エシュカルと積み立て貯金
街中に出れば、そこはエシュカルを飲みに来た住人達と観光客でかなり賑わっていた。
イブメリアとは違う装飾と華やかさに溢れ、新年のお祝いの飾りを早めに出している店舗もある。
ウィームの大晦日は、二つの行事がある。
一つは、大晦日だけに飲むことが出来るエシュカルという、濁り酒を飲むこと。
もう一つは、夕暮れからはあまり外出せずに、年越しの鐘まで家族や友人と過ごすこと。
なので、教会ではお昼に大きなミサを執り行い、夕方から人々は家に閉じこもるのだそうだ。
しかし屋内に閉じこもる分、各家庭では華やかな年越しのお祝い料理を並べて陽気に楽しむのだとか。
陽が落ちてから誰かと過ごすのは、世界の境界線が曖昧になることで行方不明者が出ても、すぐに被害の状況を把握出来るようにする為の緩和策であったらしい。
日付だけではなく、一年の境目ともなるとあちこちで綻びが生じるのは、魔術の豊かな土地らしい弊害なのだろう。
なのでウィームでは大晦日の掃除というものはなく、片付けや掃除は前日までに済まされる。
リーエンベルクのような常日頃から家事妖精の手が入っている場所となると、ほぼする事がない。
新年の飾り付けと、礼拝堂の鐘のチェックが行われ、生けられる花が増えるくらいだろうか。
以前は行われていた年始の大々的な模様替えも、贅沢を好まないエーダリアの代になってからはなくなったそうだ。
「新年にかけての、乱痴気パーティのようなものはないんでしょうね」
「乱痴気……?」
「世間的な理由を盾に、人々が羽目を外して荒ぶるのです」
「……前から思っていたけれど、ネアのいた世界はかなり危ないところだったんだね」
「しかし、年越しで大規模な行方不明者が出たりはしません」
「それは、あまり珍しいことではないんだよ」
「より物騒なのでは………」
エシュカルは、所謂、新酒である。
葡萄酒の製造途中のもので、発酵が進んでいるところなので瓶に栓が出来ず、生産地にしか出回らない。
爽やかな果実味を残したお酒だが、ウィームのエシュカルはやや強い酒であるらしい。
酒精の祝福を受けたばかりのお酒は、出来立ての物程に強いという逆転の事象を生むのだ。
なので、魔術の庇護を受けない酒造りの土地では、もっと軽いお酒なのだとか。
ネア達が選んだのは、ザハ程ではないが少し落ち着いたお店でお茶がしたいという時に選択する、老舗のカフェのエシュカルだった。
この日ばかりは魔術の壁を多用して、あちこちの店でテラス席が設けられる。
結界のようなもので覆い、薪火の魔術で中を温めるので店内のように過ごすことが出来た。
テラス席の中央には楽団もおり、なんとも優雅な音楽の街らしい光景だ。
「やはり、お店の中というよりも外のテラス席が人気なのでしょうか」
「雪見をしながら飲むのが一般的なんだよ」
「夕暮れからは屋内なので、その反動もあるのかもしれませんね」
「ネア、オリーブだけでいいのかい?」
お酒だけで飲み進められないネアの手元には、オリーブの皿がある。
いつもはもっと食べるので、ディノは心配そうだ。
現在チーズがトラウマだと言うのも悲しいので、夕食のお祝い膳に備えてあまり食べないようにしているのだと答えるに留めた。
ビールのように瓶で出されたエシュカルは、小さな青色のグラスで飲むしきたりだ。
グラスには新年を祝う文字が刻まれ、このグラス自体も持って帰れる。
イブメリアのランタンのようにコレクターが多いらしい。
ネアの手の中のグラスには、大晦日の象徴である柊の束の下で泥酔して眠る妖精の絵柄が繊細に彫り込まれており、とても可愛らしい。
「葡萄酒と葡萄ジュースの間のお味ですね。カクテルみたいでとても飲みやすいです!」
ネアはエシュカルがとても気に入ってしまい、この日にしか飲めないのを残念がった。
次は一年後となると、少し欲を出して多めに飲んでしまう。
ディノは、はしゃぐご主人様を幸せそうに微笑んで見ていた。
頬杖をついて嬉しそうにネアを見ているディノの姿に、通りすがりの通行人達も微笑ましい顔をしているが、お酒に夢中のネアは気付かない。
「ディノは、エシュカルを飲んだことがあるんですよね」
「ヴェルクレアより以前の、ウィームからの風習だからね。前に飲んだのは、アルテアとだったかな」
「あら、仲良しのようで楽しそうです」
「連れ出されたから付き合っただけだよ」
「相変わらずの塩対応ですね……」
会話の途中で視線を持ち上げれば、擬態した青灰色の髪が周囲の雪景色と馴染んでとても綺麗だった。
内側から透明度を上げてきらきらとするような艶感は、魔物特有の色彩の美しさだ。
悪目立ちしたくはないが、魔物であることがバレても構わない程度の擬態では、ディノはこの色彩を好む。
何となく、ふんわりとする視界の中で、この魔物が世界一美しい生き物である気がしてきた。
とびきり美しいのは理解出来るが、自分の好みではないと思っていた頃から考えれば、趣味が変わってきたのかもしれない。
何やら幸福感にほわほわするので、思ったより浮かれてしまっているのかもしれない。
「何でしょう。街中に柊の葉っぱが沢山吊るされているので、世界は私のもののような気がしてきました」
「欲しいならあげるけれど、ネアは喜ばなそうだね」
「管理が面倒なので大きなものはいらないのです」
エシュカルを扱う店は、この日に限りその印として金色のリボンで束ねた柊の葉を店先に吊るしている。
大晦日の風物詩でもあるので、この柊のモチーフの取り入れた記念品なども売られていた。
店じまいの際にはエシュカルをかけた柊の葉を打ち振るい、店先に酒精の祝福を撒くのだそうだ。
(…………む、世知辛い話をしているような)
そんな穏やかな大晦日の時間の中、ふと、隣りのテーブルの夫婦が、かなり世知辛い会話をしているのが聞こえてきた。
四十代半ばくらいのご婦人は、ご主人の日頃の行いにたいそうご立腹であるようだ。
エシュカルで少し気合いが入ってしまったのか、声に張りが出てしまいネア達のテーブルに良く聞こえるまでになっていた。
さぞかし女性に人気が出そうなロマンスグレーのご主人が、可哀想なくらいにおろおろしている。
少しばかり不穏な単語が飛び交っているので、ネアは魔物がそのやり取りを聞いていないことを切に祈った。
「ネア、愛情における対価も積立貯金がきくんだね」
「おのれ、やはりその言葉を拾い上げてしまいましたね!」
「人間は賢いね。確かにその仕組みがあれば、一方的な損失にならないだろう」
「ディノ、それはあちらのご家庭の特殊なルールです。御夫君が浮気三昧で奥様を悲しませたので、それ相当の報いだからこそ適応されるものですよ」
「じゃあ、ネアにも適応していいのかな」
「なぜなのだ」
「この前、浮気はしないと言っていたくせに、夜渡り鹿に一目惚れしたよね?」
「ぐっ、………あれは、毛布に恋をしただけです。異性としてではありません」
「私は、夜渡り鹿は人間を籠絡する生き物だから注意するようにと、再三注意した筈だよ」
「今日だけ攻め方が強い!」
隣りのテーブルで施行されていた法律は、愛情の積立貯金というものであった。
不実の数だけ、或いは応えられなかったものの数だけ、奥方が本来受け取るべき愛情の返礼が積立されてゆき、相当数の積立になっているので一気に返済せよという取り立てが行われている。
どうやら職業上で不公平というワードが地雷になるらしく、男性は言い包められて青くなっていた。
「ネア、始めるまで待ってあげるから、積み立てよう」
「待って下さい、何を始めるのかは察せますが、私は了承していません」
「でも、君にとっての問題はそこだけなんだろう?」
「そう確認されてしまうと他にもあるような気がするのですが……」
新しい単語に食いついてしまった魔物に、かなりがっつりと追い込まれて、ネアは首を傾げた。
普段であればもっと反論が引っ張り出せるのだが、何となく言葉がふわふわと取りとめなくなっており、明確な形に定まらない。
気怠さのようなものがフィルターになって、何だかまぁいいやという大雑把さが全面に出てきてしまった。
別に快諾するわけではないのだから、取り敢えずこれでもいいだろう。
しかし、魔物はこれ幸いと攻撃の鋭さを増してきた。
「ほら、それだけだ。それなら、私がきちんと教えてあげるよ。それともネアは、私にはそこまでの価値がないと思っている?」
「む、………狡い方向に攻め込みましたね」
「新しいことが怖いから手放そうなんて、ネアらしくないだろう。それっぽっちのことで、君は諦めてしまえるのかい?」
「……………尋ね方が狡いのを承知で答えるなら、…………ディノを手放すのは嫌です」
ふと、出会ったばかりの頃の会話を思い出した。
ネアが転職を考えていて、隣りにいたディノが不穏な黙り方をしたとき。
あの時ネアは何か拾い上げなくてはならないものを本能的に拾い上げることに成功し、魔物が極論に突っ走るのを防ぐことが出来た。
(音痴だと発覚して、クーデリに移住しようかなと思ったとき、)
今ここでディノの手を掴まなければ、とんでもないことになるという無言の圧を感じたのだった。
確かあの時の魔物は、当然のように切り捨てるならどうしようかと思ったと、実に酷薄な眼差しで告げたのだ。
今のこの瞬間は、あの時の背筋の寒さに似ている。
だからネアは、良く回らない頭でぱっと本音を吐露してしまった。
口に出してから魔物の瞳が煌めいたことに気付いて、微かにしまったという気持ちになる。
けれどなぜか、その時は、最悪の事態は回避出来たみたいだと逆に安堵すらしてしまった。
「では、少し不安でも頑張ってご覧。大丈夫、怖くないから」
「………そこを許容しなければ、ディノはいなくなってしまうのですか?」
「私が君を手放すことはないけれど、少し考えを変える部分はあるかもしれない」
「ディノは意地悪です………」
そう呻いたネアに、ディノはひどく幸せそうに微笑みを深めた。
その微笑みに打算がなく、ただ無垢に幸福そうにしていたから、またネアの警戒心は緩んでしまう。
こんなに幸せそうにするのであれば、もう少し早く安心させてあげれば良かったのだろうか。
大切なものが幸福でいる様は、何物にも代え難いくらいにとても心を満たしてくれるような気がした。
「ご主人様、私はこれでも随分譲歩しているよ?」
(あれ、………この台詞、さっき隣りの奥さんが口にしてたままなのでは………)
どうやら魔物は、隣りのテーブルから交渉技術をリアルタイムで盗んでいるようだ。
先に陥落していく戦場が隣にあるので、成功事例としてはかなり手堅い。
そうなると、この会話の顛末は、隣りのご主人と同じところに向かうのではないだろうか。
「でも、一年は待ってくれると話していましたよね?」
「待つよ」
要所で言葉少なくなるのも、お隣の手法である。
この無言の圧が恐ろしいので、つい頷いてしまうのだ。
先程この戦法で頷いてしまったご主人は、今や視線は手元のグラスにしか向いていない。
満面の笑みの奥方と合わせてかなり目立っており、ついつい注目してしまっている周囲も何となく生温い視線になる。
(…………ん?私は今、頷いたのだろうか…………)
テーブルの上に乗せた手を持ち去られて、ふわりと手の甲に口付けを落される。
魔物のご機嫌っぷりを見て、ネアは他人事のように、自分は今、頷いてしまったようだと理解した。
何やら後程膨大なツケを払う羽目になりそうだが、今はディノが幸せそうなので微笑ましくなる。
(幸せそうにしてくれるし、いいのかな…………)
そう納得しかけて、
「…………いや、良くなかった!今の動作は撤回します。つい、魔がさして頷いてしまいました!!」
正気に返って慌てたご主人様に、魔物はぶたれた子犬のような悲しげな目になった。
ネアの片手を握りしめたまま、哀れっぽく瞬きする。
「ご主人様、嘘だったのかい?」
「う、嘘では……………、条件反射のようなものです!身に迫る危険を換算出来ていませんでした」
「我が身可愛さに、私がどんな思いをしても構わない?」
「そのままお隣の奥様の言葉を引用しましたね!勿論、そんなことはありません。ディノは大事な魔物なので、出来る限り幸せになって欲しいと思っています」
「では、ネアにも歩み寄って欲しいな。一緒に暮らすには、協力し合うことが大切だそうだよ」
「もはや、自分の台詞でないことすら隠さなくなりましたね!」
二人は暫し睨み合ったが、ネアは魔物が決して引くつもりがないことを察して崩れ落ちそうになった。
散歩を放棄した犬が道端で大の字で寝てしまうような、そんな頑固さを微笑みからひしひしと感じる。
ここで強引に前言撤回ならぬ、前動作撤回をすれば、この魔物は拗ねるだけでなく、ある程度深刻な拗れ方をするだろう。
無垢で柔らかいようで、この目の前にいるのは老獪で狡猾な魔物の王なのだ。
「ネア?」
「……………っ!……一年後です。今から一年後ですよ!条件を守らなかった場合、契約は不履行となります」
「それで充分だよ、ご主人様」
ふわりと微笑んだ魔物の艶麗さに、ネアは呆然として手の中のグラスを見つめた。
(あれ、言い負かされた?)
と言うより、自らディノのエスコートで落とし穴に入っていったような流れではないか。
この流れは、まるで自分らしくない。
目の前のにごり酒のせいだろうかとひやりとして、テーブルの上の瓶を確認する。
かなり大きな瓶なのだが、よく見れば残りは僅かだ。
ジュースのような軽さでかなり飲んでしまった記憶が蘇り、また視線をグラスに戻す。
「…………ディノ、エシュカルはどれくらい強いお酒なのですか?」
「グローヴァーよりは強いよ。でも口当りがいいから、つい深酔いしてしまうことが多いんだ。ほら、見てご覧。観光客には、店側で飲み過ぎ注意の記載の木札をテーブルに置いているだろう?」
ぎりぎりと首をそちら側に向ければ、確かに明らかに旅人風の男性達のテーブルには、彩色された可愛らしい注意書きの木札が立てられていた。
目を凝らさなくても、大きな文字で三杯が上限だと書かれている。
(なぜあの木札を、このテーブルには置いてくれなかったのだ!!)
ネアとしては恨み骨髄であるが、秋口から足繁くお茶や軽食で立ち寄っているので、店側としてみれば常連さんの区分にしたのは決して間違いではない。
「……ディノ、私は何杯飲んだのでしょう?」
「八杯かな。でもグラスも小さいし、ネアはあまり酔わないから」
「いえ、たった今、確実に大きな失態を犯したところな気がするのですが………!」
「そうなのかい?あまり酔っているようには思えないけれど」
「失うだけ失ってから、酔いが醒めたのだと思います」
「おや、では帰り道は安心だね」
視線を巡らせれば、先程のご夫婦が帰路につくところだった。
片方が項垂れたまま、ふらりとテーブルから離れてゆく姿を万感の思いで見送る。
なぜこんな夫婦の隣の席になってしまったのか、運命を呪いたいところだ。
そう考えかけて、ネアは不穏なワードを一つ思い出した。
「ディノ、私は今日とても大きな支払いの約束をしてしまったので、積立貯金はなしです」
「一年分積立して、一年後に貰う約束だからだろう?」
「…………え、何でしょう。ものすごく不穏なまとめになった!」
「これからの一年、ご主人様は支払い準備期間になるわけだから、決して逃げてはいけないよ?」
「おのれ!何か悪さをしたら、すぐさま白紙撤回しますよ!」
「いいよ。今まで以上のことは、きちんと一年後まで控えよう」
「わかりました。…………ん?」
「どうしたんだい?」
「いえ、………なぜでしょう。今の承諾も、なぜかしてはいけなかったような気がします」
「気のせいだよ、ご主人様」
自分の返答の何がまずかったのかわからないまま、血の気が引いたネアは、手の中のグラスをすすっと魔物の方に押しやった。
ご機嫌のディノは微笑みを深めて、ネアの分のグラスも受け取ってくれる。
いつかの夜の盃事件では何を飲んだのか知らないが、今日の魔物には酔いの欠片も見当たらないのが憎い。
「久し振りに飲んだけれど、エシュカルは気に入ったな」
「とても美味しいお酒ですが、身の安全の為に来年からは控えます……」
「来年も飲みに来ようか。お祝いでね」
「……………お祝い…………」
公の場なのでそんなことはしないが、目の前のテーブルに頭を打ちつけたいような思いで、ネアは遠い目になった。
新年になったら、心を強化するべく精神鍛錬に明け暮れよう。
もう一度、アルビクロムのあの店に武者修行に出るのもいいかもしれない。
何か前向きな対応策を講じていないと、通り魔にでもなってしまいそうな気がする。
犯罪者にならない為には、心を清廉に保つ必要があった。
(来年には変態の仲間入りをする……)
つまり、ネアが一般人を名乗れるのはあと一年ぽっちしかないのだ。
一般社会とお別れする自分を、周囲の人達はどれだけ他人行儀な目で見送ることだろう。
せめて、決して公にしないよう、ディノに厳重な箝口令を敷かなくてはならない。
「………ディノ、心がざわざわするので、帰りにザハで無花果のキャンディーを買って下さい」
「いいよ。いくらでも買ってあげよう」
「慰謝料の筈が、勝者の余裕に切なくなっただけだった………!そして、今は三つ編みを引っ張る余裕はありません」
「ご主人様………」
ご機嫌で三つ編みを投げ込んできた魔物が、拗ねたようにしょんぼりしたが、今はどうか勘弁して欲しい。
ふわりと雪片が落ちてきて、ネアは切ない思いで空を見上げた。
服役前の囚人は、こんな気持ちで空を見上げたりするのだろうか。
あれだけ恐れ倦厭していた変態の門戸をくぐる羽目になるとは考えもしなかったと、ほろ苦い後悔を噛み締める。
お世話係というだけでも大変遺憾な称号であるのに、来年の今頃はとうとうそちらの住人になってしまうのだ。
「そろそろ帰ろうか。雪曇りになってきたから、早めに日没の鐘が鳴るかもしれないよ」
「陽が落ちてくると、もう危ないのですか?」
「気の早い怨霊や怪物達が地下から出てくるからね」
「………待ってください。予想より遥かに嫌な単語を耳にしました」
数時間後、この世界の大晦日がどれだけの阿鼻叫喚になるのかを思い知ったネアは、頼もしい魔物をこの先も確保出来たことに、心より神に感謝するのである。