77. 緊急対策会議が開かれます(本編)
ディノを運んだウィリアムの作戦は、何と力技だった。
説得が聞こえていないようだというネアの説明を聞き一つ頷くと、ウィリアムはそのままずるずるとディノを半ば引き摺るようにして部屋の中に押し込んでくれた。
そのまま押し歩いてくれ、何とか部屋に戻れたネアはもはや感謝しかない。
その後魔物は何と泣くだけ泣いて泣き寝入りしてくれたので、ようやくネアも解放された。
今は、目元を冷やしてやり、子供のようにくたびれて眠っている魔物の髪を撫でている。
この事件は完全にプライベート案件なので、仕事を疎かにしないよう、問題を起こした時の賄賂用に隠し持っていた成敗済みの魔物を差し出して何とか損失ゼロとした。
(蜥蜴の魔物さん………)
少し可愛いと思って狩らずにいたのだが、まさかの凶悪な魔物だった為に、危うく足を切り落とされるところだったらしい。
それは人間の足を奪う魔物だとディノに教えられ、愚かにも飛びついてきた蜥蜴の魔物を白いケープではたき落したのは、イヴメリアの前のことになる。
蜥蜴の魔物は、倒すとその形のまま蜥蜴結晶になるので、そのまま保管していた。
保存が効き、あらゆる臓器の病を一度だけ治す。
今日の依頼は心臓の病の薬だったので、これで代替品として貰った。
エーダリアは勿体無くて使えないと恍惚として呟いていたが、その薬の行方はどうであれ、仕事に穴を空けないのが重要なのだ。
「この魔物をどうすれば良いのでしょう………」
珍しく疲労困ぱいしたネアがそう呟けば、ウィリアムはうーんと首を捻った。
「俺としても、まさかシルハーンが泣くとは思わなかったな」
「………こいつ、どんどん退化してないか?」
「アルテアさん、失礼ですよ!」
「加害者はちょっと黙れ」
「むぐっ!」
ディノが無力化されているせいか、暴君と化したアルテアに口を塞がれたネアだったが、すぐさまウィリアムが救出してくれた。
また攻撃されても堪らないので、ネアはウィリアムの方へと避難する。
八つ当たりをされないように、巻き込まれた銀狐も持って移動した。
「ネア、この狐はどうしたんだ?」
「餅妖精から救出した結果、懐きました!愛くるしいので溺愛していますが、普段は魔物が荒ぶるのであまり遊べません」
「おい、この状況でよく連れてきたな」
「銀狐さんの貢献を忘れたのですか?アルテアさんより頼もしかったくらいですよ」
「おや、それは優秀ですね」
現在この部屋には、ヒルドにアルテアとウィリアム、そして銀狐がいる。
ネアの寝台に寝かせたディノの隣にネアが座り、寝台を囲むように寄せた椅子に左側にヒルド、ウィリアム、右側にアルテアの順で座っている。
そしてネアの隣には、銀色の毛皮が配置されていた。
休日だった筈のエーダリアには急遽第一王子との会談が発生しダリルとウィームを空けている。
心配して顔を見に来てくれたゼノーシュは、グラストと共に遠征の仕事なのだそうだ。
今までこの部屋に他人を呼び込むことは少なかったが、その原因だったディノが機能不全となっているので、こんな形で実現してしまった。
「銀狐さんは、ディノの髪の毛が扉に挟まるのを防いでくれたのです」
「髪を………、ですか?」
「ええ。結界的な何かが機能していないらしくて、先端を損ない易いらしいとか」
「成る程。妖精の子供が羽を損なう事例に似ていますね」
竜の角や尻尾、魔物や精霊の長い髪。
そして妖精の羽など、人間の目から見て先端まで挟まず、引き摺らず、上手く管理しているなと思う過剰なパーツは、実は魔術で守られていることが多い。
それは無意識に常時展開されるものだが、今回のディノのように身体のバランスを崩してしまうと、成体とは言えほんの少しの弊害が出るのだそうだ。
「ディノの場合は髪の毛だったみたいです」
「だが、更に無意識の自動補正のようなものを外部侵食でかけていた気がしたが……」
そう首を捻ったのはウィリアムだ。
「そのようなものもあったのですが、ディノと出逢った日の夜に止めさせたのです。意識せずに他の魔物さんを操ってしまえるそうなので、本人にもよくない能力だと思いました」
「………それは存在特性だろ?調整出来るものなのか?」
アルテアは愕然としていたが、当初はディノも調整出来たことに驚いていた。
けれども、どこかほっとしていたようで、少し驚いたのを覚えている。
「試してみたら出来たようで、ディノも驚いていました。不具合が出るのであれば元通りにしましょうと話していたのですが、今は気に入っているようですね」
「ああ。それは気に入るだろうな」
ふっと微笑んだウィリアムに、ネアは小さく頷いた。
何もしなくて良いということは、絶対的な拒絶と変わらない瞬間がある。
そこから自由になるのは、不自由さよりも喜びの方が大きかったようだ。
その檻から解放されて最初に触れ合ったゼノーシュと今でも上手くやっているのが、何よりの証拠である。
「兎に角、この銀狐さんは己の身を挺してディノの髪の毛を守ってくれたので、尻尾が癒えるまでは面倒を見ます」
「すぐに治してやるから放り出してこい」
扉に挟まりかけたディノの髪を、銀狐は飛び蹴りで守ってくれた。
その結果尻尾の先が扉に挟まり、銀狐は悲鳴を上げて蹲ってしまったのである。
ディノに抱えられていたネアでは手が回らなかったので、ウィリアムに捕獲して連れて来て貰った。
その道中も、魔物達がぶつかった花瓶が落ちそうになっていることや、アルテアが首に引っ掛けたままでいたタイを落としていることを、都度鳴いて教えてくれていたのだ。
その所為か、今は疲れ果ててぐったりとしている。
「さすがにその尻尾は不憫ですね。治癒しておきましょう」
アルテアの提案からは尻尾を遠ざけた銀狐だったが、そう手を伸ばしたヒルドにネアを見上げる。
微笑んで頷けば、おとなしく尻尾を預けた。
ふわりと光が弾け、先端の毛が抜けてしまった可哀想な尻尾は、元通りのふかふかの尻尾に戻った。
「で、ディノ様は回復が見込めるのでしょうか?」
「慰める声も届かないようなので、困ってしまっているんです」
「それは、重症だな………」
「これは私とディノの問題ですから、本当はこちらで解決したいのですが、私にはわからないこの世界のお作法や常識があります。これ以上泣かせたくないので、その助言をいただけないでしょうか?」
綺麗な真珠色の髪を撫でてやれば、まだ目を覚ます気配はなく、火照った目元が可哀想でそっと手をあてる。
「いや、もう婚約してやればいいだろ?」
アルテアのぞんざいさに、ネアは目を細めた。
「何てことを言うのでしょう!大事な魔物の結婚問題を、そんな風に簡単に決められるものですか!」
「お前が了承すれば済む話だろうが」
「私とて、専門的なあれこれに心が耐えられるのかの保証はしかねます。そんな相手を試してみて、ディノがとても嫌だったら可哀想ではないですか!」
「ネア、落ち着こうか。話題の特性として、少しずつ問題点がおかしいかな」
ウィリアムに窘められて、ネアは大きく深呼吸する。
この問題はかなり繊細な範疇のものなので、ネアも心がざわついてしまうのだ。
複雑な顔で黙り込むと、頭の上に片手をそっと乗せたウィリアムに覗き込まれた。
「まず、大前提として君は嫌じゃないのか?」
「む。専門的なところは、すごく嫌です」
「………ああ、うん。そうではなくて、シルハーンの伴侶になるのは嫌ではない?」
「………どう切り離して考えようとしても、その専門的なものが思い浮かんでしまうので、諸手を挙げて喜べはしません。ただ、ディノは好きなのです」
「その好意が少し甘い気がするんだ。………では、感情面はさて置き、条件的にシルハーンと伴侶になりたいと積極的に思うかな?」
「…………思いません」
「………シルハーンに、専門的な趣味がなければ?」
「むぅ。………勿体無いご縁だと思います。少し嬉しいかもしれません」
「うーん、もう一声だな。………じゃあ、シルハーンが万象ではなく普通の魔物だったら?」
「諸手を挙げてお話をお受けします!」
「………割と根本的な部分で駄目な部分が多いってことかよ」
アルテアは頭を抱えてしまったが、質問者だったウィリアムは少し不思議そうにネアを見た。
「そんな程度でも、ネアはシルハーンで構わないんだな」
ネアも少し首を傾げた。
その部分の不思議さは、一様に言葉で明確に出来るものではない。
「ええ。きっと私は、本来なら倦厭したいそれらの要素があっても、それを乗り越えられるくらいにはディノのことが好きです」
「けれど、今は決められない?」
「考えて下さい。ディノは、私が獣を可愛いと思うのも浮気に定義してしまう困った魔物です。これだけ、“かなり嫌”という基準が低いのであれば、日頃から身に馴染んだ嗜好が合わなければ、“ものすごく嫌”という判断になってもおかしくないでしょう?」
「………まぁ、確かにそれは可能性としてはありえるな……」
「そして、魔物さんは生涯に唯一人しか伴侶を持てないのですよね?」
「成る程、君を躊躇わせているのはそこなのか」
切り出していなかった本音はもう少しある。
恋人になるという選択肢ですら二の足を踏んだのは、まず第一に変態の領域に足を踏み込む覚悟がなく、第二にディノが感じるかも知れない、“ものすごく嫌”という感情を向けられたくなかったからだ。
ネアにだって勿論我欲があり、恐怖と向き合いたくないとか、この魔物を手放したくないという我儘な心がある。
なので、ここまでは年末までに決着をつけることが出来た、ネアの心の問題でもあった。
しかしその先の伴侶問題となると、ディノが被る不利益の方があまりにも大き過ぎる。
何しろ、生涯にたった一度だけのその権利を使ってしまうのは、ディノの方なのだ。
失敗したら取り返しがつかないのは、ディノなのである。
「しかしこの際、本人が望んでいるのであれば、後のことは本人の自己責任として気にしなくてもよいのでは?」
ヒルドの提案に顔をしかめたのは、なぜかアルテアだった。
「お前が推進派なのは意外だな」
「おや、私は、このお二人はきちんと共におられるべきだと考えておりますよ」
飄々と答えたヒルドに、眉を上げたアルテアは胡散臭そうに首を振った。
「どうだかな」
「アルテア様のような性根とは違い、私は愛しく思う者には幸福であって欲しいと考えておりますので」
「何だかよくわからないけど、そこは後にしてくれ。因みにネアは聞いてないからな」
ウィリアムの声に振り返った二人は、熱心に魔物の髪の毛を直しているネアを見て何とも言えない顔をした。
銀狐も、不毛な言い争いには呆れた目をしている。
「ネア、ヒルドが言うようにシルハーンが決めたことなのであれば、大丈夫なんじゃないか?」
「別に、このお話はお受け出来ないと話しているわけではないのです。感情面としてディノはまだ無防備な面も多いですし、あまり焦るような無理をさせたくないだけなのですが……」
「まぁ、俺もネアの考え方の方が賛成であるんだけどな」
「ウィリアムさん……」
「とりあえず、恋人までは進めてもいいんじゃないか?」
「ウィリアムさん?!」
このままでは大雑把な男達に押し切られかねないので、ネアは一年という猶予期間が、変態の門戸をくぐるまでの心構えとしてどれだけ大切なのかを力説した。
その準備期間がなければネアとて不本意ながら逃げ出してしまうので、また魔物を悲しませてしまいかねない。
「………よし、その問題はひとまず保留しようか」
「ウィリアムさん、切り離して考えさせようとしても無理な範疇ですよ!ほぼ問題の主軸と言っても過言ではありません!」
「…………誰か、こいつの性癖を矯正出来ないのか?」
「難しいでしょうね。そのようなものもまた、個人を構築する要素でもありますから」
まっとうに反論したヒルドだったが、ネアはいたたまれなくなって目を逸らした。
ネアから事情を聞いて知っているウィリアムも、そこはかとなく遠い目をしている。
同じ畑の住人の証言なので、このヒルドの発言はかなりの重さがあった。
「そもそも、準備期間まで用意して関係を深められてから拒絶されて、それでお前はいいのか?」
思いもかけず、そこを追求したのはアルテアだった。
こちらの世界では、王制や貴族階級の普及する社会に相応しく、人間社会の花嫁は無垢であれという風潮が色濃い。
しかし、ネアが前にいた世界と同じような価値観を持っている階層もあり、それが人外者達だ。
彼らは、恋をして恋人になり、その上で別れたり伴侶になったりする。
案外、離婚制度がある人間と違い一度しか選べないからこそ、様々な要素を吟味して慎重に選択するのだろうか。
「勿論、拒絶というものは心を抉ります。ふられてしまったらとても悲しいですが、そうして選択を重ねられることの方が自然だとは思います」
「あいつ目線に立ち過ぎだろ。そうなった場合、少なくとも人間の輪の中では、次への選択肢が皆無になるぞ。理想論じゃなく、現実的に考えろよ?」
ネアは微笑んで頷いた。
やはり言葉にしなければ伝わらないこともあり、ここに居る彼らはネアの過去を知っているけれど、ネアの置かれた状況はわからないのだ。
「私はどなたであれ、一般の人間の方と添うつもりはありません」
目を瞠ったアルテアに、勘違いされないように丁寧に説明を重ねる。
これは悲観ではなく、ネアの選択の顛末のようなものだから。
「私はかつて、自らの選択で人を殺したことがある人間です。それを抱えたまま、健全に生きておられる人間と添えるかと言えば、お相手の心の問題も私自身の割り切りも含めて、やはり難しいでしょう。戦争や自衛でなく犯された殺人である以上、私がしたことは重たい罪であり、私はそれを後悔していない冷酷な人間なのですから」
どんな理由であれ、そこには咎人としての明確な線引きがある。
ネアにはかつて沢山の友人がいたけれど、あの事件以降ゆるやかに距離を置き、古い繋がりの者は誰も側にいなくなっていた。
心に深く踏み入るくらいに親しい仲間程、その境界線を超えることは出来ない。
ネアが成したのはやはり、“普通”という生活を放棄せねばならない選択であるのだ。
「ですので、もし私がディノにぽいっとされた後のその先に誰かとご縁があるならばそれは、……言い方はよくないですが一般的ではない感覚の方だと思うのです。であれば、あまり心配しなくても良いのではないでしょうか?」
ふと、胸の奥にあのラベンダー畑の光景が蘇った。
馥郁たる香草の香りと、もう一度会いにおいでと言ったあの魔物の微笑み。
(この話題を理路整然と言葉にするのは、とても苦しい)
あの時にノアが提示したのは、ここにあるものを失う未来の話だ。
ノアの言う通り、一人で生きてきたネアがやっと愛するものを見付けたのだから、それを手放したその先のことを考えるのは、とても苦しく悲しい。
正直なところ、今はまだ現実的に考えたくもない。
(もし、ディノがこういう関係性を求めないでいてくれたら)
そんなことを思う時もある。
グラストとゼノーシュのように、関わり方を変化させても壊れる可能性のない在り方を選べている同業者が羨ましい。
ディノはもう、手離したくない大事な魔物なのだ。
少し涙目になりかけたのを気付かれたのか、ヒルドがふわりと微笑みかけてくれた。
「あなたがお一人になることはありませんよ。シーの庇護は生涯のものですからね」
「ヒルドさん!」
心細くなったところだったので、ネアはぱっと顔を輝かせた。
(そうだった!家族相当の庇護があるのだから、私は一人ぼっちにはならないんだ……)
「と言うことで、後顧の憂いはなくなりました。もしぽいっとされて結婚出来なくても支障ありません!」
「……お前、それは好機に備えて外堀を埋められているだけだからな………」
「ただ、ディノの指輪がなくなると狩りの質は下がるでしょうし、やはり貯蓄はしておかなければいけませんね」
「おや、ネア様一人を養うくらいの蓄えはありますよ」
「ほら見ろ。囲い込む気満々だろうが」
「アルテアさんは、ご自身を踏まえてしまうので、他者を見る目が汚れているんですね」
「おい……」
「そもそも、契約の魔物を得た歌乞いは、生涯伴侶を得られないのが一般的です。ディノにふられても、ディノから離れて新たな人生を構築出来る可能性が私にあるのでしょうか……」
「お前、案外えげつない自己診断をするんだな……」
自分で考えておいて渋面になりかけたが、そこでディノがもぞりと動いたので、ネアは慌てて話題を元に戻した。
「私のことはひとまずどうでもいいです!ディノをどうにか宥めてあげたいのですが、……この現状を踏まえて、魔物さんの感覚で何か良い施策はあるでしょうか?」
「恋人でもなく婚約者でもないとなると、ほぼ他人だからな。それで落ち込んだんだろう」
「ウィリアム、お前本当に容赦ないな……」
「家族のようにとても大切だと伝えたのですが、それでは駄目なものでしょうか?」
「婚約者になったと思って喜んでた奴にとっては、かけらも嬉しくないだろうな」
「そうなのですか…………」
「お前は、色事の情緒はほぼ皆無だからな」
「不当な攻撃に異議申し立てをします!」
少しだけ考えた。
この魔物が喜ぶのなら、おおよそのものを切り出すことは出来る。
さすがに特殊実演は、人間の本能に対する緩和と技能的問題が発生するので準備期間を要するが、それ以外のものは差し出せる。
ネアが固めた覚悟はそのくらいに深く、そしてその切実さのようなものは少しだけ本人でも気恥ずかしい執着だ。
(何となくだけれど……、)
もし、ディノがネアをわざと傷付けるようなことをすれば、ネアはディノを見限るだろう。
自分を損なうものから距離を置けるくらいには、ネアは自分のことが大好きだ。
けれど、これだけのものを差出せるのはディノだからであって、失敗したその先を考えるのはそもそも意味がないような気もする。
「ではネア様、通常の婚約期間を二段階に振り分けては如何でしょうか?」
少しの議論の後、その提案をしたのはヒルドだった。
こてんと首を傾げたネアに、ヒルドは教え慣れた滑らかさで説明をしてくれる。
「現実問題はどうあれ、貴族階級以上の婚約期間では、婚約相手と清廉に向き合うべき猶予でもあります。婚約期間を二分し、そのお約束されたという一年をそこに充て、その後一年程を恋人でもあり婚約者でもあるという上級期間としては如何でしょう?魔物とは言え婚約破棄は出来ますからね」
「おい、さりげなく二年稼いだぞ……」
アルテアがぶつくさ言っているが、ネアはヒルドの言葉を吟味した。
とても素晴らしい提案に思えるが、唯一の懸念が一つある。
「恋人より、婚約の方が上級相当だと思うのですが……」
しかし、ヒルドは穏やかに微笑んだ。
「いいえ、ネア様。貴族には紙切れ上のみの認識の仮初めの婚約者など、掃いて捨てる程におりますよ。現に、エーダリア様との婚約も、さして重要なものではなかったでしょう?」
「……なんと!その通りでした!エーダリア様との婚約のことを考えれば、婚約なぞあくまで言葉上のものですものね!」
「ネア、ヒルドがものすごくいい提案をしてくれたが、今の言葉だけはシルハーンに言わないようにな」
ウィリアムはやっと解決策が見付かったので安堵の表情だったが、それだけは厳しく言い含められた。
アルテアはまだ顔色悪く、ヒルドの方を見ている。
「お前、結局自分の為の外堀しか埋めてないだろう?」
「あくまで、お二人の為の助言しかしておりませんよ」
「婚約に対する認識の重さを軽減しただけに見えたがな」
なぜか険悪なのでネアが渋面になっていると、アルテアがさも悪徳を戒めるかのように教えてくれる。
「言っておくが、魔物は生涯一人しか伴侶を得られない反面、人間にはその上限がない。指輪が得られる指の数だけ、伴侶を持てるのが人間だからな」
「………なぜそれを責めるような口調で言われたのかわかりません。アルテアさんの中で、私は痴女か何かなのでしょうか……」
「そう言えば、妖精は指輪ではなく耳飾りだったな……」
ぽつりと呟いたウィリアムが一度、心配そうにネアを見た。
「ウィリアムさん……?」
「いや、個人的なことだしシルハーンも納得済みなら、俺は口出ししない」
「ヒルドさんから庇護の装飾品を貰うまでの経緯は、きちんとディノも納得済みですよ?」
どうやら、妖精から耳飾りを貰うのはそれなりのことらしい。
ウィリアムの心配がわかったので、ネアはそう説明した。
しかしヒルドとはその手の関係性ではなく、仲間や民を失った愛情深いシーが、ネアの面倒も見てくれているという話である。
何かを慈しみたいという欲求はとてもよくわかるので、ネアもその好意は嬉しく頂戴する所存だ。
いつかお互いに遠慮がなくなる頃にきっと、エーダリアのように叱られたりするようになるのだろう。
今でも既に、ものすごく怖い母親のような目をされる時がある。
母親相当か父親相当かはわからないが、最近見かけた第一王子とその契約の守護竜の関係性が微笑ましく理想的だった。
「お前の鈍さで生きていると、その内指輪だらけになるぞ……」
「なりませんよ。元々装飾品をたくさん着けるのは苦手なのです。指輪は一つで充分です!」
「俺はお前と出会ってから、人間の常識というものに不安を覚え始めた」
「アルテアさんは、たいそう捻くれていらっしゃるので、愛情というものの分岐の多さをご存知ではないのだと思います」
「まったく困ったものですね」
「………黙れ元凶」
会議はひどく混乱したが、ひとまずヒルドの提案した婚約期間を二段階に振り分ける作戦で説得することになった。
ウィリアムが承認してくれたので、魔物界のお作法でも問題はないようだ。
既に一度婚約破棄を経験しているネアとしては、何だかややこしいがまぁいいやの心持ちである。
(よし、これでディノも納得してくれる筈!)
大事な魔物が泣いている姿は、やはり胸が痛くなる。
最初は困惑や驚きの方が勝ってしまったが、悲しんでいるのであればどうにかしてやりたいのは当然のことだった。
その為ならば、便宜上の前倒し婚約くらいなんてことはない。
最後にウィリアムが、一つだけ確認をと言って質問をした。
立ち去り際にこちらを振り返った彼は、仕事に戻るらしく正装に近いかっちりとした軍服姿になっており、人ならざる者という気配が濃くある。
「ネア、もし他の誰かとシルハーンから同時に求婚されたらどうする?これはただの仮定の話だから、取り敢えず今迄に出会った全員を並べてそうなったら、誰を選ぶかでいい」
なぜその質問になったのかは謎だが、ある種の確認であることは確かだった。
なのでネアも、きちんと答えることにした。
「ディノを選びます。誰とも知り合いでない前提ならわかりませんが、こうして出会った方達としての話であれば、私はディノを選びます」
「良かった。これでレールに乗せてしまった罪悪感は抱かなくて済むな」
「………罪悪感?」
いいやと苦笑して、ウィリアムはその返事はくれなかった。
ネアにはよくわからない魔物らしさとして、何かの感慨があるのだろう。
(ともあれ、やっぱり人生経験が豊富な方達に相談して良かった!)
ネアだけでは、婚約期間を二段階に振り分けるなど思いもつかず、話し合いが平行線になってまた魔物を泣かせてしまったかもしれない。
これで、安心してディノと向き合えそうだ。
しかし後日に事の顛末を知ったウィリアムから、もう少し説明の仕方を詰めればよかったと暗い顔で言われてしまった。