75. 厄介者が増えたようです(本編)
ネア達がリーエンベルクに帰ると、やはり非常事態宣言されてしまったのか、エーダリア達も戻って来ていた。
慌てて謝罪したが、もう夕方なのでボラボラの祭りの業務は一通り終わったので問題ないと言って貰える。
こんな時、ネアはつくづく自分が恵まれた環境にいるのだと実感する。
しかし、ネアがアルテアのお裾分けであるボラボラ製の手芸ポーチを提出すれば、滅多にない珍品をエーダリアは大興奮で受け取っていたので、双方得るものがあるということも良いのかもしれない。
「お前が来てから、魔術師が生涯に一度見るかどうかという事例ばかりに出会うな」
「それは巻き込まれている当事者としてはどう受け止めればいいのでしょう?」
そこでエーダリアは、ネアのマフラーの端っこを持っているアルテアをちらりと見た。
書類のようなものを整理しながら同席しているヒルドも、部屋に入って来たときからかなり凝視している。
「……ネア、後ろどうしたの?」
椅子に座ってクッキー缶を抱えているゼノーシュにそう問いかけられ、ネアもアルテアを振り返った。
「どうやら、心に傷を負ったようです。今夜は一人でいたくないみたいなので、暫くの間保護することにしました」
「心に………傷?」
ヒルドが訝しげにするのも最もだが、一番驚いたのはアルテア自身だろう。
あの後、ネア達と離れて帰ろうとしたところ、なぜか茂みから出てきた穴熊の魔物にびくりとして、アルテアはその反動で反対側の木に肩から激突したのである。
木からは勿論雪の塊が落ちて来たし、そのような失態を己がしたということは、アルテアにとっても衝撃だったようだ。
すっかり悄然としてなぜか付いて来てしまった。
これは確実にボラボラトラウマなので、ネアは不憫になってそのまま保護した次第である。
「ボラボラの街で、数百のボラボラに囲まれて手芸品の山を献上されたのです。かなりな心の傷なのでしょう」
「………それは、確かに嫌だな」
「時として、己の専門分野以外の攻撃で歴戦の兵士とて倒れることがあるという、とても良い事例を見ました」
「……俺は故人扱いか」
「この通り、覇気というものが全くありません」
ネアに不本意なご案内をされてしまい、アルテアはマフラーから手を離すと、部屋の壁際にある長椅子に不貞寝しに行った。
どうやら不貞腐れたようだ。
しかしここで退出しないのだから、症状は軽くないのだろう。
ここでネアとディノも席に着き、ボラボラの街の報告会が始まった。
まずはネアが街並みの紹介に入ると、エーダリア達の表情がどこか虚ろになる。
その表情は、ボラボラが喜ぶと子ボラボラが体に生えてきて増えるという報告で更に顕著になった。
長椅子の方のアルテアは、トラウマが刺激されて悲しくなったのかシュプリを飲み始めたようだ。
(飲んで忘れるとよい)
どこか哀愁のある姿は、色めいた魔物なだけに庇護欲をそそる。
「ちなみに、最低でも四十の魔術可動域がないとあの街で暮らすのは難しいようです」
その言葉を皮切りに、報告会は盛り上がった。
エーダリア達にとって、初めて知る事実だったのだ。
「つまり、ボラボラが狙うのは魔術可動域の高い子供である可能性があるのか」
「もう少し低い子供も狙われておりますが、確かにそのような子供の帰還報告はありませんね」
「だが、それがわかれば対策の立てようもあるな。事前に警戒を促せる」
その言葉に、ネアは少しだけ不安になった。
「勿論大賛成ですが、そうなるとボラボラ社会はどうなるのでしょう」
だが、エーダリアにはその先のビジョンもあったようだ。
「しっかりした家の子供の警護が手厚くなれば、ボラボラ達は、親に恵まれない子供や、社会情勢の不安定な国を狙うだろう。誘導の仕方を間違えなければ、環境に恵まれなかった子供達のシェルターになるかもしれない」
ヒルドも興味のある構想なのか、顎に片手をあてて考え込む様子を見せた。
「少し時間はかかるかも知れませんが、国民に丁寧に周知を行い、魔術可動域の高い子供を保護する手段として固められればガレンとしても有益ですね」
確かにそうなのだ。
才能はあるのだが、運命に恵まれずに消えていった子供達も多いだろう。
この世界は、大国とはいえ全ての子供達が安全に大人になれる程安定してはいない。
やはり、人ならざる者と共存する危険の多い世界なのだ。
(そっか、ボラボラが育てても構わないような子供達に誘導していけばいいのか)
ボラボラに保護されることを全ての子供達が幸福とするわけではないが、生きる為には幸福度よりも優先すべきこともある。
ある種の危機に瀕した魔術可動域の高い子供達がボラボラとの共存を図ることで、彼らが大人になるまでの間の時間を稼げれば、開ける未来が幾つもあるだろう。
望まずに攫われてしまった子供達とて、泣かずに堪え忍べば生きて帰れるのだという知識があれば帰還率も変わる筈だ。
「そして嫌な予感がするのですが、もしやボラボラが嫌がって泣き喚くのは、魔術可動域の低い子供なのでしょうか?」
ネアがこの発言をするのには勇気が要った。
何しろそれをやられた当人なのだ。
心の傷を掻き毟られる。
「あ、……そうだな。うん」
エーダリアもネアの眼差しの陰惨さに、すっと目を逸らした。
「となると、警戒を促せる子供達もわかると言いたいところですが、四十以下となるとほとんどの子供が該当してしまいますので、こちらはあまり効果がないかも知れません」
是非、ヒルドのようにさり気なく流して欲しい。
「魔術可動域の高い子供狙いだと、今までに統計が取れたりはしなかったのですか?」
「元より魔術可動域の低い子供はあまり出歩けない日なので、必然的にボラボラの脅威に晒されるのは、魔術可動域が高めの子供達だったんですよ」
「……そっか、ボラボラは祟りものなのですものね」
「祟りものは、比較的魔術可動域が高めの子供にも魔術汚染を与える可能性があります。その為の毛皮人形でもありますから」
とは言え基準がわかったのであれば、注意喚起以外でもこの情報は生きるとネアは思う。
「ボラボラのお眼鏡に適わなかったのが人間的魅力ではなく、魔術可動域なのだとわかれば、それだけで救われる方も多いのではないでしょうか?」
「確かにそれは朗報ですね。そちらも周知してゆけるよう、ガレンに通達を出して貰いましょう」
その時、ネアは隣からじっとりとした視線を感じ微笑みを強張らせる。
アルテアが誤解をされるような説明をしてしまった魔術師について、まだ説明しきれていなかったのだ。
そろりと視線を向ければ、隣に座った魔物がネアの膝の上に放り込んだ三つ編みを眺めながら項垂れている。
先ほどから気付いていたが、引っ張ってやっていなかった。
(爪先を踏んだだけでは駄目だったのか……)
お迎えに来てくれたので爪先を踏んでやったのだが、それでもまだ満足しなかったようだ。
「ネア、魔術師について……」
「アルテアさんの言い方が悪いだけですよ?偶然ボラボラの街で出会った、見知らぬ魔術師さんです」
「でも、以前にも会ったことがあるんだよね?」
「むぅ。そう言うと如何わしいですが、トンメルの宴でお見かけしただけの方です。あの時は、沢山の方がいらっしゃいましたから」
「ネア、トンメルの宴で会った魔術師なんていたっけ?」
ゼノーシュが不思議そうに首を傾げたので、ネアは体を捻って振り返った。
クッキー缶がそろそろ空になりそうなので、隣に座ったグラストが心配そうにしている。
何しろ、部屋に入った時に開けたばかりの缶なのだ。
「ゼノが近付いてはいけないと教えてくれた黒コートさんです」
「………ネア、あの魔物に会ったの?!」
「アルテアさん曰く、魔物に擬態した魔術師だそうですよ」
しかし、ゼノーシュは不審そうに眉を顰めた。
きりりとしたあまり見かけない表情なので、ネアも目を瞠る。
壁際の長椅子でも、何やらアルテアが体を起こす気配がした。
「あいつが魔物だと判断したのは、ゼノーシュなのか?」
「と言うより、そのような方だからと教えて貰ったのです」
「僕が見ても魔物だったよ。リディアは、恐らく公爵じゃないかって言ってた。ネア、本当に同じ人だった?」
「む。そうなると、私が、同じ方だと感じただけでよく似た別人なのかも知れないです」
そこでネアは、首を捻った。
(そもそも姿形が似ているだけで、あそこまで印象の違う人をどうして同一人物だと感じたのかしら?)
「ネア?」
少し考え込んだので、ディノに指先で頬を撫でられて我に返った。
「……髪型や背格好が同じだったので、同一人物だと思ったのです。ただ、その後お話してみたらまるで違う印象だったのに、違う方だと思うことはありませんでした。それがふと不思議になりました」
「うーん、ネアは案外鋭いからね」
正直に疑問を告白したネアに、ディノはなぜか少し嫌そうにそう答える。
正面にいたヒルドが少しだけ微笑みの鋭さを増した。
「ゼノーシュ、その魔物はどういう魔物なのですか?」
「結構昔から見かけるよ。よく女の子と一緒にいるから、お菓子や食事の美味しいパーティによく居るんだ」
「公爵だと判断したのはなぜです?」
「真っ白なリボンで髪を結ぶからだよ。後は、リディアや僕でも擬態が完全にはわからなかったし」
「リディア殿でもわかりませんか……」
首の斜角を強くしたネアに、ディノが教えてくれる。
「リディアは氷の古竜だよ。力が弱くて長にはならなかったけれど、階位が高い分魔術の貴賎としてはかなり優位だ。だから、目はいい筈なんだよ」
「なんと、トンメルの宴の主催者さんでした!」
リディアという氷竜はお菓子だけではなく、それ以外の分野でも食通で有名であり、様々な会を主催しているらしい。
リディアの開催する希少なお酒の会には、ディノも参加したことがあるのだそうだ。
「トンメルの時、あの魔物はネアを見てたよね。僕は、人間だから気になってるのかと思ってたんだけど」
「女性と居ることが多いのならば、気安く声をかけてくるのはそのような病気の方だからなのでは?」
「うーん、あの魔物はね、女の子が好きな訳じゃないみたい。リディアが、きっと悪目立ちしないように同伴者を連れているんだって話してた」
「もしや、男性一人でスイーツ会に足を運ぶのが辛いからでしょうか?」
「僕はそう思ってたけど、リディアはあんまり一人で居たくないだけじゃないかって」
「偏屈で寂しがり屋とは複雑な方ですね。………やはり、別人なのかも知れません。私の出会った魔術師さんは、得体の知れない感じはしましたがもっと軽薄な印象でしたよ」
そう言ってネアはアルテアの方を振り返ったが、彼はなぜか難しい顔で考え込んでいた。
「アルテア、間違いなく人間だったのかい?」
ディノの声はやや温度を欠いており酷薄だ。
その平淡さにひやりとしていると、アルテアが大きな溜め息を吐き、長い足を組み替えた。
どこからか取り出した煙草を手に取り、ヒルドの方を見てから眉を寄せる。
渋々しまった。
(ヒルドさんは嫌煙家だからなぁ………)
「俺が見た限りじゃあな。ただ、変化を特性に持つ魔物で、かつ魔術の優位性が高くなるとわからん。とは言え、妙にネアに興味を示していたから名前は出さないようにしたぞ」
「それはつまり、名前を伏せようとしたくらい異質だったということだね」
「はぐれの高位魔術師は元々ろくでもないけどな。こいつが歌乞いだと判断していたから、素材としての興味を惹かれたのかもしれないと思って警戒したが」
「……それは、彼が魔術師だった場合だね」
「まぁな」
深刻そうなやり取りなので、問題の中心地にいるネアは少し居心地が悪くなった。
あの男性が得体の知れない相手であること以上に、ディノとアルテアが何を懸念しているのか不安になる。
(彼が魔物だった場合、合致すると厄介な公爵がいるのかしら?)
「ゼノーシュ、その魔物がなぜ人間嫌いなのか聞いたことがあるかい?」
「人間に酷い目に遭わされたことがあるみたいだよ。前髪が邪魔でよく見えないけれど、目元に傷があるみたい」
「ネア?」
「今日の方にはありませんでしたよ。そして髪の毛のリボンは黒でした」
「やれやれ、これはどちらなのかな……」
「ディノ?魔術師さんが魔物だったとなると、困った該当者が出るのですか?」
そろそろ心配になってそう尋ねてみると、ディノは何とも言えない曖昧な微笑みを浮かべた。
その奥に微かな恐れにも似たものを見た気がして、ネアはぞくりと背筋が寒くなる。
「………そうだね。とても厄介な魔物が一人いる。そうだと困るから、ネア、その魔術師に似た雰囲気の男が居たら、用心するんだよ」
「一人でお出かけしないようにします」
「勿論だ。……私も少し調べてみよう」
「…………それは却下します」
「ネア?」
突然ネアが鋭い声を出したので、ディノは水紺色の瞳を瞬い驚いている。
けれど、ネアとしてはここで過去の二の舞となるつもりは微塵もなかった。
「厄介な魔物さんであるならば、一人で調べるのは禁止します。と言うか、外出禁止です!」
「ご主人様……?」
「ディノはここに居て下さい。………その言葉は嫌いです」
全員が突然のネアの荒ぶりように困惑している中、ネアは膝の上の三つ編みを命綱のように握り締める。
「ごめんね、怖くなってしまったのかな」
「……いいえ。私自身はよいのです」
「ネア………?」
そこで、ヒルドがはっとしたように短く息を飲んだ。
「ディノ様、もしその魔術師が、当たりをつけておられる魔物だった場合、交戦となれば困ったことになるでしょうか?」
「ヒルド……?いや、ならないと思うよ。もし彼だとしても、階位の差はかなりあるからね」
「それは、相手が正攻法ではない手段を用いたとしてもですか?」
「問題にはならないね。と言うか、私は擬態すれば損なわれないものではなくなるけれど、とは言え根本を揺るがすことは出来ないものだ。残念だが、仮定として私を損なえるものがあるとしたら、それは私自身くらいのものだよ」
「では、相手があなた自身に、その手段を構築させることは考えられませんか?」
「踏み込むね。練られてはいるけれど、それでも無理だろう。先程も言ったように、揺るがすことが許されないのは、私も同じだからね。私と同柱の別の魔物がいれば、叶うという想定でしかない」
「ふむ。……であれば頑強でしょうか。ネア様、少し安心しましたか?」
柔らかなヒルドの問いかけに、この質疑応答を真剣に聞いていたネアはまずは頷いた。
「ディノが丈夫なのはわかりました」
「とは言え、感情は宥め難いですか?」
「いえ、命を損なうばかりが困ったことではないからです。どこか誰も来ないような所に拘束されてただそこから動けないようにされたりとか、記憶や感情の損傷とか、怖いことは幾らでもありますから」
ネアの世界では、物語もまた嗜好品として並んでいた。
その使い古された沢山の選択肢を見れば、陥る可能性のある悲劇はなんと種類の多いことか。
手の中の三つ編みを握り締めて、その恐ろしさを思う。
「………ネア、もしかして、私がどうにかなったらと考えて不安になったのかい?」
「それ以外の何があるでしょう。その魔物さんは、厄介なのでしょう?」
ちょっと声が不安定になりながらそう返せば、なぜかディノは目元を染めてさっと顔を逸らした。
お陰でご主人様はとても凶悪な眼差しになる。
「………どうしよう、可愛い」
「ディノ、ご主人様は真面目な話をしています!」
静かに怒ったネアに、ディノはふわりと微笑みを深めた。
ひどく男性的で艶やかな、けれどもなぜか抱き締めたくなるような稚いもの。
「大丈夫、どこにも行かないから怖くないよ。それに、その魔物が厄介なのは、別に私にとって危険があるからではないしね」
「………そう、なのですか?」
大きな手で頭を撫でられながら、ネアはぽかんとする。
明らかにその手の危険があるというような緊張感だったではないか。
「危ないのは君だよ、ネア」
「…………私?なのですか?」
「そう。もし、その魔物が彼ならば、困ったことに君は彼の興味を惹き過ぎてしまう可能性がある。それが不愉快なんだ」
「そうか、………人間嫌いなのですものね」
「君には危害を加えないだろうけどね」
「…………推理が迷路に入りました」
「いいよ、わからなくても。ただ、私から離れないように気を付けること」
「わかりました」
ほっとして頷けば、向かいにいたヒルドも安堵したように微笑んでくれた。
恐らく家族の話をしたことがあるので、ヒルドはネアが過剰反応してしまった不安に気付いてくれたのだろう。
とても有り難かったので、ぺこりと頭を下げた。
「シルハーン、抵抗値的に指輪は増やせないのか?」
「アルテア、急に死に急ぎたくなったのかい?」
「それが嫌なら相互間通路を修復するぞ。籠に入れておいても、どうせこいつはまた何かに巻き込まれるだろうからな」
「残念だが、余分は一つで充分だ。守護以外のものはいらないよ」
「向こうの足跡は消すにしろ、容量自体をいっぱいにしときゃいいだろうが。っつーか早く指輪を固定させろ。いつまで犬のままなんだ」
「余計なお世話だよアルテア。ボラボラが恋しいなら森に帰るかい?」
「やめろ」
さすがに混戦状態になってきたので、ネアはひとまず三つ編みを引っ張って魔物を黙らせた。
エーダリアは既に遠い目になっているし、ゼノーシュは二個目のクッキー缶を開けようとして、グラストに叱られている。
「ディノ、よく分かりませんが、個人的なものならエーダリア様達を解放した後にしましょう」
「それなら言っておく事があるかな。エーダリア、暫くはこの子を一人では出さないよ」
「承知した。こちらでもそのようなことにならないようにしよう」
「………エーダリア様、さすがにお仕事に響くのは」
「ネア、お前に万が一のことがあった場合の方が、恐らく損害は大きく出るだろう」
仕事は仕事なのでネアは慌てて止めようとしたが、あまりにもきっぱりと首を振られて頷いた。
エーダリアの眼差しがとても切実なので、そちらの選択肢の方が辛いのだろう。
ただ、ボラボラのポーチを大事そうにしまいこんでいるのが、国王の指輪を持ち歩いている金庫の腕輪なのが解せない。
なぜその二つを同列にしてしまったのだろう。
「それとディノ、今日はアルテアさんに優しくしてあげて下さい。弱っています」
「…………浮気」
「違いますよ。どうしたらお友達に優しくなれるのでしょう。どこか空いてるお部屋にぽいっとしておくだけでもいいと思うので、そっとしておいてあげて下さいね」
「隣の棟にしようか」
「隣の棟はエーダリア様の区画ですね……。む、お泊まり会などをして、新しく友情を育てて貰うという手も」
「いや寧ろその提案に乗るくらいなら、俺は帰るからな」
「では、帰ればいいのに」
「………ディノ」
混乱が収まらなかったので、ネアはひとまずヒルドに頼んでボラボラ報告会をお開きにして貰った。
退出前のエーダリアに視線でアルテアを指し示せば、リーエンベルクに泊めて構わないというように頷いてくれた。
雪食い鳥の一件や、大晦日周りでも滞在していたが、やはりここはエーダリアの管轄内なので念の為に確認はせねばなるまい。
そこでふと、問題の公爵の魔物かもしれない魔術師について引っ掛かりを覚えた。
(あの人が誰かに似ているような気がしてたような……)
しかしそう思ったのも一瞬なので、そんな特徴すらもう摑み取れなくなってしまった。
少しぞっとしたのだが、ネアは、ボラボラの街で出会った魔術師の目の色を覚えていない。
新年会のネアの時のように、相手の印象に残らないような魔術が組まれていた可能性もある。
(人間嫌いで偏屈な公爵の魔物……か)
そんなキーワードを、どこかで耳にしたことがあるような気がする。
ラベンダーの馥郁たる香りがふわりと蘇った。