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激臭のチーズと犬の挨拶

ゼノーシュとザハのケーキを自棄食いしてきたネアがほくほくの笑顔で帰ってくると、巣の中で毛布妖怪になっている魔物に出会った。

かなりの不貞腐れ具合に、ネアもさすがにぎくりとする。


「…………ディノ、どうしたのですか?」

「…………今日は人間にとって特別な日なんだよね?」


首を捻ったネアは、何度か日付を脳内でひっくり返して思案したが、思い当たる節はなかった。


「……こちらの世界ではそうなのですか?特別な日だとは知りませんでした」


「一年の最後の日は、特別な日なんだそうだよ」


ネアが知らなかったとわかり少しだけ気持ちが晴れたのか、毛布妖怪はちらりとこちらに視線を向けてくれる。

だがしかし、まだ毛布の隙間から片目が見えているだけだ。


「特別な日とは、どのように特別なのでしょう?」

「自分にとって一番大切な相手と過ごす日なんだよ」

「まぁ、では今日はディノと一緒にいなければいけませんね」



その瞬間、ぼすんと音を立てて毛布の隙間が閉じてしまった。

ふるふると震えているので、引っぺがして撫でてやりたくなる。


「………ご主人様はずるい」

「あら、なぜですか?」

「口先でその気にさせるばかりだから」

「………結構な屑のように言われた」

「ネアは目を離すとすぐに浮気するし……」

「守護が増えていたのは不可抗力ですよ?それに、ディノはその一件で、私の心に傷を負わせました」


ネアの声が不穏な低さに転じたからか、毛布の塊がぎくりと揺れる。

ほんの少し隙間が開いて、こっそりとこちらを覗き見ている気配がした。


「あの一件はとても悲しかったので、私はもっとディノに対して腹を立ててもいいのではないでしょうか。例えば、この毛布の塊を洗濯に出すとか…」


あまりの制裁に震え上がったのか、魔物はぴゃっと飛び出してきてネアに抱き着いた。

目を細めて冷ややかに見返せば、悲しげな顔で何とかご主人様を籠絡しようとする作戦に出られる。

ネアはどうしても、この顔に弱いのだ。

厳しく躾けても、結果的には甘やかしてしまうので、頭のいい魔物は効果の程を理解しているだろう。



「ほら、拗ねていないで、何かしたいことはありますか?」

「ネア、少し勉強……」

「やめ給え」


変態へのご入門をぴしゃりと却下され、魔物はしょんぼりとした。

そもそも、現状お断りした筈のものなのに、どうしてこの流れになったのか不思議で堪らない。


(………そう言えば、ウィリアムさんの名前が出ていたけれど)


もしや、厄介なことを言ってはいまいかと不安になる。

アルテアと違い、意地悪はしないと信じているが、彼にとて魔物らしい常識の相違があるのは確かだ。


「ネア、あれは嫌だったのかい?」


ふわりと表情を変えて、凄艶な甘さで問いかける生き物はとても魔物らしい。

昨日の事を思い出し、ネアは思わず目を逸らしてしまった。


「……私の黒歴史を増やしたという自覚はあるのでしょうか。勿論、嫌に決まっています!」


「え、………ご主人様」


少し自信ありげに問いかけただけに、魔物はとても驚いたようだった。

見るからに落ち込んだので、ネアは小さく溜息を吐く。


(おのれ、経験豊富なのか、無垢なのか、よく分からない困った魔物め!)


明らかにいかがわしい経験を積んではいるが、とても初歩的な部分の知識が皆無でもある。

いつもはいくらでも躾けられるが、ネアにも不得手なものがあるので、扱いに困るのは、こういう分野での問答だ。


「そもそも、あそこまでのことは、現状の関係性では許可出来ません」


「でも、ネアは私が………好きなんだよね?」


「大好きですよ。とは言え線引きがあります」


「書物を見たら、犬もあの程度のことはすると書いてあったのに?」


「………犬?」


「そう。前にネアが、犬の挨拶のものまでは構わないと言っていたから。それ以上のことは、もう少し待つと約束したからね」


「………ディノ、なぜその問題と、犬の挨拶を混ぜてしまったのでしょうか?」


「混ぜてはいけないのかい?」


「説明が追い付かなくなるので、ご主人様としてもどう説得すればいいのか思考の迷路に入ってしまいます」


「説得しなくていいんじゃないかな?」


「そうなると、またするんですよね?」


「うん。そんなに嫌かい?ネアは、私のことが言うほど好きじゃない?チーズ以下?」


「………チーズよりは好きです」


「昨日はチーズに負けたのに?」


「その話題をあと一秒でも続けたら、私は家出します」


「チーズ以下………」


背中を丸めてもそもそと巣に戻ってゆく魔物に、ネアは慌てて髪の毛を引っ張ってやった。

今日は不貞腐れモードなので、この魔物は自堕落に髪の毛を結ばずにいる。


「ネア………」

「年越しのお祝いまでまだ少し時間があるので、エシュカルを飲みに行きましょう!」

「ネア、ずるい……」

「ディノ、私はエシュカルを飲んだことがありません。今日しか飲めないお酒なので、大事な魔物と一緒に飲みたいんです。駄目でしょうか?」

「ネア、どこでそんなおねだりを覚えたんだい?……狡い。………可愛いけれど」

「ゼノの真似っこです!さ、ご機嫌を直して下さい。エシュカルは私の奢りです!ディノと出会えたこの年をお祝いさせて下さい!」

「ご主人様!」


何とか魔物がご機嫌を直してくれたので、ネアはほっとした。

本当はケーキをたくさん食べた後なので、素敵に堕落してごろごろしたいが、魔物のご機嫌には代えられない。


魔物が毛布妖怪に戻らないように髪の毛を引っ張りつつ、コートを取りに隣室に向かった。


バスルームに繋がる続き間を通るとき、昨日のことが思い出されて、指先が震えそうになった。


(…………忘れられますように)


頬に血が昇らないよう、慌ててディノに今日は何色のリボンにするか問いかける。




昨日、森から戻って暫くしてからだった。


リーエンベルクに戻り少し遅くなった昼食を摂った後、ディノは遅れて戻ったヒルドと話すことがあるようで、二人は別々に部屋に戻ることになった。


ネアはネアで、ご贔屓の酪農家から秘蔵の一品が仕入れられたということで、駆け付けたゼノーシュと共に厨房に寄って行くことにする。

そこで短く幸せな時間を過ごし、諸事情から駆け足で部屋に戻ってきた時だった。



「ネア、どうしたんだい?」


息を弾ませて戻ってきたネアに、ディノが不思議そうな顔をする。

ネアは慌てて両手で口を覆った。


「ごめんなさい、ちょっとそこを通してくれますか?ディノに嫌われたくないので、諸事情から、バスルームに閉じこもります」


「ご主人様?」


横を通り抜けようとした腕を掴んで、ディノに捕獲される。

急いでいたからか、足元が上等な絨毯を滑ってよろめき、体勢を崩したネアの背中をディノが素早く支える。

ぐいっと抱き寄せられた所為で、結果ディノの腕の中におさめられてしまい、ネアはとても慌てた。


諸事情による理由から、羞恥にぱっと頬が熱くなる。

その表情の変化にはっとした魔物が、不意に見たこともない、優雅なけだもののような目をした。



「え、………っ?!」



覚えているのはどこまでだろう。

咄嗟のこと過ぎて、ネアはあまりにも近くで見上げた鮮やかな水紺の瞳や、ばさばさとした睫毛の束や、頬にはらりと落ちた真珠色の髪の毛の色、そんなものばかりを覚えている。


恐らく、口元を押さえていた自分の手は、距離を詰めた魔物を押しのけようとして離してしまった。

後頭部に添えられた手の堅牢さに、指の形を温度で知る。

心臓が破裂しそうで息が止まりそうになりながら、初めて受ける深い口付けに背筋が震えた。


ややあって唇が離れると、よりにもよってディノは眉を顰めて不審そうな顔をした。

獣のように唇を舐める仕草が、あまりにも淫靡で壮絶なくらい美しい。



「………ネア、何か変わったものを食べたかい?」

「…………ディノ、多分私はとても怒るべきですし、ものすごく恥ずかしいし、とても動揺しています。………ただ、よりにもよってなぜ今だったのだろうと言うのが、今の一番正直な気持ちです」

「チーズ、……かな」

「厨房で、ゼノと一緒に珍しいチーズをいただいたのです。匂いは最悪ですが、とびきり美味しいチーズでした。……私は人生で初めて、ちょっと匂いがきつめのチーズをいただいたというのに、まさかのこのタイミング………」

「ごめん、ネア、……ええと」

「だから大急ぎで帰ってきて、歯磨きをしようとしていたのです。それなのに!」

「ネア、ごめん」

「ちょっと悲し過ぎて泣きたくなってきました。私の人生って何なのでしょう……」

「ごめん、ネア泣かないで…」

「泣きたくもなる事件ではないでしょうか。私をこんな酷い目に遭わせたディノは嫌いです」

「ご主人様?!」

「暫く一人にして下さい。と言うか、当分の間、歯磨きに専念させて下さい。この記憶ごと抹消します」

「ネア、酷い………」

「また近付いたら、窓から放り出しますよ!!」



その後ネアはバスルームに閉じこもり、涙目で黙々と歯磨きをした。

磨きながらちょっと泣けてきたので、歯磨き終了後も浴室に閉じ籠れば、さすがに慌てた魔物が突撃してきて確保される羽目になった。


たいそうご機嫌斜めのご主人様を扱い損ねた魔物が大人しくしていたと言うのに、晩餐の席では空気を読めなかったエーダリアが荒ぶる始末。

静かに微笑んで聞き役に徹していたのは、ひとえにネアが抑制された大人であったからだ。

その結果、ネアとて、夜中に憤りのあまり唸り声を上げてじたばたしてしまう程には、ストレスの一日だったのだ。

魔物が巣の中で震え上がるくらいに、ネアは一晩中荒ぶり続けた。

ようやく眠れたのは、夜明け前である。



(………思い出したくない。死にたい……)



なので、例えディノの認識が犬の挨拶の高度形態であるとしても、あの最悪のタイミングはさすがにない。

ご主人様としても、女性としても、致命傷になるには充分なダメージだ。



正直、ザハのケーキでもまだ心が修復しきれない。


バスルームからネアを引き摺り出す時に魔物が唱えていた弁解によれば、親密さを深めるというのも守護の強化に繋がるらしい。

魔物の指輪が伴侶向けである由縁の一端である。



(でもあれは、………恋人の領域)



そして、本来は甘やかな記憶となるべきもので、決して思い出の九割がチーズ臭がとてつもなく臭いというものであるべきでもない。

もしネアに魔術が使えれば、確実にディノの記憶を消すだろう。

恥を晒すことにならなければ、ウィリアム辺りにでも頼みたいくらいだ。



ふつりと、レーヌという黄昏のシーの笑い声を思い出した。

美しくふくよかな、成熟した女性の深みと艶に、何だか気持ちが波立つような気がする。


(でも、……私が突き放せば、ディノはまたああいう誰かと、恋をするのかな)


ネアは変態の門はくぐれない。

ディノの望むような真性のご主人様、あのアルビクロムの夜に見た、恐るべき鞭の女王様にはとてもなれない。

鞭でこの綺麗な魔物を叩くのは物凄く嫌だ。


(でも、そこまでのものでなければ……)



もう少しだけここに居てくれるなら、今はまだ明確に線引きをしなくてもいいだろうか。

大丈夫なところまでなら、もう少しだけこの魔物を独占していても。



(…………む、無理っ!!やっぱり、鞭とか縄とか恐ろしすぎる!!!)


しかし、そのような場面の場合、どこで線引きとなるのか素人にはわからない。

なし崩しに専門的なものが始まってしまった場合、精神崩壊は免れられないではないか。

何しろディノは、ネアに教え込む気満々なのだ。

その迫り来る脅威を思えば、怖すぎて泣けてくる。



ふと、そんな狡いことを考えてしまったからだろうか。

その日、エシュカルというご新規のお酒でしでかしたネアは、己の言動でとうとう退路を断たれることになった。




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