10. 自己主張する椅子を持て余しています(本編)
その後、無事に自分の部屋のある離宮に戻ったネアは、扉を開けるなり溜息を吐いた。
準備なく拒絶されるということは、やはり心を削る。
そして、視線の先で、全力で椅子に待機されてしまうと逃げ出したくなる。
「きちんと謹慎出来ましたか?」
「頑張ったよ。だから、椅子にしてくれるんだよね?」
「今の私は少し傷心中なので、傍若無人な暴君になってますよ。大丈夫ですか?」
「どうしたのネア、誰かに苛められた?」
立ち上がったディノが、気遣わしげにネアの顔を覗き込む。
動いた時に揺れた長い髪が、宝物のような色でふわりと翻った。
「エーダリア様に、婚約を破棄されました」
滑らかにならない声でそう伝えると、自分の表情が萎れているのがわかってしまう。
思いのほか悲しかったのだなと納得して、ネアは頭を撫でてくれたディノの手に甘える。
「…………それは、ネアにとって悲しいことだったのかい?」
「そうだったみたいです」
ふっ、とディノが一度瞳を閉じて開いた。
感情の何かをいなすように、何かの衝撃から、身を守るみたいに。
「…………そうか」
「好きでもない人から、告白もしてないのに自己否定されて、振られてしまったようなものです」
「……………ん?好きではなかったんだ?」
何を言っているのだろう。
ネアは、ディノの見当違いな質問に剣呑な眼差しになる。
「私をディノと一緒にしないで下さい!私には、心の自傷癖はないんですよ。エーダリア様のような、若干捻くれた攻撃的な方は、心の底から異性としてはお慕い出来ません!」
「それでも、ネアは悲しいの?」
「同じ職場の上司から、突然酷い評価を受けたようなものです。もしこれが見知らぬ誰かだったりしても、謂れのない中傷誹謗を受けたら、やはり苦しい気持ちになると思いませんか?大丈夫な方もいるでしょうが、私はそういうの………とても苦手なんです」
「そう」
頷いて微笑むと、ディノは両手を伸ばした。
「おいで。可哀想に、悲しかったね」
母親のような物言いだけれど、やはりひどく男性的だ。
一瞬躊躇ってから、ネアは大人しく傷心の自分に忠実になった。
伸ばされた腕の中に飛び込み、ディノ本来の魔物らしい香りを吸い込む。
市販のクリームなどより、よほどこの香りの方が素晴らしいのに。
「悲しかったです。エーダリア様の銀色の髪の毛を、毟ってやりたくなりました。でもね、あの方は良い上司ですし、私は常識人なのでそんな残酷なことはしませんでした」
「毟ってしまえばよかったのに。代わりにやってあげようか?」
「いけません。性格には難ありですが、見目麗しい元王子様です。世の中のエーダリア様にご執心な、どこかの幼気なご令嬢達を悲しませてしまいます。逆恨みされたら元も子もありません」
ネアを大事そうに抱き上げながら、ディノはふと不思議そうな顔になった。
「それにしても、あれだけ頑固だった彼が、どうして婚約破棄を決めたんだろう?」
「私が、耳に痛いことを言ってしまったからでしょうか。ディノの心を手に入れるには、もう少し玄人向けな作戦を練るべきだと忠告しました」
「うわ、やめて」
「良く考えたら、もう少しディノが優しくしてあげれば、あの方も少し丸くなるのでは?」
「お願いだからやめようね、ネア」
良く考えたら一番酷い男はこの魔物かもしれないと、責めるように見上げれば本気で傷付いた眼差しを返される。
そうすると不憫になってしまうのだから、美しい魔物というものは非常に厄介だ。
「まったくもう。あなた達は、手当たり次第に人間の心を手に入れてしまうんですね」
「そうかな?そんなこと、思ったこともないけれど。………最近は特にね」
「クッキーモンスターですら、私は、結構な小悪魔だと思っています。それでも喜んで貢いでしまうのだから、あなた方の破壊力は絶大なんです。ディノはそろそろ自重して下さい。私までたらさなくていいんですよ?」
八つ当たりだ。
そんなことは、ネアにも良くわかっている。
それでもこんな風に自然に甘やかすのだから、彼はとても狡い。
こんな風に甘やかされてしまったら、うっかり椅子にしてやる時間が長くなってしまいそうではないか。
「じゃあ、ネアは私のことが好き?」
(どうして、好きじゃないでしょう?と言わんばかりに聞くのかしら)
「こんなに近くに居るネアですら、私に捕まってくれないんだ。過大評価なんじゃないかな」
(何でこんな寂しそうな顔をするのだろう)
「お馬鹿さんですね、ディノは。こんなに困った魔物、好きでなければ大事にしませんよ?」
ネアが転職活動をしているのは、身の程を知って、己に見合った仕事をしたいからだ。
そもそも、大事な魔物の最大の欲求を満たしてやれないのだから、主人でいることに申し訳なさが付き纏う。
本当は相応しいところに渡してやりたいのに、大事過ぎて手放せなくなりつつあるこの状況の、一体どこが、好きじゃないと言えるのだろう。
「ディノ?…………ふわぁっ!!!」
抱き締められたまま、唐突に床に座り込まれて、道連れのネアは悲鳴を上げる。
ディノの体がクッションになって膝を打ったりすることはなかったが、
人間は、日常生活で馴染のない垂直落下にとても弱い。
ばくばくする心臓を押さえて、涙目でディノに抗議した。
「何をするのですか!!!アトラクションの乗り物に転職するつもり?!」
「………………なんかもう、ずっとネアの椅子になりたい」
「どうしてそっちに振り切ったの…………。ディノのスイッチはどこにあるの…………」
「ネア、髪の毛引っ張っていいよ。もう、ずっと掴んでいてもいい」
「さりげなく、私をあなたのお仲間にしようとしないで下さいね」
まだ心拍数が平常値に戻らないネアを抱き上げると、
ディノはご機嫌で部屋の中央にある長椅子ではなく、なぜか隣の部屋の寝室に向かう。
因みにディノの寝室は更にその隣の部屋だ。
「運搬先はどこですか?」
「椅子にしてくれるんでしょう?」
「それなら、さっきの部屋で良かったのでは?」
「もう夜も遅いから、ネアは途中で寝ちゃうだろうし」
「まだ起きていますよ?謹慎していたら、椅子にしてあげる約束でしたからね」
ネアの寝室は、白を基調とした、落ち着いた青磁色とウィスタリア色の配色になっている。
デコラティブな壁の装飾は華やかだが、すっきりとした色合わせなので落ち着ける。
素晴らしい織模様の、クリーム色と青磁色の絨毯を踏み、ディノは天蓋をくぐってネアを抱いたまま寝台に腰かけた。
天蓋のカーテンの影になり、ディノの瞳がぼうっと光を孕む。
この寝台は、ネアの小さな隠れ家のようなお気に入りのスペースだった。紫がかった灰色と白の二色展開の大振りな花枝柄のベッドカバーと枕カバーは詩的な繊細さで、花びらの僅かな赤紫色と、清廉な葉色が差し色となっている。そんな寝具の上に腰かけた魔物は、花影に染まるようだ
「ごめんね、今夜は疲れていると思うけど、眠るまででいいから、少しこうしていて?」
「約束したご褒美を取り上げる程、私は極悪非道ではありませんよ?」
恐らく、ネアが寝てしまえば、寝台にリリースしてくれるつもりなのだろう。
しかし、共有スペースで椅子になってくれる気遣いを、まずはして欲しかったところだ。
「極悪非道だよ、ネアは。酵母の魔物には、あんな贈り物をしておいて」
「……………なんと、どこからその情報を手に入れたのでしょう?」
非常にまずい話題が議題に上がった。
そしてこのような場で切り出されるのだから、かなり根に持っているご様子だ。
拘束装置付きの椅子と化したディノに、ネアはそろりと視線を向ける。
「あの魔物が自慢していた」
「口の軽い魔物さんでしたか……」
賄賂というものは、基本的に公にしない品物だ。
いくら、木ベラ大好き、料理道具の女王だとしても、あの木ベラは隠し通して欲しかった。
あまり自慢されてしまうと、クッキー缶より安かったという恥じらいもある。
「でも、私のことも好きでいてくれるなら、あの魔物はもういらないよね?」
「くっ、……明るみに出た浮気を続ける程、厚顔無恥ではありません。今回は手を引きましょう」
「だいたい、ネアは私があげた指輪をしてるんだから、ふらふらしては駄目だよ」
「これは純粋な贈り物で、拘束制御道具ではなかった筈………」
鮮やかな朽ち葉色の髪に、キャラメル色の瞳の少女の姿が浮かんだ。
少し妄想がちで暴走する子だったが、底抜けに明るい姿には好感が持てたのだ。
酵母の女王を手に入れれば、料理はそれなりに好きなネアも扱い易い。
今後の人生の活用でも無理のない、転職先候補だった。
(しかし、情報の機密性が低いとなると、商売には向かないかも)
ネアは、あまり体力を浪費しない性質だ。
元気いっぱいの暴れ子犬のような彼女を、きちんと管理するのには向かないかもしれない。
酵母を使った食品の仕事には競合がつきものだし、つまらない情報漏えいで損失は出せない。
「ネアに浮気された」
「…………何をしてあげれば、許してくれますか?」
「また、髪の毛洗って?」
「わかりました。乾かして、梳かしてあげます」
「あと、もっと頻繁に椅子にして」
「……………善処しましょう」
「足も踏んで欲しいし、体当たりもして欲しいし、この前みたいに頭で攻撃して欲しい」
「私がそちらのご趣味みたいな言い方!!!」
「それと、」
ディノがまだ付け足そうとするので、ネアは半眼になった。
エーダリアからの理不尽なる精神攻撃に始まり、浮気発覚と心が休まらない。
明日は代休にならないものかと、頭の中で言い訳を練り回した。
(口も利きたくないような仰りようだったし、寧ろ会わない方が喜ぶかも?)
そうか、もう会いたくもないのだろうなと思えば、自然に眉が下がってしまう。
良かれと思って進言したのに、こんな決着を迎えてしまった。
職場の人間関係は大事だ。
「もっと沢山、我儘を言って。ネアのお願いなら、どんなことだって叶えてあげるから」
椅子に背後からぎゅうぎゅう抱き締められて、頭を擦り付けられる。
低くて甘い声とは対照的に、ディノの仕打ちは無邪気でこそばゆい。
ネアは、耳の奥で繰り返した、元婚約者の冷やかな言葉を反芻し、ぱたりと蓋をした。
「じゃあ、今夜は隣に寝て構わないです。夜中に突然目が覚めてしまったときに、エーダリア様の暴言を思い出して落ち込んだら、ディノの髪の毛を引っ張って鬱憤を晴らします」
「……………そんなこと、幾らでも叶えてあげるよ」
「頭にきませんか?ほぼ、八つ当たりですよ?」
「……………幸せ」
あまりにもうっとり呟くので、ネアは途方に暮れてしまった。
やっぱりどうしてこの魔物は、こんなにも特殊な嗜好を突っ走るのだろう。
何か生育過程に重大なトラウマでもあったのかもしれない。
(…………でも、もし私がディノの要求に付き合ってあげられれば)
この魔物は、ずっとネアのもののままなのだろうか。
慣れないことを考え過ぎていつの間にか眠ってしまったネアは、
口元に不穏なカーブを刻んだディノが奇跡的な結論を出した瞬間に立ち会わずに済んだ。
「あの魔術師も壊してしまうべきかと思ったけど、利口に立ち回ったみたいで良かったよ」
図らずも、自分が元婚約者の命を救ったことを、ネアは知らない。
酵母の魔物は既に救いようがなかったと知るのは、翌朝のことだった。