抵抗の書と理の崩壊
その日、ネアはダリルから貸し出された一冊の本を読んでいた。
タイトルは抵抗の書とあり、ありとあらゆる魔術の理についての抵抗を検討する本である。
以前、ラッカムをどうにか助けられないだろうかと思い借りたことがあり、タイトルを覚えていたのだ。
(この序文は相変わらず嫌いだけれど、)
目次前の最初のページには、恐らく筆者が最も書きたかったであろう一文がある。
ネアはこのページを見たとき、引きちぎって燃やしてしまおうと思ったが、渋々堪えたのだ。
曰く、
“魔術の理に守られたものを打ち破るのであれば、理そのものを殺すのが一番だ”
つまりそれは、ディノが死ねば理の定義が崩れるという意味なのである。
当代の理が死ねば、次代の理が生まれるまでの短い期間、世界の理は無効化されるのだという。
ネアの場合は、咎竜の呪いを容易く破棄出来るということなのだ。
けれど、決して天秤にかけられる筈もない条件だった。
なので、今回も目次から丁寧に探ってゆき、前回は読み飛ばしていた咎竜の項目を見付ける。
(…………随分少ないんだ)
咎竜は古竜を餌にする罪人の竜。
穢れや呪いから生れ落ち、死と疫病を寝床に育つ見た目は清廉な竜である。
(…………清廉?…………清廉??)
蛇妖精の判断であったネアは首を傾げたが、確かに大晦日の怪物達のような禍々しさはない。
彼等は呪いの理を持ち、また異種族に花嫁を欲する珍しい竜である。
嫁取りの方式で血が薄まっていってしまうので、純血の高位竜はほとんど残っていない。
だが、純血の咎竜達が持つ魔術の鮮烈さは、かつて古き魔術が栄えた時代のそれである。
決して抗えないものと心せよ。
(………序文から希望を殺された)
真顔で最後の文字を眺めていたネアは、事前対策として紹介されている竜の媚薬の挿絵を見付けた。
淡い桃色の小瓶に入った液体のようなもので、特殊な魔術特異点にのみ生まれる結晶より精製される。
(この世の者ならざる者にしか辿り着けない、魔術特異点………)
また難易度の高そうな収穫地が指定されているものだ。
このようなものであるので、魔物達が亡霊を使って収集したり、或いは自らの命を賭して魔術師が収穫してきたりするのだとか。
とんでもないことのように思えるが、この世界の住人達は案外さらりとやってのける気がする。
そしてご丁寧にも、竜の媚薬には後追いの効果はないと記されていた。
あくまでも、竜種からの攻撃の前に服用しなければ意味はないのだそうだ。
(……………駄目かぁ)
くまなく読み込んだが使えそうな項目はなく、ネアはごろりと長椅子に横倒しになる。
カルウィの出張で、アンヘルの発言に傷付けられた魔物を見てしまったせいで、ここ数日の間は随分とがんばって調べものをしていたのだ。
あえて事前に知っていたこの本を最後にしたのは、僅かでもいいから希望を残したかったからだった。
しかしこれでも駄目なのであれば、やはりもう打つ手はない。
咎竜には本来、その呪いを解くことが出来る正反対の資質の竜がいた。
しかし光竜というその生き物達は、もう随分昔に滅ぼされて絶滅している。
とある島国に住まう妖精との戦争で負けたのだそうで、何となくだがその妖精には心当たりがあった。
(でも、万が一どこかに生き延びている個体がいたとしても、咎竜の王の呪いを解けるくらいに強い子じゃないと意味がないみたいだし……)
こんなところで、環境保全のツケを払わせられるとは思ってもみなかった。
転がったまま深く溜息を吐くと、借りてきた本をテーブルの上に乗せて、薬の手帳を開く。
こっそり取り出したカードをひっくり返せば、いつの間にか届いたものか、ドリーからのメッセージが浮かび上がっていた。
「……………む」
そこにはまた、厄介な記載が並んでいた。
(…………呪いの影を目視出来ない?)
ドリー曰く、ネアを持ち上げた際に咎竜の呪いを計ってみようとしたのだが、ほとんどの呪いにある影を見付けられなかったのだそうだ。
しかし、そもそも咎竜が人間に呪いをかけたという前例がなく、結果、咎竜の呪いがどのような形でネアに浸透しているのかが分からなかったと言う。
影の形がわかれば対処のしようもあったので、かなり落ち込んでいる様子だった。
このように呪いの影を見ることも出来ない呪いというものは少ないが他にもあり、シーの女性が愛する男にだけかけることが出来る呪いや、精霊の男が自分の伴侶にだけかけられる呪いと何通りかある。
その、シーの呪いというものについて知ったとき、実は少なからずひやりとした。
(ディノは大丈夫だったのかな。………意外に不器用なところもあるし)
こういうものがあると知っていれば、もっと早くに心配してやったのだが。
今となるとこちらにも話せないことがあるので、藪蛇にならない為に会話に上げるのは難しそうだ。
ドリーに返信を書きながら、ごろごろとする。
会話の途中でやはり、ネアの魔術可動域であの咎竜に遭遇するのもおかしいと、ドリーにも言われてしまった。
咎竜は特殊な空間に住んでおり、対峙するのは妙であると元々言われていたが、王とはいえ子供である可能性も考慮しようとドリーは話していた。
その為に判断が保留になっていたが、前回のカルウィの時に実物の咎竜を見たところ、咎竜としてはかなり大きく、誤って人間の領域に出て来てしまうような子供竜ではないと判断されたのだ。
その場合、ネアをその咎竜の巣近くまで誘導するのはかなり難しいのだそうだ。
迷路や落とし穴、魔物の誘い道に妖精の攫い道、特定の人間をかどわかす魔術はたくさんあるが、ネアの場合はその予防薬を飲んでいるという事情がある。
(………そっか、迷子防止薬を飲まされているのを、ドリーさんは知っているんだ)
となると、ネアを咎竜に会わせる手段はかなり狭まり、誰かに力ずくで攫われるか、ネアが自身の意志で行う転移に何某かの魔術を感染させるか、或いは使用する転移門に仕掛けを作るかのどれかしかない。
そう指摘されてあらためて、あの後にディノから持ち物検査をされたことが腑に落ちた。
リノアールで購入した転移門を、市販品は安定性が悪いからという理由で高精度のガレン製のものに差し替えられたのは、今回のことを警戒してなのだと思う。
あの魔物はとうに運搬ルートに目星をつけていたのだ。
(…………どうにかなればいいのに)
そんな風に慎重になっているディノを知れば知るほど、既に貰ってしまっている呪いが切なく悲しい。
今日だってきっと、ネアが庭に出ようとすれば浴室のディノの元へ強制転移される仕掛けが施されているに違いないのだ。
ちかり、とカードのメッセージが輝いた。
あまりお薦めしないが、一つ方策がある。
それは、乗り換えの魔術だということだった。
「……………乗り換え」
とても高位のものの手助けを得られる場合、魂を他の器に乗り換えさせることが出来るのだそうだ。
その場合、呪いを魂と肉体のどちらに残すかは選択制になり、選択の魔物の手を借りれば捨ててゆく方に残してゆくことが可能である。
そういう話だった。
(と言うかアルテアさん、これはもしや、第一王子様達に選択の魔物だとバレているのでは……)
この提案には欠点が二つあり、まずは魂の乗り換えの際に一度、それを成す者の支配下に入るという体裁を整えねばならない。
次に、やはり乗り換えとなるので自分の肉体は放棄せねばならない。
そのようなことが必要となってくるのだとか。
(これ、場合によってはぬいぐるみとか動物とか、厄介なものに乗り換えさせられるやつ!)
娯楽ものの舞台や読み物でそのような設定を見たことがある。
諸事情やら事故やら、困った条件の元に得てしてそのような事案となり、当事者はそれなりに苦労を強いられるのがお決まりだった。
(異世界に引っ張り落とされて、特定分野の魔物を引き受けただけでも充分に濃いのに、そこまでの愉快さはいらない………!!)
嫌な予感しかしないので、ネアはそそくさと、その手段は辞退すると返事を書いておいた。
きっぱり断っておかなければ、勝手に手配されて勝手に巻き込まれる系のトラブルが起きかねない。
それも良くあるパターンなのだ。
「完全に策がないわけじゃないんだけれどなぁ……」
魔物に殺された人間は亡霊になる。
ネアはそのことを知っている。
そんな亡霊達が住まうあわいの空間へ通じる扉、その鍵を管理しているのが実はウィリアムなのだ。
歌劇場の魔物の歌乞いのように、亡霊から使い魔として格上げして貰い、魔物に準じる生き物として第二の人生を歩むのもありだ。
自主性さえ固く保障して貰えれば、この世界の人ならざる者達は結構楽しく生きているように見えるし、この際人間でなくなっても構わない気がする。
それとも使い魔となるとやはり、不都合が生じてしまうのだろうか。
咎竜の呪いのことは伝えられなくても、諸事情により是非に殺していただきたいくらいのことなら、何とか伝えられそうな気もする。
(…………でも、この提案をしたら、ものすごく嫌がりそう)
それでもどうしようもなくなれば、魔物はご主人様を頑張って殺してくれるだろうか。
ネアとしてはそこまでしなくても良いのだが、あれだけ怯えている生き物を残してゆくのはやはり忍びなかった。
(………でも、そもそも使い魔って何だろう?)
しかしながら使い魔というものの文化や権限が気になったので、調べてみることにすれば、お風呂上がりの魔物は、ご主人様の調べものの内容を知り大変に荒ぶった。
浮気ではないと説得するのに時間がかかったので、今後は表立って調べるのはやめておいた方が良さそうだ。
巣に立て籠もった魔物を引き摺り出しながら、ネアは大きな溜息を吐いた。