79. 蓋をするのは得意です(本編)
浴室から戻ってきた魔物の言葉に、ネアはまず首を傾げた。
(婚約を撤回する…………?)
あれだけ大喜びした後なのでよくわからないが、何か魔物なりに冷静になって考えたのだろうか。
しかしこの提案は魔物の意志でもあるので、ネアは自分の感情はさて置き素直に頷いた。
「わかりました。では、そうしましょう」
「それと、………ごめんね、ネア。指輪も外そうか」
「…………指輪も、ですか?」
「そうだね」
「わかりました」
この指輪がただの品物でないことは、ネアも知っている。
守護を与えて貰うものであり、ディノにとってある一定の意味のある存在だと知らしめる証明でもあるのであれば、貰ってしまったから返したくないでは済まないのだ。
まだ感情が追い付かないのか、ネアは意外にも冷静に指輪を外して持ってゆくディノを見ていた。
(ディノ…………?)
じっと見上げていると、どこか満足げですらある魔物に、特別な罪悪感や忌避感の気配は見えない。
けれどもこの魔物が何かを放棄するとき、彼はとても酷薄で、いっそ朗らかなくらいであることはネアも知っている。
少しだけ、言葉でこの行動の理由を補填されるのを待ったが、どうやらこれでおしまいのようだ。
特に言葉で補う必要もない行為であるらしい。
であればこれは、その手の隔絶なのだろうか。
二年も待つと思えば、急に馬鹿馬鹿しくなってしまったのかもしれない。
(…………指輪)
魔物の指輪を貰ったのは、この世界に落とされたばかりの頃。
まだ他者には見えなかったその頃から、安定して誰にでも見える指輪になった今日まで、常に身に着けていたものを失うのは、例えようもない寂しさがある。
すかすかになってしまった自分の指を眺め、ふつりと揺れた心の波に気付いて慌てて胸の奥に蓋をした。
「………ディノ、夕食はどうしますか?時間を変えて貰うなら連絡しますが」
「私は少し出てくるから、ネアはきちんと食べておいで」
「わかりました。今夜は帰って来ますか?」
「明日までには戻るようにするよ」
「どこへ…………」
(もう出て行ってしまった………)
そそくさと部屋を出てゆく魔物を見送ってから、ネアは小さな溜息を一つ吐いた。
ディノが暴れて散らかした毛布を片付け、寝台をきちんと整える。
そこで一度ぎくりと体を強張らせて、部屋の壁際にある魔物の巣を見た。
先程まで一緒に巣で寝ようとはしゃいでいた魔物が、手のひらを返すように今はもういない。
この緩急のつけ方を見るに、そんな提案がなされることはもうないような気がした。
どうしたのだろうと、尋ねればいいのかもしれない。
けれど、尋ねなければわからない程の行為でもなかったのだ。
婚約を撤回し、指輪を回収する。
その行為が示す言葉はあまりにも明白で、人間とて間違いようのない意志表示ではないか。
そして魔物は、ネアの言葉を振り切ってこの部屋を出ていってしまったし、こんなことは今まで一度もなかったのだ。
(…………巣は、ここに置いておいていいのかな?)
それとも、帰ってきてから移設するのだろうか。
また胸がざわりと音を立てて、ネアは一度目を閉じてから開いた。
スイッチを切り替えるように心の動かし方を整えるこのやり方は、一人で暮らしたあの屋敷で育てた術だ。
雨の音の響く真っ暗な部屋の中で幾つもの言葉を飲み込み、内側にある一切に蓋をしてしまうことだけは自分でも誇れるくらいに磨き抜いている。
蓋を閉めて安堵しかけてふと、あの日のことを思い出した。
かかってきた通話を何とか終えてから、震える指で床に落とした受話器からは無機質な音が響いていた。
突然大切な家族がもういなくなったのだと言われ、大きな声を上げて泣き喚きたかったけれど、機能不全でも起こしたように涙は流れなかった。
やけに胸に響く自分の荒い息を聞きながら、ただ呆然としていたあの日。
(………っ、全然状況が違うのに!)
今度はさっきより長めに目を閉じて呼吸を落ち着けた。
納得がいくまで続けてから、何とか口角を上げて微笑めるまでに整える。
(人間とは違う感覚の生き物なのだ)
今迄そう理解して受け止めてきたことを、今回に限り不愉快だと荒ぶるのはおかしい。
何だかとても悲しいけれど、酷い言葉で傷付けられたわけでもなく魔物は自然体であった。
であればここでネアが責めてしまえば、何だか魔物が可哀想だ。
「よし。食事までにはまだ時間があるかな………」
リーエンベルク内の通信を開き、家事妖精へディノの分の晩餐はいらなくなった旨を伝えた。
連絡がぎりぎりになってしまった謝罪を付け加え、少しだけ時間に余裕があるので、まずは書き物机に置いてあった手帳を開くことから始める。
そこには、今迄記録をつけてきた歌乞いとしての仕事の内訳がびっしりと書き連ねられていた。
ふうっと大きく息を吐いてから、その精査に取り掛かる。
ディノが精製した魔物の薬ではなく、ネア自身が狩り採ってきた生薬の材料のページを開き、まだ在庫があるものと、これからも在庫を増やせるものを試算する。
そこに更に現在の貯蓄金額を合わせて思案し、素早く、けれど慎重におおまかな予定を三種類立てた。
ディノが契約の魔物としては側に残る場合と、
ディノがいなくなっても暫くは自力で給金分働ける場合、
そしてすぐにリーエンベルクを出なければいけなくなった場合の三通りだ。
リーエンベルクに在席しているのは、ヴェルクレアの歌乞いであるという大前提がある。
まだ、ディノは契約の魔物であることまで嫌になったとは言っていないし、以前とは違い他の者達との兼ね合いもあるので、一概にすぐ出奔しようとも言えないが、現実的な問題としてここを出ることは考えざるを得ない。
何かが決定打になる前だけが猶予期間であるので、その間に心構えをしておきたかった。
(家の心配はしなくていいのかしら?)
何となくだが、もし契約解消になるのだとしても、魔物の指輪以外ではディノは自分が与えた贈り物を回収するようには見えなかった。
であればイブメリアに貰った厨房を家代わりにして生活が出来るし、それが可能であれば随分と今後の金銭的な見通しが明るくなる。
住居の問題や、家財道具等、浮かせることが出来れば助かるものが沢山あるのだ。
「まずは季節的な収穫にもなる雪菓子と、……多分雪菓子を収穫に行けば、狩りも出来るかな。今の状態でどれだけ動けるのか、後でお庭で調べた方がいいのかも知れない」
指輪を失ったネアに残されているのは、ヒルドの耳飾りと死の舞踏の靴紐、アルテアの相互間守護に、靴紐補助のウィリアムの守護、そして、概要はあまりよくわからないままのノアの守護。
ディノがここから去るのならば、ウィリアムのものとアルテアのものは、失われることも覚悟しておいた方がいい。
それらの動きをきちんと確かめたいのだけれど、果たして冷静に尋ねてみることが出来るだろうか。
あの魔物達は愚かしさを嫌う。
投げやりになっている面倒臭い人間だと思われないように、丁寧に落ち着いた言葉を選んで話せる精神状態でありたい。
幸い、呟いた独り言の状態からは、比較的冷静な声が出るようだとわかった。
とは言え最初の難関は、すぐに訪れようとしている。
(晩餐の時に、エーダリア様達に今日のことがどうなったのかを訊かれたり、指輪がないことを指摘されたら大丈夫かな?)
ちりりと焦げ付くような不安に苛まれていれば、あまり鳴らない部屋の通信端末が鳴った。
少し慌てて取り上げ応答すれば、もっと珍しいことにヒルドからのようだ。
「このような形で申し訳ありません。ディノ様の様子は如何ですか?」
「いえ、こちらこそご心配をおかけしました。目を醒ましてくれたのできちんと話合いまして、今は元気にしていますよ」
だいぶはしょったが、このような通信で連絡を寄越したということは、ヒルドは忙しいに違いない。
ここで詳細まで話し合って煩わせることは出来なかった。
今日はそれでなくとも沢山迷惑をかけているのだ。
「良かったです。もう、ネア様も落ち着きましたか?」
これは難しい質問なので、ネアはヒルドには見えないのをいいことに渋面になる。
「……考えることが増えましたが、ひとまず今後の狩りの予定を立てていました」
息を吐くように小さく微笑む気配。
申し訳なさを感じないではなかったが、嘘は吐いていないし、今は心配させたくない。
「このような時に申し訳ありません。エーダリア様が少し厄介な案件を持ち帰りまして、我々はその会議に入らなければならなくなりました。晩餐はご一緒出来なくなってしまったのですが、リーエンベルク内にはおりますので、何かあればすぐに連絡下さいね」
「まぁ、それは大変ですね。こちらこそ、そんな時にまでお気遣いいただきまして有難うございました」
通信が途切れた後、ネアはもう一度溜息を吐いた。
何を訊かれてしまうのだろうとか、指輪の説明をしなくてはいけないとか、とんだ杞憂だったわけだ。
そうなると早めに行動しておきたいので、鏡の前で一度表情の確認だけしてから、ネアは一人で晩餐に向かった。
窓の外は雪が降っている。
お伽噺のような美しい窓枠の向こうの風景に、見る度心が満たされることに変わりはない。
(どうしてあんな風に突然変わってしまったんだろう。冷静になった途端、手に入ったものとして不要になったのだろうか)
黙々と美味しい夕食を食べながら考え、サーブしてくれる給仕妖精にはそつなく微笑んだ。
多分、ネアはとても強い。
その強さに感謝しつつ、砂のように感じる食事を飲み込んだ。
(そっか。今日はディノがいないから、久し振りに自分のお皿の上のものを全部食べれるんだわ)
フレッシュトマトのマリネを食べるのは久し振りだ。
大事な魔物の好物だと思えば、何だか不思議な感慨に包まれる。
今迄ずっと当たり前のように一人で食事をしてきたのに、こうして久し振りに静かな食卓につけば、どうやって間を持たせればいいのかわからない自分に驚く。
やがてお皿も空になり、ネアは最後まで笑顔を保ったまま部屋を出た。
部屋への帰り道、長い廊下を歩きながら、わぁっと声を上げて逃げ出したくなる。
目を閉じて開いて、深く深呼吸をしてからまたその衝動を一つ殺した。
これから帰る部屋が真っ暗で誰もいなくても、別に死んでしまうわけではない。
頼りになる人達がいなくなるわけでもないし、友人が失われるわけでもないのだから。
「さてと。さてと、さてと!」
部屋に帰ると気分を入れ替えるように声を張って、ネアはさっそく着替えることにした。
また騒動を引き起こしてもいけないので、自衛出来る範囲での狩りを試してみる機会だ。
じっとしていたら息が止まってしまいそうなので、こうして動けることがあるのは有難い。
だからもし、この先に大事な魔物を失って心が崩れてしまうのだとすれば、それは全てがきちんと落ち着いて一息吐いてからのことだろう。
魔物の指輪がないので、主戦力はブーツになる。
ネアはヒルドの耳飾りをしっかり装着し、ブーツを主力に戦い易いように足捌きのいい乗馬服に着替えた。
重しになる引き戻しの魔術とやらはわからないが、首飾りの金庫はまだ充分に稼働するようだ。
それでも念の為に、必要な道具達は取り出しておき、金庫がなかった頃に使っていた仕事用の鞄やポーチに入れて装着する。
警戒するべき謎の人物とやらの対策で道具類を増やされたお蔭で、高価な携帯転移門もそこそこに備蓄がある。
誕生日にエーダリアから貰った通信の出来るピンブローチ、武具となる魔術道具に、何かがあった時用にストックしてある魔物の薬、ゼノーシュから持たされた黒煙事件で活躍した凶悪な種。
それらの全てを装備すれば、なかなかに勇ましい魔術師のようなスタイルになる。
鏡の前でくるりと回って、それなりに様になっているのを確認したら、少しだけ気分が上がった。
本当は白いケープも羽織りたいけれど、あれは宝物なので今はやめておこう。
またいつか、本当に自分の力だけで自立しなければいけなくなったときは、最強の盾として使うかもしれない。
部屋を出て夜の庭から禁足地の森に抜ければ、月のない夜はしんとしていた。
こうして一人で外に出ると後ろめたい気持ちになってしまうが、背後の部屋に魔物はいないのだ。
雪はやんだようで、ぼんやりと雪灯りに青白く光る森は、今迄とは違う覚悟でひやりと寒い。
(けれど、自力で狩りをするにせよ、ここまで恵まれた装備の人間が、いったいどれだけいるだろう)
そう思えばネアは幸せだ。
だからこそ、万が一このまま魔物を失っても、挫けず自分の力で歩いてゆけるよう、足場の強さを確かめなければならない。
決して今である必要はなく、寧ろ今はいささか無謀でもあるタイミングだが、こればかりは何も考えなくていいくらいに動いていたいので、どうか許して欲しい。
(不審者情報もあるのだし、エーダリア様に言われたリーエンベルクの守りのラインは決して超えないようにしなくては!)
少しずつ自分の可動域を確かめ、月が膨らむ半月後にはアルバンの山で雪菓子の備蓄と、そこに集まる魔物や妖精を狩れればいいのだが。
ざくりと踏み込んだ雪の冷たさに、なぜだか今度はふわりと微笑んだ。
今日は朝から何やら騒々しい一日で、思いもかけずまた一人で生きてゆくことを試案する羽目になっている。
何でこんな目に遭うのだろうと悲観するよりも、何と厄介な人生なのだろうと笑ってしまった。
笑えば笑うだけ、心に蓄えた温度が零れ落ちてゆくような気がした。
(明日になってディノが帰ってくれば、良くも悪くも状況がもう少しわかるかな)
その日、ネアは成果物として扱えそうな妖精や魔物を一定数狩ることが出来た。
分別や保管で朝までかかってしまったが、またあの大浴場にお湯が入っていたので朝風呂にゆき、すっきりとしてから朝食までの一時間で睡眠をとる。
朝食の席でも不在にしていた魔物にふと、せめて帰る時間を聞いておけばよかったと後悔した。