グラニのプールとプールの魔物
エーダリアの執務室から戻ってきたネアは、部屋に戻ってから毛布妖怪を指先でつついてみた。
毛布の塊はびくりと揺れたものの、頑なに入口を閉ざしてストライキを続けている。
隅っこから真珠色の髪の毛がはみ出ているが、引っ張っても駄目だろうか。
魔物がストライキに入ったのは、昨晩のことだった。
魔術的防壁による冬眠作用という謎のもので猛烈な眠気に襲われた後、ディノの帰宅時間に合わせて返還されたネアは、まだ意識が朦朧としたままだった。
その防壁の大本になっているディノが守護を一時的に緩め、意識がはっきりする頃には何やらまずい事態になっていたのだ。
魔物的に色々と意見はあるようだが、ざっくりまとめれば、ネアがヒルドと新しいことをあれこれしてしまったのが大変お気に召さなかったのだとか。
その大前提として、言いつけを破って外出したご主人様という事実はすっぽ抜けてくれたので良かったが、特に遭難救助的なあれこれに、魔物は羨望を禁じ得ないようだ。
ネアからしてみれば、そうそう滅多に遭難したくないのでどうか諦めて欲しいのだが、自分もやりたいと駄々をこねた魔物と、その再現を許さなかったご主人様とで、昨夜は攻防戦になってしまった。
(多分、半分眠っているときに、色々と不都合なことを喋ってしまったのかな)
意識がしっかりしていれば言葉を選ぶことも出来るが、朦朧とした意識では真実のままにしか説明出来なかったのだろう。
「困りましたね……」
腰に手を当てて男前に巣を見下ろすと、ネアは、脳内から適切な対応策を幾つか引っ張り出した。
その中からあまり失うものがなく、かつ魔物が喜びそうなものをピックアップする。
「今日は、今年も一年頑張りましょうという意味も込めて、午前中のお仕事が終わったら、グラニの温泉プールに遊びに行こうと思っていました。夜にお祭りがあるので午後は空いていると聞いていたのですが、ディノはあんまり行きたくないようなので…」
「………行く」
すぐさま食いついて来た魔物に、ネアはやれやれと苦笑した。
今回の、魔物的キーワードは三つである。
一つは新しいこと、そしてネア的には不本意であるが薄着というキーワード。
そして解せないことに、氷室の穴から引っ張り上げる作業が、ディノとしては刺激的な遊びの一環で脳内変改されている。
グラニは、ウィーム近郊の温泉街の一つ。
近場では一番大きな温泉プールがある。
因みに、こちらの世界では温泉の妖精や魔物の管轄で運用される温泉プールと、精霊や火の魔物に運用される温水プールがあり、少々ややこしい。
「では、午前のお仕事をさくさく終わらせてしまいましょう。髪の毛は三つ編みでいいですか?」
「三つ編みにする……」
毛布の塊から魔物が這い出してくる様子は、そこそこホラーな様子であったが、ネアは微笑みが引き攣らないように頑張って出迎えた。
結論から言うと、午前中の仕事は思ったより捗らなかった。
ディノからしてみれば、仕事は早く終わらせたいが、拗ねていることもアピールしたいという謎の衝動に駆られたようで、微妙な時間差で仕上げてくる薬をネアが取り纏める羽目になったのだ。
ネアは時間内に仕事が終われば何の問題もないので、渋い顔で薬を作る魔物の横で、医薬辞典を開いて新しい薬の材料等を調べて有意義に過ごしていた。
結果、業務時間ぴったりに仕事が終わり、仕上がった薬をネアが提出に行けば、エーダリア達が夜の祭りに向けてリーエンベルクを出るところだった。
「……よく仕事をさせられたな」
「飴と鞭ですよ、エーダリア様。ですので、午後からは、グラニの温泉プールに行ってきます。夕方前には戻りますね」
「………魔物が温泉プールを喜ぶのか?!」
「時々、箱入りで育てられてしまった子供のようになるのです。可愛いですよ」
「…………お前の魔物はやっぱりわからないな………」
エーダリアは慄いていたが、ネアとしてみれば可愛いやつめの範疇なので、昼食は軽めのものをいただき、午後からはグラニの街に向かう。
特に仕事始めの挨拶がなかったことからも想定していたように、ヴェルクレアの文化ではあまりお正月という感慨は薄いようで、街はまだ、星祭りに向けて静かな闘志を燃やしつつ静まり返っていた。
道すがら、星屑収穫の為のポジション練習をしているご夫婦がいて、何やらぞくりとする。
お店の軒先に星祭り用の飾りを取り付けている店主達も、心なしか目つきが鋭い。
今日ばかりは余計な体力を使おうとする者はほとんどいないのか、前評判通り温泉プールはほとんど貸切状態になっていた。
「ここですね」
「随分と大きいね」
グラニの温泉プールは、まるで歌劇場のような建物だった。
温泉による観光資源で潤っているので、古くからウィーム中心地のような壮麗な建築が立ち並ぶ歴史地区でもある為、この建物も美しいだけではなく、とても貴重な建築なのだとか。
有益な空き時間情報を教えてくれたゼベルに感謝しつつ、ネアは入口でチケットを買い、男前に魔物の分の支払いも済ませる。
買い物に関しては払いたがりの魔物であるが、入館料のようなものには無頓着だ。
今迄、こういうチケットを買うようなことはほとんどなかったのだろう。
その代りにこういう場合のチケットの半券は、魔物の宝箱に大切に保管されることになる。
ご主人様に貰ったものという扱いになるのが、何やら子供っぽくて可愛らしい。
歴史を感じさせる荘厳な建物の入り口を抜ければ、見事な青いタイルで装飾されたエントランスホールに、まずは圧倒されてしまう。
どこか異国風の大きな丸天井には天窓があり、効果的な光をホールの中央に落としている。
「では、プールで会いましょう!くれぐれも、他のお客様に迷惑をかけてはいけませんよ」
「ご主人様……」
「しょんぼりしないで下さい。すぐに会えますからね」
更衣室は男女分かれているのでエントランスで一度別れ、高級サロンのような更衣室で着替えると、ネアは一足先にプールに出た。
「わぁ…………!」
そこはまるで、青を至高とする寺院の中のようだった。
華麗な建築は細部にまでこだわって作られており、見事な寺院が水没したかのようなお伽噺のプールだ。
円柱の装飾は見事で、天井のフレスコ画も溜息が出そうな程。
プールの水は内側から光っており、どこまでも透明だ。
大きな石造りの花瓶から溢れる花々は瑞々しく、何とも幻想的である。
「ネア、水着…………」
感動して見惚れていると、後ろから呆然とした声がかかった。
ちゃんと一人で着替えられたのかなと振り返れば、なぜかさっと視線を逸らされる。
「ディノ………?」
「水着なんだね」
「寧ろ、水着でなくして何でここに来ればいいのでしょうか。ディノだって水着でしょう?」
「…………ずるい」
「もはや、ディノの狡いの基準値が行方不明です」
こちらの世界の女性用水着はいささか慎み深い。
上下に分かれており上はビキニめいた形ではあるものの、下は中にショートパンツを穿いたミニスカートのようなデザインになっている。
ネアは真剣に泳ぐ方なので、髪の毛はお団子にしてあったが、大雑把過ぎたのか少し後れ毛が残ってしまっていた。
それにしても、浴室で湯船につかっているときには容赦なく侵入してくる魔物が、この程度で照れているのが謎である。
乗馬服にも照れてしまうので、また特殊な線引きがあるのかも知れない。
(ディノに関しては、何と言うか見慣れた………)
男性用の水着は、正直動き難そうな形をしている。
ドレープのあるハーフパンツのようなもので、少し古代のトーガのようと言えばいいのだろうか。
貴族文化の悪習であるようだが、男性なのだしもっとすっきりしたものを着ればいいのにとネアは思う。
着替えなどの露出はネアとて恥じ入ってしまうが、水着となると不思議に感慨はない。
(とても綺麗なのだけど……)
何度か温泉会をしているせいか、ディノが水着で現れても、一人で更衣室で着替えられたようで良かったという感想以外出てこない自分が悲しくなった。
本日の魔物はお決まりのネアと同色の髪色なので、このトーガ風の水着を着ていると泉の精霊のようで麗しい。
しなやかな筋肉のラインなど、優美だが脆弱ではないのがいい。
ただ、同性的にはちょっと嫌なやつなのか、ディノが入ってくると、先にプールで遊んでいた男性二人がそそくさと退室していってしまった。
彩色も華やかな花瓶に活けられているのは、すべてエキゾチックな南国の花だ。
どこか南国に旅行に来たような、この内観で砂漠の国の寺院に迷い込んだような、見慣れない美しさに胸を打たれる。
ほとんど人がいないので、プールの一角を二人で占領することが出来た。
「ディノ、このプールの水が、魔術のものなのですか?」
「………そうだよ。水との繋がりを絶つと、綺麗に戻るから」
「便利で良いですね。お風呂のように流れていってしまう水とは管理方法が違うんですね」
「状態維持の魔術がかけられているから、綺麗ではあるよ」
プール特有の魔術というものがある。
綺麗な水をプールに張り、そこの状態維持と、場に水を紐付かせる魔術で覆う。
そうすると水は綺麗なまま、そしてプールから上がれば、水滴は全てプールに引き戻される便利な仕組みだ。
結果、身体を温める以外の目的で水泳後に入浴する必要もないので、こちらの世界でのプールは、とても気軽な趣味の一つになっていた。
かつてはリーエンベルクにもあったそうだが、今は経費削減で水が張られていない。
水と火の属性の魔術師を雇うのは、コストが高いのだとその時に知った。
「で、どうするんだい?水に浸かるの?」
「ここに防水加工の説明書きがあります。お子様用ですが、初訪問なので参考にしましょう」
一緒に覗き込もうと思って隣りに行くと、魔物はびくりと竦み上がって少しだけ逃げた。
訝しげに見上げれば目元を赤くしているので、まだ照れているらしい。
「……泳ぐ、潜る、浮き輪でくつろぐ、………プールの魔物と戦う?」
最後の一文の様子がおかしかったので、ネアはそっと魔物を見上げた。
ディノにもわからないのか、不思議そうに首を傾げている。
説明書きのイラストには、毛がふさふさのおたまじゃくしのような、謎の生き物が描かれていた。
「ディノ、プールの魔物さんを知っていますか?」
「いや、聞いたこともないかな。戦うのかい?」
「とても興味がありますが、今日は普通に泳ぎましょうか。……ディノ、泳げますか?」
「…………どうだろう?」
そこで臨時の水泳教室が開催され、結果、魔物は遊泳は出来ないということがわかった。
心を鬼にして突き離せば泳げるが、遊びの範疇で浮いたり進んだりは出来ないようだ。
沈んでも可哀想なので浮き輪を与えてやれば、ディノは自由に遊んでいるネアを尊敬の眼差しで見ていた。
狩りのときと同じようにうっとりと憧れの目で見ているので、ご主人様は再び株を上げたようだ。
「……ご主人様」
「す、少し休みましょうか」
イブメリア周辺から色々なものを美味しくいただいていたので、ネアは後半かなり真剣に泳いでしまい、くたくたになって退散する。
あまりにも見事なプールを独り占め状態なので、異世界のアスリート気分になってしまったのがいけなかったようだ。
このままでは、腹筋を素敵に引き締める前にプールの藻屑となってしまう。
「また来よう」
「さては、浮き輪が気に入りましたね」
「魔術を使わないで水面にいるから、波で揺れるんだね。それに、ネアが行きと帰りで会いに来てくれるし、時々引っ張ってくれるから」
浮き輪を引っ張ると静かにはしゃぐので、ご主人様は頑張って何回かバタ足をしてやった。
これでご機嫌を直してくれるのなら、一緒に遊べるので楽しいばかりだ。
二人はプールサイドのベンチで、飲み物を頼んでのんびりすることにした。
寒さには慣れてしまったので、温泉の熱を利用したほこほこした空間と、ひんやりと気持ちいいプールの対比が堪らなく贅沢な気持ちになる。
飲み物のオーダーは魔術仕掛けのメニューの術式をなぞるだけでいいのだそうだ。
大丈夫なのだろうかと心配だったが、すぐに注文した飲み物をウェイターが持ってきてくれた。
一杯までなら飲み物代も込みであるチケットなので、まだ精算の必要はない。
ネアが綺麗な水色の青杏と雪林檎の飲み物で、ディノは香草茶にした。
南国のような色彩の飲み物がまた、気分を盛り上げてくれる。
目の前に置かれた飲み物を笑顔で迎え入れ、その視界の端に映ったものに、ネアは顔を上げる。
「………ディノ、あれがプールの魔物でしょうか」
飲み物を手に取りながら、ネアは、プールの奥の方で激しい攻防戦を繰り広げている男性と、モップのような生き物に釘付けになってしまった。
「ええ、あれがプールの魔物ですよ。あの大きさですと、樹齢二十年程でしょうか。大きいものはもっと大きいので、よく騎士の方達や、魔術師の卵の子供達が戦っています」
ディノの前にグラスを置いていたウェイターが反応してくれ、さらりと新事実を置いてゆく。
高級ホテルのラウンジにいるような制服姿の青年は、遠くで水飛沫をあげている一角を微笑ましそうに眺めた。
「樹齢………?」
「はい。植物性の魔物ですからね。向こうで戦われているのは有名な鍛冶師の方でして、ああして小さなものと戦って準備運動をしてから、樹齢五十年級の魔物と戦うんです。ラケットを貸し出しておりますので、興味をお持ちでしたら是非どうぞ」
「………いえ、プール初心者なので、今回は観戦に留めます」
ウェイターが立ち去ってから、ネアはどこか呆然とそちらを見ているディノに、そっと声をかける。
「ディノ、あやつはラケットで打ち返されていますが、痛くはないのでしょうか?」
「水から飛び出して打ち返されるのが楽しいみたいだね。尻尾を振ってるから、痛くないんじゃないかな」
「鍛冶師さんは、結構なフルスイングです……」
どうやら、プールの魔物と戦う用のプールは奥の区画のみらしい。
特殊な防護結界のようなものがあり、隣りの区画には水飛沫が飛ばないようになっている。
モップの精にも見えるおたまじゃくし型の魔物は、短い尻尾を千切れんばかりに振って、ラケットに飛び込んでいっていた。
物凄い勢いで打ち返されているが、幸せそうなら口出しはするまい。
「あ、」
「……弾むんだね」
鍛治師の渾身の一撃を受けたプールの魔物は、プールではなく壁にぶち当たってから弾んで戻ってきた。
決め技だったらしく、鍛治師の老人は奇声を上げてガッツポーズをしている。
壁に叩きつけられたプールの魔物も、何度も宙返りをして大喜びしていた。
「ネアと一緒にいると、新しい魔物にばかり出会う気がするな」
「魔物世界の奥深さに、私も動揺が隠しきれません。ディノ、やってみたいですか?」
「………やめておこうかな」
その後、余程プールの魔物が衝撃的だったようで、魔物は少ししょんぼりしてしまった。
この世界は、ディノにとっても未知のものがまだまだあるのだ。