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雪葡萄の薬とレインカルの乱



ディノの仕事が早い為に、ネアの歌乞いとしての仕事は半日勤務が恒例化している。


本来は丸一日かけて精製するような薬を、ディノはわずか一秒で仕上げてしまうし、数々の希少な薬の提出から勝ち取った恩赦である休暇も、だいぶ貯めているのが現状だ。

そこには勿論、ネアが狩ってきたものたちの成果も含まれる。


ネアとしては夏季休暇にでも使おうと思っていたが、そもそも夏に弱いウィームには長めの夏休みの習慣があった。

この時ばかりはエーダリアも休暇を取り、秋口に大型代理連休を取るダリルが代わりにあたる。


(とは言え、元々ダリルさんは、領主としての執務全般を任された代理妖精さんだから)


代わりにという名目で長期休暇を取らせるのも、心憎い福利厚生の一環なのだろう。

ウィームはヴェルクレアの中で一番、安息日の多い領土なのだし、役職代理の妖精については本来、主人の命がなければ長期休暇を取るのは難しい。


そんなダリルは、領主の仕事をまさかの定時上がりで毎日仕上げ、残業をするのは夜にかかる行事の時のみ。

全ての休暇を余すことなく使い切り、素晴らしい仕事とプライベートの両立を計っている。


そんな働きぶりが噂になり、将来有望な若者達がダリルの仕事を間近に見る為に助手を希望し、一大派閥となっている。

有能な者が集まり能力がない者は脱落してゆくので、現場を学びたい者は大学に残るよりも、ウィームの代理妖精に弟子入りせよという、新たな若手育成の道筋が出来上がりつつあった。


かなりえげつないやり口も学んで来るので、貴族の跡継ぎ候補や、王都の要職を目指す者が集まって来るのだが、巣立っていった若者達がなぜかダリルに終生の忠誠を誓ってしまうので、あえて避ける親もいるのだとか。


(実に奥深い。是非に学びたい!)


ネアとしては敵の転がし方などを学んでみたいのだが、エーダリアが怯えるのであまりダリルとは会えずにいる。

元婚約者殿は、ダリルとネアが似てくるのだけは避けたいと日頃から公言していた。




話が逸れてしまったが、本日、ネアは初めて見ず知らずの誰かが作った薬の被験者になろうとしていた。



「………このどろりとした液体は、果たして安全なのでしょうか」

「一応、ガレンの魔術師が作ったものですが、まぁ、作ったのは魔術師ですからね」

「そして、この量を飲む必要はあるのですか?」

「効果は一月程ですので、月に一度飲むようにというお達しです」

「…………辛い」


その日、リーエンベルクに届けられたのは、第一王子であるヴェンツェルからのお年賀の品である、雪葡萄の迷子防止薬だった。

まさか自分が採ってきた雪葡萄がこんな風に戻ってくるとは思わず、ネアはとても驚いた。


エーダリアには、兄上にまで迷子を危ぶまれたのかという感想を貰い、ネアはぎりぎりと眉を顰めている。

大晦日はこの薬を渡されるのではと警戒していたのに、油断した頃に攻撃するのはやめて欲しい。


「材料は瑞々しい葡萄だった筈です。どうしてこの質感になってしまったのでしょう」

「確かに不思議ですね」


エーダリアが残していった見張りのヒルドは、同情的ではあるものの、薬を飲ませるという意向は変わらないようだ。


綺麗な硝子瓶に入った薬を前にして、ネアは石のように固まった。

薬瓶が透明なので、中のどろりとしたヨーグルトのような薬がよく見えてしまう。


(そして、なんでオリーブオイルの香りがするのだろう……)


これはもう、製造過程に物申したいところだ。

新鮮な雪葡萄の風味を殺さずに、もっと飲みやすい迷子防止薬の作り方があるのではなかろうか。

今後それを研究課題にしようと、ネアは心に誓う。


今迄に薬の好き嫌いはなかったが、異世界の明らかに異様な質感の薬となると、さすがに躊躇する。


ヒルドが完全に鬼教官の微笑みになってきたので、大人として渋々瓶を手に取ると、飲み口を唇にあてた。

実はこの瓶、そこそこに大きい。


「………………むぐ」


すぐに涙目になり、小さく絶望の声を上げたネアがじっと見上げると、ヒルドがびくりと羽を揺らす。

あまりの不味さにギブアップを無言で問いかけたのだが、淡く羽が光っているので、ネアは更に絶望感を深めて大人しく残りの薬を飲み干した。



「…………口直しのものを下さい。誰か、私にこの味の記憶を消し去るものを下さい!」


薬を飲み終えてからそう抗議しつつテーブルをぱしぱしと両手で叩いていると、なぜか目元を染めたヒルドが、さっと果実水を出してきてくれた。


「ネア様、あのような眼差しはさすがに危ういかと………」

「私も大人ですし、薬ごときで我儘だと思われるのは最もです!でもあれは、………沼でした」

「いえ、そちらの意味ではなく、男性として…………沼?」

「はい。経験はありませんが、生臭さといい、泥臭さといい、まるで沼の水を飲んでいるようでした」

「沼………。それは、さすがにお辛いですね」

「来月もこれを飲むのですか………?」

「来月も…………」



そこでヒルドが考え込んでしまったので、ネアは首を傾げてまたじっと見上げる。

もしかしたら哀れに思って免除してくれるだろうかと期待したのだ。

なぜ羽が光っているかは、怖くて考えたくなかった。

そしてなぜ悩ましい表情をされたのかは、更にわからない。


「来月も私がお持ちしますので、頑張りましょうね」

「………この世は無情でした」

「ではこうしましょう。頑張って飲まれた後は、ご褒美を差し上げます」

「ご褒美……」

「以前、書架の鯨を見たいと話されていたでしょう?次の休みにでもお連れしましょう」

「行きたいです!」



ヒルドからのご褒美を取り付けて少しだけ報われたものの、ネアは部屋に帰るとすぐに、癒されるべく長椅子にいた魔物の膝の上にどさりと座った。


「ご主人様?!」

「………雪葡萄の迷子防止薬を飲まされました。不味くて死にそうです。甘やかして下さい!」

「いくらでも甘やかしてあげるよ」


大喜びした魔物は、その日の仕事をものの五分で片付けてしまいご主人様を慰めることに専念してくれた。


「口の中だけはどうにかしましたが、胃の中がむかむかします」

「………口直ししたいかい?」

「口直しで済む範疇でしょうか?……ディノ、どうして悪い顔をしたのですか?」

「おや、気のせいだよ」


消化しきったわけではないので、またムカムカしてきたネアは、憤怒に合わせて椅子にしたディノの腕をばしばし叩いた。

それなのに喜ぶばかりの魔物が憎い。


「大蒜を食べ過ぎた人と同じ症状です。胃から沼の香りが上がってくるのはどうすれば……」

「………沼?」

「沼の水のようなお味でした。また泣きそうです」

「ネア、涙目ずるい…………」

「沼が狡いだなんて、唐突にディノの味覚が心配になりました」

「うん、そっちじゃないからね」


頭を撫でてくれながら、ディノは珍しくぐずっているご主人様に上機嫌を維持する。

その結果こちらとの落差は何だとご主人様が不機嫌になるので、負のスパイラルと言ってもいい状態が出来上がった。


(………胃が、胃がやられた)


ムカムカするのを超えて、とうとうネアの胃はキリキリと痛み出した。


「ディノ………」

「気持ちが逸れるようなことして欲しいかい?」

「やめて下さい、今は顎に触らないで下さい。それと、胃薬を下さい」

「胃薬………?」

「胃痛を抑え、胃の働きを助ける薬です。……む、もしかして魔物さん的には未知の薬ですか?」

「………修復なら、傷薬かな」


どこかほの暗い艶麗な眼差しでいたディノだが、胃薬という未知の名称に無防備な困惑を浮かべて首を捻った。

よりにもよっての抜け落ち具合に、ネアはそんなディノを可愛いと思う余裕などある筈なく、失望感でいっぱいになる。



「ディノでは事足りませんでした。胃薬の専門家であるエーダリア様のところに行ってきます」

「………ご主人様」



しかしながら、この何ともいえない不快感も合わせて薬効が浸透している証だということで、ネアはまさかの胃薬禁止の刑に処された。

胃の不快感は二時間程で綺麗に回復するのだそうだ。


(………絶対、絶対に新しい迷子防止薬を開発してみせる!)


寝台で呻きながら、ネアは雪葡萄の薬への復讐を固く誓った。



「ネア、撫でてあげようか?」

「………ディノ、私に触ったら許しません」

「え、………」



胃痛と吐き気なので、今は誰にも触れられたくない。

とても荒んだ目で鋭く威嚇すると、魔物は巣の方に避難して怯えていた。

しかし懲りないのか、ご主人様が唸っているのが気になるのか、また暫くすると近寄ってきて追い返される。


人間、具合が悪い時は心も狭くなるもので、苦痛に割り引かれた分の自制心でやり繰りしなければならない。

そして、元々あまり寛大ではないネアの心は、容易くダークサイドに転がり落ちた。


「ディノ、巣に入っているか、隣の部屋に行っているかどちらかにして下さい」

「ご主人様………」

「この退去勧告に二度目はありませんよ」


心配していたのに邪険にされてしょぼくれた魔物が撤退してゆき、やっと部屋は静かになった。

締め付けられるような胃痛にはくはく息をしていると、子どもの頃に風邪で寝込んだ記憶が蘇ってきた。


(…………そう言えば、こっちで風邪は引いてないかな)


風邪に関してはもし引いたとしても、軽微な体調不良に関しては万能治療薬型の魔物の薬があるので、心配はなさそうだ。

先程、胃薬を貰いに行ったときのエーダリアの話によれば、魔物には疾患的な胃痛はないのだそうだ。

神経性の胃痛はあるのだが、症状が違うらしく、薬も安定薬として飲むお茶のような柔らかいものになる。


(いっそ、万病が治癒するような薬ならあるのに……)


けれど、そんなものをここで使うのはさすがに勿体無いので嫌だ。

現状の急性胃腸炎ばりの胃痛で小指の先程くらいしか残っていない理性でも、その判断はつく。


(………雪葡萄め、雪葡萄め、雪葡萄め!)



心の中で怨嗟の言葉を呟きながら、時折込み上げてくる吐き気や、捩れるような胃痛を耐え忍んだ。

今回の胃痛のように、吐き気がぶり返すので触らないで欲しいという時や、まだなっていないものの、食あたりでバスルームに閉じこもりたい時など、同室だと厄介な疾患は幾つかある。


(風邪ぐらいなら諦めるけど、お腹を壊していたら嫌だなぁ……)


ぼんやりとしてきた意識で、隔離して欲しい系疾患時のシェルターを作ろうと決意した。

毎回、魔物を部屋から追い出すのも可哀想だ。

と言うか、世の同棲同居の皆さんはどうやって乗り越えているのだろう。

まだネアが、そこまでディノに心を許せていないだけなのだろうか。


後半、考え事で上手く気が散ってくれたのか、エーダリアの言う通り途中から胃痛は快方に向かった。

痛みが散ってくれば、今度は病人にありがちな心細さに襲われてくる。


「……………むぅ」


かなり不本意な唸り声を一つ上げてから、ネアはむくりと起き上がると毛布を持って、よろよろと隣室に向かった。


途中で距離感を見誤り、壁に激突して不快指数を一段階上げる。

星祭りの星屑を取っておいて、胃痛に使えばこんな目に遭わなかったのにと悔しくなった。



「………ネア、」


部屋の扉を開けると、隣の部屋の長椅子で落ち込んでいた魔物が、ぱっと嬉しそうに顔を上げてから、まるで殺人現場でも見てしまったかのような慄き方をする。

ご主人様もご主人様で、今の不快指数では通り魔に転職出来そうなくらいなので、さしたる違いはないかも知れない。



「………一番端にいって下さい」

「こうかい?」


ディノを追い立てて長椅子の隅っこに座らせ、ネアもよいしょと長椅子に這い上がる。

こちら側の手を持ち上げさせて、容赦なく魔物の足を枕にすると毛布に包まった。

しかし、すぐに渋面になり一唸りする。


「…………タオル」

「わかった、タオルだね!」


首が直角になって寝心地が良くなかったので、ネアは段差軽減のタオルを所望する羽目になった。

魔物がすぐさま取り出してくれたので、ネアはまた唸りながら半身を起こすと、畳んだタオルを首から背中の下に差し込んで、ディノの膝枕の寝心地を改善した。


意識が朦朧としながらの環境整備をしてから、ぼすんと再び膝の上に落ちてきたご主人様に魔物は暫くおろおろしていたが、ネアが寝入る頃には状況を飲み込んだようだ。

そっと頭を撫でる手を感じながら、ネアは眠りについた。



結局、その日の午後は雪葡萄の薬のせいでほとんど寝て過ごす羽目になった。

薬が定着した夕方頃になると胃薬が処方されたが、散々苦しんだネアとしては既に用済みであるという冷ややかな空気になるのは致し方あるまい。


正気に戻れば八つ当たりをされてしまったディノが心配になったものの、魔物は、胃痛のご主人様は野生のレインカルのようで可愛いと嬉しそうであった。


(………レインカル?)


「それに、ネアが膝の上に落ちてくるし」

「……やはり、そういうところが好きなのですね」

「最近は飛び込んでくれない………」

「今日は病み上がりなので嫌です」

「では、明日にしよう」

「………明日」

「爪先を踏むのは今日でも平気かい?」

「今日は膝枕で店仕舞いです」

「ご主人様が冷たい………」


後日、気になって書庫でそのレインカルとやらを調べてみたネアは、開いたページを見て絶句した。

むちむちのおまんじゅうのような体型で目つきの凶悪な灰色の子熊のような風体の生き物が描かれている。

おまけに、短い手足についた鋭い爪で旅人を引き裂いて食べてしまう凶悪な魔物だと知り、ご主人様が怒り狂ったのは言うまでもない。




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