狐の取説とリボン戦争
「ネア、また狐に会いに行くのかい?」
立ち上がると、拗ねた魔物にそう尋ねられた。
「いえ。何となくですが、日中はあのお部屋にはいない気がします。今立ち上がったのは、お外の雪の具合を見る為ですよ」
「庭に狐はいないよ?」
「あらあら、疑心暗鬼ですね。一緒にお庭を見てくれますか?」
「ご主人様!」
魔物に拘束されつつ外を覗けば、今日の雪はだいぶ積もるようだった。
またジゼルあたりが、幸せで暴走しているのかも知れない。
「………ネア、君は、あれがただの狐だと思っているのかい?」
ふと、神妙な声で問われて、ネアは体を捻って魔物を見上げる。
「こちらの敷地にいるときは、ただの狐さんだと思っています。昨日も蜂の魔物さんに刺されて、泣きながらヒルドさんに手当してもらっていましたしね」
そう答えると、ディノは不思議そうな顔をした。
「では、あれが狐だけでもないとわかってはいるんだね?」
「ディノ、……この前、ディノに契約破棄されるかと思っていたとき、私はディノがいなくなっても、このリーエンベルクで暮らせたらいいなと思いました」
「まだ怖くなるのかい?」
頬を指の背で撫でられ擽ったい甘さに目を細める。
もう怖くはないけれど、ディノがいなかった時期のことを思い出して胸が痛くなる瞬間はある。
「その時の気持ちから、あの狐さんの気持ちがわかるような気がするのです」
「………あの狐の?」
「ええ。もし、かつて大切な人が住んでいたところで余生を過ごせるのだとしたら、それは幸福の一つなのかもしれません。あの狐さんにとって、ここは思い出の地なのですよ」
「思い出の地………?」
「あんな風に毎晩森にいたのも、きっと懐かしいからなのでしょう。そう考えると、私を慰めてくれたあの優しい狐さんには、心穏やかに過ごして欲しいのです」
「それが理由なのかな……」
窓の外の雪は一見穏やかに見えるがかなり大きな雪片である。
ふくふくとした雪に飛び込んでみたくなるが、氷室事件を思い出してその衝動も消えた。
「以前はもっとしょうもない方かと思っていましたが、ディノとのことを諦めないようにとリズモを持ってきてくれたり、仲直りしたと言ったら喜んでくれたり、優しい方になりましたね。きっと、………狐さんが大切にしていた方は、とても素敵な方だったのでしょう」
「…………どうだろう」
「自分が亡くしたものがあるからこそ、拙い私達の手助けをしてくれたり、応援してくれるのだと思います。すっかり大人になってしまいましたね」
「…………何だろう。少しあれが不憫になってきたな」
ディノも同意してくれたので、ネアは頷いて微笑んだ。
そんな大切な人との別れを経た上でここに戻れたということは、心の傷と折り合えた証拠だ。
ヒルドとも仲良くしているようだし、私生活の部分は何をしているかわからないが、銀狐としてここでのんびりしたいときは、それを見守ってやりたいと思う。
「でも、どこで気付いたんだい?」
「餅妖精を剥がしていた日に、目を見て気付きました。よく見たらそっくりでしたし」
「そっくり………」
「はい」
「最初の日から?」
「はい。ディノもやはり最初から気付いてしまったんですか?」
「いや、私が気付いたのはカルウィあたりだし、ウィリアムやアルテアは気付いていないと思うよ。あれは、変化を特性に持つ魔物だからね」
魔物は驚いていたが、元々ディノは他の魔物にあまり興味がないので気付かなかったのかもしれない。
「それでも膝に乗せていたのかい?」
「ただの狐さんになってまで、ここに居たかったのでしょう。であれば、ただの狐さんとして生きさせてあげるのが優しさです」
「ただの狐だと思って接しているということなのかな」
「はい。なので、狐でなければさしたる親近感はありません。私はあくまで、ここで出会った狐さんのお友達なのですから」
首を傾げて複雑そうな顔をしたまま、ディノはふわりとネアを持ち上げて、そのまま長椅子に持ってゆく。
勝手に椅子になられながら座ると、頬に口付けられた。
最近のディノは、このような形で親愛の情を示すことが多くなった。
本人曰く、ネアが誤解して扉を閉めないように毎日意思表示しているのだそうだ。
あまり本人にはわからなかった減った問題も、無事に元通りになったらしく安堵していた。
魔物にこうされる度、ネアはネアで反省していた。
やはりこの魔物よりは大人である自分がしっかりと確認するべきだったし、ヒルド達にも叱らせてしまった。
あの赤い満月の夜と、カルウィを訪れた日の心の静謐さを思う。
誰かを思い共にあることは時折、ネアのような我が儘な人間の限界値を超える。
ささやかな怖さを感じた思いがけない瞬間に、問題ごとぽいっと捨てて逃げ出したくなるのだ。
誰かと在るということの重さより、何もないままの方が多分心は清廉で静謐だ。
(もし、………あの時の私が一人で問題を抱え込もうとしたのが、)
一人の方が楽だからという救いのない理由だとしたらと考えたら。
ここは、ネア一人の力で見ている世界ではなくて、ディノだから入れられるスイッチがあって、それが動くことでようやく見せて貰えている色とりどりの世界なのかもしれない。
だからこの指輪が命綱のように感じるのならば、これがあればもう少し頑張れるだろうか。
自分が大事なだけでは多分、早々に諦めてしまう方が楽なのだ。
少ししんみりとしたのがわかったのか、ぽいっと三つ編みを投げ込まれた。
「む………」
ご褒美関連は遺憾なのだが、なぜかこうされると心が緩む。
もしここで差し伸べられたのが、お行儀のいい誰かの手であれば、今のネアは、にっこり微笑んでその手を振り払ったかも知れなかった。
「ご主人様、考え事かい?」
「なぜでしょう。私がどんなにとげとげしていても、ディノだけはすり抜けてきます」
「ご主人様………」
「このやり口は、ディノにしか出来ないのかもしれません。ディノは不思議ですね」
「……ネア、両手で三つ編みをしっかり握って言うの、狡い………」
そう恥じらわれて、ネアは自分が魔物の三つ編みを全力で握っていることに気付いた。
このままでは向こう側の世界に転落するかもしれないので、さっと手を離す。
愛情のあるなしと、それとこれは別である。
「………なので、ディノはどうやら特別枠です。他の方には真似出来ないので、狐さんとも喧嘩しないで下さいね」
「友達だからかい?あれが、君を慕っているとは考えないんだね」
「と言うか、私のことは覚えていないか、覚えていたとしてもあえて名乗りはしないという気分なのかなと思います」
「あれ、そういう認識なんだね……」
「あまり鮮明な記憶を持たれていたら、抹殺しなければなりませんでしたので、ほっとしました!」
「ネア………」
あの頃のノアであれば、飄々とネアに声をかけてきただろう。
それをしなかった彼にとって、過去は過去であり、その間に辛い記憶を挟むのであれば、そのまま蓋を開けたくない一括の過去なのかもしれない。
まだ亡き人を思って思い出の地に拘るという感情までは理解しきれないのか、ディノはとても困惑していたが、ひとまず納得してくれたようだ。
「本当に、それだけの何があったんだろう」
「秘密です!」
「悪いご主人様だね。秘密なんてなくしてしまえばいいとは思わないのかい?」
その言葉に喉が鳴りそうになった。
その通りだ。
この魔物が手放したくないたった一つのものだと認めたくせに、ネアの抱える秘密は狡い。
(ごめんなさい、ディノ)
どこにも行かないと約束したのに、よく確かめもせずに約束を破ってしまった。
ちゃんと戻ってこれなくて、ごめんなさい。
そう言ってあげたいけれど、もう、それは出来ない。
まるでそれを見透かされたような気がして、ひやりとした。
その話し合いがあってから、ディノは銀狐を見かけてもこっそり踏もうとしなくなった。
それどころか過去の心の傷を思い不憫になったようで、時折ゼベルから助けてやっていたり、馬の亡霊に蹴られたところを首筋を掴んで回収してやったりしている。
そのような時、銀狐は全身をけばだたせて必死に首を傾げており、その愛くるしさにネアは悶絶した。
ディノが小さな生き物を大切に出来るようになってきたのは、とても良いことだ。
こうして心の幅を伸ばしてゆき、より一層の深みのある心優しい魔物になって欲しい。
「ネア、これは何だろう?」
しかし、魔物が唯一荒ぶることがある。
「私のリボンですが、買ったもののあまり色が合わなかったので狐さんに下賜しました」
銀狐が首から下げている免罪符を吊るしたリボンがある。
実質、持ち物はそれだけなので不憫になり、何度か自分の手持ちからリボンを与えて気分で色を選べるようにした。
その結果、ご主人様からのお下がりを貰ったことのない魔物が荒れ狂うのである。
銀狐的にも、そのリボンに触れられるのは許せないらしく、触れられると怒り狂って反撃する。
「困ったご主人様だね、私以外にリボンを与えては駄目だよ。必要なものがあるなら、買ってきてあげるからこれは取り戻そう」
「ディノ、………お願いですから、狐さんとそこで戦わないで下さい」
「ネアが一度は髪に結んだリボンだろう?」
「何でしょう。その表現がとても怖いです………」
「ほら、新品の方が狐も嬉しいと思うよ」
「狐さんは色違いが楽しめれば何でもいいと思います」
「狐は首を振っているようだけど?」
「………一体、私は何の戦争に巻き込まれているのだ」
頭を抱えたネアに、同レベルで戦っている魔物と銀狐が見える。
首筋を掴まれている以上銀狐が不利なのだが、免罪符のリボンを取られそうになると、肉球でディノの手をパンチして応戦していた。
「とても残念です。今日は午後からクッキーでも焼いて、お二人に食べて貰おうと思ってたのですが、仲良く出来ないのなら止めましょう」
耐えかねたネアが腰に両手をあててそう宣言するまで不毛な争いは続き、翌日から、銀狐はリボンの周りに排他魔術をかけてきて澄ました顔をしていた。