78. 婚約について話し合います(本編)
ディノが目を覚ましたのは、夕方近くになってからだった。
目をゆっくりと開いて体を起こしてから、またかくりと項垂れる。
ディノは寒がりであるので、以前に買って貰った火織りの毛布でくるんであった。
淡い色の毛布に包まれた美しい生き物は、こんな風に弱っていても例えようもないくらいに麗しい。
「ディノ、目が覚めました?」
隣にネアが座っていることに気付いて、ディノは困惑したように目を瞬いた。
まだ悲しいのだが、側に居て甘やかしてくれるのは嬉しいらしく複雑そうな顔をしている。
「………ネア」
「良かった、目は腫れていませんね。何か欲しいものはありますか?」
「ネア………」
「あらあら。でもこうして側にいるので、それは大丈夫ですね」
そう答えると、なぜかくしゃりとなってしまい、肩の上に頭が落ちてきた。
また泣いてしまわないよう、魔物を抱きしめてやったが、それでは足りなかったのか、両腕でディノからも拘束される。
解けてぱらりと落ちてきた髪が、ネアの頬に触れた。
深い溜め息の音に胸が締め付けられる。
「ディノ………」
「………何だろう、悲しい」
耳元でぽつりと呟かれた言葉は、とても切なかった。
その悲しげな響きに胸が潰れそうになって、ネアはディノの腕の中で体を捻る。
真珠色の髪の毛は少し乱れていて、いつもよりもパサついているようだ。
覗き込んだ瞳は、目を伏せがちにしているせいで、長い睫毛の影が落ちていてとても麗しい。
もう涙を流してはいなかったが、水紺の瞳には苦痛にも近い翳りがある。
「ディノ、一つ提案なのですが」
「…………提案?」
「ええ。私の大事な魔物がこんな風にしょげてしまうのはとても悲しいので、もし良ければ私と婚約しませんか?」
さすがに気恥ずかしい提案なので、ネアはあまり考えてしまわない内に一気に口にする。
もう少し声をかけてやってからでも良かったが、そうすると切り出す勇気が萎んでしまいそうだったからだ。
その効果は激甚と言えた。
伏せ目がちに悲しげだった表情が、見る間に驚愕の面持ちに変わる。
「ディノ?!……えっ、…………っ?!」
魔物は拘束していたご主人様を放り出すと、なぜか寝かされていた寝台のぎりぎり一番端っこに逃げてしまう。
ぺっと捨てられて寝台の上で尻餅をついたネアは、あんまりな反応にぎりぎりと眉を顰める。
寝台の端に逃げのびた魔物は、こちらを見たまま固まっていた。
「…………よくわかりました。とても嫌そうなので、やめましょう」
「ご主人様?!」
地を這うような低いネアの声に、己のとった行為に気付いたのか、我に返り慌てた魔物は寝台の端から素早く戻ってくると、剣呑な表情になってしまったネアをぎゅうぎゅうと抱き締める。
しかし便宜上の前倒し婚約とは言え、プロポーズした途端に突き放されたご主人様の怒りは大きい。
しばらく無言で放置し、魔物が充分に慄いてから口を開いた。
「ディノ、無理にご主人様を立てる必要はありませんよ。こういう問題は、己の心に正直になって下さいね」
「婚約しよう、ネア!」
「………無理をしていませんか?」
「婚約したい………」
放り出されてからまた抱き締められているので、ネアの髪の毛はくしゃくしゃになっている。
男前に口の中に入った毛先をぺっと吐き出しながら、ネアは険しい眼差しで懇願の目を向ける魔物を観察した。
厳しい審査の眼差しに、魔物は微かに震えている。
「…………わかりました」
「ご主人様!!」
ここでまた魔物がはしゃいだせいで、ネアは揉みくちゃにされた。
もはや抵抗するのも虚しいので、両手を大きく広げて寝台に仰向けに倒されたまま、大喜びの魔物に好きにさせる。
美麗な魔物が振り切れんばかりに尻尾を振る大型犬のようだが、幸せそうで何よりだ。
「………婚約者」
「もはや、乙女もかくやの恥じらい方ですね」
今度は頬を染めて一人で照れている魔物を見上げて、ネアは契約の諸注意事項を伝えることにした。
そろそろ落ち着いたと判断したのだ。
「ただ、前に約束した一年の予約期間は守って下さいね」
「そうだね。勿論、その一年はきちんと待っているよ」
「そして、その一年後から、第二婚約期間に入ります」
「…………第二婚約期間?」
ぽかんとした魔物に、ネアは出来る限りヒルドを意識して事務的な説明を加える。
ここで魔物が荒ぶらないよう、隙を見せてはならない。
「元々、私はその一年後の約束をお付き合いするかどうかのものとして、了承したのです。なので、当初の予定通りそこから恋人でもあり婚約者でもある、言わば上級婚約期間とします!」
「………でも、今も婚約はしているんだよね?」
「ええ。言わば、肩書きの前借りでの準備期間ですね。それに、貴人の方は婚約期間が二年くらいある場合も多いそうですので、ディノは王様ですし丁度いいと思うのです」
「………伸びた」
総計二年の待ち時間になると理解した魔物が、愕然と呟き悲しげな目になる。
恨みがましくこちらを見上げたが、ここは冷徹な眼差しを向けて譲らない姿勢を見せた。
ご主人様が頑固そうな様子を見せたので、先程まではしゃいでいた魔物が少しずつ萎れてくる。
とは言え、あまり締め付けるとまた泣いてしまうかもしれないので、次の手を打つことにした。
「来年からは、恋人としてお付き合いしてくれるのだと思って楽しみにしているのですが、ディノは私と恋人になるのは嫌ですか?」
「ネア、ずるい………」
頑張って可愛らしく微笑んでみれば、魔物は顔を覆ってじたばたしている。
もう少しで落ちそうなので、ネアは心の中でほくそ笑んだ。
「恋人という期間もきっと楽しいと思います。一度しかないことなので、ゆっくり進めませんか?」
指の隙間からこちらを見た魔物が、ふと真摯な目を向ける。
困った無防備さの眼差しとはまた違う冷静な色に、ネアは首を傾げた。
「………ネアは、私の伴侶になるのはあんまり嬉しくないのかい?」
小さく躊躇うような切ない声だった。
目を瞠ってから微笑みを深めて、ネアは不安そうにこちらを見ている魔物に体をぶつけてやる。
「前に、ディノは言ってくれましたよね。あまり喜ばしくなくても、私にこの世界の色々なものを見せてあげたいのだと。私はね、その言葉がとても嬉しかったんです。なので、私の大事な魔物にも、焦らずゆっくりとたくさんのものを選び、楽しんで欲しいんです」
「それは、君にはあまり喜ばしくない?」
老獪な魔物は、言外のその余韻を聞き逃さなかったようだ。
格好をつけても仕方ないので、ネアはきちんと本当の気持ちを明け透けに伝える。
「その猶予の間にディノがここに飽きて、どこかへ行ってしまうかも知れないという不安が私にもあります。だとしても、私はディノに選択肢を残さなければ、きっと後悔するでしょう」
少しだけ魔物らしい、艶麗で唆すような眼差しをしたディノの頬に手を当てる。
その温度が胸に染みて、大切だからこそなし崩しに繋ぎきれない距離のもどかしさを思う。
「怖いなら、すぐにあげるのに」
「だからこそです。最初の一年間は私に下さい。次の一年間はディノが使って下さいね。魔物さんの結婚は、生涯一度きりなのでしょう?」
「困ったご主人様だね。私の気持ちが変わる訳もないのに」
「けれど、………その、専門的なところでご希望に沿わないかもしれません」
ネアが頑張ってそこまで言えば、ディノは困惑したように首を傾げた。
「ウィリアムにもそんなことを言われたけれど、私は専門的なのかな?」
「まぁ、無自覚だったんですか?とても専門的なので、一年程準備期間が必要なくらいですよ!」
「…………………そうか、そんなに専門的なんだね」
どうやらそこで、魔物は自分との対話に入ってくれたようだ。
変態としては可愛らしい範疇とは言え、まさかネアも、ディノが自分の特殊さに気付いていなかったとは思わなかった。
恐らく、今までの参加者は誰も指摘しなかったのだろう。
少し落ち込んでいるようだったので頭を撫でてやれば、不安そうに頭を擦り付けてくる。
庇護欲をそそられたので、わしわしと撫でてやった。
何度か専門的と呟いているので、混迷の渦に入ったようだ。
「今日はたくさん泣いてしまったので、水分を摂って下さいね」
「…………初めて泣いたよ」
「あら、初めて泣いてしまったんですね」
「疲れた………」
少し不満そうに言う魔物に心を動かされたネアは、大事にしてあげたい気分になる。
朝のお風呂上りにざっくり結んだ三つ編みのままだったせいか、乱れた髪が何とも色めいた有様だ。
泣き寝入りして更に暴れたと知らない第三者が見れば、誤解を受けそうな姿で困ってしまう。
「何かして欲しいことはありますか?」
「今夜は巣で一緒に寝ようか」
「却下します。次の提案をして下さい」
「婚約者なのだから、いいんじゃないかな」
「まだ便宜上の前倒し婚約段階です。前に話した通り、悪さをしたら白紙に戻してしまいますからね」
「ご主人様……」
とても怯えた魔物がへばりついたので、ネアはひとまず水分を摂取するように推奨した。
便宜上という言葉が余程堪えたのか、素直に頷き、ディノは水を飲むために立ち上がる。
しかし本人の言うように疲れているのか、立ち上がったところで一度、こちらを見てふらりとよろめいた。
「ディノ?あまり体調が良くありませんか?」
「婚約者………」
どうやら体調不良ではなく、喜びを噛み締めてふらついたようだ。
ほんわりと嬉しそうに呟くその言葉に、今回は応えてやることが出来るので、ネアは微笑んで頷いた。
「はい。婚約者ですよ」
「ネア………!」
しかし、本日の魔物には刺激が強すぎたらしく、ディノはぱっと目元を染めると慌てて逃げてゆき、バスルームに閉じ篭ってしまった。
物凄い勢いで逃げていった魔物がいなくなり、一人寝室に取り残されたネアは、またギリギリと眉間の皺を深くする。
「解せぬ………」
そろそろこの仕打ちを、精神攻撃として訴えてもいいのではないだろうか。
そんなことを考えながら枕を攻撃していると、何となく残忍な気持ちになってきたので、こういう気分であれば、いささか本気の体当たりが出来るかも知れない。
しかし、半刻程で戻ってきた魔物は驚くべきことを言い出したのである。
晩餐に向けて髪を梳かしていたネアは、驚きのあまりにブラシを取り落としそうになった。
「ネア、婚約を撤回しよう」
「…………はい?」
そう言ってこちらを見た魔物は、感情の伺えない目をしていた。
万事解決して穏やかに夕食に向かえると思っていたが、どうやらそうはならないようだ。