蛇の妖精と薔薇色の雪菓子
携帯の転移門は、小さな硝子玉のような形状だ。
小指の先程のそれを握り込み、行き先をイメージする。
短距離用から長距離用まで値段が違い、本日ネアが使用したのは、支給品ではなく自分で買い揃えた魔術がなくても扱える中距離のものになる。
個人購入するネアの場合は魔物の薬一本分の値段に相当し、決して安価なものではない。
ほぼ、自棄転移であるので、後でこの分の損失は買い直して補填しておかなければいけないだろう。
リーエンベルクの外に出てみて、魔物が反応するかどうか知りたいだなんて、淑女らしからぬ愚かな理由だ。
とは言えここまで来てしまったのだから、往復分の転移門を賄えるくらい、雪菓子でも拾ってから帰るとしよう。
そう頷いたのは、雪の降るアルバンの山の中腹でのことだった。
「………しかし、今日は雪菓子が少ない気がする」
少し歩いてみたが、いつもなら雪菓子が出来るような場所にも何もなかった。
ただ、雪菓子が生まれるような月光の欠片は見えるので、ここにあった雪菓子が採取されてしまい、次のものが出来上がる前なのかもしれない。
そうなると競合の気配を感じざるを得ないが、恐れよりも不快感が優ってしまった。
(今夜の月は、何だか不思議な色だわ)
まばらに存在する小さな雑木林の影から、まだ低い位置にある大きな満月を見上げた。
雪菓子を採取しようと思ったのは月が出ていたからだが、ネアの記憶ではまだ満月ではなかったので暦の数え違いをしていたのだろうか。
(あの新月だと思った日が、ただの曇り空だったのかな)
大きな真円の月は赤く、禍々しくさえ見える。
こうっと吹いた風には、どこかふくよかな花の香りがした。
「人間だ」
ふと、そんな囁きを耳にして振り返ったけれど、誰もいない。
空耳だったのだろかと思い視線を戻せば、また同じような囁きが聞こえた。
不意の事故や事件もあるので、ネアは帰り道の転移玉を飴玉のように口に入れている。
念の為に予備をポケットに入れ、いつでも撤退出来る仕様だ。
ざあっと風が鳴った。
やはり周囲には何もおらず、小さく溜め息を吐いてから、山の上の斜面を眺めたネアは、きらりと光ったものに目を瞠った。
(雪菓子!)
見慣れた雪菓子特有の光り方である。
月光が落ちたその先に実るもので、驚く程高価に取り引きされる、ネアの好物だ。
新鮮なものは瑞々しくて美味しいので、まずは一つ目だけその場で食べるのを贅沢としている。
「…………何だろう、いつもと色が違うような」
けれど、本日収穫した雪菓子は、いつものものとは色合いが違った。
上品な薔薇色の結晶のような色彩で、違うものなのだろうかと匂いを嗅いでみたが、甘いシャンパンのような香りは雪菓子のものだ。
(もしかして、月光の色……?)
そこで気付いたのは月の色である。
今宵の満月は赤く大きく、雪原に落ちる月光は見事な薔薇色となる。
少しだけその場で観察もしてみたが、どうやらやはり、月の色で雪菓子の色彩が変わってしまったようだ。
(売り物になるのかしら……)
少しだけ不安になったが、きらきらと薔薇色に煌めく雪菓子はとても綺麗で、商品価値が下がるようには思えなかった。
特に躊躇なく小さな欠片を口の中に放り込むと、ネアはあまりの味の変化に体を震わせた。
「………苺シャンパン!」
ふわりと残る香りは薔薇のお菓子のようなのだが、味わいはまさに上等な苺とシャンパンのそれである。
爽やかな甘みがしっかりと残るので、今までにない美味しさで頬が緩んだ。
大慌てで強欲に採取しきり、ネアはその全てを首飾りの金庫に丁寧にしまった。
現在、金庫の運用期間警戒中ではあるが、この雪菓子ばかりは傷付けないように持って帰りたい。
もう一欠片、少し大きめのものを口に入れつつ、今後の商品の運用を思ってほくそ笑んだ。
「人間だ」
また、囁きを耳にする。
今度の声にはひたりと滲む悪意が伺えて、ネアは慎重に立ち上がると口の中の雪菓子をしゃりしゃりと噛んで飲み込んだ。
もっとゆっくりと味わうつもりだったが、同じように口の中に入れた転移門と混ざってもいけない。
美味しいものはゆっくり楽しみたい性格なので、声の主に対してはしっかりとした不快感を覚えた。
(もう帰った方がいいかもしれない。狩れるくらいのものかもしれないけれど、……)
そんな事を考えていた時だった。
不意に気配が強まり、ネアはぎくりとして振り返る。
「………っ、」
そこには、見たこともない奇妙な生き物が立っていた。
大きな八枚羽は妖精のようだ。
体は子馬ほどの大きな白い蛇だが、首回りには立派な毛皮があり、雄鹿の角が生えている。
羽と瞳は見事な金色で、神々しく見えないこともない。
しかし、その眼差しには確かな悪意が揺らいでいる。
「人間だ」
沢山の子供達がいっせいに嗤うような、不愉快な響き。
「人間だ。醜い人間」
無垢なようで悪意がしたたり、そして透明でもあり嗄れている。
「こんな人間を、誰が愛するだろう?」
「………え、」
「こんな人間は、妖精も愛さない」
「こんな人間は、人間も愛さない」
その生き物は、まるで詩人のようであった。
こちらを見て不可解な言葉を並べてゆき、感情が伺い知れない。
「こんな人間は、精霊も愛さない」
声に満ちるのは魔術なのか、或いは生粋の悪意か。
謎めいた問いかけを発する性質の生き物なのかもしれない。
「こんな人間は、魔物も愛さない」
「…………っ!」
そこで生き物は、にやりと笑った。
眼に浮かぶ愉悦からそれがわかり、ネアは反応してしまった自分の愚かさを悔いる。
「魔物も愛さない哀れな人間」
ざわざわと、積もったばかりの雪が温度のない風に揺れる。
表面の粉雪をまた舞い上げ、風は赤い満月の方へとうねり流れてゆく。
「魔物はお前を愛さない」
「………どなたかわかりませんが、黙りなさい」
「お前はなんて哀れな人間なのだろう」
「おのれ蛇妖精。初対面で失礼だとは思わないのですか」
「何と哀れな人間だろう」
「………徐々に怒りがこみ上げてきました」
「哀れな人間。私の子供を孕ませてやろう」
「………屑でした」
その時ネアはふと、エーダリアとの会話で以前話した闇の系譜の妖精を思い出した。
人間の乙女を攫い、子供を産ませるまでは生かしておいて、子供が生まれると食べてしまうのだ。
この生き物は形が全然違うが、同じような嗜好の生き物に違いない。
「お前のような人間を、魔物は愛さない」
そう囁いて、またその生き物は嗤った。
もしその運用に誤算があるとしたら、目の前の人間の逆鱗に触れ、激怒させてしまったことだろう。
「………わかりました。その命は惜しくないのですね、蛇妖精」
「逃げないように、足を食べよう」
「危害を加える意思とみなします。よって、こちらも加減いたしません!」
「抵抗しないように、腕も食べよう」
「自分にないものを狙うだなんて、器の小さな妖精ですね」」
「お前のような人間を、魔物は…」
「黙り給え!!」
頭に来た人間は、見ず知らずの悪い妖精に飛びかかっていった。
蛇妖精は飛び上ろうとしたのだが、まず初回で投げつけられたのがゼノーシュ特製の身動きを封じる種だ。
絡みつかれてからようやく危険を察知したらしく、鞭のように尻尾を振り回して暴れ始めた。
初撃を躱したネアは、すかさずその尻尾を力いっぱい踏みつける。
雪山に、ものすごい悲鳴が響きわたった。
途中何度か、黒い霧のようなものを吐かれたのだが、シーの耳飾りが素晴らしい効力を発揮し、素敵に無効化してくれている。
雪がどろりと溶けるくらいなのでかなり凶悪な霧なのだろう。
最終的にその妖精は、角を鷲掴みにされて背中に飛び蹴りを受けて地に伏した。
荒い息をつきながら拳で額の汗を拭ったネアは、晴れ晴れとした気持ちで両手を伸ばして勝利の伸びをする。
「勝ちました!不埒で失礼な蛇妖精め!己の愚かさを知りなさい!!」
勝利の雄叫びに風がざわりと揺れ、ふっと視界が揺れたと思えば、山はいつも通りの清涼な夜と雪に包まれている。
「…………おや」
驚いたネアが周囲を見回せば、空の月はまだ細く、あの赤い満月はどこにもなかった。
慌てて金庫の中を調べてみたが、あの薔薇色の雪菓子もどこにもない。
「…………おのれ」
稀少な商品で大儲けする目算を立てていたネアは、まるで悪鬼のような凍える眼差しになった。
どうやら残されたのは、この倒した蛇の妖精の亡骸だけのようだ。
子馬くらいの大きさがあるが、損失を出さない為にはこれを持って帰って売り捌くしかない。
(確かに、喋らなければ造形は綺麗だけれど!)
心を抉ることばかり言ったこの生き物は、崖から落としてでもやりたいところである。
持って帰ってやることすら不愉快であった。
「………仕方がありません。背に腹は変えられないですし、結構白いので高値になる気がしてきました」
結局その日、ネアは蛇妖精の亡骸を引きずって転移門を使い、部屋に帰った。
折を見てこの妖精はヒルドにでも見てもらうことにして、庭の一角にある蝶の墓の横に転がしておく。
こうしておくと、茂みに隠れて憎い妖精が見えずに済むからだ。
その日、いつもの時間にネアに会いに来た銀狐は、その塊に気付き尻尾をけばだたせて飛び上がった。
まるで幽霊でも見るような目でこちらを見るので、危害を加えられそうになったので倒したことと、折を見てお金に変えるつもりであることを説明してみる。
「とは言え見知らぬ生き物でした。こやつは、ここに置いておいて大丈夫でしょうか?」
尻尾を歯ブラシのようにしたまま、銀狐はがくがくと頷いてくれる。
最近意思疎通が出来てきたので、ネアはこの狐の意見は割と信用していた。
「高く売れるでしょうか………」
また銀狐は力強く頷いてくれる。
「狐さん、こうして戦果を見ると私は残虐なようですが、こやつは私に暴言を吐いた上に、手足を食べて子供を産ませると言ったのです」
あまりにも狐が非難するような目で見るので、ネアはその事実を明かして弁明した。
すると今度は、銀狐はまたしても尻尾をけばだたせ、お亡くなりになった蛇妖精の体を後ろ足でげしげしと蹴りつける。
ちょこちょこと蛇妖精の体の上に駆け上がり、飛んでは跳ねて何度も踏みつけている姿を見ていると、ネアは何だか胸があたたかくなってきた。
結局ディノは戻ってこなかったが、この銀狐の姿を見ていると心が明るくなる。
「狐さん、大好きです」
しかし、そう言った途端、狐は固まって蛇妖精の体の上から転がり落ちてしまう。
あまりにも震えているので、その後暫くはストーブの前で抱いていてやった。