小さきものと大きなもの
最近、王都の火竜には怖いものが出来たらしい。
そんな噂を聞いてドリーは眉を顰めた。
またヴェンツェルが勝手なことを吹聴しているに違いない。
(人間の政治というものは難解だな………)
ドリーからしてみれば、もう少し簡単に解決の付くことも、契約の子供はやけに回り道をして着地させていたりする。
その結果はいつも彼の思うようになるのだから、ヴェンツェルが有能であることは間違いない。
なので、ドリーは困った噂を立てられてもさほど気にしたことはなかった。
だが、今回ばかりはヴェンツェルを注意しなければなるまい。
流石に流していい噂と、いけない噂がある。
「ヴェンツェル、あの噂は駄目だ」
いつものように窓から入りながらそう言えば、椅子に座っていた契約の子供が振り返る。
その向かいには見たこともない男が座っていて、ドリーは片眉を持ち上げた。
エルゼとエドラが警戒している様子を見るに、この男は身内というわけではないのだろう。
であれば、自分が不在にしているときに危うい者と会うなど、不用心にも程がある。
「やれやれ、過保護なのが帰ってきてしまったな」
「ヴェンツェル、危ないことはしないようにとあれ程…」
「私は自分の判断には自信を持っている。それより、アンガルはどうだった?」
「………いつも通りだ。水が綺麗で、サラフも元気だった」
「それは良かったな。では、少し休んでくるといい」
「………ヴェンツェル」
腰に手を当てて無言で見下ろせば、ヴェンツェルはドリーにだけわかる苦い表情をして小さく肩を竦めた。
安心したように妖精達が感謝の目でこちらを見るので、やはりこの会談を強行してしまったのはヴェンツェルに違いない。
彼は、時々思いもかけない無茶をする。
その判断が間違ったことはないが、守護というものを過信しないで欲しかった。
人間という生き物は脆弱で、ほんの些細なことでも壊れてしまうのだ。
「さてと、こちらの話ももういいだろう」
「そうだね、僕の気紛れはここまでだ。後はムガルと話し合うといい」
「ムガル殿は引退されたようだ。今の我が国の統括は、違う魔物が見ている」
「あれ、それは初耳だなぁ。まだ王都では公にしていないようだね?」
「本来は人間側に知らされないことも多い事情だからな。今回、新任者を知れたのはたまたまだ」
「相変わらず沢山の糸を引いているようだけれど、あまり絡め手を使うと指先が絡まるよ」
手を振ってそう笑った男は、魔物のようだった。
きれいに魔術の織りが拭われてしまっていることから、かなり高位の魔物だと推測出来る。
銀髪にも見える灰色の髪を後ろで一本に縛り、何でもない白いシャツを着た美しい男だ。
小奇麗にしている割に、なぜか明瞭な魂には見えない。
一度汚れて歪んだ魂が煤を洗い流して目を開いた、そんな印象を与える男だ。
しかしそうなった場合、洗われた布が純白に戻ることはない。
やはり一度煤けた布は、どこか灰色の影を残し、過去の凄惨さを滲み窺わせる。
「貴殿こそ、糸を引くのは得意だったようだが」
「あはは、あれはただの暇潰しだよ。僕が本気で手を貸したら、君達の誰かは既にこの世にいなかっただろう。僕が本当に殺したかった男は、もう殺してしまったからね」
「先王を弑逆したのは、やはり貴殿か」
「言葉選びを間違えないようにね、人間の王子。バーンチュアを殺したのは、そうだね僕だ」
その会話に首筋の鱗が逆立った。
特に驚きもせずに会話しているが、ヴェンツェルはなぜこんな男を自室に招き入れたのだろう。
契約の子供を傷付けられるわけにはいかないのでその距離を詰めると、なぜか魔物はこちらを見て穏やかに微笑んだ。
「やれやれ、僕達人外者は気苦労ばかりだね。人間は脆弱なくせにとても強い。君も苦労するだろう」
「…………確かに、ヴェンツェルは困った子供だな」
「ドリー、私が成人してからいつまでその言葉を愛用するつもりだ?」
「契約の子供は、いつまでも契約の子供だ」
「まったく、お前の頑固さもここまでくるとな」
ヴェンツェルが小さく溜息を吐き、向かいに座った魔物が僅かに苦笑する。
(………悪意はない。何も。だが、)
だからといって、目の前の魔物が厄介な生き物でなくなるわけではない。
守護を緩めて仕損じれば、自分の首を絞めることになる。
「先代の崩御は病死ということになっている。だが、私はずっと魔物の呪いだと思っていた」
「僕はね、人間を殺すのが一番簡単なんだよ。容易いことだからこそ、それは同等の階位であっても防ぎ難い。毒を手放すのは簡単だけれど、生きる為に手放せないものが毒になればどうしようもない」
「成程。であれば、我々は随分と手加減されていたようだな」
「言っただろう。殺したい者は殺してしまったって。その他のことなんて、どれも暇潰しだ。僕達魔物は、いつだって退屈で堪らないんだよ」
「突然、有益な情報を持ち込むのも?」
「どう使うのかは君に任せるよ。僕はもうこのボールで遊ぶのは飽きてしまった。他にやりたいことがあるからね」
そう笑った魔物の表情は、どこか晴れやかだった。
この者の心の澱となっていた何かが取り除かれ、彼はどこかへ旅立つのかも知れない。
そう思うとほっとしたが、残念ながらヴェンツェルの頭痛の種はここばかりでもないので、また新しい問題に取り掛かるだけだ。
「やれやれ、カルウィの案件は弟に任せたいところだな。ガレンに発注をかけるか」
ふいに、ヴェンツェルがそんなことを口にした。
彼がそのような施策を口出して思案することはまずないので、これはわざとだろう。
この魔物以外に部外者はいないので、彼に聞かせる為の言葉なのだろう。
「…………おや、怠惰な王子様だね。ガレンに丸投げかい?」
「今のウィームは堅牢だ。私とて、カルウィばかりに携わっていられないからな」
その言葉に眉を顰めた。
そう言えばここに駆け付けたのは、ヴェンツェルが流した根も葉もない噂が原因だったのだ。
その調子でウィームに仕事を投げようとしているのなら、正当な準備を経て調査部隊を組んだ方がいい。
この魔物の前でヴェンツェルの思惑をひっくり返すのは申し訳ないが、魔物が間違った情報を持ち帰らないよう、ここで止めておかねば。
「ヴェンツェル、あの少女はガレンの管轄だしまだ子供だ。あまり巻き込んではいけない」
「ドリー、お前を狩った相手に随分と寛容だな」
「あれは事故だろう。おかしな噂も流してはいけない」
「我が国の歌乞いは頑強だ。そろそろ、次の長期的な仕事にかかってもいい」
その時、ふと斜め向かいに立った魔物の瞳が揺れたような気がした。
表情は動きもしなかったが、瞳に映る陰影の角度が変わったように思えたのだ。
ついそちらに視線を向ければ、魔物はそれに気付いて薄く笑ったようだ。
まるで友人の部屋を出てゆくように、ふらりとヴェンツェルの部屋から出て行ってしまう。
充分に間を置いてから、エルゼの結界の有無を確かめた。
場が閉ざされたことを何重にも確認して、涼しい顔をして座っている契約の子供に声をかける。
「ヴェンツェル、あの歌乞いの子に、先程の魔物を誘導しようとしているのか?」
「そうだな。ネアであれば、あの魔物を上手く捌けそうだ」
「あんな小さきものに無理をさせては駄目だ。契約の魔物を怒らせたら、取り返しがつかなくなる」
「あれ程までに頑強な女もいないがな。とは言え、今回のことは私なりの温情だ」
「温情?」
「エーダリアとて、カルウィの件は今迄のようにはいくまい。あの魔物が向こうを気にかければ、良い介助人になろう」
その言葉に、先程の魔物が座っていた椅子を眺めた。
「ヴェンツェルは、あの魔物がウィームに手を貸すと思っているのだな」
「ジュリアンの足元に潜ませた者から、あの魔物がさり気なくウィームを火の粉から遠ざけているようだと報告が入っている。確証はなかったが、お前の言葉を聞いた反応を見る限り大丈夫そうだな」
「確証もないのに女性を巻き込んではいけない」
「………何度も言うが、お前を狩れる程の豪傑だ」
ヴェンツェルが言う通り、彼女は竜を倒せるくらいの技量は持っている。
アンガルで会ってきたサラフも知り合いのようで、初対面で誤って傷付けてしまったところ、逆鱗を剥がされそうになったと話していた。
しかしながら能力があるからとはいえ、小さく幼い者にはそれなりの庇護があってしかるべきである。
稚き者には大きなものである年長者が手を貸してやり、決して大人達の含みの足場にしてはならない。
「ヴェンツェル、女の子に危ないことをさせてはいけないと、何度も言っただろう」
「お前の基準は、あくまでもそこなのだな……」
「今回の噂も、あの子が可哀想ではないか。私が彼女を怖がっているなどという噂が広がれば、女性としての評判が傷付くだろう。ヴェンツェルがその噂を流したとわかれば、またヒルドが怒るぞ」
駄目なことは駄目だと怒ってきたつもりだが、年々ヴェンツェルは逃げ出すのが上手くなってきた。
今も何か書類を精査してこちらを見ないようにしているヴェンツェルに、ドリーは頭に手を当てた。
決して噂に上るような冷血な人間ではないのだが、少し物事を斜めに見てしまうところがある。
政治の上での駆け引きが必要なのは重々承知していた。
その上で、女子供などの守るべきものをきちんと弁えて欲しいのだが、口煩いだろうか。
「ドリー様、………あの魔物は大丈夫でしょうか?」
そっぽを向いた契約の子供を心配そうに見ながら、エドラが不安そうにするのには理由がある。
この盾の代理妖精は、統括の魔物に恋をしているのだ。
その魔物の庇護を受けた歌乞いの身に危険が及べば、この執務室が彼の不興を買うことになる。
彼女はそれを避けたいのだろう。
誰であれ、恋するものに憎まれたくはない。
その隣のエルゼも同じ気分らしいが、彼の場合はただヒルドの怒りを買うことを避けたいようだ。
あの歌乞いの少女は、何とヒルドの羽の庇護も受けているのだとか。
ごく稀に、複数の人外者の庇護や寵愛を受ける人間は確かにいる。
そのような人間を見たこともある。
だがあの少女のそれは、少し他の事例とは趣を変えるようだとドリーは考えている。
ただの恋情で降伏させる庇護ではなく、何と言えばいいのかわからないが、ドリーがヴェンツェルにかける思いに少し似ている。
家族であり友人であり、同志でもある。
そうやって向けられる執着は複雑で手厚く、かつてのウィームの王子がまさにそういう好意に恵まれる人間だった。
ヴェルリアが統一戦争に勝ったとき、そちらの王ではなく、ウィームの王子の治めた国を見てみたかったと嘆いた人外者は多かった。
「大丈夫だろう。あの少女のことが好きなようだ」
エドラの問いにそう答えれば、なぜかヴェンツェルが驚いたように顔を上げた。
「………そうなのか?」
「ああ。そういう顔をしていた」
「……またそれか。しかし、接点がないぞ。あの魔物は、歌乞いがウィームに現れる前からつい先日まで他国に出ていた筈だ。………だが、お前の直感は当たるからな」
「直感ではなく表情なのだが……」
「ドリー様の観察力は素晴らしいですからね」
エドラは褒めたようだが、よく分からずに首を捻った。
強い感情が動くとき、誰だってその心の動きを完全に押さえ込むのは難しい。
憎しみや愛情のような強い思いであれば尚のこと。
しかし、それが他の者にはよく分からないらしい。
(ロクサーヌの時も驚いていたが……)
ヴェンツェルがまだ少年だった頃、一度だけわかりやすい失恋をしたことがある。
早熟した王子は、婉然と微笑む美しい薔薇のシーに恋をしたのだ。
大人の女性として柔らかく求愛をかわしていたロクサーヌに、なぜか殆どの者達は二人が両思いだと信じていたらしい。
嫌われているのでいい加減に諦めたらどうかと言ったときのヴェンツェルの表情は、今でも克明に思い出せる。
この聡明な契約の子供ですら、ロクサーヌの真意を取り違えていたのだった。
そういう事が何度かあり、他の生き物達は相手の心の動きに意外に鈍感なのだとわかるようになった。
そうするとますますヴェンツェルが心配になったが、幸い優秀なのでそれなりに上手くやっている。
だが、こうして相手の真意を掴み損ねる姿を見る度に、まだまだ手のかかる子供だと思うのだ。
これでは危なくて独り立ちなどさせられない。
「ヴェンツェル、もう少し相手の心の機微を読めるようになった方がいい」
「お前が異常なのだからな」
「そうです!ドリー様程の域には誰も達せませんよ」
「ドリー殿は、ほとんど心を読むくらいの正確さですからね……」
しかし、そう言えば周囲の反応が悪いのもいつものことだ。
そんな扱いには慣れてしまったが、今はともかく女性にはあんまりな噂を撤回させなければ。
「ヴェンツェル、まずはこの噂をどうにかしよう。きちんと対応するまで、土産は渡せないからな」
「………今度は何を買ってきたのだ」
「細工物の有名な国だったので、オアシスの夜を閉じ込めた水水晶の鼓笛隊の人形を買ってきた」
「鼓笛隊……」
きちんと学ばせようと思いそう言えば、契約の子供は何故か途方に暮れたような複雑な顔をした。