添い寝と火の夢
炎の夢を見ていた。
熱く呪わしく、息が止まりそうな熱風の中で手を伸ばした先のものが崩れ落ちてゆく。
絶叫するその先の炎の中でもまた、真紅の揺らめきが全てを呑み込んでいった。
(………あら?)
誰かに呼ばれたような気がした。
読んでいた本を置いて立ち上がると、部屋を見回すが誰もいない。
少しだけ考えて、部屋の扉を開けると静かな廊下を覗き込んだ。
(ディノがお風呂だからなぁ……)
少しだけ考えてからメモを残し、室内着の上にストールを巻いて部屋を出た。
あれこれあった結果、この棟には頑丈な結界がかけられており、さすがにネアもこの中くらいは一人で自由に歩き回ることを許されている。
因みに、この前空から落ちてきたリズモに興奮して庭に出ようとしたら、ディノの腕の中に強制転移させられる仕掛けがあることが判明した。
ディノが離れるのはお風呂くらいなので、酷い目に遭ったとだけ言っておこう。
廊下を抜けるとやや特殊な扉があり、そのドアノブに手をかける前に指輪に囁く。
メモも残してきたが、もしこの扉を開けると通知が飛ぶような仕掛けがあった場合、事前告知があるのとないのとでは違うだろう。
「ディノ、狐さんの様子が変なので見てきますね。お風呂が終わったら来て下さい」
(よし!これでいいでしょう)
中にいるのは狐の筈なので、特にノックはせずに扉を開けた。
当初ディノは渋ったが、有事の際に使わない手はないとヒルドが説得し、ネアもこの部屋が開けられるようになっている。
「………あら?」
部屋は薄暗かった。
窓からの雪灯りだけでぼんやりと青白い。
誰もいないのかと安堵したところで、押し殺したような呻き声が聞こえ、ネアは目を細める。
その声を頼りに部屋を抜けてゆくと、用意されている寝台の下で毛布に包まっている塊があった。
(…………やっぱり、部屋で一人のときはこの姿なんだ)
目が覚めていないのか、無用心にも深々と夢に囚われているままだ。
少し考えてから、その隣にしゃがみこんでくしゃくしゃの白い髪の毛を撫でた。
以前のように綺麗に整えてはいない髪の毛に、彼が辿ってきたであろう悲劇や苦痛の影を分かりやすく感じる。
何度か丁寧に撫でてやっていると、苦痛を滲ませた呻き声が聞こえなくなった。
淡くヴァーベナのような香りがして、これは彼特有の魔物の香りなのだと今更に知る。
(怖い夢を見ているのしら)
であれば、こうして側にいてあげようか。
ずっと昔、ネアがあの広い屋敷に一人ぼっちになった時、目を覚ますとそんな風に誰かが側にいてくれるという夢を何度も見たものだ。
何度も見て、でも目を覚ますとやはり一人だと知り、その内にそんな希望も消えた。
「…………ノア、私はここにいますよ」
起こさない程度に耳元で囁いてから、また髪を撫でた。
毛布の影から見えているが、免罪符をつけたままのリボンで髪を結ぶのはやめた方がいい。
本当なら子守唄でも歌ってあげたいところだが、ネアがそれをすると魔物は死んでしまうかもしれない。
そう考えて渋面になったところだった。
「…………ネア」
責めるような声が落ちてきて顔を上げれば、髪の毛を濡らしてもいないディノがいた。
こうして魔術で簡単に乾かしてしまえるのだから、毎晩ネアに拭いてもらうのはそろそろ卒業して欲しい。
一人立ちしてから困るのはディノなのだ。
「良かった、ディノを待っていたんです。魘されているんですが、どうにかしてあげて下さい」
「……………私がかい?」
「そうですよ。ディノは王様なのですし、彼が体調を崩したら、私の狐さんが可哀想です」
「ネア、私のという表現はやめようか」
「私の飼っている?私のお気に入りの?」
「それも駄目だね」
「むぅ。………とりあえず、ここに座って下さい」
「え…………」
転がったノアの隣を示すと、ディノは分かりやすく嫌そうな顔になった。
そこでネアは、考えていた折衝案を施行する。
「ディノ、私に膝枕して下さい」
「ご主人様………?」
「まずはここに座って下さいね。もはや向きはどうでもいいです」
渋る魔物を餌で釣って座らせると、そのディノの膝に乗りかかるようにして、ネアも床に転がった。
「…………よし!」
「………よくない」
これで、ノアにはディノが接しているし、ネアは側にいてもノアに接しておらず、魔物にご褒美も与えている。
ディノは不服そうだったので、下から見上げて宥めるような声を出した。
「ディノは、私を膝枕するのは嫌でしたか?」
「嫌じゃない………」
「では、少し甘えさせて下さいね」
「ご主人様、ずるい」
「ふふ。人間は強欲でしたたかなのです」
「…………ずるい」
「ディノ、頭撫でて下さい」
「ずるい、………可愛い」
ふっと意識が覚醒した。
酷い夢だったが、どこからかただの穏やかな眠りに変わった。
今日は、昼間出ていた先で悪夢の駆除をしたのが良くなかったようだ。
指先に残る強張りを解こうとして、ぎくりと体を竦める。
誰かが隣にいる。
そろりと視線をそちらに向ければ、鮮やかな程の白い髪が見えた。
咄嗟に考えたのは、そろそろシルハーンに我慢の限界が来て、自分を排除しようとしているのだろうかということだった。
だが、息を呑んで暫くしても、特に何もする気配はない。
「目が覚めたなら、さっさと元に戻ってくれないかな」
途方に暮れて動けずにいると、どこか嫌そうな声が落ちてきた。
ぎくりとして視線を向ければ、うんざりとした顔でこちらを見ているディノがいる。
「………あれ、これってどういう状況?」
「さてね。ただ、私は君のお守りは御免だ」
「そりゃそうだね。…………え」
体を起こして距離を取ろうとして、またぎくりとした。
背中合わせになるようにして、ネアが眠っている。
どこからか持ち込まれた毛布に包まっているが、ディノの膝を枕にしてすぐ隣に寝ているのは確かだ。
息が止まりそうになって、呆然とディノを見上げた。
「ノアベルト、この子が起きる前に元に戻るといい」
「…………えっと、僕は狐が本体じゃないとか色々あるけど、そうだね。取り敢えず………ネア?!」
突然寝返りを打ったネアの手が膝に激突してきた。
寝返りだろうかと思いかけて、どうやら眠りながら煩いものを攻撃したようだと思い至る。
攻撃の意思のある結構な打撃だ。
「………狡いな、ノアベルト」
「…………え?……これが?指輪のある方の手だったから、結構痛いけれど………あ」
普通に返してしまってから、彼はこういうのがいいのだと思い出した。
これはもう早々に狐になるしかない。
そう考えたところで、事態は悪化した。
「…………むぐ」
煩い邪魔者を叩いたことで目が覚めたのか、ネアがとろんとした目でこちらを見ている。
その目を呆然と見返したまま、もはや王の方は見れなくなった。
「………………ノア?」
「………………う、うん」
「嫌な夢を見ましたか?もう怖くないですよ」
その言葉に胸が潰れそうになる。
鋭く息を吸い込んだまま何も言えないでいると、ネアは眠そうに雑に微笑んだ。
「ディノが傍に居てくれますからね」
(……………ん?)
思わず、男二人で顔を見合わせてしまう。
「……………ネア、それ何か違う……………あ、寝た」
「ノアベルト………」
「……………ディノ、あ、ええとシルハーン」
最近、ネアの呼び方に聞き慣れてしまっていたせいか、出だしから躓いて青くなる。
しかし、彼は気にした風もなく、それよりも狐になれと言わんばかりだ。
「名前はどうでもいいけど、他にするべきことがあるだろう?」
「いや、あるんだけど少し待ってくれないか。狐のままだと喋れないからね」
そう言えば不審そうにこちらを見るのだから、驚いてしまった。
ここに居る王は、相手が自分であれど表情がある。
(いや、ネアのことが絡むから表情があるのかな…………)
かつては王に準じる階位だった。
女達を交えて、朝まで同じ宴席で飲んだこともある。
彼が街を一つ手慰みに滅ぼすのを観戦していたり、逆にこちらが滅ぼしたものを彼が見に来たことも。
心臓を奪われるまでは割と会っていたし、心臓をなくしてからも会わないということもなかった。
「ええと………まずは、首無し馬から助けてくれて有難う。それから、僕は王からこの子を奪おうとは思っていないから、何かがあったら僕も頼ってくれると嬉しい。この前の咎竜といい、この子は安全な筈のところから滑り落ちて思わぬ冒険をしてしまいそうだから」
時間制限がこない内にと一気に伝えれば、シルハーンは薄く微笑んだ。
「こんな所まで入りこんでおいてかい?」
「それは、レーヌのことが心配だったんだ。既に死んでいると知らなかったんだよ。まぁ、だからと言ってもう出て行けるわけじゃないけれど………」
(………シルハーン?)
ふと、彼が少し疲れているような気がした。
けれどもそれは一瞬のことで、シルハーンはすぐに真意の読めない曖昧な表情になってしまう。
「シル、……何かあったかい?」
つい、心臓があった頃の呼びかけになる。
彼がこうして疲弊している気配を見たのは、生まれて初めてだった。
「出て行くつもりもないのに、欲はないと言うんだね」
彼は答えなかった。
そして否定もしなかったので、この件は少し考える必要がありそうだ。
「……ネアとあなたが添うことに対してはね。僕よりも王が伴侶であった方がこの子は安全だし、あなたと一緒にいるこの子を見ているととても幸せそうだから」
「……………安全、か」
その囁きは辛うじて聞き取れる程。
なので、聞かなかったことにして言葉を続ける。
「こういう幸せの形は、僕では与えてあげることが出来ないものだ。でも前述した通り、この子は危なっかしいからね」
「そうだね。ネアはいつも、生きる事だけは譲ろうとしない」
「そうかな。君の為には頑張って生きてくれると思うよ。……何ていうか、見捨てて死なない感じ?」
「どうだろう」
「……本当に何かあったの?………ああ、言いたくないなら深入りしないけどね。取り敢えず僕は、いざという時の為にご近所で隙間に詰まっているよ。リーエンベルクにはヒルドもいるし」
そこでなぜか、万象の王は眉を顰めてひどく困惑の表情を浮かべた。
「……………ヒルド?」
「うん。仲良しだよ。………多分。この前はお風呂に入れてくれたし、僕が酔いつぶれてたらベッドに運んでくれてた。優しい妖精だと思う」
「………………それなら構わないけれど」
(……………ネアを奪おうとしているわけではないって、わからないんだろうか)
勿論ノアとて魔物だ。
隙があれば欲は感じるが、それでネアが不幸せなら意味はない。
ただ、死なせてしまうのだけは耐えられないので、万が一にも王が階位落ちでもしたら遠慮なく奪うだろう。
ネアがこちらに歩み寄る素振りを見せても同じこと。
しかし、そんなことがある筈もなかった。
なぜか困ったような顔で目を逸らされたまま、シルハーンはぞんざいにこちらの提案を受け入れてくれた。
ただ、困惑混じりなのでどうにも解せない。
「…………ええと、シルハーン?」
「よくネアが誤解していたけれど、本当にそういう嗜好の者を見るとは思わなかった」
「何のことだろう。妙に嫌な予感がするんだけど、き、気のせいかな?」
「さっさと狐にお戻り。私は、君とその手の話題に興じるつもりはないから」
「もう一度言うけど、僕はこっちが本体だからね!」
ネアが魔物に頬を摘ままれて目を醒ますと、隣りの塊はふかふかの銀狐になっていた。
すっかり目が覚めているようなので、ディノに苛められなかっただろうかと思って視線を向けると、枕になっていた魔物は艶麗に微笑む。
「大丈夫、和解したよ。永遠に理解は出来ないだろうけれどね」
「ちょっとよく分りませんが、何はともあれ良かったです」
「さて、狐も落ち着いたようだし帰ろうか」
「わかりました。そして、ご主人様の頬を無様に摘まんだ行いは、必ず後悔させます」
「ご主人様…………」
どのような和解があったのかは不明だったが、その日からディノは銀狐への弾圧を緩めるようになった。
それが狐本人にもわかってきたようで、今迄にも増してネアに甘えるようになっている。
時折ディノにもボールで遊んで貰い、ボールを持って帰ってきてから我に返るのか、全身の毛を逆立ててけばけばになって首を傾げている。
とは言え、さすがに一日中抱っこされたまま寝ていた狐が寝惚けてネアの部屋に入り込み、浴室にまで入ってきた時には、冷え冷えとした微笑みのディノに強制入浴の刑に処されていた。
浴槽に放り込まれて起きた狐を救助に行ってわかったのだが、どうやら狐は泳げるらしい。
まだ水泳教室中のディノがそれを見て萎れたので、ネアはその日一日、浴槽の掃除と魔物のケアで大忙しだった。
ネアが渋い顔で浴槽に浮いた狐の毛を掃除しているのを見て、狐も不貞腐れて洗濯籠に引き篭もったので二度と御免だ。
その後、不思議になって和解したきっかけをディノに尋ねてみたところ、ノアベルトはヒルドが好きだからと言われてしまい、愕然としたネアは、以降その話題に触れないようにしている。
ノアであれば経験豊富そうなので、ヒルドの特殊な趣味にも付き合えるのかもしれない。
何だか複雑な気持ちだが、新しい恋が出来たのはとても良いことだ。