舎弟と白い封筒
その日ネアは、人生初の浮気に挑戦していた。
晴れて、というのもおかしなことだが、現在は絶賛前倒し婚約中であるので、異性にこっそり手紙を出すのは恐らく不貞行為にあたる。
またしても大人の階段を登ってしまった。
(しかも、人の良さそうな方の好意につけ込んで、思い通りにしてしまおうという悪女ぶり!)
これはもう、少し自慢してもいいくらいの大冒険である。
郵便配達をしたのは舎弟であるので、林檎飴を買って労うことにした。
手ずから与えられた林檎飴を、こわこわの毛玉のような黒い生き物が尻尾を振りながら食べている。
ぼりぼりワフワフと食べるのが可愛くて少しずつ与えていたが、魔物が戻ってくる前に解散したいので、後半はいっぺんに口の中に突っ込んだ。
「良い子ですね、グレイシア。これからも私に尽くすのですよ」
「ワウ!」
たくさん撫でてもらったちび狼は走って森に帰って行き、ネアは証拠隠滅の為に手を洗いに行った。
グレイシアが持ってきた白い封筒には、小さな名刺くらいのカードと、一枚のメモが入っている。
(これはまた、素敵な魔法道具が!)
どうやら、このカードに文字を書き込むことで通信が出来るらしい。
魔術の豊かな土地に持ち込むことで、カード自体にはない魔術を周囲の空気から集めて稼働するので、通信経路が特定されたり、誰かに勘付かれたりもしないのだそうだ。
やはり、そのようなものに長けていそうな人材でもあると見込んで、助けを請うただけのことはある。
リーエンベルクは魔術の循環が生半可ではない為、この王宮内では使い放題といってもいい。
しかし念には念を入れて、カードを使うのはディノがお風呂に入っている時だけにした。
元々、ディノのお風呂時間にはネアは本を読んでいることが多く、カモフラージュには最適なのだ。
(浮気初日、今日から悪いことをすると思うと、なぜに挙動不審になってしまうのだろう……)
この高揚感は狩りに似ている。
あんまりハラハラワクワクしても魔物に見付かってしまうので、深呼吸をして自分を叱咤する。
もう少し情愛の絡む浮気となると反対派であるが、どうかご主人様の命がかかった文通であるので、ディノには許して欲しい。
(同じ屋根の下にいなくて、私に守護をくれていなくて、私を愛していない人万歳!)
そして、お気に入りの紺色のインクのペンを取った。
ディノと催した暖炉の会で零した一言から、ディノが買ってきてくれたペンだ。
(ご無沙汰しております、ネアです。……堅苦しいかしら?)
最初なので挨拶から入ったが、すぐに貰えた返事も同じくらいに丁寧だったのでほっとした。
浮気相手は、とても礼儀正しい人であるらしい。
そして暫くカリカリと文字を書き込んだり、返事を読んだり、とても有意義で心温まる時間を過ごし、少し早めにお開きとした。
大切なカードは薬の手帳のカバーに差し込み、ぱたんと閉じれば証拠隠滅である。
後は用意していた本を取り出し、さもごろごろしてました風を装って魔物が戻ってくるのを待つことにした。
「ネア、何を読んでいるんだい?」
「傘祭りの入門書です。傘の取り扱いを間違えると、傘の逆襲を受けて死んでしまうのだそうです」
カモフラージュに読み始めたところ、あんまりな内容に夢中で読んでしまった本を見せれば、魔物は綺麗な目を瞠って怯えたような顔をした。
怖くなってしまったのか、すぐさま隣に密着して座られてしまい、お風呂上がりのいい香りに充足する。
「いい香りですね。今日は新しい方の入浴剤でしょうか」
「新しい方なのかな。たくさん入ってる手前の瓶だったよ」
「私も最近それがお気に入りです!………あら、気になりますか?」
「………傘の逆襲って何だろうね」
「ディノは傘祭りは初めてですか?」
「他の国の傘祭りは見たことがあるよ。焚き上げの魔物が古い傘を燃やしていたな」
「ウィームの傘祭りは、古い傘達に自由に散歩をさせ、傘達が満足すると消えてしまうのだそうです」
「……散歩」
「そして、まだお散歩が足りない傘を無理やり閉じようとすれば、怒り狂った傘に食べられてしまうとか」
「ネアはその日、外出禁止だね」
「ふっ、甘いですね。傘祭りの日には、私は公式行事への参加が決まっています!」
「ご主人様…………」
「それにしても、傘祭りと銘打つのであれば梅雨にやればいいのに、冬のお祭りなのが不思議ですね」
すっかり傘祭りに魅せられたご主人様の隣で、魔物は公式参加という事実に打ちのめされていたようだ。
あまりにもしょんぼりしているので、ディノも参加出来るように頼んであげた方がいいかも知れない。
「ディノも参加したいですか?」
「………する」
「ではエーダリア様に頼んでみましょうね。それと、傘祭りの前には自分が散歩に出す傘を選びにいく儀式があるそうです」
「どういう儀式なんだい?」
「散歩が出来るのは古い傘だけなので、一昨年に収集された傘を保管する封印庫があり、そこを訪れて運命の傘を選ぶのだとか」
「………運命の傘」
「はい。持つとわかるそうですので、その行事も楽しみですね。そして選んだ傘を、当日街に解き放つのです!」
だいぶ困惑している様子のディノに、ネアは本で学んだばかりの傘の散歩の仕方を説明した。
最終的には余計に混迷が深まったようだが、ここは実践から学ぶしかあるまい。
「ネア、次のお休みに行きたいところはあるかい?」
ふと、そんなことを聞かれて首を傾げた。
いつもは言われるがままだった魔物なので、ようやく独立心が芽生えたか、またしてもプールのお客さんから聞き及んだ何かだろうか。
「いいえ、特には。ディノは行きたいところはありますか?」
「………ないんだね」
「はい。もしや、何かしてくれようと考えてくれたのですか?」
「先週は茶葉のお裾分けで終わってしまったし、退屈しないかい?」
「………あれは、好意という名の暴力でした」
先週末、リーエンベルクに一部屋分の茶葉が届けられる事件があった。
カルウィよりヴェルリアの検閲を経て送られたその茶葉は、アンヘルからネアへの贈り物である。
あまりにも量が多いのでまずは半分をヴェルリアで捌いて貰い、残りの半分をリーエンベルクで大お裾分け大会にした。
宴席でネアがカームの香草茶を気に入ったことを覚えていたらしく、唐突に送りつけられたので現場は大混乱だ。
「ネアは、気に入られたようだね」
「友好の印だそうですので、上の方的にはまんざらでもないようですが、あの量はいけませんね」
「来週の訪問は必要かな……」
「とても必要だと思います」
「…………ネア?」
「………いえ、お仕事を全うするのも大人の務め。ここは、アンヘルさんを転がしてみせましょう!」
「浮気…………」
「ディノ。前提として、私はアンヘルさんを結構苦手な分類としています。お仕事でなければご遠慮したいくらいですよ?」
「でも、もの凄く乗り気なのは何故だろう」
訝しむ魔物を宥めつつ、ネアは危うく浮ついてしまった己を恥じた。
実は来週のカルウィへの出張で浮気相手と会えることとなっており、少し楽しみにし過ぎてしまったのだ。
このままゆくと魔物が事情聴取を始めてしまうので、ネアはさり気なく話題を変えることにした。
「そう言えば、この前のグレイシアさんには驚きましたが、他にも姿を変えてしまう魔物さんはいるのですか?」
茶葉のお裾分け大会に、ネアは久し振りに会う舎弟こと、送り火の魔物を招聘した。
以前にお茶好きだと聞いていたので呼んだのだが、やって来たのはまさかの小さな黒い毛玉狼で驚いたのだ。
イブメリアに最大の力を誇る送り火は、即ちイブメリア直後が一番無力となり、現在は生後一ヶ月くらいの子狼の姿なのだそうだ。
それを知らずに再会してしまったネアは、ワフワフと見上げてくる黒い毛玉に呆然としてしまった。
うっかり愛くるしさにやられてしまい、狐用のボールで遊んでやっていたら、外出先から戻って来た銀狐に目撃されてしまい、少し大変なことになった。
とても傷付いたらしい銀狐は一時失踪したのでとても心配したが、幸い家出先のヒルドが慰めてくれたようだ。
翌日は、ヒルドの足元からじっとりした目でこちらを見ていて戦慄した。
現在は撫で回しの慰謝料を払い、無事に元通りになってくれている。
撫で回しながら、グレイシアは舎弟だが自立した狼であり、同じ家に暮らす銀狐とは違うのだと説明しながら、ネアは自分が何でそんなことをする羽目になったか不思議で堪らなかった。
「ネアは、毛があると好きになってしまうのかな」
「もの凄い誤解を与えそうな言い方はやめて下さい」
「でも、扱い方が変わるよ」
「むぅ、可愛いものは可愛がってやるのが礼儀ですからね」
「浮気…………」
あの日、ネアは黒毛玉であるグレイシアを抱き上げ、その耳元でボス命令を出した。
「グレイシアさん、ボスは今、仲間に言えないというある呪いにより危機に瀕しています。何とか、ヴェルリアにいる火竜のドリーさんと繋ぎを取って下さい」
ワフ!と鳴いた毛玉を見て、ここは統制を強めるべく、以後は敬称を抜いてグレイシアと呼ぶことにした。
グレイシアは送り火の魔物だ。
交友があるのは信仰の魔物だけはでなく、教会や王族達とも接点があり、同じ火の系譜のドリーと密かに接触するにはとても良い伝達係である。
そして幸いにも、今の子犬レベルだとリーエンベルクの結界にも足止めされない無力ぶりだ。
意思疎通が出来るかが唯一の不安だったが、どうやら言葉はわかるらしい。
薬の手帳にある文字盤を見せて会話を試みれば、きちんと相手に言葉を伝えることも出来たのでほっとした。
かくして、ちび送り火の魔物は、郵便配達員として就任したのである。
持つべきものは舎弟だとしみじみ思った。
送り火探索の際にボスになっておいたことが、今こうして自分の身の為になってゆく。
ドリーから送られた白い封筒には、うっかり魔物に見付かっても咎められないよう、擬態の意味でロクサーヌの押印がある。
そのあたり、配慮の人という印象を裏切らないくらいの気の回し方だ。
もっとも危険に面した、次期国王候補の守護竜であるという一面に期待していたが、案の定完全防備で頼もしい。
ああ見えて、政治的な暗部にも精通していなければ成り立たない立場であるので、ネアとしてはそこの知識の面でも頼りたいと思っていたのだ。
(助けて欲しいと言えば、助けてくれそうな人の気がした)
なので一方的に連絡が取りたいと訴え、やり方はドリーに丸投げしてしまう。
素人がどうこうするより、ここは玄人達にどうにかして貰おう。
恐らくレーヌの采配により咎竜に出会い、その呪いを受けたこと、そしてそれがリーエンベルクの者達や守護をくれた魔物達には伝えられないことを明かし、幾つかの提案も貰っている。
その中の一つが、エルゼが同行する筈だったカルウィの出張に、ドリーが来てくれるというものだった。
やはり、実際に会ってみなければわからない呪いの質や量があるそうだ。
少し触れて調べると言われており、魔物が荒ぶらないか若干心配している。
(ドリーさんに会えるなら、それからかな)
ひとまず出来ることはしたので、一度頑張ったご褒美として、来週までこの問題はぽいっと放置しておこう。
猶予が一年もあるのに、毎日命の期限について考えるのは胃に悪い。
(今はともかく、今夜の狩りに向けてゆっくりしよう!)
狩りを続けることについては、実は魔物と一悶着あった。
咎竜のことでとても慎重になってしまったディノをあの手この手で説得し、狩り場そのものを結界で覆う荒技で何とか着地している。
(高額商品を購入したいから、稼ぎたいなんて言えない……)
現在、ネアが手に入れたいレアアイテムが一つある。
竜の媚薬と呼ばれる結晶石だ。
竜を酔わせ、そして竜から傷付けられなくなる。
後追い効果はないらしいが、軽減する程度でもだいぶ状況は変わってくる。
出来ることを片っ端から試してゆけば、どうにかなるかもしれないのだ。
そこまでやってみて事足りなければ、それはもう諦めるしかない。
能力以上には働けないのだと頷きかけてから、視界の端に入った指輪の煌めきにどきりとした。
(……いや、頑張らなきゃだ)
最近、魔物はよく出掛けたがる。
婚約したからか、張り切って色々なものを見せてくれようとするのだが、残念ながらネアが取り込んでいたり、その欲求がないことが多かった。
咎竜問題で磨耗しているので、ネア的には業務時間外も働いている気分なのだ。
なので、合間の時間は部屋でくたびれていたい。
しかし、そうすると魔物は少しだけ悲しげな顔をする。
一年後に間に合わなかったら、この魔物はどうなってしまうのだろう。
ノアとも触れ合わせているし、最近は何かとウィリアムやアルテアとも会えていたから、このまま沢山友達との時間を作って欲しい。
もしネアがいなくなっても、実は数十年ぽっちお別れが早まるだけでもある。
どちらにせよ魔物にとってこの時間は短く、ネアが共に居られる時間の方が遥かに少ない。
ほんの少しが、瞬き程になるくらいの差だ。
しかし、そうは思っても今も横でどこか憂鬱そうにしている魔物を見ると可哀想になった。
「………ディノ、今週末はディノが行ってみたいところに行きましょうか?」
「………私の?」
「ええ。どこか、私に見せたいものがあるところとか、ディノも行ったことがなくて行きたいところ、何でもいいです」
「ネアが行きたいところはないんだね?」
「ディノにお勧めを教えて欲しいです」
「………そうなると、ガーウィンの天上湖かな」
「天上湖……?既に響きが素敵ですね!」
「ネアが好きそうな場所だと思うよ。青くて光っていて、とても綺麗だからね」
「わぁ、楽しみです!」
思い出をいっぱい作って心を動かしておけば、心はとても暖かいだろう。
少なくとも、思い返して微笑めるものが宝物になることはネアで実証済みだ。
(忙しい一年になりそう!)
そう思うと、突然にがっつり寝溜めしたくなってしまった。
やはり、得手不得手があるらしいので、無理をし過ぎないようにしようと思う。