82. 間の悪さに憤りを隠せません(本篇)
よりにもよって、というのが第一印象だった。
望んでいたものがどうやら失われており、それを惜しんでいるところに新しい余分なものを投げ込まれた気分である。
コレジャナイという感じと、よりにもよって魔物の目の前でという不快感がごちゃ混ぜになり、更に言えば心を閉め切っているところなのでそんな目をされても何とも思わない。
と言うのも、どうやらネアが暴力的なまでに増やしてしまったリズモの良縁の祝福に、水竜の王が当てられてしまったようなのだ。
何だかこんなことが前にもあったと思ったが、ジゼルの時はまだまともだった。
やはり、二十九個もあるとこうなってしまうのだろうか。
「あなたが、わたしに会いたいと術師に頼んだのですか?」
淡々とした問いかけだが、必死に目を逸らしながら言うものではない。
現に、微笑んで一礼しても、ネアの眼差しはとても冷ややかだ。
同じようにこちらを見ている魔術師と目が合ったが、無言で首を振られた。
やはり、隣にいる魔物は何も言わない。
「初めまして、水竜の王様。ええ、お仕事でこの方に仲介を頼みました。お話し出来れば嬉しいです」
「……なぜ、わたしに会いたいと?」
「お仕事なのです。水竜の王様と、カルウィの王子様が悪さをしているという情報を確かめに来たのですが、そうなのでしょうか?」
すっぱり要件を直球で投げつけたネアに、王座に近い場所に集っていた竜達が、ざわりと気配を鋭くする。
中には分かりやすく爪を鋭く変化させている竜もいたが、それ以外の者達は来訪者と王のやり取りを困惑したように見ていた。
「わたしが………?」
目を逸らしていた水竜の王は、ふと、己の状態に気付いたかのように視線を戻す。
こちらを見る瞳には困ったことに思慕のようなものもあったが、確かな残忍さがあり、ネアはあまり心が揺らがなかった。
美しいものは大好きだったのに、この目の前の水竜にはまるで心が動かない。
そしてその感覚は、彼が時折熱っぽい目でこちらを見れば見る程、どんどん強くなっていった。
(何だろう。…………寧ろ、不愉快というか、虚しいというか)
せっかく銀狐が集めてくれた祝福がこんなところで消費されてしまったと、何だかがっかりしてしまう。
その感情をアンヘルにぶつけるのは申し訳ないが、それを申し訳ないと思い切れない人物であるのが更なる問題なのだ。
「先程も仰られていた通り、あなた方は私達人間とは異なる領域で暮らしている方々です。ですので、お互い不快感のないよう交通整理出来れば良いと思うのですが、少しお話し出来ますでしょうか?」
「………良いでしょう。ただ、そのような話し合いであれば、わたしにも得るものがあればいいのですが」
王が繊手を振ると、背後に控えていた竜の少女達が、見る間に宴の準備のようなものを始めてしまう。
咄嗟に断ろうと思ったが、土地の風習もあるかもしれないので、ネアはそのまま受けることにした。
出がけにヒルドから、カルウィでは貰った食べ物は有難く受け取らなければいけないと教えて貰ったばかりだ。
「…………ディノ?」
またじっと見られて、魔物を振り返る。
水竜の王が脅威ではなくなったようだと判断したのか、ネアから手は離したものの、ディノは不可思議なものを見るようにこちらを見ている。
何だろうと首を捻っていると、すすっと魔術師が隣に来た。
「えっと、これ……大丈夫かな?」
「何となく理由がわかるので、ひとまずこのまま押し進めます。場の空気の礎となる方が必要なので、一緒にいて下さい」
「言い方!」
「そして、お食事をするのは問題なさそうですか?」
「もてなしは受けても大丈夫だよ。っていうか、受けない方が失礼だとされる」
「では、見たことがない食べ物ばかりなので教えて欲しいです」
そう話していたら、自然に片方の手を取られた。
「む………」
視線を向ければ、さも当然といった様子で水竜の王がネアの手を引く。
「賓客を誘うのは当然でしょう。どうやら、この国の文化には慣れていないようですね」
「ご親切に有難うございます。見たことがない食べ物ばかりなのは確かです」
側に立てば、水竜の王は清涼な水の香りがした。
ひんやりとしていて、抜けるように白く細い手には白い鱗が見える。
瞳孔が縦長の目をしているのは、水竜で初めて見たので少し慣れない。
少し覗き込んでしまったせいで、水竜の王は目元を染めて微笑んだ。
「ああ、この目が珍しいのですか?我々水竜は、原種の竜に近い古き民なのです」
「そうなのですね。他の竜の方とは違う瞳でしたので、驚いてしまいました」
「他の竜族をご覧に?」
「ええ。お会いしたことはあります」
「瞳も退化したような、脆弱な竜などおやめなさい。あれは、憐れで醜いただの獣の群れです」
リズモの祝福で好意的になったとは言え、気質が変わるわけではない。
美しいだけ余計に、その辛辣な物言いは刃のようだった。
(嫌っているのではなくて、本当に自分達よりも下位の生き物だと思っているんだわ)
だとすれば、やはり彼にとって人間は餌であり、そして奴隷のままなのだろう。
ふむと頷き、ネアは特にこだわりなくその事実を飲み込む。
雪食い鳥のときのような種の特性における理解ではなく、あんまり好ましくない嗜好だなという方向性の認識だ。
この短時間でどう準備されたものか、見事な敷物の上にはご馳走が並んでいた。
床に座って食べるとなると、あまり腹筋に耐久性がないネアは辛い。
背後に何もない席に連れて行かれそうになったので、慌てて柱を背に出来る位置を所望した。
さすが用心深いと水竜は笑ったが、用心深さの矛先はまるで違う方向となる。
ネアの右隣を水竜の王が陣取ってしまったので、左にディノが座り魔術師はその奥となってしまった。
水竜の王はディノを一瞥して目を細めると、どこか悪意の気配のある微笑みを浮かべる。
「先程の様子を見るに、あなたの契約の魔物ですか?」
「……ええ」
「高位の者のようですね。しかし、魔物は気紛れですからね」
まさかの話題を運用しどんどん好感度を下げてゆく水竜に、ネアはこれでもかというくらいに社交用の微笑みを強化する。
水竜の王の隣に座った男性が、なぜかネアの視線の余波を浴びて顔を強張らせていた。
今だったら、指輪がなくても逆鱗を剥がせそうな気分だ。
「そういうものなのでしょうか。まぁ、このお料理は何ですか?お花のようで綺麗ですね!」
「これは、米粉を蒸して色付けしたものです。そちらの香辛料のスープに浸して食べるのですよ」
「水竜さんのお食事は、お料理も優雅です」
褒められて良い気分になったのか、ようやく杯を取り上げて乾杯してくれたので、ネアは取り敢えず水竜達が食べ始めるのを待ってから食事に手をつける。
手でいただくスタイルのようだが、水の系譜である水竜の指先は汚れないようだ。
案外食べにくいと感じて、ネアは蒸しパンとスープ、そして串焼きを集中的に攻める。
スプーンを用意してくれればすごく食べてみたかった料理があったので、不快指数は更に上昇した。
(不思議だ。これだけ香辛料の強い料理なのに、あんまり味がしない)
食べるものが変われば変化となるだろうかと考えていたのだが、あまり美味しいとは感じなかった。
匂いや見た目で心は動くのだが、口に入れ嚥下するまでに何だか疲れてしまう。
こんな風に見知らぬ生き物達と宴の席にいるのが、とてもつまらないことに思えた。
目の前で繰り広げられる華やかな音楽に舞は、目が滑るような感覚で心に響かない。
しかし、仕事なのだから自分を諌め、何とか微笑みを張り付け直す。
「水竜の王様は、カルウィの第一王子様とはあまり仲良しではないのですか?」
水竜の歴史、この国の成り立ち等を暫く聞かされてから、ネアはそう尋ねてみた。
やはり周囲からは、困惑と嫌悪の視線をちらほらと感じる。
リズモの祝福などとわかるわけもなく、彼等は突然王が人間を接待し始めてしまったことが不安なようだ。
「我々はこの国では信仰の対象です。この国の王族達は、わたし達にとって最も近しい人間の使用人でしかありません」
「使用人だからこそ、守りの手を差し伸べるのでしょうか?財産のようなものだから?」
「あなたは賢い人間ですね。その通り、彼等はわたしの持ち物の一つ。ですから、要求があるのであれば、わたしに頼むのは正しいことですよ」
そう言って色めいた眼差しを向けられたので、ネアは蒸しパンを食べながらそちらを見る。
あまり食欲はないが、手を塞いでおかないとこの竜の鱗を剥がしてしまいそうだ。
「であれば、カルウィの方々に他の国の物を欲しがらないでいただきたいのです。特に、大陸公路はやめていただきたい」
「成る程。しかし、それを叶えることにより、わたしに得るものはありますでしょうか?」
「意気がった使用人のせいで、色々な国からあれやこれやと言われるのです。煩わしくはないのでしょうか?」
「どうでしょうね。捧げられるものを手に乗せるだけではありませんか?」
「それは他人様のものなので、窃盗という認識ですね。そして他の竜の方々からしても、自分の手の中にあるもので満足出来ない残念な古いやつという認識になります」
「………残念」
「年若い者達というのは、意外に辛辣なものです。畏怖の上での厄介さは格好いいですが、がっかりという評価を受けた者がその称号を立て直せた例はありません」
「……がっかり」
「はい。どうやら、大陸公路に興味津々のカルウィの王子様は欲しがり屋さんの残念な方です。なので、てっきり水竜さんも同じような性質の方々かと思っていたのですが、皆さんお綺麗で凛としていて驚きました」
乳白色の初めて見るお酒があったので、ちらりと見ているとディノがさり気なくどかしていった。
代わりに、小さなコップに入ったミントティーのようなものを置かれる。
「では、一族の矜持の為に王族を諌めろと?」
「いえ。私は今回、水竜さんがどのような考え方をお持ちで、どのような施策であるのかをお聞きしに来たまでです。先ほどのはただの感想ですので、あなた方に何かを望むのは、私の仕事ではありません」
ネアがそう答えれば、水竜の王は眉を顰めた。
「おや、聞くだけで構わないと?望めば叶うかもしれませんよ」
「水竜の王様、」
「アンヘルと呼びなさい」
「………アンヘル様、私は組織の下っ端です。意思決定権はありませんし、実は要求というものも特にありません」
「………特にないのですか?不利益があるからこそ、ここを訪れたのでは?」
不思議そうにアンヘルが目を瞬くその周囲で、水竜達が驚きに顔を見合わせていた。
王が名前を呼ばせたとざわついているので、ネアが名前を呼べと言われたことが問題のようだ。
何だろう、ネア的にはその流れもとても苛々する。
「今回は、あなた方を知ることがお仕事なのです。それに……、こうしてお話した所感ですが、アンヘル様は自身の考えをしっかりとお持ちですよね。恐らく、外野がどうこう言っても意見を変えられる方ではないのでは?なので、若干もういいやという感じでもあります」
「もういい………」
「はい。私は合理的で我が儘なので、無駄な労力は割かない主義です。ところでアンヘル様、これは何のお茶でしょう?」
唐突に話題を変えられて、アンヘルは視線を下に落とした。
「…………カームの香草茶ですね」
「素敵なお茶ですね。口の中がすっきりします!新しい出会いでした」
「お気に召したのであれば、差し上げましょうか?」
「いえ、お気遣いなく」
お茶のコップを置いて微笑んだネアは、あからさまにもう作業は終了したという顔をしている。
背もたれのない座席にうんざりしてきたので、その眼差しが徐々に刺々しくなっているのは、九割は椅子がないことに起因しているのだが、アンヘルはなぜか途方に暮れたような表情をした。
「竜はこの国において信仰の対象でした。人間は望みをかけ平伏し、我々に仕える。あなたの国ではどうやらそうではないらしい」
「一般論としてお返しは出来ませんが、お会いした竜の方々は、乱暴者に浴室の覗き魔と、あまり信仰という感じの方々ではありませんでしたね」
「なんと下賤の竜でしょう……!」
ネアがあんまりな事例を挙げたので、アンヘルは低く侮蔑の声を上げる。
水竜達も眉を顰め、何とも言えない顔を見合わせた。
「なので、竜の王様達は皆さんそんな感じなのかと思っていましたが、アンヘル様はきちんと王様という感じがしますね」
「………お待ち下さい。先に仰られたのは、竜王なのですか?」
「はい。勿論一人は踏んづけてやり、もう一人は逆鱗を剥がしかけてやりましたが!」
少し得意げにそう告白すると、今度こそアンヘルは絶句した。
周囲から、竜王の逆鱗を…という低いどよめきが重なる。
批判的な目から、未知の猛獣を見る目に変わってきたがネアは特に気にしない。
平面に背筋を伸ばして座り続ける作業で腹筋が死ぬ前に開放して貰い、早く帰路につけないだろうか。
「けれど、アンヘル様はその類の方ではなかったので、私の対象外でした」
「………対象外」
「はい。あ、素敵なお食事を有難うございました。国に戻ったら、水竜さんのお料理は美術品のようだったとみんなに伝えますね」
姿勢を正してから、ネアはアンヘルにきちんと頭を下げてお礼をした。
そろそろお開きにして貰えるよう、特定の意味を込めてにっこりと微笑む。
「………あなたは、変わった人間ですね。わたしを前にして、何も望まないと?」
「そうですね。望むべきものがあれば望みますが、アンヘル様には特にありません」
「それは或いは、ここから生きて戻る為の懇願かも知れませんよ」
「あら、そうなると、個人的にはとりわけ深い感慨があるわけでもありませんが、同行者がいるので困りましたね」
「個人的には、問題ではないのですか?」
「人間はとても脆弱な生き物ですから。あまり無理をするのも疲れてしまいますし。でも、この場はお仕事ですのでひとまず帰りたいところですね。………ディノ?」
そこでぐいっと肩を引かれて、魔物に目の奥まで覗き込まれた。
驚いて声を上げれば、こちらを見ているディノは微かに焦ったような顔をしている。
「ネア、どうしたんだい?」
「どうしたとはなんでしょう?私、何か変ですか?」
ネアは食べた物がついていたりするのだろうかと両手で唇や頬に触れたが、ディノは答えず、問答無用でネアを持ち上げると膝の上に乗せた。
「………軽くなってる」
そして、どこか呆然としたように呟いた。
「ディノ、お仕事中ですし、人様のお家の中です。下ろして下さい」
「ご主人様、帰ろう」
ネアは冷静に窘めたのだが、魔物はきっぱりと首を振った。
目を瞠るネアをそのまま抱き上げ、すっと立ち上がる。
「無作法な。彼女はまだわたしと話を…」
声を低くしたアンヘルは、次の瞬間ぎくりと固まった。
いつの間にかディノは擬態を解き、ぞっとするくらいに鮮やかな真珠色の長い髪を翻している。
はらりと落ちた一筋の髪が、大きな窓から差し込む陽光に虹色を残した。
「彼女の仕事として預けていたが、ここまでだ。もう、私のものに触れないでくれないか」
ひたりと、あまりにも暗い雫が落ちるような美しい声。
水竜達の中には、表情を失くして床に手をついている者もいる。
なんとか王の周りを素早く固めた竜達も、その面持ちは蒼白だ。
「…………万象の王」
呆然とその名前を呼んだアンヘルには見向きもせず、ディノは腕の中で表情を暗くしているネアの頬に片手をあてる。
「ネア、体調が悪かったんだね?」
「体調は普通です。それよりも、おいとまするにしても作法があります。これでは、水竜さんに失礼なので下ろして下さいね」
「そんなに水竜が気に入ったのかい?」
「いえ。寧ろかなり苦手な方ですが、仕事は仕事ですので」
素直に答えたのだが、ディノは表情を曇らせたままだった。
その向こうでは、アンヘルが小さく呻き声を上げている。
「………苦手」
そこを復唱してしまったようで、ぐらりと体を揺らした王を、慌てて周囲の者が支えていた。
「まぁ、アンヘル殿もあまり好意的ではなかったみたいだから、もう帰ろうか」
「魔術師さんまで!」
「でも、後半明らかに無事に帰さないぞって感じだったよね?このまま失礼しよう」
「む。……確かに少し頭に来たので、何かあれば鱗でも剥いでしまおうかと思ってはいましたが……」
そのまま魔術師と話そうとしていたら、ディノに体の向きを変えられて遮られた。
困惑して見上げると、水紺の瞳にはまた微かな不快感が見える。
「……ディノ、嫌になってしまいましたか?すぐに終わらせるので、少し待っていて下さいね」
「ネア………」
続ける言葉を失くしたのか、黙り込んだ魔物から視線を外し、ネアはひとまずこのまま体を捻り、アンヘルの方に向き直る。
「アンヘル様、魔物が荒ぶってしまいましたので、少し失礼な格好での退出になりますが、本日は有難うございました」
周囲の竜達を少し下がらせると、アンヘルはあまり良くない顔色のまま、恐ろしく澄んだ瞳をひたりとネアに向ける。
「………あなたは、わたしがお嫌いですか?」
「あの、そろそろおいとまを……」
「苦手だと仰っていましたね」
「お仕事の場ですので、あまり個人の話をするのは…」
「では命じましょうか。或いは、知りたいのだと懇願したら?」
「…………そもそも、アンヘル様を良く知りませんが、そうですね、お仕事を横に置いての個人的な所感であれば不得手な気質の方ではあります」
「どこがでしょう?」
つまりはそういうところなのだが、ネアは大きく溜息を吐いてから丁寧に答えようとして、いささか言葉選びに仕損じた。
苛々していると、人間はやはり辛辣になってしまうようだ。
「とてもお綺麗な方だと思いますが、そもそも人間を餌や奴隷として認識されていますので、入り口から不快感はあります。雪食い鳥さんのように純然たる生態系の餌認識ではなさそうですものね。そして、間が悪く空気も読めません」
「空気……」
「まとめると、全体的に何だかあまり好きではありませんでした」
「全体的に、ですか………」
「それに、カルウィの王子様と一緒に他国の大陸公路にちょっかいをかける厄介者であれば、今後、お仕事で対立する立場になるのは間違いありません。仲良くしようとするだけ無駄にもなりそうですし」
「無駄…………」
「まず、お仕事上での会談で個人の好意のあるなしを問われる意味がわかりません。寧ろ、水竜さんで誰が好きかと言われれば、女性の方達はたいへんな美女揃いで素敵だと思います」
「あなたは、女性が好きなのですか?」
「…………もう一段階上げます。ものすごく好きではありません」
「ネア、一回黙ろうか!」
魔術師に遮られてよく見れば、いつの間にかアンヘルは誰かが持ってきた椅子に座らせられていた。
眼差しが鋭いのでそこまで幼気ではないが、ぶたれた子犬のような目をしていないこともない。
ものすごく、と何度も呟いており、おろおろする男達とは違い、女達はお労しいと言いながら素敵な笑顔で慰めていた。
そちらで需要と供給が落ち着きそうなので、ネアはあっという間に興味をなくした。
「ネア、これでも水竜は残忍な生き物なんだからね。気を付けようか!」
「とても嫌なやつでした。女性が女性を褒めた途端にあの疑いなど、なんて嫌な竜なのでしょう」
「一応ここは、まだ水竜の宮殿内だから、もうちょっとお手柔らかにね」
「建物は素晴らしく、お食事や音楽に舞は素敵でした。それらに従事した方々は、称賛するべきだと思います。以上でした」
「余計に傷付くやつだね!」
慌てて間に入ったせいで矢面に立たされた魔術師は、何か苦言を呈している他の竜達に首を振っていた。
しかしながら、その竜達も怒っているというよりは困り果てているように見える。
女性の竜達は寧ろ歓迎ムードで、既にこちらには見向きもしないのがとてもわかりやすい。
(いい具合に王様に隙が出来たから、この隙に自分を売り込んでいるのかしら……)
どこの世界でも女達はタフでしたたかで、見ていて清々しい。
そちらから視線を戻し、ネアはまだじっとこちらを見ているディノに首を傾げた。
「ディノ?そんなに何かが気になりますか?それと、もう帰っても良さそうですよ」
「…………うん。帰ろうか」
静かに頷いたディノから視線を外し、ネアは自分を持ち上げている魔物の手の温度に唇を噛んだ。
こんなに久し振りに触れたのに、嬉しいとか安心するという感覚よりは、何だか落ち着かなくてざわざわする。
「こらこら、僕を置いて行かないように!」
ディノがさっさと歩き出してしまったので、後方で対応に追われていた魔術師が慌てて追いかけてきた。
やはり中には主を貶められたと思う者もいるのか、左奥の方に鋭い目をした一人の男が見える。
立ち位置的に見れば、まだ若い近衛のようなポジションだろうか。
しかし、彼が何かを言うよりも早く、椅子上で安静にさせられていたアンヘルが口を開いた。
「ネア、と言いましたね。カルウィにはまた来ますか?」
よろりと立ち上がった青年姿の水竜の王は、やはり美しいがそれだけだ。
よってネアは眉を寄せ、無難な返事を残す。
「現状あまり良い国際情勢ではないので、今後は渡航許可が出ないような気がします」
「成程。………どうにかしましょう」
「どうにか?」
おやっと首を捻ったが、その答えを得る前にディノは転移を踏んでいたようだ。
くらりと視界が暗転し、気付けばウィームの街中に立っている。
リーエンベルクに直帰しなかった理由は、ネアのケープの裾を掴んだ魔術師のようだ。
「その手を放してくれないか」
「減っているのは、寝てないからだと思うよ。その子、顔に出ないだけみたいで結構ぼろぼろだ」
「どうして君がそんなことを知っているんだろう?」
「どうしてかな、見てわかるからじゃないかな」
抱きかかえられたネアを挟んで喧々とやられるので、当事者としては不可解な気分になった。
別に風邪も引いていないし、お腹も壊していない。放っておいて欲しい。
「あの、下していただけますか?」
「…………ネア、」
しかし、そう申し出れば魔物はなぜか目を瞠る。
下す気はないようで、余計にしっかり抱え込まれた。
そういえばこの魔物は意外に天邪鬼だったのだなと思い出して、ネアは出来る限り穏やかに微笑んだ。
「魔術師さんがどう言おうと、特に体調は悪くありません。自分で歩けますよ。…………そして、魔術師さん、有難うございました。水竜の王様に会わせていただいたこと、感謝しています。あの、……仲介手数料はかかりますか?」
そう尋ねると、魔術師はへらりと笑って片手をひらひらさせた。
「いいよ、いいよ。交渉は君一人でやってたし、僕は面白いものが見れたからね。ただ、今日は無理せずゆっくり寝て欲しいかな」
そう言って、意外なしつこさを裏切る素早さで、彼はさくさくと姿を消してしまった。
まだネアを抱えたままのディノと残され、何だか困ってきたネアは眉を下げる。
「……………とりあえず、リーエンベルクに戻ろうか」
少しだけ何かを躊躇ってから、ディノはようやくそう言った。