妖精と魔物
ある夜、その部屋に届け物に行った。
数日前にヒルド宛に届いた希少な酒への返礼品だ。
あえて夜に訪れたのは興味本位だ。
昼間はその部屋が空なことも多く、このような雪深い日の夜には部屋に灯りがともる。
今夜はネアとディノが歌劇を観に外出しているので、きっと寛いでいることだろう。
ディノがここを完全に内側から開かなくする際に、ヒルドは外側からは特定の者のみ入れるように調整して貰った。
リーエンベルクに滞在するのであれば、やはり交流を持てる方が何かと便利である。
そして今夜、初めて扉をノックした。
応えを待たずに扉を開ける。
「ありゃ」
そう言ってこちらを見たのは、ぞくりとするような美貌の男だった。
一瞬の概視感に、ネアがいない時のディノに少し似ているのだと考える。
(白の多色持ちか………!)
白い髪には灰色や水色などの色が散らばり、後ろで無造作に束ねている。
白いシャツは襟元を緩め、部屋の中で長椅子に寝そべって寛いでいたらしい。
「おや、これは失礼しました」
わざとらしくそう一礼すれば、彼は少し笑って片手を振った。
「いいよ、折角だし一緒に飲まない?いつかこんな風に部屋に来るかなぁって思ってたし」
青紫の瞳がえも言われぬ程に鮮やかだったが、喋り出すと途端に怜悧な美貌の纏う雰囲気が緩む。
思っていたよりも遥かに高位の魔物だったようだが、案外気さくであるらしい。
返礼の葡萄酒を渡し、無邪気に喜ぶ魔物を見ていると警戒する気もなくなってしまう。
「一人で飲んでおられたのですか?」
「そう。酒はかなり強いんだけど、沢山飲むと酒癖悪いらしくて。今日は飲みたい気分だからね」
「……では失礼して、ご一緒させていただきましょう」
「好きに座って。別に酔っても暴れないから大丈夫だよ」
「場合によっては離れて座りますが?」
「脱ぐだけだから、男には無害だよ」
「………正面はご遠慮しましょう」
多色性の白持ちなど、王族相当だと聞いている。
そんな魔物が酔って脱ぐとなると複雑な気持ちになったが、そもそもそんな魔物が普通の狐として暮らしているくらいなのだ。
相当な変わり者なのだろう。
「ヒルド、この前はゼベルから助けてくれて助かったよ。本気で固形飼料を食べさせられるかと思って絶望した」
斜め向かいの椅子に座れば、既にだらしなく長椅子に伸びていた魔物はへにゃりと笑う。
ノックに咄嗟に反応出来なかったのは、この姿勢が原因だろう。
「食べ物は最悪どうにかなりますよ。それよりも、蜂や蛇に注意して下さい」
「王宮の庭があんなに危険だなんて、誰が思っただろう。蜂に刺されたの初めてだ」
「余所見をしたまま尻尾を振り回しているからでしょう」
「ネアが、窓から手を振ってくれたんだ。獣の尻尾って不思議だよね。まさか自制が効かないとは思わなかった」
「自制が効かないのですか………」
それから少し、お互いの事を話した。
特定の情報と言うよりは、知り合うに足りる程度のささやかで分かりやすいものだ。
印象としては掴み所がないように感じるが、それは口調からくるもので、会話の内容は案外無防備だ。
「ヒルドはシーならさ、レーヌを知ってるかい?」
「ええ。あまり良い関係とは言い難いですが」
「あの子と仲良くやれる奴なんて御免だけどね。レーヌは死んだのかな?ここを標的にしたって聞いて警戒してたんだけど、どこにも居ないんだよね」
一拍考えてから頷いた。
ここまで入り込む事を許しておいて、敵であったとしたらとうに弱味など握られている。
しかし、こちらの仕草を見た男は、脱力したように長椅子に潰れた。
「良かった!シルハーンの様子を見ていて解決済みなのかなとは思ったけどね。ただ、油断して損なうのは嫌だからね」
「あなたが探しても、消滅の痕跡が見付からなかったのですね」
「だから、手を下したのはシルハーンかなと思ったけど、そう考えても今度は、レーヌのことだし呪いでも残してないかって探したりしてね」
「それで、あの見回りを?」
「そう。ネアには徘徊って言われてる。あの子、どうして心を抉る言葉選びが秀逸なんだろう」
そう笑う眼差しに愛情が滲み、その穏やかさにふと首を傾げた。
「あなたの関わり方は不思議ですね。あれだけの執着を向けるくせに、あなた自身はその手でネア様に触れようとはしない」
からりと氷の鳴ったグラスを傾けて、魔物は小さく笑った。
自嘲気味な苦い微笑みであったが、どこか晴れ晴れともしている。
「僕はさ、あの子と出逢ってあの子に恋をしたんだけれど、その後に色々あってね。随分と人間には酷い事をしたもんだよ」
「だからですか?」
「うーん、それも影響はしてると思うよ。でも、その頃があんまり幸せじゃなかったからね。今はこうしてストーブの火にも当たれるし、暖かいお風呂も入れるようになったし、ネアは時々頭を撫でてくれるし、結構幸せなんだよね」
「そう言えば、ゼノーシュが最初はストーブの火を怖がったと話していましたね」
また少し笑って手を振ったが、今度の笑い声には一度ひび割れた跡ともいえる暗さが宿る。
ああこれは見慣れた絶望の翳りだなと思えば、また少し親近感が湧いた。
「昔、統一戦争の時に嫌な思いをしたからね。火は大嫌いだったんだ。それを連想させるほとんどのものが駄目で、酷い思いをしたよ。でもね、ネアに荒療治されたら大丈夫になってきた。何だろうあれ、魔法かな」
「だから狐のままで?」
「あの子案外容赦ないからさ、こっちの姿で出て行ったら普通に外に放り出されると思う。それに僕、女の子と付き合っても半年以上保たないんだよね」
「………それはあまり褒められた話ではありませんね」
「昔、ネアにも言われた。だから今はあの子の事が大好きで何だか幸せだし、また冷めたりしない程度のこのくらいの距離感でずっといたいよ」
「おや、それはまずネア様があなたを選ぶことが前提ですね」
「はは、確かにそうだ!でも、今のネアは僕のこと選ばないんじゃないかな。ディノと知り合う前のあの子なら、僕を選ぶって自信があったけど」
あまりにも自然にそう言うので、不快感というよりは不思議に思った。
「確信があるように言いますね」
「そりゃ、自信があるからね。何て言うか、あの子と僕はちょっと似てるんだよ。一人上手でも、死にたいような気分でも、社交的に穏やかに笑っていられるところとか、内側が結構面倒臭いところとかね」
「面倒臭いところですか……」
「他人が好きだけど他人が嫌いなところかな。そこそこ寂しいけれど、あまり愛情の間口が広くないし、実は結構器用でもない。でも、何とか遣り繰りしていくのは器用なところ」
するすると並べられる言葉は、確かにネアの要素も含んではいた。
しかし、同意しかねるような部分もある。
「愛情の間口は広いと思っていましたが」
「そう?ヒルドがそう思うなら、今が恵まれてるからだね。たまたま上手く添える相手が多かったんだと思うよ。ここ、むやみにまっさらで眩しいだけ!みたいな奴がいなくて、僕もとても居心地がいい」
「………確かに、私も含め、厄介な者達ばかりでしょうね」
まだ不明瞭なままそう答えれば、彼は鮮やかな瞳をきらりと光らせて微笑みを深めた。
「あの子がもし、何の苦労も知らずに育ったお嬢さんでさ、耳慣れた優しい言葉しか言わなくて、お利口に大人しくて、そんな女の子だったら君は庇護を与えたかい?」
「さて、そのような彼女と会ってみないとわかりませんが、与えなかったでしょうね」
「僕が例に出したような女の子だって、とても魅力的だよ。それでも?」
「ええ。私の気性には添わない気がします」
「そんなヒルドだから、ネアも安心して甘えられるんじゃないかな」
「……だといいのですが」
そこで魔物は少しだけ神妙な顔をした。
「この前みたいなことはね、多分これからも揺り戻しがあるかも知れないけど」
「あなたに似ているからですか?」
「そう。他人が好きだけど好きじゃないから。だから、そちら側に転がらないように見ていてあげるといいよ。僕が転がった時はこれでも結構厄介だったしさ」
少し考え込んでいると、嗜好なのだと言われた。
それは感覚でもなく感情でもなく、魂の嗜好のようなものなのだと。
「だから君達は、あの子に惹かれるんだよ。穏やかさの向こう側に、どこか破滅的なものがあるから。自分を見捨てて勝手に死なれてしまいそうでハラハラして、心が動く」
「それもあなたに似ていると?」
「どうだろう。ここは微妙なところだね。……ただ、そんな子だから、シルハーンがあんなんで良かったかなって」
「その点については同意しますね」
「だよねぇ。もし僕が相手なら僕は幸せだけど、最終的にはどちらも死ぬような気がするし」
とんでもないことをけろりと言うので、驚いてまじまじと見てしまった。
「僕の確信していた、僕達の相性の良さはそちら向きだよ。しっかり理解し過ぎてしまうからこそ、多分そうなるしかなくなる。君の場合はどうだろうね。人の恋路には口出さない主義だけど」
言葉をなくしたこちらを見て、魔物は少しだけ吹っ切れたように笑った。
「だからね、僕は今回の件は良かったと思う」
「良かったのでしょうか?」
「うん。あんな風に苦しんで、厄介なものだけど、失くなっては困ると思って良かったんだよ。ただ、咎竜はちょっと困ったけどね」
「しかし今回は、その後の行動はいけませんが、ネア様の胸中を思えばご不憫です」
ところが、魔物はうーんと唸ってグラスを傾けている。
「そうかなぁ、僕はネアの方が酷いような気がしなくもない」
「……ネア様が?」
「だってさ、あの子は自分が要らないものは、ぽいっと捨てるでしょ?そんな子が、甘い言葉は言ってくれるけど安心はさせてくれないんだ。僕、婚約もしてないし恋人でもないって言われてシルハーンが泣くの見てたけど、あれ酷かったよ。僕だったら辛くて暫く会えないな」
そう言われてわかるような気もしたが、手の中のグラスを傾けてまた少し思案する。
「ですが、その問題の後なのですよね?」
「その後だから余計にね。説明不足のシルハーンもそうだけど、あの子だってその要請に理由も聞かずにすんなり頷いたんだろう?そもそも、持ちかけられた婚約も、ネアからのお願いじゃなくて、あくまでもあなたがそうして欲しいならって言い方だ。僕ならそこで泣くね。その後も何事もなかったようにするネアは、やっぱりちょっと駄目だよね。場合によっては本気で終わるやつだから」
「あなたは、彼女に甘いのか厳しいのか、複雑なひとですね」
そう言われて魔物は可笑しそうに口元を歪めた。
どこか寂しげでもあるが、己の形を理解した者らしい穏やかな目だ。
ずっと昔、こんな目をした小さな王子に心を救われたことがある。
あの子供は今でも、自分がここまで深く誰かを救ったとは知らないままだろう。
命や尊厳だけではなく、もう少し曖昧だが故に得難いものがあるのだとは。
なぜだか、そんなことを思い出した。
「まあね、僕は面倒臭いよ」
「彼女が一人でいる間、ご自身のこの姿で会おうとは思わなかったのですか?」
「考えてみたけど、変な欲を出すと二度と会ってくれなさそうだったし、シルハーンも何度かリーエンベルクの警備で見かけたから、あの子を見捨てたって訳じゃないんだろうなって思ったからね」
それは意外だった。
「ディノ様は、このお近くに居たんですね」
「そう。夜通しやってた日もあるし、随分丁寧に場を整えてたよ。だから僕は、痴話喧嘩かなぁと思ってた」
「痴話喧嘩………」
「でも、ないと困るくらいのものがある方が誰だって幸せだからね。それが今のシルハーンくらいに訳がわからないと、あの子も深淵に近付く余裕もなく毎日てんやわんやで楽しいだろうな」
(ああ、この言い方ならわかる……)
わかってしまうことが、寂しくもある。
だが、元よりそれでも幸福だから差し伸べた手であった。
「わかるような気がしました。恐らく、それが私であれば、彼女は考え込む余裕があり、その深淵を覗くでしょう」
「うん。僕だと二人でそこを覗き込みっ放しだ」
「であればあなたも、いつかその他の何かを以って、深淵を覗き込まないようになるのかもしれませんね」
「そうだといいなぁ。でも、シルハーンのあれは時々わざとかなとは思う。今回のことも、少しタイミングが妙だったし何かあったのかもな。あれでも、魔物の王だからさ。ネアに見せているあの姿が本当の彼だとしても、今までの彼が無くなる訳でもないからね」
外はまた雪が降り始めていた。
ふとグラスを見ると、いつの間にかまた空けていたようだ。
今夜はペースが早いなと思い、薄く苦笑する。
そんなヒルドを見て、また寝そべってしまった魔物がだらしなく伸びをした。
「ここは居心地がいいよ。真っ暗闇じゃない薄闇で、暖かい家の光がある感じなんだ。僕も、多分ネアも、晴れやかな青空の下って柄じゃないからね。元々働くのも好きじゃないし、何だかもうずっと狐でいいかなって時々思う………」
あんまりな欲求に、これはまさか怠惰を司る魔物なのではないかと思った。
「司るものがあるなら、きちんと働くべきですね」
「ヒルドは真面目だなぁ」
「己の領分を納めるからこそ、得られるものも多いのでは?」
「そう言われるとまぁ、確かにそうだね。僕の司るものは需要が多いから、これでも人気者なんだ」
それを倦んだ目で言うのだから、本人が言うくらいには込み入った男なのだろう。
需要が多いということを誇るくせに、それはある程度の分量において、彼にとって幸福なことではなかったようだ。
「しかし、暫くは休まれてもいいのでは?ネア様が、夜に寝ているのかどうか心配しておりましたよ」
ふっと小さく微笑みを深めて、魔物はごろりと姿勢を変え手の中のグラスを回す。
「百年くらいあまり寝てなかったからね。……不思議だと思わないかい、ヒルド。これでも僕は高位の気まぐれで我が儘な魔物だし、僕を持て囃す者達は今も昔も幾らでもいる。だけど、ここに来てふと思ったんだ。僕に望む者は沢山いたけれど、僕を庇護しようとする者は誰もいなかったなってね」
その告白を聞きながら、魔物の王を従順な犬のように躾けているネアのことを思い出す。
あれだけ厄介な高位の生き物が、幸福そうにその言葉に頷いているのは、この目の前の男と同じ種類の喜びなのかも知れない。
「あの、……グラストだったかな、騎士も僕の頭を撫でてくれたよ。ゼノーシュに睨まれたけどね。それに君も、尻尾や蜂の刺し傷を治してくれたし、こんな風に晩酌に付き合ってくれる」
既にかなり酔っているのか、魔物はほろりほろりと思いの丈を零していった。
幸い、まだ脱ぎ出す様子はないのでほっとした。
「前はね、一人で眠るのが大嫌いでその為に女の子達と夜通し騒いでいたんだ。知り合いは山程いるけど、実際にはあまりよく知らない連中だし、そうやって馬鹿やってるような刹那的な友人ばかりだったな」
何となくこの魔物の生き方が透けて見えてきて、ヒルドは小さく溜め息を吐いた。
それは疲労もするだろう。
目の前の男は、そのような生活に向いているようにはあまり見えない。
「でもこの部屋にいると、誰かが隣に寝てなくてもぐっすり眠れるんだよね。同じ屋根の下にネアもいるし、シルハーンやゼノーシュも結構好きだし、免罪符もあるからね」
「ディノ様のことも?」
「昔のままの彼がネアの契約の魔物なら考えたけど、今の彼はネアを溺愛してるし、何よりも、彼の指輪を持っている限りネアが死なないからそれだけで僕は充分だ。今日は馬の亡霊から助けてくれたし!………だいたいさ、水泳を習う王だなんて考えもつかなかったよ」
そこにあるのは一概に恋をするだけの複雑さでもなく、もう少し奥行きのある柔らかな執着が窺えた。
(で、あるのならば……)
「本来あなたが欲していたのは、恋人や享楽的な快楽ではなく、家族のようなものだったのかも知れませんね」
あの免罪符を大切にしているのは、それが一種の鍵だからなのだ。
そう腑に落ちて、あの喜びように納得した。
これだけ世慣れた魔物がどうしてと思ったが、あの免罪符は彼にとってこのリーエンベルクの一員であるという証明なのだ。
恐らくそこまでは本人でも気付いていないだろうが、そんな気がした。
「………ヒルド、友達になってよ」
こちらの言葉に一瞬目を瞬いてから、魔物はむくりと体を起こした。
そして、唐突にそんな提案をする。
「友人、でしょうか」
「僕さ、同性の友達って少ないんだよね。仲良くしてるつもりでもいつの間にか疎遠になってるし、ここ暫くは滅多にこの姿にも戻らなかったからなぁ」
「別に構いませんが、私もあまり付き合いがいい方ではありませんよ」
「ゼベルから守ってくれるだけで、充分付き合いがいいと思うけどね」
「それくらいで良ければ」
「うんうん、それで充分。やぁ、今日はいい夜だな。もっと飲もう!」
満足気な顔で酒を注ぎ足している魔物に、まだ名前を聞いていなかったことを思い出した。
「では、友人の名前くらい聞いておきましょうか」
「ありゃ、まだ言ってなかったかな。ノアベルトだよ。ただ、この名前は色々と弊害もあるから普段はネイって呼んでくれるかい?」
その名前には聞き覚えがあったので、眉を顰めれば、気付いたのか魔物らしい老獪な微笑みを深める。
「確か、第四王子の周囲にそのような名前の魔術師がいるという情報がありましたが」
「うん、そりゃあの王宮にいたヒルドは知ってるよね。それは僕だ。統一戦争でウィームを焼いたヴェルリアの王族を時々煩わせるのに、ジュリアンは何かと使い勝手が良かったよ」
「となりますと、少し身元が危ういのですかね?」
「いや、安心していいよ。もうヴェンツェルとは話をしたし、今回のカルウィとの件を流したのも僕だ。ネアが生きているとわかったから、もうヴェルリアの王族に嫌がらせをする必要もないしね」
「ネア様が……?」
「あ、そうか。その説明もしなきゃなのかな。でもまた今度にしよう。あれは僕にとっても特別な思い出だし、続くヴェルリアとの禍根はあまり良い思い出ではないから、酒が不味くなる」
「私としては、こちらに不利益がなければ構いませんが」
その特別な思い出とやらが、ネアが記憶を失っていた間にダリルの迷路から迷い込んだ、彼女曰く人生最悪の一日のことなのだろう。
さすがに不憫なので、その通り名は口にするまいと思った。
(何度も生死について触れるが、ウィームの歌乞いとはまさか………)
時間軸の交差の例は少ない。
しかし書架より生まれ出たダリルは、その属性を持っていることを知っていた。
あの迷路にその手の悪辣な特性が添付されていたとしても、少しも不思議ではない。
「ただ、火竜だけはまだ好まないな。ここに来ることがあったら、事前に教えてくれると嬉しいね。ウィームで見たら、殺してしまうかもしれないから」
どこか寛いだ眼差しを魔物らしく酷薄にして、ノアベルト、古くより知られた塩の魔物はそう付け加える。
(統一戦争で命を落とした、旧ウィームの歌乞いに恋をした魔物)
その魔物の怒りを買い、ヴェルリアの者はウィーム以外の土地から塩を得られないという呪いがかけられているのは有名な話だ。
であれば、彼がさかんに言葉にするネアの生死に纏わるヴェルリアとの確執とくれば、まず間違いなくその時のことだろう。
(しかし、そうなると火竜か………)
少し迷ったが、これについては念の為に真実を告げておくことにした。
「誰にとて不得手なものはおりますからそれは構いませんが、ネア様は火竜がお好きなようですよ」
「…………え、そうなの?」
「こちらに訪れる可能性がある唯一の火竜は、ヴェンツェル様の契約の竜であるドリー様だけですが、いたくお気に入りで飼い主がいなければ引き取りたかったそうです」
「………それだけで余計に嫌いになりそうなんだけど。ネアが飼うのは僕だけでいいよ」
「完全に狐目線の感想で、友人としては心配になりますね」
そう言うと、なぜか本人もぎくりとした。
その眼差しを見て、少し不安になる。
時折こうして晩酌に付き合ってでもやらないと、この魔物は本気でただの愛玩狐になってしまうかも知れないと思ったのだ。
「そう言えば最近、ネア様から犬用の玩具を貰ってましたね」
「うわ、やめて。今僕もそのことを考えてた………」
「たいへん喜んでおられたようで、尻尾が振られていましたよ」
「………まずいな。暫く狐になるのやめようかな」
しかし翌日も、ノアベルトは諦観の目でネアが転がす犬用の玩具で遊んでいた。
甘い声で構って貰える喜びに負けたようだが、ボールを追いかける塩の魔物を見ながら、なんとも言えない気分になった。
暫くすると、グラストが投げたボールでも遊ぶようになっていたので事態は深刻だ。