指輪の話と宝石の話
『ところで、どうやって指輪を渡したんですか?』
大聖堂の影絵の中で、そう問いかけたのはウィリアムだっただろうか。
『何か一つを宝物として貰ってくれるというから、指輪を渡したんだよ』
いい機会だったから。
自己満足のようなものだから。
守護を与えておけば安全だから。
自分でもそんなことを信じていたのは、浅はかだった。
あの指輪は、証拠だった。
ネアというあまり他者を深く心に住まわせない人間が、自分にだけは譲歩して特別扱いしてくれるのだという印としてのものだった。
指輪の持ち主としてのネアではなく、ネアがあの指輪をしてくれるということが重要だったのだと。
「私は多分、心が少し硬いのです」
「心が硬い?」
「ええ。身も蓋もない言い方をすれば、私は冷たい人間なんですよ」
「そうなのかい?人間は、もっと柔らかいのだろうか」
「もっと社交的ですし、もう少し調和がとれています。勿論、私のような人間もいますが、選択の上では少し特殊だという自覚はあります」
ウィームの街からの帰り道で、ネアの髪から紡いだ宝石から広がった会話だった。
エシュカルの一件で少し頭を冷やしたいと言うので、陽の陰り具合を見ながら歩いてのザハまでの道。
ラムネルのコートの残りを使ったマフラーがお揃いなのだが、ネアは気付いた様子もない。
「でもネアは、私が大事なんだよね?」
「ええ。だからこそそれは、私にとってとても幸福な事なんですよ。他者を慈しむことが不得手な私が、こんな風に大切なものを作れるなんて!」
そう微笑んで、ネアの視線は自分の手にある指輪に向けられた。
彼女がその指輪を見つめる度、どう表現すればいいのか分からない心のざわめきに、短く息を止める。
喜びだけでいい筈なのに、こうして苦しくなるのはどうしてなのだろう。
「あの箱庭に住んでいた君は、とても深く丁寧に何かを愛するのだと思っていた」
「まぁ、素敵な評価ですね!でもね、私のその箱庭は、きっぱり閉じていました。何というか、…………私の心はとても容量が狭く、入り口が複雑なのでしょう」
「ネアは、何かを愛するのは得意そうなのにね」
「これでも何かを愛したいと思って、かなり頑張ったことがあるのです。前向きに人間関係を構築してゆくのは、人間社会の定石ですから」
「頑張っても駄目だったのかい?」
そう問いかけると、鳩羽色の瞳が揺れた。
泣いてしまうのだろうかと思って、また複雑な気持ちになる。
彼女が泣くのはとても嫌なのに、その特別な表情を自分だけに見せてくれればいいのにとも思う。
甘やかして甘やかして、どこにも行けなくなるようにと考えながら、慈しむことの楽しさにどこにも行けないのは、私自身なのだろう。
「ちくちくするセーターのようでした」
「セーター……?」
「ええ。私は上着を失くして、寒くて堪らないのです。だからセーターが欲しくて欲しくて堪らないのですが、見付けたセーターは全て、ちくちくして着心地が最悪なのです」
「可哀想に」
「寒いのに耐えられないちくちく具合に、私は癇癪を起こしてセーターを捨てた人間でした。それは惨めで悲しいことでしたし、周囲には異質なものとされましたが、着ている程の不快感がなくなったので、寒さもまぁ悪くないと悟りを開いていたところだったのです」
歩調が少し弾み、ネアの唇に微笑みのカーブが戻る。
その横顔を見ているだけで嬉しくなった。
『彼女にはあなたの寵愛がどれだけの恩寵であるのか、理解出来ないのだわ』
あの時、場所を変えた直後に、レーヌはそう言って微笑んだ。
その言葉は、自分でも思いがけず不愉快であった。
ネアにとって私は、この世界にたくさん溢れた見慣れないセーターの一枚なのだろう。
私がどんなものであれ、彼女は肌に合わないと思えば躊躇うことなく捨ててゆく。
彼女が私を選び出した訳ではないのだから、彼女は決して私でなければならなかったとは言わない。
恩寵などではないのだ。
恩寵として望んだのは、私の方こそだった。
だから、その他のどんな捕まえ方もあったけれど、彼女が歌乞いになったとき、その歌に乞われる契約の魔物になりたかった。
彼女を誰もが認める形で、自分の恩寵として定義付けたかった。
「ディノは、私にとって最高のカシミヤのセーターです。最初はあんまりと思っても、触れて着てみたら、二度と手放せなくなった大事なセーターなのです。私はこういうものが欲しかった訳ではないのですが、私を幸せにしてくれるセーターはこれだけだったのでしょう」
「最初はあんまり……」
本当は、自分にはこれだけだと言ったネアに口付けたかったけれど、その言葉を取り上げてみせれば、ネアは困ったように微笑みかけてくれた。
この宥めるような甘い微笑みが、とても好きだ。
「あら、拗ねてしまいましたか?それは最初のことなので、今はディノに代わるものはありませんよ?だから、その宝石を大事にしていてくれるのがとても嬉しいです」
最初は宝石の話からだった。
ネアがこの宝石に触れたので、少し不安になって手のひらで覆って隠したところ、取り上げないのにと呆れられたのだ。
けれどもこれは恩寵で、どれだけ大事にしてくれても決して自分自身の心は譲らない彼女だからこそ、油断は出来ない。
「…………返さないからね」
「まぁ、疑り深い魔物ですね!宝石に触れたのは、私の大事なセーターが、私の物だというサインのように見えたからです。強欲な私はとてもそれが気に入ったので、返品しないでずっと持っていて下さいね」
「………ずっと持っているよ。これは、私の宝物だから」
「奇遇ですね。私の宝物は、ディノから貰った指輪なんですよ」
ずっとという言葉を否定しなくなったネアは、先程のエシュカルの酩酊で、逃れようもない永続性を誓ったばかりだった。
場合によっては白紙撤回という不穏な言葉もあったが、このまま丁寧にどこにもいけなくしてしまおう。
欲という意味では少しばかり忍耐を強いられることもあるだろうが、そのような経験もないので愉快でもあった。
それに、ネアが困惑したように与えてくれる親密さはいつも、甘やかな達成感を与えてくれる。
先程の約束で、今まで許したものは全て継続して要求出来ると確認したので、これだけでも充分だとさえ思った。
「そう言えば、最近飛び込んでくれないね」
「………それは専門的なやつなのではないでしょうか?」
「おや、これが専門的なものの扱いになるのかい?」
「法の目を掻い潜ろうとしていますね!」
「でも、これまでにしてくれたことは一年の契約に含まれないよ?さっき約束しただろう?」
「…………それだ」
「ネア?」
「あの時、了承してはいけないような気がしたのはそれでした。……正直、落ち込まざるを得ません」
「それに先程の約束と、ご褒美は別だからね」
「え………。そもそも、ディノはご褒美の範疇と、どこで切り分けているのですか?」
随分と無防備な質問に、思わず笑ってしまった。
あの程度のことでそこに紐付けるくせに、寝台に上げる際の冷静さは、やはり謎めいている。
人間が思っていたより複雑な生き物なのかも知れず、私は、自分で思っていたより無知だったのかも知れない。
「………でも、そう聞いてくれるということは、もっと親密なご褒美を望んでもいいのかな?」
「この会話はやめましょう!」
「ご褒美は十個までなんだよね?まだ増やせるよ」
「…………やっぱり線引きがわかりません。今あるもので充分ではないでしょうか」
「ご主人様…………」
ほらやっぱりだ。
何でも構わず手に入れたい私と、自分に見合った取捨選択をつけるネアとでは、こんなにも違う。
どちらがより切実なのかなんて、一目瞭然なのだ。
だから、それを理解して水面を揺らさずにいられる者以外は、決して彼女に近付けたくない。
『物珍しくて楽しいかもしれないけれど、彼女はあなたには相応しくないわ』
レーヌのその言葉は、私自身に向けた刃のようであった。
もしネアがその場にいたら、彼女はレーヌの言葉に頷き私を切り捨てたかもしれない。
不愉快さには種類があるが、こうして排除した後も思い出すだけで不愉快になるものは今までになかった。
だから多分、私は焦っていたのだと思う。
ネアは感情の整地に時間をかける人間だ。
そんな彼女が、レーヌという妖精を知ったことを噛み砕いて、不利益について思案する前に。
(いや、焦っていたのはもう少し前からか……)
イブメリアに、一年の切り替わり。
人間はそのような時に、様々な結論を出すのだとここに来てから初めて知った。
それは、ネアと過ごす人間の仕切りの中では一般的なことのようで、であればネアも例外ではないのだろう。
その結論に先回りして、望むものを取り付ける為にはどうすればいいか。
そして人間の定義によれば、初恋というものは叶い難いものなのだそうだ。
「ディノ、どうしました?唐突にしょんぼりですね?」
「定説というものは、ほとんどそうなるのかな」
「定説と銘打つくらいですからね。けれど、それとて半々くらいな気がします。それに、ディノは定説に当てはまる一般人ではありませんからね」
「……叶わないと困るんだ」
「では叶えてしまえばいいんですよ。ディノなら大丈夫です」
微笑んで慰めてくれたネアに手を差し出そうとして、これはもう少し温存したいと考えを改める。
せめて、何か一つぐらい欲して貰いたいと考えてしまうのは仕方のないことだ。
「む、……」
「ご主人様、どうしたんだい?」
「エシュカルの影響でしょうか。雪の塊に躓きました。酔っ払いのようで大変に不本意です」
「ネアは酔っ払っても可愛いよ」
「ディノ、腕に掴まってもいいですか?」
「…………ずるい。可愛い」
「なぜそうなったのでしょう………」
少し我慢させようと思っていたのに、彼女はいとも容易くその成果をもぎ取っていった。
望むだけで思いのままだ。
「……やっぱり髪の毛にする?」
「髪の毛だと、転べるだけのゆとりがある長さなので却下です」
「うーん、では切ろうかな」
「その綺麗な髪の毛を切ろうとしたら、私は暴れますよ」
「……ネアはずるい」
「もはや、思考過程がミステリーです」
その時、歩いている道に見慣れた一本の木が見えてきた。
道の分岐にある小さな円形広場の中央にある大きなミモザの木で、今は葉を落としている。
木の下にある花壇には、水仙と三色菫が鮮やかに咲き誇っていた。
「ネア、この木を覚えているかい?」
少し上気した気分でそう尋ねると、ネアはミモザの木を一瞥して素っ気なく首を振った。
「ごめんなさい、さっぱりです」
「…………春先になったら、花を見ようと約束したんだよ」
「約束………?」
「初めて街に出た時に、そういう話をしたんだ」
「初めて街に出た時となると、私はまだ将来性のある言葉を使わなかった筈なのですが」
「………ネア、酷い」
「でも今日であらためて約束しましょうか。春になったら、この木の花を見ましょうね」
繋いだ手を持ち上げ、ネアは手の甲に口付けを落としてくれた。
まだエシュカルの影響が残っているのだろうが、普段なら切り出さない行為なのでどきりとする。
「ご主人様はずるい」
「そんなに恥じらわれると、加害者のようでいたたまれないのですが……」
「ネアは見境がないからだろう」
「これはまた、とんでもない評価をつけましたね」
「籠絡して思い通りにしたい放題なのに……」
「大変に遺憾です。あ、こらっ!公道で気安く持ち上げてはいけませんよ!」
放っておくと何をするかわからなかったので、慌てて抱き上げてこれ以上の攻撃を阻止した。
ネアは少し暴れたが、逃げないようにしっかりと抱き締めると観念したのか大人しくなる。
「ディノ、もっと手を繋いでいたかったのに、もう終わりにしてしまうんですね?」
「………っ、」
怒りながら言われた言葉に、崩れ落ちそうになった。
片手で顔を覆っていると、不思議そうに覗き込まれて目を逸らす。
「………可愛い、ずるい」
それでも降ろさずにいたら、ネアは甘えるような表情をさらりと打ち消して、苦々しく眉を顰める。
希代の軍師のような冷徹な眼差しに、また緊張感が高まる。
「む。降ろさないですね。駄目だったか………」
「ご主人様…………」
「ザハの入り口が見えてくる前に降ろさなければ、慰謝料の飴を二種類に増やしてしまいます!」
「二種類でも何種類でも買ってあげるよ」
「人通りの多い通りでこれは、罰ゲームです………」
道中のネアはかなりぐったりしていたが、ザハが見えてくると油断を突いて見事な頭突きで逃げ出してゆき、その後は決して捕まえさせてくれなかった。
記念日だからと交渉すればいいのだと知ったのは、数日後にカフェで耳にした人間達の会話からだ。
人間というものの交渉技術の高さには、驚かされるばかりだ。