遭難と氷室の扉
前略、遭難いたしました。
調子に乗って散策していた軽率さをお許し下さい。
その日ネアは、勝手知ったるリーエンベルクで遭難していた。
ふと、大きな噴水の横の新雪がふかふかそうで、子供みたいに踏み込んでみたのだ。
そしてどうしてなのか、まるで落とし穴でもあったかのように胸下まで雪に埋まった。
(………泣きたい)
まだ落ちたばかりだが、ここに落ちただけで気分は最低のところまで急降下したので、既に心が死にそうである。
垂直落下したせいで、コートの裾がめくれたのか雪の下で異様に冷たくなっているゾーンがある。
そしてリーエンベルク内なので手袋をしていなかったことが災いし、うっかり雪に埋もれてしまった方の手の指先も死にそうだ。
よりによってなぜ、ディノがアルテアを蹴り飛ばしに行った時にこんな目に遭っているのか。
どうして自分は二時間くらい大人しくしていられなかったのか、ネアは追い打ちでまた死にそうになる。
アルテアが、ネアに守護と言う名の相互間通路のようなものを添付したことが判明し、ディノはアルテアを蹴り飛ばしに、どこか遠い国まで遠征している。
二時間で戻るので大人しくしているように言いつけられたのだが、その窘め方を不服としたご主人様は、抗議活動でお庭に出ていた。
そして見事に遭難したのである。
(………こんなしょうもない理由でディノを呼び戻したくない!)
恥ずかしくて悔しくてジタバタすると、なぜかもう一段階体が沈んだ。
こうなると、もはや恥ずかしいなどと言っていられなくなる。
今日までリーエンベルクは無人となるので、ディノを呼び戻すしかあるまい。
涙をこらえてネアがそう決断したとき、神は救いの手を差し伸べた。
「ネア様?!」
ぎょっとしたように名前を呼ばれて、涙目で顔を上げるとヒルドがこちらに向かって走ってくるところだった。
先程の声はもう少し上から聞こえたので視線を持ち上げれば、窓が開いている一室があるので上から飛び降りたようだ。
「ヒルドさん、……歩いていたら落ちました」
「すぐに引き上げましょう」
自由になる片手だけを差し出したが、ヒルドはしゃがみ込んで雪の中に手を入れると、ネアの脇の下に両手を入れた。
「そちらの手で私に掴まっていて下さい」
「はい。お手数をおかけします」
ヒルドの肩に片手を回すと、ふわりと体が持ち上がる。
もっとずるずると雪の上に引き上げられるのかと思っていたが、よく考えればヒルドには羽があるのだった。
(………寒い!!)
そして持ち上げられて外気に触れると、ネアは濡れた体が急速に冷えるのを感じた。
何しろ今日も雪が降るお天気なので、あまりの寒さにがたがたと震える。
「すぐに体を温めましょう」
どんな重力の魔術が働くのか、ヒルドは持ち上げたネアを軽々と抱き直すと、羽を広げてどこかへ救急搬送してくれる。
どうやら降りてきた窓に戻るらしい。
「ごめ、んなさい。落ちてすぐだったんですが、思うように体が動かなくて……」
「ディノ様は?」
「諸事情で、アルテアさんを蹴り飛ばしに行っ……ています。二時間程留守に……」
「成る程、その間に外に出られたのですね?」
「申し訳ありません……。あの、ヒルドさんは何で…」
「ああ。向こうでは酒席続きですからね。少しこちらで仮眠を取ろうと思いまして」
「本当に申し訳ありません!」
「いえ。戻ってきて良かったと心から思えました」
運び込まれたのは大きな浴室だった。
がたがたと震えるばかりのネアに、ヒルドは甲斐甲斐しくコートやブーツを脱がせてゆく。
ネアも参戦しようとしたのだが、埋まっていた方の指先が震えて使えないので、ヒルドに任せるしかなかった。
「手を浸けていて下さい。凍傷になってもまずいですからね」
「はい………」
浴槽には魔法のようにお湯が沸いていた。
ふにゃりと萎れて言う通りにしたネアに、ヒルドは優しく微笑みかける。
浴槽の隣に座り込むようにして両手をお湯に浸けると、安堵で溜息が出そうなくらいに気持ちがいい。
「コートやブーツが良いものでしたので、濡れてはおりませんね。それだけでも幸いです」
お湯に両手を浸してぐったりしているネアを、ヒルドは手早く脱がせてゆく。
室温をかなり上げてくれたのか、雪の落とし穴から一転だからなのか、服を脱がされても寒くはない。
「失礼、髪は濡らさない方が良いでしょう。結びますよ」
ぐったりし過ぎて俯いた際に、浴槽に髪の毛が入りそうになって、ヒルドが器用にまとめてくれる。
手櫛で髪の毛を掻き上げてくれた時の指の感触に、不思議な心地よさを覚えてしまう。
魔物が手櫛で髪を梳かれるのを喜ぶのが、わかったような気がした。
「……ヒルドさんごめんなさい。ええと、もう自分で……」
「まだ上手く動けない筈ですよ。ネア様が落ちたのは、氷室へ降りる地下階段です。ただの雪溜まりではなく、魔術で意図的に気温が下げられているところですから。……一度、手を上げてくれますか?」
「は、はいっ。……そんなところだったのですね。道理でここまで強張ってしまったわけです。……それと、……あのそれ以上は」
「ネア様、あの場所には厄介な魔術が他にも重なっているんですよ。本当に私が気付いて良かった。ご自身でどれだけ冷やされたかまだ理解出来ていないのでしょう。大人しく言う通りにしていて下さい」
さすがに王子の教育係である。
有無を言わせない口調で制圧すると、それ以上脱がされると恥ずかしくて死ぬと言いかけたネアですら、しょうもないことで抵抗しているような気持ちになってしまいぴたりと黙った。
「ふぁっ?!」
しかし、アンダードレス姿にされて、スカートの裾を持ち上げられてから毛糸のタイツまで容赦なく脱がされると、ショックのあまり違う震え方をしそうになる。
ヒルド本人は粛々と作業をしているので、ほとんど救命救急から介護の域なのだろう。
しかし、異性にここまで脱がされたことがないネアは、心臓が止まりそうになる。
その隙にアンダードレスも脱がされ、茫然自失のまま浴槽に抱き入れられた。
「この先はさすがにお気の毒ですので、手足が温まったらご自身で脱いで下さいね」
羞恥と衝撃でふるふるしているネアに、ヒルドは小さく微笑んでどこか悪戯っぽくそう指示する。
「氷室の魔術で温度を下げる効果が衣類にも添付されてしまっている筈ですから、恥ずかしがらずに必ず脱ぐこと。脱いだものはあちらの籠に入れておいて下さい。十分程でお迎えに上がります。宜しいですね?」
またしても有無を言わせずにネアを頷かせ、ヒルドはネアの服をまとめて持ち去ると浴室の扉を閉めて出て行った。
「…………え」
まだ衝撃から覚める余裕もないのだが、何とか正気には戻り、ネアは気の抜けた声を漏らす。
羞恥で死にそうな反面、かなり専門的な忠告があったので迅速に対応するしかないのも理解した。
どうやら、随分と込み入ったところに落ちたらしい。
(………そして、十分しか残された時間はない!!)
その時間内に手足をまともに動かせるようにして、残された衣類を脱ぎ籠に入れ、体を温めてから、離れた位置に置かれた棚からバスタオルを強奪してくるまらなければならない。
「………十分で足りる?」
ヒルドの言葉を証明するように、あれっぽっちの時間しか落ちていなかったくせに、手足が氷のようだ。
温情で残された下着も、これだけ湯気を立てるお湯の中ですらとても冷たく、少しだけその事実が羞恥に勝りぞっとした。
(ヒルドさんは、濡れてないって言ってた)
助け出された時に、ずぶ濡れで氷水に沈んだ後のような気がしたのは、その魔術の効果なのだろうか。
お湯の中で必死に体を動かしていると少しだけ回復してきたが、一部分を氷で冷やされているような感覚がある。
(…………脱がないと駄目だ!)
覚悟を決めてから自由になる方の片手で残された服を脱ぎ、本当はタオルを手に入れてから脱ぎたかったと泣きたくなった。
子供ならまだしも、大人でこの有様はあまりにも精神へのダメージが大き過ぎる。
ましてや、助けてくれたのはヒルドだ。
(…………いや、ヒルドさんが一番ましだったのかも)
ディノの場合、まず全部脱がさないという配慮をすることは出来まい。
エーダリアも嫌だし、ゼノ達にこの迷惑をかけるのも心が折れる。
見ず知らずに近い騎士の誰かでもそうだし、同性の家事妖精達はそもそも言葉を持たないので、意思疎通が出来ない事故が想定される。
(女性、圧倒的に、女性の人材が皆無過ぎて辛い!!!)
ネアは、年明けの星祭りで、女性従業員の追加雇用を星に祈ろうと心に決めた。
こんな時に頼れる相手がいないのは致命的だ。
(だいたい、私とて立派な淑女なのだから、相談できるような女性が敷地内にいないだなんて………あれ、もしかして魔術可動域からまだ子供だと判断して、これでいいと思ってるのかしら?)
それはそれで、泣いてもいいと思う。
先程のヒルドに一切の躊躇いがなかったのも頷けて、ネアは息絶えそうになる。
「………バスタオル」
ややあってから顔を上げると、今度は浮き輪を欲する水難者のような眼差しで、棚にきちんと収納されたタオルを眺めた。
淡い水色と白の浴室に、タオルは真っ白。
浴室が広いので、あの白い輝きがとても遠い。
(ん?この浴室、………ちょっと生活感があるような……)
鏡の前の棚には小瓶が二つ並んでおり、歯ブラシとコップもある。
奥の飾り棚には、清潔感のある緑を活けた小さな花瓶。
(いや、今はひとまずタオルだ!)
時間制限を思い出してそう力強く頷いたところで、浴室の扉がガチャリと開いた。
「ヒ、ヒルドさん?!」
「顔色がだいぶよくなりましたね。タオルをお持ちしましょう」
大慌てで浴槽の片側にへばりついて体を隠すと、ネアはあわあわしながら、全く躊躇しないヒルドを何とか押しとどめようとする。
「あ、あのっ、ヒルドさん?!自分で、自分で取りに行けますから!!」
「ご無理をなさらず。ああ、大丈夫ですよ。そちらは見ませんから」
くすりと微笑まれて、ネアはお湯の中に崩れ落ちそうになった。
さすがに羞恥心を理解はしてくれているようだ。
「…………いや、タオルを広げて待たれても無理ですからね?!」
「おや、まだ立てませんか?」
「そこに置いておいて下さい!!自力で活路を開く人間でありたいです!」
小さく微笑む気配。
「ではここに置いておきますが、私はここに。背中を向けておりますから、倒れそうだったら声をかけて下さいね」
「………あの、是非に部屋のお外でも」
「ネア様」
「………はい」
ぴしゃりと叱られ、渋々従う。
だが立ち上がろうとすれば、まだふらついていて、ヒルドの心配ももっともだと思った。
氷室の魔術とはどれ程の効果なのだろう。
しかしながら淑女の意地で自分でバスタオルを巻きつけるところまで終えると、ネアはタオルをもう一枚貸して貰えるよう頼んだ。
濡れている下着を、そのまま籠に放り込むだけの度胸がない。
絶対に嫌だ。
(というか、タオルに包んで持って帰りたい)
幸いバスタオルは分厚くてとても大きかった。
膝下まで隠してくれるのでほっとする。
洗い物は氷室の魔術を剥ぎ取るからと没収され、温められた部屋に通される。
「ヒルドさん、我儘なのを承知でお願いしてしまいますが、着替えを、着替えを貸して下さい」
死にそうな声で懇願されて、振り返ったヒルドが眉を持ち上げた。
おかしそうに笑うので、頬が熱くなる。
「少し大きいかもしれませんが、そちらに置いてありますよ。私は氷室の扉を閉めてきますから、無理をせずゆっくりと着替えていて下さい」
ネアが気付かなかっただけで、確かに通された寝室の椅子の上には、あたたかそうな着替えが置いてあった。
ヒルドが部屋を出てから手に取ると、シルク綿のシャツに見えるのだが、内側が毛皮のような起毛素材になっていて、冷えた体に嬉しい。
(裏起毛だから素肌に着ていても透けないし!)
何から何まで本当に申し訳ない。
「……しかし、裾が長い」
まずはシャツを着用してから袖を何回か折り返して調整すると、お揃いのズボンを穿いてからまた裾上げをしたが、男物らしくだぼだぼだ。
(あ、私の服達!)
視界に没収された服が映ったので、丁寧に置かれていた室内履きをひっかけ、ぱたぱたと部屋の中を横切る。
寝室の一角に、綺麗に畳まれたネアの服が置いてあり、コートもハンガーにかかっていた。
とは言え、例の術式とやらが剥ぎ取られているのかわからないので、ネアは用心して触らないようにするしかない。
ざっと確認したところ、ブーツやコートはどこも損傷していないようで、その点でも安心した。
(そしてここ、やっぱりヒルドさんのお部屋なのではないだろうか……)
明らかに誰かが住んでいる部屋なので、微かな慄きを押し殺しながら観察し過ぎないよう、通された寝室の椅子に腰を下ろした。
しかし、どうしても視線が部屋を彷徨ってしまう。
部屋は、上品な深みのあるオーク色と、ダークグリーンで揃えられている。
真鍮の家具飾りに、どこか東洋的な螺鈿細工の書き物机。
寝室は広く、ある程度の装備もあることから、通り抜けてきた応接室などに出ずとも、休日はこの一室で過ごせるようにもしているのだと思われた。
寝台横の飾り棚に置かれた読みかけの本に、何だかプライベートに無断で踏み込んでしまったようで恐縮してしまう。
(ヒルドさん、早く戻ってこないかな)
穴に落ちて割とすぐに救出され、入浴も時間制限があったのでまだ半刻くらいだろうか。
まだディノが戻ってくる時間ではないのだろうが、こうして一息つくと急に疲労感に襲われた。
贅沢を言うならば下着まできちんと着けていたいので、一刻も早く部屋に帰りたい。
(ヒルドさんが戻ってきたら、部屋に帰らせて貰おう)
そう考えから、くあっと大きな欠伸をした。
妙な睡眠リズムで叩き起こされたときのように、異様な眠気に包まれる。
(借りたタオルと着替えを洗濯してから返すにしても、家事妖精さんの手を借りなければいけないし……)
そもそも、この意外なパジャマはヒルドのものなのだろうか。
裏起毛素材が好きだとは知らなかったが、そう言えば彼は元々南方の島国の生まれだ。
雪深い国で暮らすには、このような工夫が必要なのかも知れない。
(まさか、パジャマ一組しか持ってなかったりしないよね……?)
ネア自身はしっかりと頭を働かせているつもりだったが、そんなことを考えていたらがくりと頭が揺れた。
(なんで、……こんなに眠い、の)
「氷室の扉を閉めてある、蝶番の魔術が壊れたようでした。噛み跡がありましたので、大晦日の怪物かもしれませんね。……ネア様?」
そこに戻ってきたヒルドが、居眠りをしかけているネアに気付いた。
「………はいっ、起きてます!」
「やはり、守護の過剰反応が出ましたね。早めに湯船から上がっていただいて良かった」
歩み寄る気配がして、結い上げて貰った髪のおくれ毛が頬にかかっているのを、そっと指先で耳にかけてくれる。
頷いている風の動作を装って、ネアは目を閉じたいという欲求に負ける。
しかし目を閉じてしまうと一気に意識が曖昧になった。
「ネア様は守護が手厚い分、先程のような急速に身体に変化を及ぼす術式に踏み込むと、身体機能を凍結させて、一時的に冬眠に近い状態になるんですよ」
「………ふぁい」
「氷室の魔術は、攻撃ではありませんから排除とならないのが厄介でしたね。……眠そうですね」
「………ねむく、………ねみゅ、ねむいです」
かくりと首が落ちた。
夢うつつに、誰かの優しい手で頭を撫でられる。
抱き上げられてふかふかの寝台に入れられ、あまりの幸福感に抵抗を放棄した。
脆弱な人間の精神では、ものすごく眠い時に眠れる欲求に抗うなど、到底不可能だ。
「安心して、ゆっくりとお休み下さい」
夜明けの森で深呼吸しているような、ふくよかで爽やかな香りにうっとりと眠りを深める。
時折誰かに頭を撫でられるので、小さな子供の頃に戻ったようでむず痒い幸せを噛み締める。
幸せな眠りの中で、ネアは見たこともないような深い森で、見事な妖精のお城を発見する夢を見た。
その後、きっかり帰宅時間に合わせて、ヒルドからの連絡を受けてお迎えに来たディノに回収されたネアは、ものすごく怒られた。
ヒルドが笑顔で取りなしてくれたものの、ご主人様の遭難救助のお役目を取られた魔物はたいそう拗ねてしまい、帰り道にちらりと外の雪溜まりを見ていたので、わざと遭難させたら絶交だと脅さねばならなかった。
今後、雪道での魔物の動向にはよく注意せざるを得ない。
幸い、仮眠を取りに戻ったというヒルドが、初めて見るくらいにご機嫌だったので、ネアは必要以上に罪悪感に苛まれずに済んだのがせめてもの救いであった。