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81. カルウィの竜に会いに行きます(本編)


その日は朝から調子が良かった。

苦なく微笑めていたし、少なくともスープの味はわかってきた。


出かける前のネアとすれ違ったヒルドが微かに目を瞠っていた気がしたが、灰色のケープを翻して転移をする頃には、心はもっと穏やかになっていた。



「この国は、随分と暖かいのですね」

「カルウィはまだ秋だからね」

「白い風景を見慣れてしまったので、何だか不思議です」


着地したのは、大きな寺院の裏道だった。

道の横で日向ぼっこをしていた猫が、突然現れた二人組に驚いて逃げてゆく。

幸いケープを羽織っていても問題のないくらいの気温ではあるが、だいぶ暖かい。

大きな寺院を見上げて、ネアは長い髪を結い上げたのはこの為かと理解した。

少し独特な装いをさせられたのは、この国が大きく様式を変える異国であるかららしい。


カルウィは前の世界で言うところの、イスラム圏の文化の国を彷彿とさせる風景であった。

大判の色鮮やかな布を巻いたような民族衣装姿の人間が多く、女性は皆髪を結い上げている。

しかしそれだけではなく、竜や妖精などのこの世界特有のものもちらりと混じるので、一言では表現が難しい。


そして、ネアの判断が間違っていなければ、どうやらここは王都であるようだ。

となると、その水竜の王とやらはカルウィの王都に住んでいるのだろうか。

いきなり騒動の中心に触れたくはなかったので、出来れば郊外に居を構えていて欲しかった。


(………あれ、どこに向かって歩くのかな?)


ディノが特に何も言わなかったので、二人は暫くカルウィの中心街を歩いた。

賑やかな物売りの声に、香辛料の匂い。

色鮮やかな民族衣装を纏った少女たちが、擬態してもなお美しいディノを横目で見ながら通り過ぎてゆく。


途中、奴隷商と思われる者達の区画もあった。

羽を捥がれた妖精や、陰鬱な顔をした獣の四肢を持つ美しい踊り子が鎖に繋がれていて、ネアは眉を顰めた。

変えられない社会の悪癖のようなものがある。

一概に手を出せる分野ではないが、やはり心がざわめくのは仕方のないことだ。


(自分の守れる領域と、自分のするべきことを考えなくては)


奴隷制があるからこそ成り立つ国もあるだろう。

この国に責任が持てない以上、安易に手を出してはならない暗部だ。

不用意に掻き混ぜてしまえば、それで喪われるものも出てくる。


ただ、身勝手な人間の一人として、この国の歌乞いでなくて良かったと心から思った。



「市場は見ないのかい?」

「市場………ですか?」


不意にそう尋ねられて、ネアは首を傾げた。

珍しく、ディノはこちらを見ている。


「初めて来た国だろう?」

「………もしかして、それで街を歩いてくれたのですか?」

「ネアは、初めて見るものが好きだからね」

「………有難うございます。でも、ディノのお蔭で随分とこの国の雰囲気がわかりましたので、まずはお仕事を片付けてしまおうと思います」

「…………そうだね」


ここでまた何故か、ディノは酷薄な目をした。

よくわからなくてひやりとするが、提案を無下にされたようで面白くないのだろうか。

とは言え仕事の最中であるので、呑気に市場で買い物をするわけにもいかない。

無邪気に歩み寄ってくれていた好意が失われれば、この魔物との兼ね合いは案外厄介なものだった。


(本当は、)


本当はその腕を引いて言ってしまいたいのだ。


不愉快なことを無理にする必要はないし、憂鬱な目をするくらいならこんなところに居なくてもいいのだと。

自棄になって放り出してしまいたいのではなくて、やはりこれはまだ大事な魔物で、幸福そうに微笑んでいたあの姿がまだ想い出の中でも鮮明だから。


今迄、仕事をすることをしっかりと義務付けていたのは、魔物がその全般を楽しそうに受け入れていたからであって、望まないのであればここは本来彼に紐付く場所ではない。

早々に自由にしてやるべきなのではないだろうか。


しかし、今回に限っては受けてしまった仕事の中にあるので、完遂するまでは甘やかしてやれるわけもなかった。


今回、この問題に頭を痛めていても、エーダリアもヒルドも、事の概要の説明よりも前にネアが大丈夫かどうかを尋ねてくれたのだ。

そんな優しさに応えたいと、今は強く思っている。

だから、この事態が収束するまで、ディノを逃してやれそうにはない。

所詮この人間の歌乞いは、綺麗事を転がしたところでとても狡猾なのだ。


(ただ、あまり負担をかけないようにしてあげよう)


「まずは、正規のルートのようなもので水竜の王様に会えるように交渉してみましょうか」

「正規のルートねぇ……」

「どこか窓口みたいなものがあればいいんですが、何しろ竜の方ですものね……」


腕を組んで悩ましく首を捻ったとき、ネアは背後から何者かに拘束された。


「やっと見付けた!」


どすんとぶつかられて背中にへばりついた人物に、ネアはとても険しい表情で振り返る。

直前にばっさばっさと布地を翻す音が聞こえていたのは、この人物が駆け寄ってくる音だったようだ。

こうして他者に容易く距離を詰められれば、やはり今までのディノとは違うのだと思い知らされる。


「…………魔術師さん。よりにもよってなタイミングで現れましたね」

「いやぁ、カルウィに入ってるなんて焦ったよ。ここ、物騒だからねぇ」

「さらりと会話に入る前に、色々説明するべきだと思うのですが。そして離れて下さい」

「背中ががら空きだったよ。不用心だからここに居てあげよう」

「ご遠慮させて下さい。最悪、背中は諦めます」

「そこを諦めると、人間は割と容易く死にかねないよね?」


背中にへばりついたのは、以前ボラボラの街で出会った得体の知れない魔術師だった。

今日も黒いロングコートを着ていて、白いシャツに髪の毛を雑に結っている。

相変わらず読めない飄々とした面持ちで笑いかけられれば、ネアの眉間の皺の深さは五倍増しになる。

本日の何を考えているのかわからない枠は、ディノで満杯なのだ。



「…………ネア、知り合いかい?」


接近にも接触にも無反応だったので失念していたが、そう聞かれてディノの方を見れば、見たことのないような嫌そうな顔をしていた。

ともすれば目の前の魔術師を物理的に排除しそうな険悪さであるので、ネアは遠い目になる。

ネアへの接触は構わなくても、どうやらこの魔術師のことはお気に召さないようだ。


「前にお話した、ボラボラの街で出会った魔術師さんです」


そう紹介しながら、ネアは魔物の表情に注意した。

以前の話し合いを踏まえれば、この背中にくっついた魔術師は魔物である可能性が高い。

それも、ディノ達が厄介だと考えるような人物であり、人間嫌いなのでネアに害意を向けている可能性があるのだとか。


(………やっぱり目元には、傷はないようだけれど)


そして本日のリボンは紺色で、白いリボンは使っていないようだ。

そこでふとネアは、彼が髪を結んでいるリボンが自分の愛用のリボンと同じものであることに気付いた。

世の中に流通している商品なので被るのは仕方ないが、何だか複雑な気持ちになる。


魔術師はへらりとしながらディノを見返し、たいそう不機嫌そうな魔物に動じることなく片手を振った。


「やあ。この子の知り合いだよ。どうぞ宜しく」

「随分な挨拶にしましたね………」

「知り合いだよね?」

「文字通りの知り合いであることは否めません。しかし不本意な気がするのはなぜでしょう」

「背中の無防備さが心配になるくらいには、親しい感じだよね」

「背中は放っておいていただきたいと感じるくらいの親しさです」

「あれ、僕のこと嫌い?」

「喋り出すと、途端に不可解な気持ちになるのは確かです」


そこでようやく契約主が拘束されていることに気付いたのか、ディノは魔術師の腕を引き剥がすと、ネアを自由にしてくれる。

もし襲撃だった場合は充分に死んでいる時差だったので、ネアは少しがっかりした。

引き剥がされてぽいっとされた魔術師は石壁にぶつかった腰をさすりながら、わざとらしく悲しげな顔をしている。


「邪険にしたらいけないな。せっかくこの国は詳しいから案内してあげようと思ったのに」

「お仕事中なので観光案内はいりませんよ」

「そうじゃなくて、仲介してあげるよってこと。どこに行きたい?誰か会いたい人は?」

「そうなると話は別ですが。………しかし、信用出来るのでしょうか」

「大丈夫だよ。気になるなら、紹介状でも取り寄せるかい?」

「………紹介状」

「そう。君の上司のお兄さんから」

「むぅ」


何となく背後関係も見えてきたのでディノを窺えば、ものすごく嫌そうな表情は回収されていた。

その代りに背筋が寒くなるような整った微笑みを浮かべている。

これだけわいわいしていても周囲の住人達は振り返りもしないので、やはり魔術的な防壁はあるのかも知れない。


「水竜の王に会えればいいんだよね?」


ややあって、ディノはそれだけを口にした。


「………はい。お話を出来れば良いのですが、後は判断をつけられる要素があるかどちらかですね」

「そうか。君はどうしたい?」


今迄のディノにはない問いかけだ。

ネアは目を瞠って、込み上げてきた心の揺れ幅を何とか飲み下す。

ディノと魔術師を見比べて、どちらに負担をかけ易いのかを天秤にかける。


「お仕事の完遂が第一ですので、作為なくご紹介いただけるならこちらの魔術師さんを頼ろうかと思います。ただ、ディノはどう思いますか?一緒に行くのですから、このルートが嫌なら言って下さいね」

「…………では、そうしようか」

「………はい。魔術師さん、水竜の王様に会いたいのですが、コネはありますか?」

「うーん。…………水竜の王ならどうにか出来るけどね、君は会わない方がいいんじゃないかな?話す内容によっては伝えてきてあげるよ」

「私の目で見てくることもお仕事の内であるようなのです。その方は、やはり難しい方なのですか?」

「と言うか、人間は食糧か奴隷だと思ってるからなぁ………」


灰色の前髪を片手で掻き上げて、眉を顰めた魔術師はとても不安そうにこちらを見ていたが、ネアもこの前情報が欠けていたことに頭を抱えたくなった。

会話の機会を持つには絶望的な条件であるし、擬態を含め現状ここにいる食糧でもなく奴隷でもない存在といえば、ディノしかいない。


「食糧及び奴隷に話しかけられたら、とても怒りそうですね……」

「因みに、その区別は魔術保有量で判断してる。君の場合は後者に分類されるね」

「たいへん屈辱的なので、さくさく済ませてしまおうと思います。ひとまず会いましょう」

「どうしてそんなに度胸があるのさ………」


呆れてはいたが案内してくれるようで、魔術師はちらりとネアの横に立っているディノの方を見る。

そこでどんな視線を交わしたのかは見えなかったが、ディノは小さく溜息を吐いた。

こんな状態でもその擬態が青灰色の髪であることに、ネアは小さな喜びを見出してしまう。


(この仕事が終わったら、きちんと話し合ってみよう)


人間の側から、歌に請われた魔物を解放するのは不敬とされる。

けれど、大事なものに不利益を強いているくらいなら、ネアはその規律を冒してでも提案することだけしてみようという気になった。

不興を買ったとしても、結果魔物が幸せであるのなら構わない。

ただし、その際にこちらに損害を出すようであれば、そこは鎮圧しなければなるまい。

複雑なところだ。


「はいこれで大丈夫。会いに行くよって伝えたから、向かってみようか」

「………見た限り、何もされていなかったようでしたが」

「君、魔術階位低いもんね」

「…………むぐぅ」


促されて歩き始めようとしたら、雨が降ってきた。

ぽつりと砂の地面を濡らした雨足は、次第に強く激しくなってくる。

魔物は濡れないので頓着していないようだが、ネアは魔術師の手で素早く軒下に運び込まれた。


「伺いを立てたから、水竜が門を作るようだよ。可愛く整えた髪の毛を濡らさないようにね」

「魔術師さんはびしょ濡れですが」

「水分を飛ばすからいいさ。君の場合、今、体を冷やして体調を悪くすると動けなくなりそうだ」

「む。こう見えても結構頑丈なのです」

「………そうかな、今は抵抗力低そうだけれどね」


ネアを雨から庇う為にコートの裾を貸してくれたので、魔術師の髪は滴をしたたらせていた。

言葉通りその水分を魔術で払い、ふっと目を瞠ったネアに微笑みかける。

しかしそれ以上は何も言わず、ネアもあえて追求しなかった。


「ディノ、雨は大丈夫でしたか?」

「私は大丈夫だよ。…………ネア?」

「はい?」


一瞬、ディノは不思議なものでも見るようにネアを見た。

首を傾げて微笑めば困惑したように首を振ったが、何かを言いたげにこちらを見ている。

だが、ディノが言葉を選ぶ前に、水竜の扉とやらが完成してしまった。


突然の雨に人気のなくなった裏通りに、水で象ったような見事な門が現れていた。

材質が水のようで不安定にも感じてしまうが、ぱっと見たところ彫刻の細部にいたるまで再現された素晴らしい意匠の門である。

アーチ状の門の内側には、瑠璃色の壁に金の着彩で見事な蓮の花の連続模様が描かれていた。


「これが、扉ですか?」

「そう。周囲の外壁に触れないようにした方がいいから、ほら」

「魔術師さん、両手を広げられて一体どうしろと?」

「君って、よりにもよってなところで転んだりしそうだから、持っていってあげよう」

「お断りします」


ぴしゃりと断ってから、ネアはすたすたと扉の方へ歩き始めた。

慌てて魔術師が先導し、ネアの横にはディノが立つ。

門が出現した領域に足を踏み入れるときだけ、ディノが背中にそっと手をあてるのがわかった。


「……………ここは」


門をくぐったネアは、思わずそう呟いてしまう。


それくらい、門の中は絢爛豪華だ。

見事な水庭になったその広大な土地の向こうに、アラビアンナイトの宮殿のような純白の建物がある。

空は黄昏のような色になった半円のドーム状で、その向こう側の空間とはぶ厚い硝子にも見える結界で仕切られているようだ。

精緻な模様を描かれたタイルの地面がどこまでも続き、エキゾチックな香の匂いがする。

そして、門の前で待っていた少女はこちらを見ると、明らかに蔑むような冷やかな目をした。


「やあ、アンヘル殿はいらっしゃるかな」

「………王より申し遣ってお迎えに来ました。嫌ですわ。人間も一緒なのですね」


挨拶をしようとしたネアを片手で遮って、魔術師は慣れた様子で少女に話しかけている。

艶やかな黒髪を結い上げた少女は、幼い容姿に不似合なぐらいに鋭い目をしていた。

縦長の瞳孔の瞳は鮮やかな緑色で、見慣れない造形の鋭さにネアは身が引き締まる思いがする。

この魔術における転移というものは非常に厄介で、瞬時に居場所が変わってしまうので他者の領域に踏み込むという心の準備が難しい。


魔術師について歩きながら、隣りで揺れるディノの長い髪を視界の端に捉える。

その艶やかな手触りの三つ編みに触れたいと思い、そんな自分を心の中で苦く笑い飛ばした。

身に馴染まない環境というよりも見慣れない場所だと思えば、さしたる緊張もなくなってゆく。


ここは見知らぬ世界の見知らぬ場所だ。

ネアにとっては、特別な意味もない明け方に見る夢のようなところ。


(ほら、…………)


心は静謐で、ただ澄み渡っている。

誰もいない雪原を歩いているような晴れやかさに、ネアは口元を綻ばせた。

この身軽さはわかりやすく、とても懐かしく心強い。


それは、近付くにつれ全容が見えてきた、あまりにも大きな宮殿を見上げてもさしたる変化はなかった。



ウィームの大通りよりも幅の広い純白の階段を上がって宮殿の中に入れば、中は首が痛くなるくらいに天井が高い。

床は純白の象嵌細工となり、随所に青い宝石が散りばめられている。

元の世界で見たことがある建築を基準に考えれば、中央のドームは九十から百メートル程の高さはあるだろうか。

完全なる左右対称の造りだが、なにぶん中が広すぎるので、外から眺めた方が造りがわかりそうだ。

左右の棟に備わったミナレットには、上に登る為の階段もあるように見える。

しかし、見たところ中央の空間には二階部分の建築構造は見当たらない。

贅沢過ぎるワンルームといったところか。


内部には、淡い紫や緑、黄色の紗がかかり、リュートのような楽器をかき鳴らして歌う青年がいる。

絨毯を広げ金の盃で酒を飲み交わしている男女に、床の上に花を咲かせて小さな庭園を作っている女性達。

その全てが竜なのか、案内の少女と同じように縦長の瞳孔をしている。

笑いさざめきながら、立派な羽扇の影で囁き交わす様は、決して好意的な目線ではなかった。


(水路で区画分けされているんだわ……)


宮殿の床には、一メートル幅程の水路が不規則に張り巡らされている。

清廉な水の流れるその区切りを各自の境界線とし、竜達はこの宮殿の中にも自分の陣地を持っているようだ。

それぞれにその土地の扱い方が違うので、純白のキャンバスに描かれた目まぐるしいモザイク画のように見えてきた。


それらの織を抜け、何度か豪奢な橋を渡り、ネア達はようやく宮殿の中央に辿り着いた。

大きなドーム型の天井のその真下に十メートル四方程度の黄金の天蓋があり、その中に玉座があるようだ。

天蓋の下は見事な泉になっており、中央には透明な水色の玉座が見える。

まるで水を固めたようなその椅子には、長い白髪の青年が腰かけていた。


(…………………何て目だろう)


縦長の瞳孔の、あまりにも透明度の高い淡い水色の瞳は、内側から青く光る炎のようだ。

鋭さや冷たさを凌駕して、寧ろ触れれば燃え上がりそうなくらい。

ただ、意外なのは、水竜の王がまだ年若い青年に見えることだった。

容姿的なものだけであれば、ネアとさして変わらないくらいの年齢に見える。


しかしその周囲には薄物を纏った美しい女達がおり、扇情的な姿態を王に晒している。

女達は明らかに高位の人外者であるディノには媚びるような目を向けたが、ネアの姿を見るなり獰猛な獣のような眼差しを向けてきた。

強い嫌悪感を目の当たりにして、ネアは人間を嫌っているのは王だけではないような気がしてきた。



「あなたの方から来訪を受けるとは、お久し振りですね災禍の術師殿」

「呼び方に棘があるなぁ」


また随分と不穏な通り名で呼ばれた魔術師が、へらりと笑って手を振った。

王の周囲にいる女達の中には鋭い目をする者もいたが、水竜の王自身は腹を立てた様子もない。

落ち着いた低い声に、ネアはこの王が見た目通りの年齢ではないのだと知った。


「で、今日は何の用でしょうか。生憎、悪食に転向したつもりはありませんが」

「食糧斡旋ではないよ、アンヘル殿。今日は君に会いたいという知人の仲介だ」

「私に、人間を?」

「きっと、アンヘル殿が人間と手を組んでいるからじゃないかなぁ」

「わたしが、人間と?」

「そう。君がカルウィの第一王子をお気に入りなのは有名な話だから」


その瞬間、ざわりと水が脈打った。

他にどういう表現をすればいいのかわからないが、宮殿の中に張り巡らされた水が、鼓動のようにどくりと揺れたのだ。

床を揺らす程の揺れに足が竦んだが、それは天災のようなものに対する本能的な恐怖だ。


「この子は僕の大事なお客様だ。あまり脅かさないでくれるかな」

「術師殿、子供染みた揶揄はわたしとて不愉快ですよ。あの人間は水竜に仕える者。わたしを賛美し、わたしの退屈を癒す有能な使用人の一人。褒賞を与えることはあれ、人間に庇護を与える酔狂さは好みません」


動じた様子もない魔術師に、水竜の王はゆらりと立ち上がった。

周囲の女達が怯えたように下がったので、前情報通り残虐な王なのだろう。


さりげなく魔術師がネアの視界を半分遮る位置に立ってくれているので、ネアはその精神圧は半分くらいしか感じないで済んだ。

寧ろ、この宮殿に入ってからディノがまだ一言も喋っていないことの方が、何だか気になって仕方ない。


「そうなの?王子君の方は、君の権威を借り放題で他国に進出する気満々だ。お蔭で僕は、この通り案内人までしている始末だよ」

「あれがわたしに捧げようとするものなら、わたしはそれを得るまでです。国境線など水竜にとっては意味のないこと。人間の争いは人間で成せばいい」

「人間は小さな生き物だから、そうもいかないんだよ。住処を奪われそうになった人間は抵抗しなければいけない。君達が力を貸してしまうかどうかで、他の人間達はどう動くのか変わるのさ」

「…………奇妙なことですね。まるで、人間を庇護しているように聞こえる」


水竜の王はそう言って目を細めた。

風もないのにゆらりと膨らむ白い髪は美しい。

広がって良く見えるようになれば、その全てが白いわけではなく淡い水色の中に白が混じり、光の加減で白髪に見えるのだとわかった。

ゼノーシュの髪色とよく似ているが、受ける印象はまるで違う。


「人間を厭い、泣き叫ぶ子供まで容赦なく滅ぼした、災禍の術師であるあなたが」


その言葉に、魔術師の背中が僅かに揺れたような気がした。


「…………そんなこともあったかな」

「これはこれは、あなたが動揺するのは珍しい」



実は、ネアはここで少しだけ余所見をしていた。

どこからかとてもいい匂いがしてきて、ちらりと盗み見していたのである。

やはり異文化の素敵なことに、その匂いの先では串焼きにしたタンドリーチキンめいたものが振る舞われていた。

今や宮殿の竜達は王に注目しているので、その前に立った見知らぬ異邦人が自分の方を見ていることに気付いた壮年の竜はとても困った顔をしている。

何しろ、その人間がじっと見ているのは串焼きの肉なのだ。



「背後に匿ったその人間の娘が要因でしょうか。さて、」


最後の一言はまさに耳元で聞こえた。

余所見をしていたネアは、ぎくりとして視線を戻す。

隣りから伸ばされた腕が腰に回され、ぐいっとディノに引き寄せられた。


けれど、目と鼻の先に美しい水竜の王がいる。


まるで他人事のように、いつの間にここに来たのだろうと不思議に思っていると、怖いくらいに淡い色の瞳と目が合った。

薄く削いだ氷の刃のような眼差しが、ふっと昏迷に見開かれる。

そして、ぱっと目を逸らされた。


(…………ん?)


この行為にひどく既視感があるのはなぜだろうと思ってから、顔を背けた水竜の王の目元がふんわりと色付いていることに気付く。

少し前まで、ディノでよく見かけた姿だ。



「ネアっ!」


名前を呼んで、慌ててこちらに駆け寄ってきた魔術師も異変に気付いたように、眉を顰めて動きを止めた。

気のせいでなければ、ネアの腰に手を回し、寄り添った背後の魔物も体を強張らせている。



(………………もしや……………)



その時、ネアはとても嫌なことを思い出した。

昨晩、ディノとのことを案じてくれた銀狐に、山ほどのリズモの差し入れを貰っていたのだ。



「二十九個分……………?」



とても渋い顔で低くそう呟いたネアに、水竜の王はなぜか悲しげに目を瞠った。




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ものすごい悲しい気分で読んでたのに…最後に声出して笑ってしまった…やられた
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