薔薇の魔物と万象の魔物
薄闇の部屋に香の煙が揺れる。
ゆっくりと寝台から起き上がり、窓の外の雪を見ている背中を目で追いかける。
風のある早急な降り方ではなく、はらりはらりと満開の花が散り落ちるかのようなぼたん雪だ。
「外を見ていらっしゃるの?」
そう声をかければ、息が止まりそうなくらいに美しい魔物が小さく笑った。
勿論、彼は声を上げて笑ったりはしない。
いつもその整った唇にゆったりとしたカーブを描き、底知れぬ微笑みを浮かべるだけだ。
「雪が降っているからね」
穏やかな美しい声。
その声はいつも穏やかで、その代わり感情を伺わせることもない。
「雪がお好きなのですか?」
「さて、どうだろう」
手を伸ばしてその背中に触れたかった。
けれども刹那的な熱が冷めれば、そこにいるのはもう手の届かない見知らぬもののようだった。
その残酷な遠さに、微笑んだまま泣きたくなる。
(やっと触れたのに)
やっと彼に触れた。
遠くから見つめ、その他の哀れな女達と共に溜め息を吐いていた幼い頃から、やっとここまできた。
胸が潰れるような思いで必死に言葉を交わし、彼の微笑みの冷淡さに別れた後に一人で泣いた。
それでも良かった。
触れれば、
言葉を交わし時間をかければ、
少しずつにでも彼が変わってくれたなら。
例えば彼はいつか唐突に気付くのだ。
この目の前の女は、自分にとって特別な存在で、それを見過ごしていた自分は何と愚かだったのだろうと。
本当の自分を晒け出せるのは彼女だけだと、そう気付いて彼が喜びに胸を震わせる日が、ある日突然訪れる。
そんなことを、何度も何度も考えた。
でも彼はこうして窓の外を見ていて、降り注ぐ雪の方が面白いらしい。
先程までだって、どこか冷淡な眼差しで呼吸一つ乱さずにこちらを見ていた。
溺れてゆく者を見下ろして、その愚かさが不思議だと言わんばかりの表情で、それでも彼は例えようもなく美しく、ブランシュはただ見惚れるばかり。
『きっと、ブランシュのような女の子が、彼の心を溶かすのだわ』
そう言ってくれたのは古くからの友人の、黄百合の魔物だった。
『私にはあの魔物の王の心はわからないわ。ただ、あなたのような女性を選ぶのは珍しいわね。それがとても良いことであれば、私も嬉しいのだけれど』
そう言ったのは同じ薔薇を司る者、紅薔薇のシーであるロクサーヌだ。
ロクサーヌは長らく万象の魔物を籠絡出来るのではと言われていた女性の一人で、そんな彼女から希望めいた言葉を貰えたのはとても嬉しかった。
ブランシュは、一人でひっそりと本を読んでいるのが好きで、決して華やかな場所が好きな魔物ではなかった。
白薔薇の魔物として公爵の末席にいる以上、確かに賞賛の声は多くかけられたし寵愛を請われることもある。
けれども、ブランシュが恋をしたのは唯一人、万象の魔物だけだった。
そんな彼女が華やかな舞踏会に通い詰めたのは、遠くからでもいいからシルハーンの姿を見ていたかったからだ。
あの日、ブランシュはあまり似合わなかった緑のドレスを着ていた。
くすんだ暗黄色から淡い白に変化する髪には似合わないとわかり少しむくれていたときに、彼が通りかかったのだ。
『おや、ご機嫌斜めだね』
彼は決して、排他的な魔物ではない。
穏やかに微笑んでいるし、話しかけられれば朗らかでさえありもした。
高貴な者にも、貧弱な者にも分け隔てなく、微笑みかけたり滅ぼしたりする。
けれどその気紛れが、まさか自分に向く日が訪れようとは。
喜びのあまり興奮して喋りすぎ、一人の帰り道に情けなくて泣きたくなった。
きっと万象の王は呆れていただろう。
そう思って落ち込んでいたら、また次の夜会でも彼は微笑みかけてくれた。
(あれから)
あれから、ここまで。
長く険しく、甘美なる荊の長い道。
女達は欠片の寵を求めて争い合い、彼はそれにまるで興味を示さなかった。
ブランシュは、誰も陥れなかった。
ただ歯を食いしばって耐え残り彼を慕っていただけで、彼の取り巻き達の輪にだって加わらなかった。
その間に様々な美女達が寵を誇り、力尽きたり、蹴落とされたりして去っていった。
心を残したまま恋破れて去ってゆく者達の嘆きは深く、自ら命を絶ってしまった者も多い。
彼との恋に破れ、どれだけ長命高位の魔物や妖精達が喪われていったことだろう。
「シルハーン様、わたくしは………」
何かを言おうとして言葉が詰まった。
多分、言えば終わることを自分は知っている。
時間でもなく機会でもなく、ただ彼は選ばない。
それだけのことだと本能的に理解してしまって、それを知ってしまったことが恐ろしく悲しかった。
「そう言えば、君も白い花だったかな」
その一言が目の前の女の心を殺すのだと、彼は知る由もない。
知ったとて、何とも思わないだろう。
「……白薔薇ですわ。昔からある、花びらの少ない野に咲く薔薇です」
「薔薇か。ふうん」
「………わたくしの名前を覚えておいでですか?」
「どうしてだい?」
彼は知っているとも、教えてくれとも言わない。
ただ不思議そうに問いかけるばかりだ。
「覚えて欲しかったからです。名前を呼んでいただけたら、嬉しいですもの」
「そういうものなのかな」
それだけ言って、彼は雪の積もり始めた森の景色を見ていた。
「…………シルハーン様、お慕いしております」
彼は振り返りもせずにまた小さく微笑んだようだ。
硝子に移った微笑みは、ぞっとするくらいに暗かった。
「面白いことを言うね」
「面白い、ことでしょうか?」
「また同じ言葉が出てきた。みんな同じことを言うから面白いよ」
「………みな、あなたを想っているのですわ」
「それはもう飽きてしまったな。他に面白いことはないのかい?」
「他に………」
賢い女性であれば、ここからもっと彼の興味を惹けるようなことを言えるのであろう。
しかし、ブランシュは情けないくらいに動揺して、涙が溢れそうだった。
「泣くのはどうしてだろう?」
堪えきれずに溢れた涙に、万象の王は酷薄な微笑みを浮かべてこちらを見下ろした。
「悲しいからですわ。あなたは、誰かを想って涙が溢れたり、胸が潰れそうな絶望に泣きたくなることはないのですか?」
「よくわからないが、ないのだろう」
「………それはもしかしたら、幸福なのではなく不幸なことなのかもしれませんね」
その時、そう答えたのはブランシュなりの最後の矜持だったのかも知れない。
彼に媚びる言葉を探すのではなく、彼が望まないような鋭い言葉を投げつけてやりたかった。
その後、万象の王と会うことはなかった。
それから何年も経てば、その時の自分の言動こそ、何よりも彼に媚びた言葉だったのだと気恥ずかしく思い出す。
彼の静謐な心を何とか波立たせようとしたその行為こそ、彼が望んでいた特別さを差し出そうとして身を切った行為だった。
(そしてそんなことくらい、今までに何人もの女性達がしてきたことだったんだわ)
見事なテーブルの上には、小さな王子の誕生日を祝うお菓子や料理が並んでいる。
久し振りに懐かしい友人に会って、あの頃のことを思い出してしまった。
あの美しい万象の王は、今はどこにいるのだろう。
そんな風に懐かしく思い出す頃にはきっと自分には素敵な伴侶がいて、可笑しくも可愛らしい若かりし頃の思い出として笑い飛ばせるのだろうと考えていた。
けれど、ブランシュは今も伴侶を持たない魔物だ。
やはり、隔絶されたものに触れてしまった心は、その前のようには戻らない。
輝きに目が眩んで、盲目になったまま。
少しだけ、何にも心を動かされず飽いていたシルハーンのことがわかるような気がした。
だが、そんな風に思うことすら愚かなばかりで、根本的なものはまるで違うのだろう。
あの頃の彼がわかる気がする。
その手の、そういう種類の感傷でしかない。
「そう言えば、レーヌが死んだそうよ」
傾けるカップの中の紅茶を褒めるように、朗らかにそう言ったのはロクサーヌだ。
レーヌは黄昏のシーであり、ブランシュの後に万象の王が関わった女性だとされる。
「そうなのですか。第四王子の関係で?」
「いいえ。………万象の王の逆鱗に触れたようね」
「え、………」
思いがけない言葉に、ブランシュは言葉を失った。
ロクサーヌは優雅に微笑み、その王冠に相応しいだけの美しさで同族の黄昏の末路を語る。
「やはり愚かさは愚かさで以って顛末となるのね。だからブランシュ、今は決して万象の王に近付いては駄目よ」
「ロクサーヌ?」
こちらを真っ直ぐに見たロクサーヌは強く艶やかだ。
その強さをブランシュに求められても、時折視線の強さに目を逸らしたくなってしまう。
どこか万象の王に似た、数多ある星屑の群れの中にある一際大きく明るい星の一つ。
「人間の社会では隠されていることだけれど、万象の王は歌乞いを得たのだそうよ。魔物にとって歌乞いは恩寵なのを知っているでしょう?間違っても、あの方を悪戯に不安にさせてあなたの身を損なわないようにね」
「………あの方が、不安になる?」
とても奇妙な言葉を聞き首を傾げたが、ロクサーヌは微笑みを深めるばかりだった。
「私とてこのざまなのよ。あの方だって、それにあなたもいつか。運命というものは、とても不思議で嵐のようなものだわ」
あの夜のことを思った。
この魂を差し出してもいいとさえ思い、自分なりに必死に焦がれるものを掴もうとした雪の降る夜。
年を重ねればあの頃の己の手練手管は稚拙なばかりだが、それでももう、あの頃のように必死にはなれない。
届かなかった手の先にいたひとが、特別なものを得たのだと知ることは、絶望でもなく激情でもなく、とうの昔に死に絶えひび割れた心の淵が、ほろりと崩れ落ちるような恐ろしさだった。
(…………あの方に会いたい)
また寵を競いたいわけではない。
ただ、やはり彼は特別で、それを思うことを手放すのは耐え難い。
(ロクサーヌには見抜かれていたのね)
ロクサーヌの愛する王子の誕生日を祝う為に、久し振りにこの国を訪れた。
けれど本当はわかっていた。
ロクサーヌに会いに来たというのはただの自分への言い訳で、ヴェルクレアにシルハーンがいるという噂を聞いてこの国を訪れたのだ。
ロクサーヌはそれを見抜いた上で、年長者らしく釘を刺していったのだろう。
懐に入れた者には深い情愛を注ぐ妖精なのだ。
なぜか昔から姉のように世話を焼いてくれたロクサーヌからしてみれば、ブランシュの今も続くシルハーンへの執着はもどかしいに違いない。
「遠くから姿を見てみようなどと思っても駄目よ。あなたの暮らす、ハーラントの島にお戻りなさい」
「ロクサーヌ……」
「あなたが何も望まなくても、あなたの瞳は今も望んでしまうでしょう。あの方は今、かつて寵を与えた女達の接触を喜ばないわ。ブランシュ、あなたはまだ、あの方の前で平静には振る舞えないでしょう」
愛情から為された苦言であったので、その言葉を振り切ることは出来なかった。
後ろ髪を引かれる思いで王都を後にし、馬車から見事なヴェルリアの王城が遠ざかってゆくのを見ていた。
シルハーン程の魔物を得た歌乞いなのだ。
きっと、あの城のどこかにブランシュの愛した魔物の王と暮らしているのだろう。
(あなたはもう、泣けるようになったのかしら)
白を持つ魔物の女は珍しい。
かつて、同じように白を持つ同性の友人がいたが、彼女は愛した歌乞いを亡くして自らも崩壊した。
あの友人のように、シルハーンも自分の歌乞いを愛しているのだろうか。
歌乞いが女性だとは言われなかったが、なぜだかそんな気がした。
「…………羨ましいです、我が君」
堪えて、堪えてヴェルクレアを離れ、遠い土地の見知らぬ森の中まで来てからやっと、ブランシュはそう呟いて両手で顔を覆う。
これだけ離れていれば、泣いていても万象の王に見咎められることはあるまい。
ロクサーヌの友情を裏切らずに済む。
あの王都の近くにいたら、この感情のまま万象の王を探しに行ってしまいそうで怖かったから。
愛されないのであれば、誰も愛さない王のままでいて欲しかった。
あの、万象の王が微笑みかけてくれた舞踏会の夜が、永遠に続けば良かった。
(私はまだ、この想いの重さにどこにも行けないのに)
愚かに滅びることが出来たレーヌの方が、余程幸福な気にさえなって、堪えきれなかった嗚咽を漏らし頬を濡らす。
あの幸福な夜のその時に、この命を絶ってしまえば良かったのだ。
そう思って、ひたすらに泣いた。
(…………音?こんな森の中で?)
どれだけ泣いただろう。
ふと、涙に濡れた顔を上げると、胸をざわめかせる旋律が聞こえた。
ふらふらと音を頼りに歩くと、森の外れにある小さな山小屋を見付ける。
澄んだ旋律は途切れたり、また弾んだりして気紛れに口ずさまれている。
歩きながら、これは誰かの歌なのだと理解した。
誰かが、この歌をうたっている。
それは、胸を掻き毟るような例えようもない歌声だった。
後はもう夢中で生垣を掻き分けて、その歌い手を探した。
途中で投げ出されていた工具のようなものに躓き、転びそうになりながら家の裏手に駆け込むと、質素な椅子に腰掛けて工具を磨いていた男が、驚いたようにこちらを見ている。
どうやら鍛治職人のようだ。
質素だが綺麗に洗われているシャツの袖を捲り上げて、煙草を吸いながら歌っていたらしい。
膝の上には食べかけのパンがあり、遅めの昼食を摂っていたのかもしれない。
そんなところに見知らぬ女が飛び込んできたのだから、それは驚くだろう。
ぼさぼさの髪に無精髭。
だが、こちらを呆然と見返した瞳は綺麗な空色だった。
ブランシュと同じ色の瞳。
「な、なんだあんた、どこから来た?!」
がさついていて、けれども分厚くあたたかな声。
その声で彼が喋った途端、ブランシュは胸が熱くなる。
(ああ、………ああ!ロクサーヌ!)
別れ際に頬に口付けをくれた古い友人は、愛情の恩恵を司るシーでもあった。
これが彼女の恩恵でなくして、一体どんな奇跡だというのだろう。
ブランシュは慌てて手のひらで先程までの涙を拭うと、両手を拳にして、口を開けたままこちらを見ている男に詰め寄った。
「お願いです、もう一度歌って下さい!!」
「はぁ?!」
「それと、私をずっとここに置いて下さいませ!」
「はぁ?!何言ってるんだあんた?!」
動転するあまりパンを落としてしまった男を見て、あまりの愛おしさにブランシュは声をあげて笑った。
笑いながら何だか泣けてきて、まだ状況を飲み込めていない男の胸に飛び込むと、ぎゅうぎゅうと抱き着いた。
「ま、待てっ!ほんと、何なんだあんたは?!」
「ふふ。私、初めて自分から男性の方に告白しました!」
「……あんた、泣くのか笑うのかどっちかにしろよ。それと、この状況を説明してくれ」
頭を抱えてしまった男を抱きしめつつ逃さないようにして、ブランシュは興奮のあまり、また沢山喋り倒してしまった。
翌朝には死ぬ程後悔するのだが、その勢いに押されて彼が契約をしてくれたので、怪我の功名というところだろう。
焦がれ心を捧げてきた万象の王のことをすっかり忘れていたと気付いたのは、それからだいぶ経ってからのことだった。