クリスマスの朝とモミの香り
クリスマスの朝は、モミの木の香りを吸い込みながら一階に降りてくるのが楽しみだった。
オーナメントが朝の陽に輝き、幸せそうな家族の声が聞こえる。
その家族が失われた後も、クリスマスには必ずモミの木のツリーを飾った。
木の大きさはかなり小さくなったが、一人でせっせとオーナメントを飾り、それを買い揃えた家族を思い出しながら微笑んで朝を迎える。
クリスマスには、幸せな思い出が沢山あった。
一人で涙を流すには勿体無い特別な日だ。
だから、クリスマスの朝は静謐な美しさに冷たい空気を吸い込み、微かなほろ苦さを飲み込んでから大好きな日をめいいっぱい楽しんだ。
その日、どうしてクリスマスの朝のことを思い出したのかと言えば、モミの木の香りがしたからだ。
この世界にもモミの木に相当する、イブメリアの飾り木の材料となる樹木が何種類かある。
けれども、木の香りになぜか葡萄のような香りが混ざってしまうので、あのモミの木の香りの記憶は蘇らなかったのだ。
控えめにくんくんしながら部屋を彷徨い歩き、ネアはその香りの根源を突き止めた。
品のいいグリーンリースが部屋の一角にかけてある。
少し高い位置にかけられたリースを見上げるが、昨日までの記憶にはなかった。
昨日まではなかったものなので、誰がかけてくれたのだろうかと首を捻る。
「ディノ、このリースはどこからやって来たのでしょう?」
「厄除けのリースだよ。新年は部屋に飾るものなんだ」
「クリスマスリースみたいで可愛いです!」
「おや、ネアの大好きなクリスマスだね」
「はい。イブメリアでお腹いっぱいになったので、クリスマス欲は満たされていたのですが、これにはぐっときました」
「じゃあ、沢山飾るかい?」
「ディノ、一つのものをじっくり愛でるからこそ心が満たされるものもあるんですよ」
「一つ……」
グリーンリースは、新鮮な白緑の香草を丸く束ねて色染めの麻紐や針金で丁寧に造形したものだった。
虹色の光沢のある淡い水色のリボンと、キラキラ光る木苺のモチーフの飾りと、雪の結晶の飾り。
隙間に小さな白い薔薇を沢山差し込んでいて、華やかだが清々しいリースである。
これは、先程ネアが書庫に本を返しに行っている間に、家事妖精が持ってきてくれたのだそうだ。
星祭り前だとみんなが飾り忘れるので、星祭りの翌日に新年のリースを飾るのが習わしなのだとか。
新年の煌めきに溢れる時期だからこそ凝る厄を払い、爽やかな幸運を呼び込むリースなのだ。
「もしや、ここからまたリースの魔物さんが生まれるのですか?」
「このリースからは、リースの妖精が生まれるそうだよ。来月の焚き上げで清めないと、その妖精に一年間つきまとわれるそうだ」
「………それもそれで辛い現象です」
醜い魔物となり狂乱するイブメリアのリースと、年内ずっとつきまとわれる新年のリース。
やはりこの世界は奥深い。
どちらもかなり嫌だ。
「ネア?このリースの香りが気に入ったのかい?」
「懐かしい香りなのです。幸福な記憶に紐付く香りなので、何だか嬉しくなりますね」
「じゃあ沢山……」
「ディノ、リースはお部屋に一つまででちょうどいい量なのですよ」
「人間は無欲だね」
「とても美味しい料理の塩味が気に入ったからと、お塩を足したりはしないでしょう?これはその範疇のものです」
「わかった気がする」
そう言い聞かせると、納得したくせに魔物は少しだけしょんぼりとした。
リースを沢山集めて、ご主人様に褒めて貰うところまで想像していたのかもしれない。
「このリースは、家事妖精さんがかけて下さったのですか?」
「渡されたからここにかけておいたんだよ」
「まぁ、ではディノが吊るしてくれたんですね。有難うございます!」
「ご主人様!」
見ていないところでも、請け負った仕事をきちんとこなしてくれたのは良い兆候だ。
屈ませてから頭を撫でてやれば、ディノは嬉しそうに微笑んだ。
「ネアは、こういうものが好きなのかい?」
「はい。季節の風習は好きです!」
「そうか。もうすぐボラボラも来るしね……」
「ボラボラについては、興味はありますがあまりお会いしたくありません」
「あれ?好きではなくなってしまったんだね」
「あやつに拒絶されると、生涯伴侶に恵まれないそうです!」
「ネアは大丈夫だよ。もう指輪も渡しているからね」
「………む。ほっとしたような、逆に不安になったような。あの指輪には、そういう意味もあるのですか?」
そう言えば本人に尋ねる機会はあまりないので、直球で問いかけてみれば、魔物はあからさまに挙動不審になった。
「……ネアは私のものだから」
「ものすごく飛躍しましたね」
「一年後にと約束しただろう?」
「…………となると、あの指輪も含めて、今からもボラボラの対応策にはなるのですか?」
「なるよ。……ほら、唸ってないでこちらにおいで」
威嚇も込めて唸っていると、ディノに持ち上げられた。
飾られたリースに近くなり、掻き混ぜられた空気にいい香りがふわっと揺れる。
「ディノ、ふと思ったのですが、この件に限っては私を上手に転がしていませんか?」
「ネアは同意してくれたよね?」
この話題になると、魔物は老獪な魔物らしい艶麗な目をする。
一瞬本能的に却下したくなりかけて、魔物の綺麗な目を見てぐっと堪えた。
「むぅ。………二言はありません」
「ほら、じゃあもう大丈夫だよ。ボラボラの祭に行きたいかい?」
「………行きたいです」
こちらを見下ろすディノの眼差しは甘い。
その微笑みの色めいた艶やかさに、どきりとする。
こういう優雅なけだもののような目をする魔物のを見るのは、実は嫌いではないのだからタチが悪い。
(………壮絶に綺麗に見えるから)
この世界でなければ見ることのなかった、人間ではない生き物の美しさ。
それはいつも、矮小な人間の心などあっさりと奪ってしまう。
見惚れてしまったのがわかったのか、ディノは鮮やかに唇の端を持ち上げて微笑むと、さも当然の権利のようにネアに口付けた。
男性的な独占欲が見えるのに、なぜか家族のような温もりに心が揺れる。
「………このリースの香りでクリスマスを思い出したので、今日のお昼はクリスマスメニューを作りましょうか。チキンとケーキでも良いですか?」
「ご主人様!」
手作りのお昼ご飯が食べられると知り、魔物は艶麗な男性の眼差しから、千切れんばかりに尻尾を振る大型犬に戻ってくれる。
少しだけほっとして、ネアはよしよしと頭を撫でてやる。
可愛いので、たくさんの餌を与えたくなってしまうが、魔物は太ったりしないのだろうか。
「ネアの、そのクリスマスという祝祭は、チキンとケーキを食べるのかい?」
「ええ。他に、リンゲというクリスマスクッキーを焼いたり、ソーセージやホットワインもいただきます。あとは、砂糖漬けのオレンジとチョコレートがけの干し林檎もいただきますよ」
「クリスマスクッキー……」
興味深そうにしたので、ネアは微笑んだ。
「そのクッキーも今度作ってあげますね。デコレーションするので、お絵描きみたいで楽しいですよ」
「ネアは色々なことを知っているんだね」
「ふふ。お互いに知っていることが違うので、一緒にいると楽しいですね」
「…………うん」
うっかり過剰に喜ばせてしまった所為で、魔物はまた恥じらってしまった。
ご機嫌でご主人様を抱えたままどこかに行こうとするので、ネアは慌てて止めた。
「ディノ、着替えて支度をしたいです」
「降ろしたくないな」
「ご主人様を解放して下さい」
「もう暫く持っていたいな。一時間くらい?」
「…………長い!」
「ひどい…………」
「では、ケーキにクッキーもつけます。一緒にクッキー作りしてみたくありませんか?」
「作る…………」
クッキー作りの魅力に負けたのか、ディノは少し悔しそうに頷いた。
最近心を許して無防備な受け答えが多くなってきたせいで、可愛らしさの暴力が増え、ネアは甘やかしたい欲を何とか堪えた。
クリスマスクッキーは、シナモンとクローブを小麦粉と合わせて振るっておき、クッキー生地を作る。
そこに檸檬の皮をおろしたものを混ぜた砂糖衣をアイシングとして絵を描いて、デコレーションするのだ。
こちらの世界にも食用着彩料があるので、色とりどりのクッキーが出来上がった。
あれだけ凄艶でもあった魔物が、ご主人様に髪の毛を綺麗にまとめられて、ちまちまと絞り袋でデコレーションしている姿を見ると、ネアは可愛らしさで悶絶しそうになった。
残念ながら、この魔物はあまり絵心はないようだ。
そんなところが好感度を上げるとも知らず、ディノはどうやら落ち込んでいる。
トナカイの筈だが、頭に触手の生えた怪物に見える。
「………出来た」
「ディノは色のセンスが素晴らしいですね。とっても綺麗だけど、きちんと美味しそうに見えます!」
「こんなに難しいとは思わなかった」
褒められて嬉しそうにする反面、少し悔しさを滲ませながらも、ディノは自分が作ったクッキーをすすっとネアの方に押し出す。
代わりに、ご主人様が作ったものを手元に寄せていた。
(しかも、ハートのクッキーを一番手元に寄せたか)
鳩を描いてみたのだが、寂しい感じになったのでハートを描き加えたものだ。
ハート模様の意味はこちらの世界でも共通なので、そのクッキーが気に入ってしまったようだ。
「これは乾燥に半日から一日程度かかりますので、食べるのはまた後からですね」
「乾燥………」
「はい。そしてこのクッキーは、見て楽しいに配分を寄せますので、美味しさは無難な感じになります。美味しさはこちらで補填して下さいね」
クリームを塗りながらそう言ってやれば、魔物はスポンジケーキに生クリームが広がってゆく様を驚いたように見ている。
くるくると回されるのが不思議なようで、子供のように魅入られていた。
出来上がったケーキに果物を飾り付ける係はディノに任命し、ネアはチキンを焼き上げる作業に移る。
漬け込んでおいたチキンを卵にくぐらせ、香辛料を合わせた粉をまぶしてから揚げ始めた。
丸鶏でクリスマスチキンを焼いても良かったのだが、流石に二人では多いので食材を無駄にしないようにフライドチキンにしたのだ。
チキンが揚げ上がる頃になると、魔物が背中に張り付いてきた。
「終わりました?……まぁ、ディノはデコレーション上手なのですね!美味しそうなケーキにしてくれて有難うございます」
過剰盛りにならないよう、予め用意した果物は少なめにしておいたし、大きなものはカットしてある。
なので、だいたいどう乗せても綺麗になるのだが、褒める事自体が目的なのだ。
一度出来上がったケーキを急速冷蔵の入れ物に入れて冷やし、その間にチキンとパンでお昼ご飯にする。
外は初夏の景色なのでクリスマスメニューは不思議な感じだが、それでも何だか気持ちはクリスマスみを帯びた。
(不思議だわ。イブメリアはきちんと満喫したのに)
こんな些細な感傷を満たし、ディノとあの世界を共有したような奇妙な親密さを覚える。
「ネア?」
「何だか、ディノとも私の生まれた世界の思い出を共有しているような、不思議な気持ちです」
「……なぜだろう。それ、凄く嬉しい」
「嬉しい?……のでしょうか?」
「私の知らない部分だからね」
ふっと目を伏せて、ディノは幸せそうにチキンを食べていた。
こんなに綺麗な生き物が、手掴みで食べるフライドチキンなのだからとんでもないことだ。
「では、バレンタインもやりましょうか。私の世界の風習ですよ」
「バレンタイン?」
「近代では主に恋人達の風習ですが、家族などの親しい人とも…」
「やろう!」
魔物がとても前のめりになったので、ネアは小さく微笑んだ。
こんなに異世界の風習に興味津々なのであれば、もっと色々と教えてあげれば良かった。
「ではバレンタインもやりましょうね。ふふ、今年は沢山楽しみがありますね」
「毎年やろう」
「………毎年」
ずっと。これから続く、長く慈しみ深いもの。
「ネア?」
小さく微笑みを深めたからか、ディノが目を瞠った。
「不思議ですね。クリスマスの気分でクリスマスのものを食べていたら、クリスマスのように慈しみ深い大切なものを実感しました。ディノ、これからもずっと一緒に、色々な経験をしてゆきましょうね」
魔物が荒ぶったのでケーキは少し後からになったが、擬似クリスマスは概ね完璧だったと言えよう。
しかし、ディノが作ったトナカイのクリスマスクッキーを大事にとっておいたら、うっかり見てしまったエーダリアに、怪物の絵姿に恋をしたのかと不審がられてしまった。