眼鏡の司書と雨の歩道
彼女はいつも、不恰好な黒ぶちの眼鏡をしていた。
黒いぼさぼさの髪を左右の三つ編みにして、引きずるような臙脂色のスカートを穿いている。
「ダリルさんっ!またこんなところで本を読んで!椅子に座って下さいね、椅子に」
「もー、煩いなララは。ほらこれ、返却ー」
「ダリルさんは書架妖精でしょ!自分で棚に返してきて下さいな」
「がみがみララめ!」
「がみがみ言わないとすぐに散らかすからいけないんですよ」
いつも思っていた。
あの変な眼鏡を外せば、深い緑色の瞳は綺麗だろうに勿体無いと。
まだ誰とも付き合ったことがないのは、あの眼鏡にも一因がある。
前髪が長いので、殆ど目が隠れてしまうのだ。
「どうしたの、ララ?」
ある日、ララは書架の陰で一人泣いていた。
先程遊びに来ていた木漏れ日の妖精に、あの眼鏡を揶揄われたようだ。
あの妖精はダリルに盛んに色目を使っていたし、ここで騒いで叱られたことでララを恨んでいる。
隣にしゃがみ込み、赤くなった鼻先をつまんでやる。
「…………別に泣いてません」
「そうじゃなくて、その理由」
「泣いていないので、理由を問われる理由がありません」
「頑固なララだね。じゃあさ、向こうの通りに出来たレストランに一緒に行ってよ。泣いてないならいいだろう?」
「…………え?」
あまりにも驚くので、ダリルは、自分が初めて彼女をランチに誘ったのだと気が付いた。
自分が派生した直後から同じ場所で働いているのに、なんとこれが初めてだったのだ。
「ほら、混む前に行くよ!」
「あ、あのっ、ここを閉めるわけには……」
「いいんだよ、昼休憩だからね」
「まだお昼前ですっ!!」
「じゃあさぼりだね、ほら立たないと椅子ごと持ってくからね」
「我が儘ダリル!」
「はいはい、がみがみララにはお似合いだろう?」
「お似合い?!」
ぴょんと飛び上がって真っ赤になったララを見て、かなりびっくりした。
家族のように同じ空間にいるものの、彼女は自分のことが嫌いなのだろうなとずっと思っていたのだ。
ただ、放っておけないくらいに面倒見がいいから、毎日構ってくるのだと思っていたのだ。
(…………ふーん)
何だか不思議な気持ちになった。
口煩い妹のようにしか思っていなかったが、自分に好意を抱いているとなると少し見方が変わる。
可愛いやつじゃないかと思ったのだ。
「あら、あの伯爵は甘党なんですよ。美味しいチョコレートがあると、何でも喋るの」
「あんた、意外にえげつなかったね」
「ダリルには及ばないですよ。でもね、私は透明な存在なの」
「透明な存在?」
「そこに居ても、いない風に思える存在ってこと。だからみんな無用心なんだから」
「え、待ってそれ楽しい?」
「うーん、普通ですかね。面白い話を聞くと楽しいし、あまりにも気づかれないと悲しい」
「………私は煩い奴だと思ってたけど」
「それ、叱られてるからですよね?」
「そうじゃなくて、存在が」
「存在が?!」
存在が煩いって何だとララは頭を抱えていたが、ダリルは少しだけ口角を持ち上げて、葡萄酒を三本空けて酔う気配もない同僚を眺めた。
こうして晩餐を共に過ごすのは、これで五回目だった。
ララといると、何故か心が緩んで妙に楽しい。
飾らない仕草に、鋭敏な頭脳。
相変わらずがみがみと叱ってくるし、服装も驚く程ダサい。
でも一緒にいると楽しいのだ。
(愛というほどに深く熱いものではない)
けれど、もっと穏やかな家族愛のようなものがあるのなら、こんな風に毎日を過ごすのはどうだろう。
そんなことを考えてしまうくらい、彼女と一緒にいることは自然だった。
ただ自然で居心地がよく、熱望するというよりはそこにあるのが当たり前のもの。
ダリルが初めての恋を自覚して途方にくれたあの日から、恋なんてさして珍しくもなくなった今日までずっと側にいたのだから。
気付けば毎週末の食事が、週に数回の食事になり、何回か遠出することもあった。
その頃になるとダリルも頃合いかなと思い、ウィームの歌劇場の席を押さえることにした。
イブメリアや夏至祭など、幾つもの選択肢の中から彼女の誕生日を選び、とびきりのドレスを先に贈っておいた。
もう、ララは透明な存在ではなくなっていた。
ダリルダレンの書架妖精の恋人候補として、周囲も暖かな目で見守っていた。
初めてララのような女性をダリルが選んだこともあり、とうとうダリルも落ち着くつもりかと思われていたのだ。
歌劇場での思い出は割愛しよう。
あの時間は素晴らしかった。
涙を湛えた翠の目を丸くしてくしゃくしゃの顔で微笑んだララは美しく、過剰な愛に震えるというよりも、ただ彼女が喜んでくれたということが嬉しかった。
くすくすと笑い合ったり、マナーの悪い客を休憩時間にボックス席の中でこき下ろしたりして、二人ともいつものように笑った。
「あの、お隣のご婦人を肘で何度も突いた男は、きっと一番自分にとって嫌なところで、鬘が風で吹っ飛ぶわよ」
「あはは!そりゃいい呪いだね」
「悪い奴はみんなそうなるの」
雨が音を立てて降っている。
騒々しく、耳障りに。
彼女の最後の呟きを掻き消してしまうように。
馬車を止めたのは、珍しくもない小さな魔物が飛び出して来たからだった。
御者がその魔物をどかしている間に、ふと気になってダリルは馬車を出た。
反対側の通りを歩いてゆくのが、追いかけている地方伯の馬鹿息子だと気付いたからだ。
「ごめんララ、あいつの連れの顔だけ見てくるよ」
「いいわ。私は今、馬車に座ってるだけで楽しいもの」
「あはは。変なララ!」
確認自体は一分にも満たないくらいだっただろう。
魔術の道から先回りし、連れの女性がヴェルリアに居を置く第四王子派の伯爵令嬢だと確認してほくそ笑む。
まさかそれすら罠だとは、迂闊にも思っていなかったのだ。
「………ララ?」
戻り道で見た馬車が、不自然に揺れたような気がした。
御者の首はあんなに傾いていて良いのだろうか。
そして、窓からララの姿が見えないのはなせだろう。
「ララ!」
叫んで駆け出したけれど、もう間に合わないことはわかっていた。
こんな面倒な手を打つ相手が、標的を生かしておくわけもない。
雨に濡れた歩道に膝をつく。
ご丁寧に、そこには人避けの魔術まで敷いてあった。
すぐ側の歩道を歩く人々は、隣で一人の妖精が死にかけていることなど気付きもしなかったのだ。
「ララ!」
「…………っ、」
言葉が聞き取れない。
雨の音が大き過ぎて、大切な大切な、彼女の最後の言葉が聞こえない。
唇を読もうにも、その動きはあまりにも平素と違うものだった。
「…………ララ」
握りしめた手が、手の中で灰になって崩れてゆく。
ララは司書妖精なので、砂でも泡でもなく、本と同じように灰になって崩れてゆく。
魔術で構築したその全てが失われ、ダリルが贈ったドレスだけが、彼女の形のままで残った。
(………………いない、)
いなくなってしまった。
生まれたばかりの頃からずっと、側にいるのが当たり前だと思っていた。
恋でもなくて友人でもなくても、ララはいつも側にいてくれて、今夜やっと恋人になったばかりだったのだ。
けれど、もういない。
妖精は亡霊にもならず、ただ消えてなくなるだけ。
魂の在り処というものが、人間程に優遇されてはいない。
ただ、消えてなくなるだけ。
ダリルダレンの書架は静かになった。
がみがみ叱る幼馴染はいなくなり、ダリルは決して替えの司書妖精を入れなかったからだ。
あの日の陰謀がレーヌにより仕組まれたことに気付き、当時レーヌが最も心を傾けていた伯爵との仲はさり気なく引き裂いておいた。
いつか。
いつか、最悪の場面で、彼女は最も望ましくない思いをするだろう。
ララの言う通り、悪い奴はみんなそうなるのだ。
もしかしたら自分もそのクチだったかと思えば、胸が痛んだ。
「ねぇ、ララ。レーヌが死んだよ」
彼女が唯一人心から欲した男に、彼女が望まなかった拒絶を与えられて。
「でもあいつ、また私の周りから誰かを奪おうとしているんだ」
あの後、恋人に不自由したことはない。
一人寂しく泣いた夜が数える程にあったわけではないし、今の恋人はとても気に入っている。
友人は多い方だし、正直、ララのことを思い出さない期間も多くなった。
けれど、ダリルはまだこの眼鏡をかけていた。
あの日、ドレスアップしたララが部屋に残してきたこの眼鏡は、とても大切なものだから。
元々魔術避けの眼鏡はかけていたが、あの日からララの使っていたものに交換したのだ。
彼女は恋人になる以前に、大切な同僚で知らぬ間の家族のようなものだった。
「ララ、……いつでもいいから、また生まれておいで」
もし、またこの書架に司書妖精が生まれたら。
その時はララと名付けて、大事に育ててやろう。
幸せになるように注意して、悪い奴は最悪の方法で自滅するものだと教えてやろう。
また自分では飽きるだろうから、頃合いを見て特別いい男を選んできて引きあわせるつもりだ。
さすがにダリルとて、親代りから恋人になる趣味はない。
薔薇のシー達の愛し方は苦手だった。
あの歌乞いが現れて、ここには高階位の魔物が訪れるようになってきた。
質のいい魔術が満ちてきた結果、誰もいない筈の深夜にふと誰かの気配を感じることもある。
妖精が生まれかけているのだと、ダリルにはわかっていた。
あと数年もすれば、きっとここに司書妖精が生まれる。
その時に、是非ともあの歌乞いと魔物にもここにいて欲しい。
悪い魔女に打ち勝ち幸福になった者達として、小さなララに紹介してやろう。
きっと、彼等がいればこの国の魔術はもっと豊かになる。
妖精にとっても住みやすい場所になる筈だから。
「さてと。あまり気が進まないけれど、ヒルドと話さないとね。同僚を損なうかもしれないのは不愉快だけど、命と欠損じゃ、命を残した方が勝ち戦に決まってる」
ダリルは、綺麗事に甘んじるつもりはなかった。
愛するものが失われるのは、恐ろしく悲しい。
ヒルドを犠牲にするということではなく、彼にも自分と同じ思いをさせるつもりはないからだ。
何も損なわずに成果を得ようとする程に、夢見がちではない。
時には身を切ってでも、勝ち取らなければいけない成果がある。
「まぁでも、ウォルターが何か調べてるみたいだし、少し待たせないとだね。あいつが変に暴走しないといいんだけど」
そうして真実を告げた翌日、懸念通りの暴走をヒルドはしてくれたが、新しく出来た友人とやらのお蔭で冷静になってくれたようだ。
そのことを白状したヒルドはけろりとしていたが、弟子達と共に身を切らなくても良い方策を探していたダリルの、心臓を止めかねない暴挙であったので、がみがみ叱ってやった。