相影の竜と靴跡の精霊
空中都市から帰り道に、ちょっとした事件があった。
最後に街外れの大きな木と古びた塔、そして隣の浮島の見事な虹を含む全景を見ようとして少し人気のない高台の庭園に歩いてきたときだった。
ネアはふと、誰かに呼び止められたような気がした。
(………ん?)
無視しきれずにそろりと振り返ると、柔らかな地面に残されたネアのブーツ跡に、でっぷりとした栗鼠のような生き物が座っているのが見えた。
またしても妙なものに出会ってしまったと慄いていると、隣を歩く魔物も気付いて振り返る。
「おや、靴跡の精霊だね」
「靴跡の精霊さん………」
「良い精霊だよ。靴跡の主の生涯における志を再認識させ、幸運を運ぶと言われている」
「靴跡の精霊様!」
ネアの歓喜の声を受け、靴跡の精霊は渋い老紳士のように短く頷いた。
落ち着くようにと手を振り、女性に賛美されるのは慣れているとでも言いたげだ。
そして、やけに気障な仕草でネアの足元を指し示す。
「…………む?!」
そこには、するりと影から這い出してきた、白くて細長い生き物がいた。
真上を見上げるようにネアのスカートを覗き、ムフッと笑い声のような鳴き声を上げる。
次の瞬間、ネアはその変質者を容赦なく踏みつけた。
「…………ネア、それは相影の竜だよ」
「相影の………竜?」
「それから、白いということを認識しようか」
「白いですね。蛇のように見えましたが………蛇に謝りたくなる造形の生き物です」
倒した生き物の形に震え上がったネアが視線で助けを求めたので、魔物はさっとご主人様を持ち上げてくれた。
「特別な害がある生き物ではないが、これもとても珍しい竜だ。誰かの目に触れるのなんて、百年に一度あるかないかだろう」
「………そんなに珍しいのですか?」
「そう。でもネアは嫌いそうだったし、害がないから放っておいたのだけど…」
「と言うことはディノはこやつに気付いていたのですね?」
ネアの声が低くなったからか、ディノは不安そうにこちらを窺う。
怒られる気配は察知したが、まだ理由がわからずに困惑しているというところだろうか。
「……ディノ、ただの獣や虫ならばともかく、こやつのように下卑た笑い方をする痴漢に、スカートの下に潜り込まれるのは大変に不本意です」
その言葉に、魔物ははっとして目を瞠った。
身体的な害だけではなく、その手の被害というものがあることを思い出したのだろう。
途端に冷たい目になって、覗き魔の被害に遭ったネアの頬を撫でた。
「ごめんね、気付いてあげられなくて。これは島の縁から捨てておこう」
「待って下さい。白いとあれば、売れますかね?」
「…………売れるだろうね」
「ディノ、こやつからは慰謝料を貰う前に滅ぼしてしまいました。死して償うのもこやつの定めです!」
「それなら、持って帰るかい?」
「この形の生き物に触りたくないので、悪くならないように保存しつつ、どこかに保管しておきたいです」
「では、ひとまず庭にでも置いておこうか。状態維持の魔術をかけておいてあげるよ」
ディノはどこからか取り出した布袋に包むと、ぽいっと魔術で庭に配達しておいてくれた。
触れずに済み見なくても済むようになったので、ネアはようやく安堵の微笑みとなる。
痴漢として駆除したこの相影の竜とやらは、白い蛇のような体に節足動物のようなたくさんの足を持っていた。
踏まれて絶命した結果ごろりと横たわられ、その全容が発覚したのだ。
振り返ったネアは、痴漢に遭っていることを教えてくれた靴跡の精霊がまだいることに気付き、ディノの三つ編みを引っ張る。
ご褒美かと思って目元を染めた魔物に、こそっと耳打ちした。
「ディノ、被害を教えてくれた靴跡の精霊さんにお礼がしたいです。何を喜んでくれるでしょうか?」
「確か、葉巻が好きだったかな」
「葉巻………。持ち合わせがありませんでした」
「葉巻が欲しいならあげるよ、ほら」
嗜んでいるところは見たことがないが、魔法のように指先で虚空から取り出される。
ネアは地面に下ろして貰うと、その受け取った葉巻をそっと靴跡の精霊に渡した。
「靴跡の精霊さん、教えて下さって有難うございました」
「キュイ!」
老紳士風栗鼠は、お主もやるな的な表情で葉巻を受けるとふわりと姿を消す。
或いは、報酬を受け取るためにまだ残っていたのかもしれない。
「痴漢を成敗し、不届き者を高く売るということが私に与えられた幸運なのでしょうか?」
そこだけは何となく腑に落ちないので首を傾げれば、ディノも少し不思議そうな顔をした。
「ネアにとっては、………それが一番の幸運だと判断したのかな」
「……ディノ、ご主人様をとても残念そうに見るのは禁止です!」
「ご主人様………」
ざあっと風が吹き、遠くの滝の水飛沫が霧のようになって飛んできた。
頬を濡らすひんやりとした風に、ネアは目を細めて雲の上の鮮やかな青空を仰ぐ。
「さっきより晴れてきましたね」
「雲の下は雷雨みたいだね」
「…………え、雷雨?」
慌てて下を見れば、空中都市が晴れてきた分、真下の雲はこころなしか暗さを増しているようだ。
ここからでは雷の気配はわからなかったが、魔物が言うのであればそうなのだろう。
「さっき、雷の魔物を見かけたからね」
(…………雷の魔物)
頭の中でその言葉を反復し、ネアはそっと熱い眼差しで魔物を見つめた。
はっとしたように目を瞠り、逆にディノは責めるような顔になる。
「ご主人様………」
「雷の魔物さんは、虎の耳と尻尾を持つ素敵な魔物さんだと聞きました!」
「ネアが会うことはないから大丈夫だよ」
「酷いです!雷の魔物さん独占禁止法に触れるので、私にも見せて下さい!!」
「ほら、彼は狩りの名手でもある。ネアにとっては嫌な魔物だと思うよ」
「なんと!狩りのお話も出来てしまうのですね」
「………これから、ネアが雷を見かけることはないと思う」
「ディノ、魔物さんは兎も角、私は雷の空を見ているのが好きです。その楽しみまで奪ったら、ご主人様は荒れ狂いますよ………」
「ネア………」
不意に風が強まった。
ばたばたと揺れるスカートの裾に、ネアは髪の毛を押さえた。
風は好きなので、ネアからどうにかして欲しいと言うまでは、阻害しないようにと事前に魔物には言ってある。
「こちらも雨になるのでしょうか?」
「いや、ここには雨の祝福はないから、雨は降らないよ」
「雨の祝福がなくなってしまったのでしょうか?」
「そう。ここは元々塔の魔物の屋敷があった土地なんだ」
昔むかし、塔の魔物という魔物がいた。
老人姿の黒い髪の魔物で、塔を美しく建てることに並々ならぬ執着を燃やしていたのだそうだ。
そしてある日、塔の魔物はとびきり高く鋭い塔を建てる。
塔の魔物はとても満足していたが、まさかそんな上空までそびえる塔があるとは思わず、雲の魔物の伴侶が激突して死んでしまった。
怒った雲の魔物と塔の魔物が喧嘩になり、大地よりそびえる塔がどれだけ美しいかを説いた塔の魔物を失望させる為、雲の魔物はとても強い呪いをかけた。
曰く、塔の魔物が建てる塔の全ては、地上から離れてしまうという呪いを。
それ以降、塔の魔物が建てる塔は全て浮島になってしまい、絶望した塔の魔物は石になって死んでしまったという。
雲の魔物が塔を天上に上げた時に、彼に同調した雨の魔物も己の祝福をその土地から取り上げたのだそうだ。
因みに、それを哀れんだ湖の魔物や滝の魔物もおり、こうして浮島からは水が絶えることはない。
「………色々と突っ込みどころのある事件ですが、雲の魔物さんは今もお元気なのでしょうか」
「彼は白持ちだよ。今もどこかで昼寝をしているんじゃないかな」
「確かに雲は白かったです。亡くなった奥様も魔物さんだったのですか?」
「いや、妖精だったんだ。ネアもよく知っている妖精で、彼等はとても仲睦まじい夫婦だった」
「…………む。種族的に知っているとなると、意外に幅広くて絞り込めません」
「ムグリスだよ」
「ムグリス…………」
あんまりにも獣寄りな奥様にネアは絶句したが、こういうことがあるので、ディノもどんな相手にも嫉妬してしまうのだろうかと考えた。
「………私には理解出来ない崇高な愛でした」
「毛がある生き物が好きなのに、ムグリスには恋をしないんだね」
「ディノ、言い方の様子がおかしいです」
「さっきの靴跡の精霊も好みではなかったのかい?」
「…………あやつは栗鼠です」
その時にふと、ネアはまた先程の靴跡の精霊がいる事に気付いた。
「え、……………」
靴跡の精霊は、ネアと目が合うとおもむろにセーフという意味合いのゼスチャーをし、ばちりとウィンクをして消えてしまう。
「………なんなのだ」
「ネア、浮気…………」
「ですから、あれは栗鼠なので浮気はしません」
とは言え、よく分からないメッセージに帰り道のネアはすっかり翻弄されてしまい、靴跡の精霊のことばかりを考えていると、いたく魔物はご立腹であった。
また魔物が荒ぶらないようにその夜は寝台に上げてやったので、もしかしたら計算尽くかも知れなかった。