竜の呪いと妖精の呪い
こつこつと床が鳴る。
その響きに胸の底から息を吐いて、ネアは正面の大きな円卓の上に胡座をかいたダリルに向き合った。
天窓からの光が一筋。
そして、書架妖精を囲むような山積みの本達。
調べ物をしていたのか、本は乱雑に積み上げられていた。
歩み寄ってきたネアを見て、ダリルは割れそうに青い瞳を眇める。
「ネアちゃんは嘘つきだねぇ」
そう笑ったダリルに、ネアは小さく微笑んだ。
今日は漆黒のドレスを纏い、まるで喪服の美女のようだ。
わざとこの衣装なのだなと思って、ネアは微笑みを深める。
「お説教の日なので、一人で来ました」
「うん。ディノが煩かったでしょ?」
「拗ねて暴れましたが、巣に置いてきました」
「で、残り時間はどれくらい?」
「む。直球なのですね。少し配慮というものはないのでしょうか」
ネアのむくれた声に、ダリルは声を上げて笑ってからぴたりと笑い止み、鋭い眼差しになる。
「ここにあるだけ調べたけどね、やはり竜の呪いは難しい」
「雪食い鳥さんの時に学びました。魔術の理において、他の高位の生き物にも動かせない呪いがあるのだと」
「けろりとしてるね」
「自分の浅慮ですから、受け止めるしかありません」
「それで諦められる?」
そうなのだ。
それが問題であり、これから考えるべきことだった。
「どうせ咎竜だ。命を喰う呪いだね?」
「はい。それと、ほとんどの方にこの呪いについて話せなくなっています」
「言わずの呪いも合わせてか。……厄介だな」
咎竜に呪いをかけられ、余命宣告をされてしまったネアが、これからどう生きるのか。
その問題と向き合う為に、ネアは今日ここに来たのだ。
「残念ながら自分だけだとまだ諦められてしまいそうで困ったので、迷子紐をつけて貰いました」
そう言って魔物の指輪を見せれば、ダリルは目を瞠ってから小さく頷いた。
「成る程ね、悪くない。ネアちゃんも、そこまでディノのこと好きになったんだね」
時々不思議になる。
以前ウィリアムにも確認されたが、それはそもそも前提なのではないだろうか。
「好きでなければ、暫定だろうと何だろうと、受けなくてもいい婚約をお受けしたりしませんよ!特定の趣味が減速の要因になっているだけです」
そう返したら、なぜかダリルは驚くのだ。
「え、どこでそんな好きになったの?途中まで調教扱いだったよね?」
(おかしいな。専門的なものでマイナスになっていただけで、今迄もそれがなければってくらいには大切にしてきた筈なのに…………)
ネアは解せないばかりだが、珍しく本気で不思議そうなので説明することにした。
「受動的ですが、ディノが私に向けてくれる好意がまっとうな感覚だと気付いたからでしょうか。大晦日にこの先のことを話し、婚約してないとわかってディノが泣いたこともありました。そこまで見ていてわからない程、さすがの私も朴念仁ではありませんし、それを理解した上でも自分も好きなままなのだから、これはきっとディノに応えられる類の好きなのだろうなぁと実感した次第です」
「…………なんだろ、ドヤ顔で言われたけど、両想いの筈なのにディノが不憫になった」
「でも、私自身も中々に駄目になっていると気付いたのは、指輪を没収されてからですね………」
与えられる愛情をやぶさかではないと受け取るのと、与えられなくなったものを惜しんで苦しむのとでは、やはり愛情の質は違う。
ああならなければわからなかった自分の気持ちなので、少し目の覚める思いがした。
(それでも、案外一週間くらいで喪失感の封じ込めが進んだ自分が悲しい………)
カルウィを訪れた日にはいい具合に心が穏やかになりかけていたのだから、ネアの恋愛的欲求への持久力はあまりないようだ。
そう考えてしまえば、まだまだ不得手な分野なのだとは思う。
ゆったりと相手を受け入れるような、大人の情愛の感性にはほど遠い。
もう少し強くなりたいが、果たしてこれは鍛錬可能な才能なのだろうか。
「さらりとしてるからわかり難いのかなぁ」
「いや、これだけしでかしてるので、個人的には結構にボロボロだったのですが」
「うん。だから、驚いた」
「ダリルさん……、特別に大切なので振り回されているくらいの状態でなく、義務的に変態の恋人を引き受ける程に私は犠牲的ではありません!」
「あはは。確かに!じゃあ出来るだけ早く、頭を悩ませるのはそれだけにしよう。知恵なら幾らでも貸してあげるからね」
「………有難うございます。雪食い鳥の時といい、ダリルさんがいてくれて助かります」
「こういうとき、近しいあまりに魔術指定で弾かれる身内より、そこそこに仲のいい他人って有難いでしょ?」
「今度、美味しいお酒を献上しますね」
「いいねぇ。甘くないの希望ね」
こつりと円卓が鳴った。
ダリルが綺麗な指先で卓面を叩いたのだ。
「さて、話を本筋に戻そうか。実は一つ気になっていてね、ネアちゃんが特別に豪運だとしても、幾ら何でも今回は咎竜の出現場所がおかしい」
「そうなると人為的だということになりますが、アルバンの山に行ったのは完全に自棄でしたが………」
「ネアちゃん、少し記憶を辿って欲しいんだけど、前に流した血は一雫だった?」
「もはや色々あり過ぎて記憶が曖昧ですが、もしや…………レーヌさんですか?」
その名前に、ダリルは刃物のように唇を歪めて微笑む。
「そう。私の大嫌いな黄昏のレーヌ。馬鹿王子や馬鹿ヒルド共はさ、ディノやネアちゃんが規格外だからって警戒心を緩め過ぎた。あの狡猾なレーヌが、夜渡り鹿だけを陽動にしてわざわざウィームに姿を現わすかな。それをね、あの女が死んでからずっと考えてたんだよね」
ネアも考える。
精緻な図面をひき、ただの小石が転がるようなもので標的を殺す。
ネア程度の人間でもあのレールが敷けたのだから、叡智深きシーであれば尚更だろう。
雪食い鳥でお終いだったのだろうか。
その時にはまだレーヌは存命であり、雪食い鳥の試練が破れたことは知っていた筈だ。
仕掛けた罠が外れたのを、そのままにしておける女性には見えなかった。
であれば、ただ夜渡り鹿を連れてディノに会いに来るだけで、彼女は気が済んだのだろうか。
罠から始まったものが、そんなわかり易く終わる筈がないと思うのはただの深読みかも知れない。
「でもさ、ネアちゃんもレーヌ絡みだって感じたわけ?」
「今回の事故は業務時間外のことですし、完全に私の失態です。だから、ダリルさんは叱っても、手を貸してはくれないと思っていました。でも、どこか私怨のように力を貸して下さっているので、発端はダリルさんも関わりのある案件なのだと考えたのです」
「あちゃー、顔に出てたか」
「私的には、ダリルさんがカルウィの報告会の場で、私の状態に気付いてしまったのが驚きでした」
「いや、ディノに竜のこと聞いてるとき、あからさまに諦観の顔をしたからだよ」
「…………私もまだまだですね」
「それに求婚するだけなら、咎竜は煽らないからね」
「む?花嫁候補さんの心を壊すのでは?」
「それね、周囲の者を殲滅する方式なわけ」
「退治して良かったです!」
今でも瞼の裏側にあの赤い満月は見える。
ふとそこに、レーヌというシーの森で聞いた笑い声を思い出す。
「………あの方の悪意には殺されたくないですね」
ぽつりと呟けば、ダリルは笑った。
「そうだね。私もあの女を勝たせたくはない。あの女を二度と勝たせないと、そう誓った奴がいるんだ」
レーヌは、多くの悪意の下に多くの命を奪ったのだと聞いた。
エーダリアが標的とされたのであれば、その代理妖精であるダリルとて狙われないわけもない。
(ダリルさんも、誰かを亡くしたのだろうか)
「であればダリルさん、私を勝たせて下さい」
「勝つだけの覚悟がある?」
厳しい問いかけに、ネアはふわりと微笑んだ。
「私は怖いことも辛いことも嫌いなので、生き延びる覚悟となると、正直自信がありません。ただ、幸いにもこれが欲しいと思うものを一つ見付けました。私はとても強欲ですから、これを餌に頑張ろうと思います」
あの赤い満月の下、
紡がれる呪いの言葉をただ聞いていた。
雪食い鳥で予習していたので、それがただのお喋りではないことがわかったのだ。
(だからこれは、戒めだ。この指輪を見る度に、私は私を繋ぎとめ直す)
約束があるのだからと、逃げ出さないように。
あの美しくて拙い生き物を、ネアと同じ目に遭わせない為に。
「人間はしたたかだねぇ。ディノも可哀想に」
「む。ヒルドさんにも怒られたばかりですが、今回ばかりは、あやつの呪いなので仕方ありません」
「そういう意味じゃなくてさ、指輪のこと。ネアちゃんがそれ受け取ったのって、ただの自分の為でしょ?ディノには教えてあげないの?」
やはり鋭く、そして容赦もない。
ネアはその質問に少しだけ苦笑した。
(でも、きちんと愛情があるのだと告白した以上、私の行為はある意味分かりやすいだろうな)
「はい。ただの我欲真っしぐらに、欲しいものを手に入れました。なので本当は、あんな風にディノを叱る資格はないですね。私は狡猾なのです」
「自分が欲しいから望んだんだって、知らせたら喜ぶでしょうに」
「そうなるとあの魔物は、婚約期間を早めてきかねません。しかも本気になられたら、私もうっかり籠絡されてしまいます。さすがに割とすぐに死ぬかもしれない人間を伴侶にさせたら可哀想なので、これくらいで良いのです」
「籠絡ねぇ。……ネアちゃんは魔物には耐性があるのかと思ってたけど、普通に女の子だね」
「………寧ろ何だと思われていたのか大変に遺憾です。だいたい、目が合うだけで人を容易く籠絡出来る無茶な生き物に対し、私は経験値が少ないんですよ?最初から、ディノが本気を出したら割とあっさり負けると言っていましたが……」
「その負けるところがあまり見えなかったから、頑丈に見えたのかなー」
「負けなかった頃は、どうでもいい存在なのでさして影響を受けなかった頃ですね」
「うん。その容赦のなさは相変わらずネアちゃんだね!」
何で途中から恋愛話になったのだろうと首を傾げていると、呆れたダリルにその理由を補足された。
「ネアちゃんが迷子紐って言ったから、その強度確認でしょうが!こっちだって、勝手にもういいやって死なれたら困るの」
「そうでした。すみません……出来る限り努力します」
「勝つまで努力してね」
「週休二日のままで出来る限りの力を尽くします!」
「ネアちゃん……」
「これは呪いなのですから、私生活を蝕まれてしまったら負けたのと同じです。幸福な日常を維持しつつ、戦いますね!」
「歪みないなぁ………」
一度とても残念なものを見る目をされてしまったが、ネアにも譲れないものがある。
必ずクリアに出来る問題ではないのだから、残された時間を有意義に使うことも視野に入れなければならない。
「ひとまず、ネアちゃんは今までのようにディノの側にいること。正常に機能すれば、ある意味そこ程安全なところもないし。……あの狐は頼れるの?あれ、ただの狐に見えないからね?」
「ええ、ただの狐ではありません。ただ、狐さんは、折衝案ですよ。元々どこで暮らしているのか心配でしたし、今からディノと触れ合わせておけば、歌乞いさんを亡くした先人として、万が一の時に魔物が荒ぶるのを鎮めることが出来るかもしれません」
「ちょっと!負けた時の算段するの禁止!!」
「しかし、ヒルドさんと仲良しになってしまいました。誤算です………」
ダリルが視線を上げて時計を見た。
ディノを待たせているので、あまり時間の猶予はないだろう。
咎竜などという生き物と遭遇してしまったことについては魔物も知っており、ご主人様から離れることに対しては、それなりにピリピリもしている。
「ネアちゃん、呪いの猶予はどれくらい?」
「一年あるそうなので、ゆっくり慎重にやります。なので、まずはカルウィのお仕事を片付けましょうね」
「……ほんと、豪胆だなぁ」
「そうでもありませんよ。………実はこれでも、呪いをかけられた時は情けなくて泣いてしまいました。ディノに指輪を取り上げられた上にこの仕打ちだと思ったら、そのザマです。でも、だからこそそんなものの為に大切な日常を損ないたくはありません」
泣きながら背中に飛び蹴りされた竜はお亡くなりになってくれたが、呪いが解けていないのはなんとなくわかった。
あの日からなぜか、竜にまつわるものに接すると心臓のあたりがぞわりと熱を持つのだ。
「その上、きっちり咎竜を殺してるからね」
「滅ぼせばどうにかなるかと思ったんですが、そこは雪食い鳥さんと違うのですね。しかし、どうして倒せたのかはわかりません」
「うーん、途中から求婚も合わせて発動してるし、そのリズモの祝福とやらのせいで混乱してたんじゃない?」
「リズモの祝福はその後のことで……」
「雪食い鳥事件で迷路の向こうで狩ったやつは?」
言われてはっとした。
その件での祝福の洗浄は、色々とあって先延ばしにされており、現状手付かずであった。
直近の二十九個には及ばなくても、リズモの良縁の祝福があったのは確かだ。
「なぜか、ものすごく狐さんを大事にしたい気持ちになりました。狐さんに何を進呈すればいいでしょう?」
「なんでさ?!………大きさが似てるし、犬用のボールでも買ってやれば?」
「ボール………」
別れ際に、これからも普段通りに過ごし、特別に連絡を取り合わないと決めた。
一年も猶予があるということより、焦ってもどうにかなる問題ではないからだ。
ダリルに、選択を司るアルテアが戦力になれば良かったのにねと言われると、今回こそ頼りたかったと少しがっかりする。
けれど、得られないものを惜しんでも仕方がない。
(あんまり根を詰めると逃げ出したくなるから、半年後くらいに始動しようかな。でも、ダリルさんが案外スパルタっぽいような……)
あの赤い満月の下で、こうっと花の香りのする不思議な風が吹く。
本能的な不快感のようなものを呼び起こす、あの咎竜の声が悪意をしたたらせ、ネアに呪いをかけた。
足元に浮かび上がった術式陣と、雪食い鳥の時にも感じたあの体を滑り落ちてゆく違和感に、ああ、これは呪いなのだとわかった。
『お前を守るもの、お前を愛するもの、お前と同じ屋根の下に住まうもの』
嗤いを滲ませた忌まわしいあの声。
『この秘密はその誰にも伝えることは出来ない』
白くうねる体に大きく広がった金色の羽。
巻き上がる雪が夜空に散らばる。
『一年後、私の呪いはお前の命を奪うだろう』
書架を出ながら魔物の指輪のある方の手を握り込んだ。
(途中から、少しはわかっていたのだ)
少しずつ重ねられてゆく指輪に、あの魔物が密かにどんな想いを重ねてゆくのか。
望まなくても、欲しくなくても、そこに請われる願いはわかる。
指輪を重ね、言葉を重ね、どんな風に繋ぎとめようとしてゆくのか、その切実さを確かに知ってきた。
それはまるで、死なないでくれと小さな弟の手を握った手であり、返してくれと両親の棺に取り縋った手である。
それだけしかなく、それでなければ駄目なのだという絶望なら、ネアにもわかる。
一度は見捨てられたのかと疑いはしたが、そうではなくやはりあの魔物は自分を望んでくれるのだと理解した今、ネアは簡単に自分の命を諦められなくなってしまった。
少しでも長くと強欲に願えば願う程、抗う術としてこの指輪はきらきらと美しい。
命の危うさを含んだその繋がりを思えば、願い事一つで命を削る歌乞いらしい生き様とも言える。
ただ一つ、
魔物の願い事を叶えられないかもしれないということ以外は。
「ごめんなさい、ディノ」
ここでなければ言えない言葉をぽつりと呟き、ネアは書庫を出て行った。
ぱたんと扉が閉じると、ダリルは肩を竦めた。
「少しだけ時間があるよ。その顔じゃバレるから、ゆっくり部屋まで歩いて帰りなって言ったから」
「……良い手を使ったね。私が自らの意思でここに来るように調整しただろう?」
大きな書架の横に、ゆらりと立っていたのはディノだ。
魔物らしい酷薄な眼差しで、唇の端に微かな微笑みを浮かべている。
しかし、その眼差しは氷塊のようだった。
「そうしないと呪いに触れるからね。やっぱり、アルテアは使えない?」
「無理だろうね。雪食い鳥の試練は、分岐のある運命であり選択の領域だ。今回のものは彼の領域ではない」
「奇跡を司る星は?」
「星は、レーヌの友人だ。私とて、もはやその魔物の意思を抑えてまで、思い通りに出来るわけではないんだよ」
そう微笑んだ横顔を見て、ダリルは小さく息を吐く。
とうてい出来ないと言う者の顔ではなかったからだ。
「いざとなったら無理矢理やるくせに」
「星を損なうと世が荒れるが、そうだね、いざとなればやるだろう。でもね、星はあくまでも奇跡を司るものだ。それは決して絶対的ではない」
「そうか、階位的には咎竜の方が上なんだ……」
「それと、あの子の中には死への欲求に近いものがある。終焉の子供の特性でもあるが、それがかけられた呪いに力を与えなければいいが」
「あの子、まだそんな厄介なもん抱えてるの?」
「死は彼女にとって、安全そのものなんだろう。最終的に逃げ込めるものとして、随分と長く頼り過ぎている。そういう意味では、ネアは我が儘だね。確かに我欲真っしぐらだ」
決して寂しげな声ではなかったが、ダリルはその眼差しにふと、えも謂れぬ孤独を見た気がした。
「不思議だね、ディノでも怖がるんだ」
「おや、不安なばかりだよ。人間のことなんてろくに知らないし、あの子はすぐに逃げてゆこうとする」
「でも、ディノのことかなり大好きみたいだけど?」
「…………まだ、足りないかな。きっとあの子は今頃、呪いについて真剣に考えるのは、残り半分くらいからでいいだろうとか考えている筈だよ。これからの季節は祝祭も多いしね……」
そこでは本気で憂鬱そうにされたので、思わず頷いてしまった。
「まぁ、そう言う意味では、自分が一番大事なのは間違いなさそうだ。ネアちゃんを見てると、人間って強いなぁとしみじみ思う」
「強さが即ち苦しみを免除するものではないけれどね。ただ、もう少し平坦な道を歩いて欲しいかな」
「いや、今回のことはディノの所為でしょ!」
そう責めると、ディノはどこかうんざりとした顔をした。
「やれやれ、酷いことを言う。これでも幾つかの不安要因を排除したばかりなのに」
「ん?そうなの?………もしかして、シーの呪いでもかけられた?」
妖精の中でも、女性のシーだけが持つ特別な力がある。
女性のシーが愛した男にだけかけられる呪いで、今際の際にそっと囁くだけでいい。
これもまた魔術の理として優位に置かれる現象なので、あまり知られてはいないが強烈なものだ。
「すぐに殺してしまえば良かったんだけど、ネアに干渉していないか確かめないと心配だったからね」
「………うわぁ、それえぐいね。レーヌの呪いなんざ、死んでもかかりたくない。どうにか出来ないの?」
「したさ。だから一度、指輪まで取り上げなければいけなかった」
その言葉に瞠目し、慌てて振り返った。
「え、ちょっと待って。それが本当の理由?!」
「勿論、ネアに話したのも本当の理由だよ。人間はそうだと聞いたし、あの子ならやりかねないから。ただ、あの瞬間に呪いの条件が満たされてしまったから、あそこで手を打たざるを得なかった。いくら私でも、本来ならもう少し時期もやり方も考えたよ」
「レーヌは、何て?」
ふうっと深い溜め息の音が落ち、伏せられた睫毛の影が悩ましく揺れる。
指先を唇にあてて、魔物の王は静かに吟じた。
「彼女が私を望む時、私は彼女を拒み、指輪を取り戻して去るだろうと」
「………殺すことよりも、ディノに拒絶させる方を選ぶあたり、女だねぇ。だから、その呪いを一度成就させたわけか」
「不愉快な呪いだろう?だから、ネアの心が動くより先に捕まえてしまおうと焦ったのだけど、あの子はいつも予想外のことをする。…………でも、あれだけ幸福な一瞬もなかったから、……何とか維持しようとしたが、やはりすぐに出ていかなければいけなかった」
ダリルからすれば、ネアの求婚の言葉は求婚とも言えない酷いものだ。
だがやはり、この魔物は相当嬉しかったらしい。
「で、その呪いは解けたの?」
「ネアが私が去ったのだと思えば、呪いは形式上成就する。あとは足を引き抜くだけだが、その所為でようやく積み上げたものを、全て失ってしまうかと思った」
「そこまでかなぁ?」
「あれだけのことをしたのなら、どうせなら人間が好むという求婚の仕方も整えたかったし、他にも仕掛けがないかもう少し様子を見る筈だったが、………あと一日でも戻るのが遅ければ、あの子は私を切り捨てただろう。もう離れているのは嫌だったんだ」
(ああ、そうか)
実は、恰好良くなくてもいいからとこの魔物が言い戻ったのだと聞いたとき、ダリルはかなりげんなりした。
しかしそれはきっと、男としての魅力云々というだけでもなく、全ての守護をそつなく仕上げるだけの矜持さえ捨てて、縋るような思いで戻った魔物の本音そのものだったのだろう。
(きっと、ディノ的にはそういう意味の恰好の悪さを認めた一瞬だったんだろうになぁ……)
不愉快そうに呟いた余韻を引き摺ったままの目で、ディノは転移の気配を見せた。
ネアが部屋に戻る頃合いなのだろうが、もう一つだけ聞いておかねばならないことがある。
「あの子には言わないの?」
「言わないよ。少なくとも今はね。まだレーヌの呪いは残っているから、私もやらなければならないことがある。今のネアに、他の危険が加わる可能性までを想像させてしまうのは酷だからね」
「そっか。………それと、咎竜のことは、多分本人も無意識だと思うから、あまり考えないようにね」
咎竜に遭遇する為の条件というものがある。
一つ、大罪人であること。
一つ、死の準備をしていること。
一つ、誰かを殺そうとしていること。
そのどれかを満たした者のみ、咎竜と出会う機会を得られる。
「いや、……それは問題ないよ。ダリル、恐らくその手配をしたのはアクス商会だろう。通常の携帯転移門では、ネアの魔術条件で咎竜の領域にまでは入り込めない。あれは、特殊なあわいに住む竜なんだ」
その指摘に息を呑んだ。
(そうか、用意されていたのは“道”の方かい!!)
ネアはあの夜、リーエンベルクから支給された転移門ではなく、市販のものを使ったと話していた。
市販の門となれば、仕掛けを滑り込ませるのは不可能ではない。
支払いさえ済ませれば、政敵の首すら仕入れてくれるあのアクス商会なのだ。
「…………確かにあの店ならそれくらいの商品を売るだろうね。ん?けれどそうなると……呪いを仕込んだのもアクスってこと?」
「仕組んだのはやはりレーヌだろう。私が指輪を回収している間に発動した仕掛けは、他にも幾らでもあった。今回のことは、その中の一つを私が見過ごしたというだけなんだよ」
「………ねぇ、ディノ。後悔するのは勝手だけど、きっとあの子は大丈夫だよ」
そう呟く頃にはもう、ディノの姿はどこにもなかった。
姿を消した魔物の王のいた場所を見ながら、ダリルは円卓から下りると首を回す。
呪いの文句の対象を外れたダリルとて、ネアと対話したことで既に呪いの管轄下に踏み込んでいる。
しかし、下手に口伝すれば呪いに触れてネアを損なう可能性があるとは言え、呪いの特質を超えずにこの緊急事態を知らせる方法など幾らでもあるものだ。
何しろ、ここはダリルダレンの書架。
古くより濃密な魔術に富んだウィーム王国の最前線であったところ。
正面からの攻撃には限界があるが、この手の工作であればお手の物である。
まずはディノから始め、さて次は誰に伝達しよう。
「レーヌ、………あんたにだけは、もう何も奪わせないよ」
どうせ誰かへの当てつけを兼ねたジョークだろうが、まさかディノが、あんなシーを試してみる悪食な魔物だとは思わなかった。
だからこそ、レーヌの危険が去ったとは思わずにいても、彼女の標的になるとすれば自分達だとばかり考えていた。
雪食い鳥の事件が起こるその時まで、あの二人は問題ないだろうと油断していたのはダリルもなのだ。
もう二度と、あのシーにだけは損なわれまいと思っていたのに。
「………だから、ネアちゃんには生き延びて貰わないとね」
雨の日の劇場からの帰り道で、取り上げたこの手の中で灰になって崩れた恋人の指先を思った。
最初の恋とは違う色をした相手ではあったが、あの時に失われた恋人は、幼い時から一緒だった大切な仲間でもあったのだ。
あの日以降、この広大な書庫の中に、司書妖精は一人もいない。