宰相の息子
ウォルターワースは宰相の息子だ。
幼い頃から友人でもあるヴェンツェルの補佐として目眩がする程の教育の全てを流し込まれ、七歳程でほぼ完結していた。
子供のうちに完結する精神に、ろくなことはない。
氷の片腕と呼ばれ、酒に酔ったことも、誰かと腕を組んだこともなく、大人になった。
誰かを大切だと思うことも、声を上げて笑ったこともなかった。
世界はわかりやすく整然としており、心地よいが特別に楽しいものでもない。
きちんと理解できる理由があり、仕事の引き継ぎさえ終わるのならば、明日死んでも特に後悔はないとさえ考えていた。
この、生涯の師に出会うまでは。
「ウォルター!見てこれ、アルビクロムの不味いチョコレート!」
「ダリル、どうしてそんなものを食べてるんです。こっちにしましょう」
「この不味いチョコレートだけを食べて会議してるとね、どうしてあの領土の議員達が獣みたいな目をしてるのかがわかるんだ。片手間の実験だね」
「アルビクロムの議員達がですか……?」
「味覚って人間の欲求なわけだよね。それを抑圧されて生きてきた連中に、好みに合う葡萄酒や食事、それからデザートがあれば心は緩むだろう?」
「いや、彼らとて十分な手練れです。そんなことで懐柔される程に愚かではありますまい」
「まさかお前、その食べ物で私があの狼達を手懐けようとしてると思うのかい?」
内側から光るように笑みを滲ませたぎらりと青い瞳に見つめられると、魂の内側まで見透かされているような気分になった。
もっと見て欲しい。
理解して導いてくれれば、自分はこの妖精の為にどんなことでもするだろう。
「違うのですか?」
「馬鹿だね、ウォルター!いい餌で、ただまともな交渉をさせるんだよ。そもそも交渉の内容が薄っぺらな紙切れで満足するようなふざけた奴なんか、政治の前線には生き残っていないよ。でも、まともな交渉と、僅かな喜びがあれば、人間てのは物事の良い面を拾う確率が上がるからね」
(ああ、それはわかる)
この代理妖精の補佐官にねじ込んだのは、父の秘書だった。
効率よく目を背けるような手札を作れるようになると言われており、そういう澱みも必要だと納得した。
けれど、そこにあったのは矮小な澱みなどではなかった。
夜闇の中で燦然と煌めく万華鏡みたいな極彩色の光のように、飲めば飲むほど酔いが覚めなくなる上等な死の酒のよう。
けれどもそれは、恍惚とした幸福でもある。
あの役人は要らないと紙切れでも捨てるように人一人殺しておいてから、美味しい肉を食べに行こうと子供のように笑う。
どんな手練れの暗殺者達も優雅に微笑んで弓矢の的にしてしまい、悪酔いした夜には背負ってくれと駄々をこねる。
この師と出会って初めて、自分は知ったのだ。
人間は多分、ある程度手をかけたもの程愛おしいと思う不合理な生き物なのだ。
振り回され、導かれ、時には守らねばと思う。
それはとても、心を甘く満たす幸福だった。
今もこちらを見て、背筋が震える程の美貌で微笑むドレス姿の妖精は、まるで悪夢のように美しい。
喜びがあるからこそ人間は、その喜びの維持費としての成果を得ようとする。
「ダリル、先日頼まれた調査書です。これは、今手がけているどの案件とも違うようですが、何の為の準備なんですか?」
「場合によっては国がなくなる案件だね。でもまぁ、あの子は第一王子並みに強運の持ち主だから、大丈夫だとは思うけどね」
「ヴェンツェルは、ちっとも強運の持ち主ではありませんよ。あれはただ、図々しいんです」
「あの第一王子を図々しいと言えるのは、あんたくらいだね。あれが王になった後でも、そう言い続けられるくらいに自分を豊かにしておきな」
「大丈夫です。私には最高の師がおりますから」
「あはは。じゃぁ、今夜はウィームで食事に付き合うかい?いい店を見付けたんだ」
「ご、ご一緒させていただきます!」
ダリルは、仕事と私生活をきっちり分ける妖精だ。
こうして仕事から食事までなだれ込むことはあまりなく、ウォルターは喜びのあまり満面の笑顔になってしまう。
(これで、あのガーウィンの枢機卿に点差だ!)
今のところ、この美しい代理妖精の一番弟子の地位は、あの享楽的でうさんくさい男と自分で競っているという自信があった。
しかし、自分達が現れるまでこの立場にいたアルビクロムの商人や、あの枢機卿に取って代わられたヴェルリアの伯爵は、世代交代と共に一月も廃人になっている。
なのでウォルターも、日々決して精進を怠らず、ぽっと出の若者などに取って代わられないように己を戒めている。
それでも、最近めきめきと頭角をあらわしつつある青年達のことを思い浮かべ、胃がねじ切れそうになった。
(ダリルの一番弟子は私だ!)
翌日、酒を飲んでそんなことを話せば、ヴェンツェルはいまいち本音の読めない尊大な笑顔でこう言うのだ。
「つくづく、弟と欲しいものが被らなくて良かったと思う」
「それは嫌味か?」
「本音なんだがな」
呪われた塔に封印されていた伝説の竜の守護を受け、盾と剣の代理妖精達は両手の指程もいる。
付き人であった妖精も、実はシーであるとまことしやかな噂があった。
そんな男が何を言っているのだろうと思ったが、でもそれもあながち過剰ではないのだ。
あのガレンエンガディンには、ダリルがいる。
まぁ、師がついているのだから優秀でなければ困るのだが、そこそこに上手くやっているようだ。
「あれは振り回されているようで、意外に頑固だし、最終的には望むものを全てを持っていく男だからな」
「よく考えたら、王室から逃げ出しただけでも充分な成果だな」
「望めば国取りが出来るくらいには手駒を揃えているぞ?しかし、王位など差し出されても首を振るだろう」
「安心しろ。我が師がそんなことはさせまい」
「………お前が、国政に戻ってこれるのか不安になってきた」
「師に離れないで欲しいと言われない限りは、予定通りに父の後を継ぐ為に努力するさ。なに、私が宰相になった方が、師にも便宜が図れるからな」
「最近、その野望すら隠さなくなったではないか。だから、弟の周りの者達は恐ろしいのだ」
無様な偽りほど、師が嫌うものはない。
欲望は、隠さずに優雅に刃を研ぐべし。
美しく有能であれば、大抵の者はそれを許す。
「ところで、ダリルのところで歌乞いを見たことはあるか?」
「ああ、あの薬の魔物の歌乞いか。いや、見かけたことはないな。あまり師も注視しておられないし、さしたる特徴もないのだろう」
しかし、そう言えばヴェンツェルは、唇の端を持ち上げて愉快そうに目を細めた。
「どうだろう。あの少女は、ドリーを素手で狩ってきたからな」
「…………は?」
口を開けたまま見返せば、ヴェンツェルは赤い液体が入った小さなグラスを取り上げて傾ける。
かなり稀少な酒なのだが、あまりにも強烈なので一口飲んだきりだ。
「だから、見かけても軽視するなよ。私はまだ、お前に死なれては困るからな」
「待て、冗談だよな?」
「いや、事実だ。木橇に乗せて笑顔で持ち帰ってきたので、私の代理妖精達はすっかり怯えてしまってな」
「………伝説の竜を?」
「そうだ。契約の魔物も強烈だからくれぐれも用心するといい。あれを扱えるのは、エーダリアくらいだな」
「…………素手で?」
翌日、ダリルに出されていた課題を終えたので、届けにダリルダレンを訪れた。
国内最高峰、世界で一番美しい図書館とも言われる館内で師を待っていると、彼が誰かと話しながら歩いてくるところに遭遇する。
(あれは………)
青灰色の髪の少女、間違いなくヴェンツェルに注意するよう言われたこの国の歌乞いだ。
師はこちらに気付いてはいるようだが、二人は深刻そうに何かを話している。
「大丈夫そうだけど、用心しな。あんたの魔物が暴走したら、ウィームはなくなっちまうからね」
「ふふ。これでも案外に図太いので安心して下さい。二週間ほどでぐっすり眠れるようになる気しかしません。ただ、魔物が時々可哀想になるので、ついつい甘やかしてしまいます」
「甘やかすと、終わった後で苦労するのネアちゃんだからね?」
「む。そうですよね。……今週末から別行動修行期間に…」
「ネアちゃん。ディノが荒れるから、極端なのもやめな。また巣から出てこなくなるよ」
「………心がくさくさしてきました。これはもう、裏の森で魔物や妖精達を狩り尽くしてくるしかありません」
「もう竜は狩らないようにね」
その後も数分程会話を続け、彼女はダリルの迷路からどこかへ帰って行った。
こちらにやって来た師に、静かにしていて良い子だと褒められたので、もしかしたら師は彼女との会話を自分に聞かせたかったのかもしれない。
(となると、何を理解させたいのだろう?)
思ってたより、しっかりしていそうだ。
竜を狩ったのは本当のようだし、狩りを得意にしているのだろう。
契約の魔物はウィームを滅ぼす程の力を持ち、だがどうやら力関係は彼女の方が上にあるようだ。
(そして、魔物は巣に住んでいる……?)
疑問符だらけになりながらダリルを窺えば、こちらを見てにやりと笑う。
「私の課題は出来たかい?」
「ええ、ここに。…………もしかして、死の呪いにかけられたのは、先程の少女ですか?」
ダリルは答えなかった。
なので、即ちそれが正解なのだろう。
今回師から預かった課題は、人間の文化圏において、死の呪いから逃れるとされる方法を出来る限り多く集めることだった。
五十程集めてはきたが、この手のものは単なる噂話であることが多い。
実際に多少なりの成果が得られるのは、この中の五つくらいのものだろう。
「いい子だね、ウォルター。疑わしい話まで全部集めてくるのはいいことだ」
「師から最初の頃に教わったことですから」
流布されて根付く噂話には、必ずそれだけの要因がある。
いかがわしいばかりの妄言たれど、例えばその背後に人々がその噂を信じるに足りるだけの奇跡の復活を遂げた者がいたり、そんな噂を頼らざるを得ない劣悪な環境があったり、最低でもそんな流言に踊らされてしまう愚かな者達がいることくらいはわかる。
積み上げてゆけば市場調査の一篇となり、残された嘘の足跡もまた、地道で必要不可欠な真実への手掛かりなのだ。
「やっぱり果ての薔薇が一番か。あれはあんまり使いたくないんだけれど、場合によっては知人を犠牲にするのも止むなしだねぇ」
「果ての薔薇があるのは、地の果ての国です。それに、対価として失うものが曖昧で危険なのでは?」
そう言うと持っていた本で頭を叩かれた。
「あの国の向こうにも、幾つも国がある。地の果てのなんて、頭の固い馬鹿学者達と同じような物言いをするんじゃないよ。それと、あんたが有力と見ている、カムス橋のものは、そこに住んでいる魔物の仕業だ」
「カムス橋の奇跡は、魔物の仕業なのですか?となると高位のものでしょうか」
「いんや、伯爵程度の魔物だね。しかもこれは、呪いをかけているのもその魔物だ。自分でかけた呪いを、恩を売って自分で解いてやってるだけさ。二十年前に、アルビクロムでも同じような事件があった。後で調べておきな」
「はい、調べておきます。カムス橋の件は手を打つ必要が?」
「魔物の行いは自然の行いだ。そいつが大量殺戮でもしない限り、放っておくんだね」
「それとダリル、伯爵の魔物は充分に高位のものです」
「おっと、最近その上ばっかり見慣れてたからねぇ」
「その上ばっかり………?」
(果ての薔薇か………)
果ての薔薇は、願い事を叶える薔薇だ。
最果ての森の奥にある、霊山の麓にある火山湖の中央に咲く、幻の花。
一番大切な記憶と引き換えに、たった一つの願いを叶える呪わしき薔薇。
しかし、不思議なことにこの薔薇に願いをかけた者達の顛末は、あまり記述がない。
それまでは、最果ての薔薇を探しに行くだけの波乱に富んだ人生を歩んできた筈なのだが、願いが叶った途端に、奇妙な話だが………薄くなるのだ。
例えば、国を奪われた王子が簒奪者から王位を取り戻した一件では、薔薇の元に辿り着くまでは記述も多く魅力的な人物とされていた王子なのだが、王位を取り戻してからの記述はほとんど無くなる。
多くの者達がこぞって記した魅力的な王子から一転、誰かが職務として事務的に記したようなものしか残っていない。
(つまり、失われた対価によってその王子から、何かが欠けてしまったのだ)
記憶とは、その者をその者たらしめる要因の一つ。
一つの欠片が失われただけで、人格が変わってしまうということは多々あるのだろう。
「果ての薔薇、………大丈夫でしょうか?」
思わずそう問いかけると、ダリルは鬱蒼とした美しい微笑みを微かに歪めた。
「あいつはそんな事で変わらないだろうけどね。でも万が一の時、あいつは行くんだろうね。………さてと、ザルツ伯との会談だよ。準備しな」
「はい!」
その寂しげな微笑みを見たウォルターは、関係のない第三者を囮にして果ての薔薇を使う術を、何日徹夜しようが必ず見付けてみせると心に誓った。
それをさせてしまうのが、全くこの師の恐ろしいところなのである。