言の葉の魔物と星の魔物
かつて、複数の言語を持つ大きな国が君臨したところに、魔物が集まっていた。
大国が滅びたその後は、土地の魔術の豊かさを利用して、香草と紅茶の産地となっていたが、今度は逆にその豊かさから揺れた土地だ。
資源を適切に分配出来た賢王が倒れると、すぐに国は戦火に包まれた。
そのせいか、誰もまだ手をつけられていない見事な遺跡が沢山ある。
ここもそう。
議事堂の見事な円卓は綺麗なままだが、壁や天井はすっかり崩れ落ちている。
崩れた柱の隙間から差し込む木漏れ日に照らされるこの場所には、三人の白持ちの魔物がいた。
「出来そうかい?言の葉」
「これでも随分質が落ちましたけどね、大丈夫ですよ王様!」
言の葉の魔物は文字通り言葉を司る魔物だ。
しかし生き物が発する言葉には音が伴うので、単に言の葉の領域ではなくなる。
そうなると厄介なのが、声による術式の制限である。
実は、昔は声の魔物もいたのだが、現在は老齢により休眠状態になっている。
生き物が発言に執着しなくなった時代、ということなのだろうか。
魔術による詠唱も、交わされる言葉も、流れる歌声も、その解放を躊躇われた時代の方が重いのは常である。
即ち、声の魔物が大きな力を振るう時代は過ぎ去りつつあるのだ。
ある意味、声は大衆化したのだ。
「自由になるということは、厄介なことだよ」
そう呟いたのは、万象の魔物だ。
コリーはその言葉を聞きながら、彼が自由の代償として何某かの優位性を失ったことを知った。
随分昔に出会った頃の様に、出会い頭に跪き臣下の礼を取りたくならなかったので、変えられたのはそのような万象に対する忠誠の範囲かもしれない。
あれは本人も面倒そうだぞと考えていたので、王はそんなものが元々嫌いだったのだと思う。
なので、彼が惜しむのはその優位性が失われたことで、管理しきれない部分なのだろう。
例えばそれは、今までは使用人の誰かが済ませてくれていた家事を、突然自分でやるようなものだ。
自分が持つ優位性は手放したくないコリーは、想像してみてぞっとした。
絶対に御免だ。
(それにしても、僕、向かいに座る王様なんて初めて見たな)
滅多にないことなので、もう少しだけ見ていたい。
出来れば名前を呼んで欲しいし、何かここに王が居たという証拠になるようなものを貰えればもっといい。
王が自分を探して会いに来ただなんて、みんなが聞いたらすごく羨ましがるだろう。
(でも、選択は嫌い…………)
選択の魔物は終焉以上に多くの生き物を壊す。
コリーは、終焉というものは終焉なりの美学というか、多くの言語化できる美しさがあると信じている。
ウィリアムのことも嫌いではないし、何しろ死は多くの言葉を生み出す。
けれど、選択はどうだろう。
本来多くの議論を生むべき選択なのに、彼はいつも自分が一番前で遊んでしまう。
彼が与えた選択はいつも彼の色ばかりで、コリーはその分の多くの選択が失われているような気がしてならない。
気取っているし、何を考えているかわからないし、全てを見透かされているような目を向けられると何だか嫌な気持ちだ。
「王様が自由になって不自由ならば、僕が頑張って補います!」
「そうして貰えると助かるよ。今回のことは、大切な問題なんだ」
(…………いい!)
すごくいい。
万象の美しい声で語られる、大切という言葉は麗しい。
その言葉を動かしたのは誰なのかは興味がないが、今迄の彼が選ばない言葉をもっと聞きたかった。
珍しい言葉の運用はコリーの大好物なのだ。
「選択の方はご入り用ですか?僕一人でも頑張りますよ」
「今回のことは、魔術の理の一部だ。君にばかり負担をかけるわけにもいかないからね」
そう微笑んだ万象に、コリーはそのまま後ろに倒れそうになった。
彼はいつも穏やかに、けれども静かで冷やかに微笑んでいる王だ。
あまり怒ったところや、感情的に荒れているところは見たことがない。
ある意味その幅が薄いからこその、聖域の王らしい無機質さが好きだった。
だから、こうやって作り物の完全な美貌の微笑みを見るのも大好きだ。
(ふむ。ってことは、王様は今回僕を結構酷使するつもりな訳ですね)
こうなったら、やはり何か褒賞をお願いしよう。
あの髪を結んでいるリボンだとか、綺麗な指輪だとか、何か身に着けているものが貰えないだろうか。
万象は何かに執着することもないので、さして気にせずに与えてくれるかも知れない。
そんなことを考えてほくそ笑んでいたら、また大嫌いな魔物が姿を現した。
ひらひらっとした薄い星色の衣に、謎にきらきら光る髪飾り。
どこか違和感のある女性にも見えるが、れっきとした男性体である。
相変わらず無駄に華やかで、星は、見たばかりなのにうんざりしてしまうような不自然に華美な魔物だ。
「………ご無沙汰しておりますわ、万象の王」
「やあ、ステラータ。君がレーヌに幸運を与えたそうだね」
「………申し訳ありません、我が君。私は、………お姉さまに幸せになっていただきたくて……」
涙目になってみせ、見苦しく言い訳をしようとしたステラータに、王はふわりと微笑んだ。
外野で見ているコリーでさえ死にたくなるくらい、綺麗な綺麗な怖い微笑みだ。
刃物みたいな紫陽花色の瞳を細めて、万象の王はさもわかるよとでもいいたげに笑みを深める。
「そうだね。愛する者には幸福でいて貰いたいものだ。君も、私もね」
「私は知らなかったのです!…………まさか私の祝福が、我が君の指輪の方を傷付けたなど、思ってもいないことでした」
(あ、こりゃ嘘だ)
コリーでさえ気付くのだから、王はさすがに気付くだろう。
選択に至っては、後ろの方の椅子にだらしなく腰掛けて煙草をふかしたまま、こちらを見ようともしない。
星ってものはこれだけ神聖視されて需要も大きいくせに、あっちにいい顔、こっちにいい顔と、無駄にちゃらちゃら輝いてやっているせいで、少しも頭を使わない残念な奴だ。
星であるというだけでもこれだけ美しい言葉を持つのだから、その言葉に相応しい星であればいいのに。
(でも、雨や雪も言葉のままの美しさじゃないからな)
雨は残忍だし、雪は高慢で神経質だ。
そういう意味でも、目の前の万象の王は完璧なのである。
全てを司り潤沢で、だからこそとても不完全なもの。
老獪で無垢で、愚かで聡明。
美しく醜く、頑強で脆弱。
だからこそ万象であり、万象だからこそ彼は永遠に完結しない危うさが美しい。
もし、彼が完全なものであれば世界は止まってしまうだろう。
そのことで王自身がどんな思いをしようと、誰かがどんな目に遭おうとそれは関係ないのだ。
複雑な思いや時には憎しみや失望さえも抱き、それでも美しいのだと結べる存在が、ただただ世界というものなのだから。
(でも僕は、見聞や髪結いも好きだけどね)
見聞の魔物は、叡智と無垢を。
髪結いの魔物は、確かな技術力に素直さと強情さを。
言葉が示す以上の形として、興味深い形でいる魔物もたくさんいる。
けれど、会おうと思えば会える彼等とは違い、万象の王は特別に珍しいという付加価値がつく。
珍しいものはいい。
自分に関わる者ではないのだから特にいい。
「別に構わないよ。ただ、一つ緩めたい呪いがあってね。そこの言の葉に、君の幸運を貸してやってくれないか」
「……………御意」
深々と頭を下げた星は、項垂れたまま僕を憎々し気に一瞥した。
毎晩舞踏会だ何だと大騒ぎしている彼等からすれば、城に閉じこもって本を読み漁っているような魔物は軽蔑の対象なのだろう。
僕達内向的な魔物は、よく星の姉妹達につまらない魔物だと馬鹿にされる。
(でも、どれだけ望まれてどれだけ有名でも、僕の方が階位は上だからね?)
ステラータは多分、嫌々なのを必死に押し殺して僕に最大限の幸運を与えた。
目の表情がほとんど死んでいたし、いつもごてごてと塗っている爪先が震えていたから。
でも仕事が終わればいい子だねと万象に褒めて貰っていたので、僕は少しだけもやもやとした。
でも、それもたった数秒のことだ。
「いい子だね、ステラータ。ではそろそろ、新代に席をお譲り」
「わ………我が君!」
万象の美しい指先が、ひたりと星に向けられた。
無垢白に虹の煌めきのある爪が淡く光る。
その後はほんの一瞬のことだった。
ざらりとステラータの形が崩れ、恐怖の眼差しまでが瞬き程で崩壊して砂の山になる。
それもさらさらと風に散って、あっという間に消えてしまった。
「星が落ちるとなると、今夜はあちこちが荒れるぞ」
「構わないさ。その調整ならかけている。新しい星もすぐに生まれるよ」
「お前、今回のことでどれだけ命数を削った?」
「さてね。けれど尽きる井戸でもないのだから、問題もない」
「…………まさか、ステラータも滅ぼされるとは思わなかっただろうな」
「私の手から零れたものだ。悪意によって損なわれたのに、それに繋がる悪意を残す筈がないだろう?」
「俺やウィリアムだったらやはり殺すだろう。だが、お前が殺すのは意外だったな」
今回ばかりは、僕も選択の言葉に同意した。
ここは特等の会話の中なので気配を殺して口を出したりはしないが、これは驚きだ。
万象は残忍な王だけれど、前述の通りその性質が故に拘りもない。
水に浮かぶ月のようにとりとめがなく、気紛れに殺し、気紛れに生かす。
だから今回のことは、ただ怯える星を見る為だけに彼を生かすものとばかり思っていた。
何しろ、この方はいつも可哀想なくらいに退屈しているのだ。
ある程度の不愉快さに達した相手だからこそ、逆に残すと思っていたのに。
(もしかしたら、不自由になった分がここでこんな風に変化するのかな)
或いは、星が口にした指輪の君とやらが原因なのだろうか。
契約は言葉で交わされるものだから、僕は万象の王が歌乞いを得ていることを知っている。
すぐに世界を書き換えて、記録に残るようなものは全て隠されてしまったが、あの日確かに万象には、専属の歌乞いが出来たのだ。
(…………いいなぁ)
歌乞いは僕の憧れだった。
心が弾み動くとき、そこにはどんなあでやかな言葉が揺れるだろう。
多くの言葉に踊るその恋の響きが、僕はとても好きだ。
でも僕にとって最も不向きなものがあるとすれば、それは恐らく恋なのだ。
言葉を司る僕の切なる願いは、伝える言葉を強くするだろう。
自分の王座で手に入れた恋など、偽物以外の何物でもない。
だから、もし、歌乞いが現れてくれれば。
僕の勝ってしまう文字を有する歌ではなく、歌というものには旋律だけの音楽がある。
以前、一度だけそんな歌乞いを見付けたのに、よりにもよって詩の魔物に先を越されてしまった。
(…………いつか)
いつか僕だけの歌乞いに出会い、僕は願うだろう。
僕の言葉に支配されず、僕を誰よりも大切にして欲しいって。
出来れば茶系統の髪の、青く涼やかな眼差しの女の子がいいし、あんまり喧しくなくて、特別頭のいい子がいい。
目が綺麗で、外に出るのがあまり好きじゃなくて、字が綺麗で、贅沢好みじゃなければもっといい。
(僕はこんなに謙虚なんだから、このくらいの理想を備えた歌乞いならいるだろうな)
贅沢を言えば、雪の精霊みたいな美少女がいいし、貴族や王族の出が一番だけれど。
「さてと、準備はいいかい?」
うっかり理想の女の子の妄想に沈みかけたが、そう声をかけてくれた万象に慌てて居住まいを正した。
星は死んでしまったので、すぐに空の上が騒がしくなるだろう。
あまり大騒ぎになって気が散らない内に、言いつけられた仕事をしてしまおう。
(そして、あのリボンを貰おう)
指輪を強請ると何だか浅ましい感じなので、貰うのはリボンに決めた。
選択が抜き出した言葉を辿り、星の幸運で道を開いて魔術の理に縛られた言葉を書き換える。
今回、これはかなり難しい作業だった。
(よりにもよって、咎竜の王ですか!)
古い生き物程に潤沢な魔術を持っている。
その質が高く量も多いので、場合によっては僕とて太刀打ち出来ないくらいの階位なのだ。
書き換えを進めれば進める程にわかってきたが、純粋な階位としては向こうが上だろう。
ましてや、その死をもってかけられた呪いだなんて分が悪過ぎる。
(でも、王様が僕に頼み事なんてどうしてだろうと思ったけど、これなら確かに……)
この世界のもので、絶対的に理から守られ、理により助けられるもの。
彼が万象であるからこそ、彼だけは特別にこの呪いには手が出せない。
もしかしたら、この呪いを用意したあの妖精は、そこまで考えて手を打ったのかも知れない。
そう考えていたら、本気で指先がなくなりそうになった。
(ちょっ、この咎竜どれだけ強かったの?!僕じゃ全然太刀打ち出来ないんだけど?!)
「あ、あのっ!これはちょっと厄介かも…」
「そっちの端を緩めろ。指定してやったんだから、取り零すなよ?」
(くそっ、選択め!!誰が書き換えてると思ってるんだよ!!!)
いつも通りの気障ったらしい微笑で覗き込まれたので、意地でもその部分は書き換えてやった。
ほろりと指先が崩れるような恐ろしい感覚に、魔術の反動の強さのあまり歯を食いしばる。
万が一ここで自分が死んだら、崩壊で街一つ滅びるぞと恨みがましく思ったところで、ふと、星の消失でも周囲の草木すら損なわれていないことに気付いた。
(…………もしかして、万象が食い止めたのかな)
でもそれは、決壊する大河の水を一人で飲み込むようなもので、ようやく先程の選択の言葉の意味がわかった。
(っていうか、選択も王のことを気遣ったりするんだな……)
「おい、真面目にやってるんだろうな?」
「………僕は頑張ってます!」
「一言くらいどうにかなるだろうが」
「あのね、否定を肯定に書き換えているんですよ?!どれだけ大変だと思ってるんですか!」
「アルテア、コリーなら出来るだろうから邪魔をしないようにね」
「はいっ!王様、僕は頑張るんで褒めて下さいね!」
「大した性格だな、おい」
その後、一時間くらいかかってしまったが、僕は無事にやり遂げた。
指先がそこそこ欠けたけれど、そのくらいならすぐに修復出来てしまう。
すぐに元通りにして、期待に満ちた目で振り返った。
「王様、“出来ない”を、“出来る”に書き換えました!あとはね、年数を一から十に書き換えてます。さすがに言葉を増やすのは難しいですけど、これでも僕なりに精一杯やりましたよ!!」
しかし、そこに居たのは麗しい万象の王ではなく、さして感激した様子でもない選択の魔物唯一人。
「お、王様は?!」
「野暮用でな、先に帰った」
「そんなぁ!僕頑張ったのに!!」
「お前、臣下の作業が終わるまで、長時間隣りで見守る王がどこにいると思ってるんだ」
「でも、ご褒美にあのリボンを貰おうと思ってたのに!」
「…………お前、それだけは絶対にあいつに言うなよ。言っただけで消されるぞ」
「…………あのリボン、何か特別なものなんですか?」
「あいつの指輪持ちに与えられたものだ。触れただけでも許さないだろうな」
「…………与えられた?」
表現方法に誤りがあるようだが、そういうことならと納得した。
魔物にとって歌乞いは自分の恩寵。
大事な大事な持ち物なのだ。
きっと、自分の物が自分に捧げた物を手放すなんて、不愉快に違いない。
僕の仕事を見届けて選択も早々に帰ってゆき、静かな議事堂の遺跡には僕だけが残された。
さわさわと風が絡んだ蔦や草木を揺らし、先程までここにあの万象の王がいたなんて嘘みたいだ。
肩に落ちてからゆるやかに波打って光っていた見事な髪を思い出し、僕は小さく溜息を吐く。
僕にはほとんど白いところはない。
公爵位の中でも下位の下位。
でも、僕の足の爪は綺麗な白だ。
もっとわかり難い白持ちの魔物もいるのだから、誰かに証明出来る場所なだけ良かったと思おう。
欲望の魔物のように、純白の血を持っていてもどうしようもない。
(さてと………)
帰ってしまったものは仕方ない。
この興奮が冷めやらぬ内にと、僕は慌てて転移して友人達のお茶会に加わった。
万象の王が僕に頼ったことを、いち早くみんなに伝えなければ。
こういう驚きは時間経過によって使う言葉も変わってくるので、新鮮さが大事なのだ。
案外こんな性格を見抜かれた上で、これだけで充分に褒美になると見透かされていたのかも知れない。
その翌朝には、新しい星が生まれたそうだ。
今度の星は、星色の瞳に鮮やかな夜空の色の髪を持つ美しい青年で、繊細な感性と穏やかな微笑を持つ魔物だった。
すっかり彼を気に入ってしまった星周りのシーや精霊達が周囲にへばりついて隠していたが、彼とならば友達になれそうだと思う。
あの星が落ちた夜、人間の占術師達は大いに怯えたそうだ。
中には、奇跡がこの世から失われ世界の終末が来ると騒いだ者もいたそうだけれど、星にはシーも精霊もいるので、最初から理由付けが破綻している。
寧ろ、星ほどに司る者が多いものもないだろうに。
万象の歌乞いがどうなったのかは知らない。
そもそもそれは、僕にはどうでもいいことだった。