長いのだから、もし普段から祝祭日にも店にいるような男なら、さして驚かなかった筈なのだ。

そうして、アイザックもまた、アルテアの行為が珍しいと驚いていたあの日。


(つまりあの日、アイザックさんは凝りの竜の被害を見越してここにいたんだわ)


あの規模の災厄が実現するとなれば、きっとアクス商会としても肝入りの作業だったに違いない。

凝りの竜を駆除してしまったのはウィリアムだが、それはこちら側の失点にはされなかったようだ。

確かに手を出したのはリーエンベルク側ではなく、通りすがりの終焉の魔物ではある。

彼等であれば、そのことまでも知っていたとしてもおかしくはない。


「ですので、レーヌ様に卸した商品には時価に見合うものとしております。本来ならば、お客様の口にした要望以上のものを叶えてこそ、良い商人なのですがね。……このことは、あくまでも私の個人的な呟きとしてお聞き流し下さい」


そう唇の端を持ち上げたアイザックは、商人らしいしたたかな目をこちらに向ける。

ネアはもう一度頭を下げた。

彼がそのようなことを口にしたことも含め、こうしなければいけないと思ったのだ。

ここはきっと、単純に顧客が優位でいられるような場所ではない。


「有難うございます。せっかくの評価が下がらないように留意しますね」

「楽しみにしておりますよ。それから、商品には事後の品質確認も付いております。またいずれ、お目にかかりますでしょう」

「事後の品質確認………?」



物々交換になったとは言え高価な買い物であったので、ネアは扉の外で待っていてくれたウィリアムと一緒に、上客として店の出口まで送って貰う。



「いい買い物が出来たみたいだな」

「はい。すっきりさっぱりしました。ウィリアムさん、我儘に付き合って下さって有難うございました」

「いや。少し疲れていたみたいだからな、気分転換になって良かった」


そう言って笑ったウィリアムに、ネアは思わずどきりとして顔を上げる。

何も知らない筈なのに、言うべきで言えないことよりも遥かに深く見抜かれているような気がしたのだ。


「今日はいい日でした。狩りの女王で良かったとしみじみ思います」

「ネアの顔色が良くなったのは良かったけれど、そこは一概に応援出来ないからなぁ」


悪戯っぽく厳めしい顔をされたので、ネアは微笑んでみせる。

久し振りの外出なのだし、ディノにお土産でも買っていってあげようかと考えていたら、早めに仕事が終わってしまったのかその当人が店の前に姿を現した。


「ネア、何も問題はなかったかい?」


雑踏の中に、見慣れた美しい生き物が立っている。

いつものようにほわりと微笑むくせに、妙に切実なのはどうしてだろう。

首を傾げそうになってから、ネアは力強く頷いた。

ダリルに再確認してからでなければわからないが、問題があるどころか、大きな問題が解決したばかりだ。


(でも、念には念を入れて、もうみんなに話してもいいってわかってから、報告しよう)


少しだけ、何も知らない魔物に咎竜の一件を告白するのは躊躇われた。

自分が不在にしていた間のことなので、きっととても落ち込むだろう。


(……………む)


今年いっぱいは憂鬱だろうと考えていたが、もう自由なわけなのだ。

休みの日に頭を悩ませたり、寝ていても不安になったりしなくてもいい。

そう思い至り、ネアは上機嫌になる。


「…………ディノ、お茶をして帰りましょうか。あら、ウィリアムさんはもうお戻りですか?」

「ああ。どこかで騒ぎを起こした誰かさんのお蔭で、少し空が大変そうなんだ。まぁでも、今回は仕方ない」

「悪い奴がいるのですね」

「と言うよりも、頑張ったんじゃないかな」


不思議な微笑みで頭を撫でてくれた後、ウィリアムはディノに一礼して去っていった。


「………ネア、楽しそうだね。いい事があったのかな?」

「はい。空中都市で踏んづけた竜が、とても良い値段で売れました」

「……………そうか。それを売りに行っていたんだね」

「なぜ、ものすごくがっかりした顔をするのでしょう?」

「さあ、どうしてだろう」

「最近、ディノは少し………何と言えばいいのか、付き合いにくい雰囲気です」


すぐに曖昧にしてしまうので感情が窺えなくて寂しいと言いたかったのだが、ネアはどうやら言葉選びを間違えたらしい。


「ご主人様…………」


はっとしたように目を瞠って、ディノが悲しげな顔になる。

あきらかにしょげてしまったので、ネアは慌てて三つ編みを掴んでやった。


多大なストレスから解放されたばかりで、少し頭の回転が鈍くなっているみたいだ。

あんまり魔物を傷付けないように注意せねばなるまい。


「さ、ディノも疲れているみたいなので、美味しいお茶をご馳走します!」

「………うん」

「用事は無事に終わりましたか?」

「私は、ただの作業開始の監修だからね。後はアルテアと現場に任せるよ」

「現場が死んでしまわないといいなと思うような表情です………」

「それよりほら、どこかに入るんだろう?」

「今日はご機嫌なので、ザハですかね!………あ、靴跡の精霊さんが…………」


少し離れた位置に靴跡の精霊が出現し、振り返った靴跡の主である老人をとても喜ばせていた。


その光景を見ていてふと、あの空中都市で出会った靴跡の精霊を思い出した。

靴跡の精霊は、靴跡の主に志を再認識させ、幸運を授ける精霊である。



(あの時のポーズはもしかして………)



両手を広げてセーフとでも言いたげなジェスチャーをし、去り際にウィンクをくれたことを覚えている。

思えば、あの精霊のお陰で相影の竜を手に入れたのだ。

確かに、そこから動いたものはネアをとても幸福にしてくれた。


(もしかして、あの仕草が示していたのが、今日のこのことだったのだとしたら………?)


今思えばだが、あれは心配しなくて大丈夫だよと言われていたような気がしたのだ。

ふつりと心が緩み、ネアに満面の微笑みを浮かべさせた。


「ネア?」

「靴跡の精霊さんは、私の一番好きな精霊です」

「…………浮気?」

「ふふ。それに、私をあちこちにお出掛けに誘ってくれる魔物が特別に大好きなので、今日は好きなものを奢りますよ!」

「ご主人様………!」

「あ、それと魔術師さんは、やはり知り合いでした!」

「だから、あれは間違いないよと言ったのに」

「ディノの言う通りでした。すっかり疑ってしまっていたのですが、勘違いでした」

「………君は時々、凄い勘違いをするからね」



魔物は若干困惑もしていたので、ネアはその後は平常心を装い、一日楽しく過ごした。

すぐにでもダリルに話したかったのだが、エーダリアからダリルは重要な案件にて不在にしていると聞いて、また次の機会を待つことにした。


イブメリアにアルテアから貰った貴腐葡萄酒を開ければ、魔物はそんなにアクス商会の買取が良かったのだろうかと呆然としていたが、お祝いの乾杯だと知らせるのは最後の確認が取れてからの、もう少し後のことになりそうだ。

イブメリアに貰ったオルゴールを聴きながら、ネアは少しだけ思案する。



(………ある意味、今回の黒幕はアイザックさんでもあったということなのだろうか)


彼とて商人なのだ。

事前に危険を回避させるような手段は取らず、粛々と商人として仕事を回している。

ネアの相影の竜を持っていることを知っているのだから、監視もされていたのだろう。

終わりよければ全て良しという気質のネアだが、少し用心する必要もあるのかも知れないので、今回のことが全て着地したら、ディノに相談しておいた方がよさそうだ。



そしてその日、ヒルドとお出かけしていた銀狐から新しいボールを、ヒルドからは綺麗な細工箱をお土産として渡された。

南国の花や香辛料も貰ったので、どこかに二人で遠出していたらしい。

ネアへのお土産として自分用のボールを買ってきてしまうあたり、銀狐はもう来るべきところまで来ている気がした。










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