67. たまには知らないふりもします(本編)
森を出たところで、駆け付けてきたヒルドが合流した。
「良かった、ご無事ですね」
「ヒルドさん………?」
「ご依頼した夜渡り鹿ですが、どうやら背後にシーがいるらしいことがわかりまして」
「ええと……」
まだ心の準備が出来る前に遭遇してしまったので、ネアは一度言葉を濁しかけてから、より良い言い回しを探すことを諦めて、率直に報告することにする。
断じてこれは大雑把ではない。
人生、正直が一番だ。
「あの、恐らくその方なんですが、諸事情によりいなくなってしまいました」
ヒルドの言い方的に大丈夫な気がするのだが、そう答えたネアに、ご主人様の腕にへばりついていた魔物が僅かに強張る。
「レーヌが?」
「………もしかして、仲の良い方でしたか?」
「いえ、彼女と親交を深める可能性は皆無ですね。詳しいご事情を伺っても?」
「あれが、ネアのことを知るだけでも不愉快だ。レーヌは私に執着していたからね」
「ふむ。相手が彼女ならば、そういうご認識になるのもわかるような気がしますね。それで、殺してしまわれたんですか?」
ヒルドの問いかけに、ディノはふと遠い目をした。
「今日ではなくても、見付ければ殺すつもりだったよ。ただ、今日現れたことはいささか不愉快だ」
「今日、だからですか?」
「今日だからこそだ」
不可解な物言いにヒルドが眉を顰めたが、視線を向けられたネアは首を傾げた。
思い当たる節は明確に一つあると言うか、既に本人から聞いているが、その説明をするには昨晩のディノの発言から始めなければいけない。
変態による変態の為の教育をされそうだなんて、事情をわかっている者達以外に公言出来るわけもない。
セクシャルなことでもあるが、本人がその畑の住人であるヒルドにはとてもではないが、無理だ。
(最近は羽を触らせられてないけれど、こちら側に来たと思って遠慮をなくされたら困ります!!)
「ヒルドさん、仮にもシーの方です。何と言うか、ご迷惑になるでしょうか?」
また、上手い言い回しを諦めて率直に尋ねてみる。
さり気なく聞いてみたかったのたが、背後関係がわかるだけに自分でも思う以上にしょんぼりとしてしまった。
ふっと目を瞠り、ヒルドは穏やかに微笑んだ。
「いいえ。ご不安にさせてしまいましたね?大丈夫なので、どうぞ安心して下さい」
伸ばされた指の背が、そっと頬に触れる。
その穏やかさと親密さに、やはりここはもう家族のような愛おしい場所なのだと胸が痛んだ。
(………追い討ちをかけよう!)
失くしたくないものに、人間は貪欲に、とてもしたたかになる。
それは繋ぎ止める為の努力と言えば聞こえのいい、ただの我儘なのだけれど。
「それと、あの素敵な毛布のくせに不愉快な鹿めが、レーヌさんはずっと私を監視していたと言っていました」
甘やかしてくれるのだから、甘えれば緩和してくれるだろうかと、ネアは慣れないカードを切った。
正直、この手の駆け引きは苦手なので、声は謎に淡々としてしまう。
どうやら、甘えるのは苦手らしい。
(何だろう、恨み節みたいになった!)
「え、……ネア、聞いてない」
隣の魔物が綺麗な目を瞠る。
「ごめんなさい、ディノが落ち込んでいたので、あまり情報を重ねるのが可哀想で」
「ネア様、他に何か聞きましたか?レーヌに注視されていたとなると、少々不穏ですね」
「イブメリアから監視されていたのと、私の血を盗んだのはレーヌさんだということくらいです」
その瞬間、ピシリと空気が張り詰めた。
近くの木に止まっていた小鳥たちがばさばさと逃げ出してゆく。
ついでに、ムグリスが一匹昏倒して落ちてきたので、ネアは素早く拾い上げた。
「殺して良かった」
「残念です。是非に私の手で処分したかったですね」
二人の眼差しが激しく暗くなったので、ネアはぎくりと体を揺らす。
リーエンベルクに近付かれたのが不愉快なのだろうが、どうか殺気をしまって欲しい。
「ネア、どう血を盗まれたのか聞いたかい?」
「雪の妖精さんを籠絡したと聞きました。あの鹿めは、かなり迂闊なお喋りでしたからね」
「……成る程。最下位の妖精であれば、シーの命令には逆らえませんからね」
「少し防壁が甘いんじゃないのかな」
「辛うじて意思がある程度の妖精まで躾けるのは、かなり難儀でして。シーの中でも、赤系統のものでなければ成せないんですよ」
「よくそれで、今まで事故が起こらなかったものだ」
「血を奪う程の成果を出せる機会というもの自体が、まず条件的に揃いません。本来、それだけ下位の妖精に出来ることは限られておりますから」
「リーエンベルクに持ち出し禁止の魔術はないのかい?」
「自然要因を蓄積しては生活が成り立ちません。水は流れなければならず、風も通り抜けなければ。ただ、エーダリア様やネア様に於いては、身体的要素の持ち出し禁止の魔術をかけてあるので、レーヌの手の者が、その可能範囲内までは浸入したことになる」
「おや、そちらの方が問題だね」
「ええ。早急に穴を探します。………恐らく、足のつきやすい人型のものではなく、魔術の織りのある動物でしょうね」
「あの隣の森はなくしてしまおうかな」
「やめて下さい、ディノ!私の心の潤いが失われます」
慌てて止めたネアに、ディノは不思議そうな顔で振り返る。
「どうしてだい?ネアだって、怖いものはなくなった方がいいだろう?」
「それでは、感染症を貰いたくないので、二度と誰にも会わないという理論になってしまいます。私は健やかに過ごしたいので、そういう無茶をするよりも、心強い初期予防薬がある生活の方が好きです」
「要因になるものを予め取り払うのは、ネアにとっては健やかではないのかい?」
「横着者のやり口ですね。極端なやり方は寧ろ嫌いです」
鋼の妖精を壊滅させたい人間の言い分ではなかったが、ネアがそう言えばディノは素直に頷いた。
「わかった。ネアが嫌がることはしないよ。……ヒルド、魔術の理で守護から溢れるものを精査しよう」
「ええ。雪食い鳥の試練の他にも、幾つかありますからね。シーの周りにも、そのようなものがあります」
「まぁ、血については、その後私が血の繋がりを得ているから、今後奪われることはないだろう。とは言え、少し守護の浸透を強化しようかな」
ぽつりとディノが呟き、なぜかその場は異様な緊張感に包まれた。
ヒルドがこちらを見た眼差しの奇妙な熱に、よくわからないままにネアは背筋が寒くなる。
よくわからないが、あまり享受してはいけないものな気がしてきた。
(ま、まずい。そう言う意味では、ここには過激派しかいない)
何かの策を実施するとき、目的の為には手段を選ばないような二人だ。
早々にリーエンベルクに帰りたくなってきた。
「あの、そろそろ戻りませんか?鹿さんは退治したので、エーダリア様にも報告して差し上げたいです」
「………もしや、ネア様が夜渡り鹿を?」
「はい。なかなかに腹の立つ鹿でしたので、くしゃりとやってしまいました」
「ネア様が、お一人で?」
「はい……?」
またしても空気が凍りついたので、ネアは恐る恐る首を傾げた。
「シーの庇護を受けた夜渡り鹿です。ネア様の持ち物があれど、手間がかかったのではありませんか?」
「……ブーツを振り回して、がつりと当てたところ素早くお亡くなりになりました。ヒルドさんの靴紐のお蔭だと思います」
しかし当のヒルドは難しい顔をした。
「死の舞踏が攻撃に特化しているように、あの夜渡り鹿は防壁に特化した獣です。勿論、あのブーツでも勝てる範囲ですが、一撃で倒せたというのは驚きでした」
「ディノ、あやつが弱っていたということは……」
「いや、弱ってはいなかったよ」
「む。ではなぜ、滅びたのでしょう。中身がなくなって風に散らばってしまったのですが、死んだふりではないですよね?」
「それは確実に死んでいますね……」
「ネア、ちょっとおいで」
そこでディノは、ネアを腕の中に引き入れると、指先を額に触れさせた。
じわりと熱が染み入り、くすぐったいような不思議な気持ちになる。
ほこほことした気持ちになったネアに対して、ディノは途端に悲しげな顔になった。
「……ネア、守護が増えてる」
「え、……それは良いことでしょうか?」
「安全ではあるけれど、……誰だろう」
どこか拗ねたようにじっとりとした目で見られて、ネアは途方に暮れた。
特に思い至る出来事もないので、責められても困ってしまう。
「……あの酒席のときですかね」
ヒルドの声も若干低く、謎に責められている感じが上乗せされる。
(酒席………?唐揚げパーティの時のことかしら)
「私自身が知らないこともあるのでしょうか?」
「……そうだね。守護は一方的に与えられるものも多い。けれどこれは相互間の強固さだ。何か肯定的な受け答えを、守護の受領としたのだろう。つまり、狡猾な手口だね」
「…………狡猾」
(とは言え、あの場にいたのって……)
ウィリアムとアルテアしかいないので、更に空気はじっとりとした。
恐らく、雪食い鳥の事件の後なので、彼等の不安を煽ったのであろう。
危なっかしい奴めと、好意的に与えられたのだと信じたい。
「ネア、早く帰ろう。少し守護を深めるよ」
「……この流れは、私は慄いた方が良い気がしてきました」
「怖くないから安心していいよ」
そのまま連れて帰られそうになったので、ネアは慌てて手の中のムグリスを木の根元にリリースした。
勿体無いが自然に返すしかあるまい。
「ディノ、お仕事の報告がまだ終わっていませんよ!」
「ネア様、報告はこちらでまとめておきますので、構いませんよ」
「お任せしてしまって、レーヌさんのことはご負担にはなりませんか?」
ざわりと風に揺れた森の木漏れ日が、ヒルドの羽を鮮やかに彩る。
色彩とは不思議なものだ。
ネアは好きな色を問われても、緑を真っ先に挙げることはないだろう。
けれど、こうして目にするヒルドの鮮やかな色は、ふっと心を揺さぶるくらいに美しい。
一瞬目を奪われたネアに穏やかに微笑みかけて、ヒルドはしっかりと頷いてくれた。
「ええ。レーヌは、こちら側でもいささか目に余るようになってきておりましたからね、今回のことがなくとも、いずれこのようになったでしょう」
(………あ、)
くらりと染み込む酩酊のような、天啓にも似た確信が閃く。
頷き方のタイミング、そして微笑みの完璧さ。
その一連の全てが、時折エーダリアを転がすときのヒルドのものに、とても良く似ていたから。
(ヒルドさんは、何かを知っているような気がする)
特に筋書きを組み立てられる程のものでもないのだから、これはほとんど本能的な理解だった。
(でも、こうして来てくれたということは、ヒルドさんが仕組んだものではないのかな)
であれば、誰なのか。
(ヒルドさんのフォローの仕方的にエーダリア様ではないだろうから、ダリルさんか、或いは王都の偉い方かしら……)
第四王子の代理妖精であることが、その理由の一端であるのだろうか。
今の会話の反応を見ている限り、ネアが関わることは初耳であるようなので、今回の夜渡り鹿とレーヌとの関係性の部分だろう。
(…………ま、いいや)
全てを詳らかにする程、ネアは潔癖ではない。
政治に絡む澱みや、単純な関わりの中で生まれる計算の一端。
その中のどれだったとしても、別に構わないと流してしまえるネアは、やはり大雑把なのかもしれない。
しかしそう思えるのは、無関心ではなく幸福だからだった。
かつての自分と同じ選択であっても、その理由が少し変わってきた。
そう思って、ネアは少しだけ唇の端を持ち上げた。
その日、魔物に連れ帰られたネアはそれなりに厄介な目に遭い、晩餐の時に一緒になったエーダリアが、レーヌを討伐する為に用意していたかなり陰湿な術式を惜しんで荒ぶる場面に付き合わされた。
少々ストレスが溜まったので、ゼノーシュとザハのケーキをやけ食いしたのは、当然の結果である。
後日、ネアはヒルドから淡い紅色のとても綺麗なカードを渡された。
裏返せば、女性らしい優美な文字で、“私の愛する子供の悲しみを晴らしてくれて有難う”と書かれている。
「ヒルドさん、これは?」
「第五王子の代理妖精の、ロクサーヌからの礼状です。彼女の愛する王子の、生母と乳母を謀殺したのがレーヌだったんですよ」
「まぁ、ご丁寧な方なのですね。でもこれはディノのお手柄なので、ディノに渡してあげましょう」
「ロクサーヌからの補足ですが、利己的な生き物が、愛するものの為に社会に貢献する。それはとても微笑ましい奇跡なのだそうです。ネア様と出会ったからこそ、ディノ様がレーヌを滅ぼしたようにね」
「ロクサーヌさんは、ちょっぴり辛口な方なのですね」
「彼女自身、高位の厄介な生き物でしたからね。けれども、第五王子に出会って過保護な母親のようになったんですよ」
「とても素敵なお話の予感がします」
「いつかお話して差し上げますよ。ネア様はお好きかもしれませんね」
微笑んだリーエンベルクのシーは、綺麗な指を立てて唇に当てると、秘密めいた微笑みを深める。
「ですのでこれは、ネア様に向けたものです。紅薔薇のシーからの感謝の言葉ですから、このカードそのものに祝福が込められております。ロクサーヌの守護は愛情に基づきますから、これは愛情の御守りになりますよ」
「そんな素敵なものなのですね。大事にします!」
愛情を補填するものであるので、魔物が荒ぶらないように、寝室のサイドテーブルにそっとしまい込んだ美しいカードは、それはそれは素晴らしい薔薇の良い香りがした。
なお、レーヌがリーエンベルクに忍ばせた刺客は、一匹の土モグラであったことがすぐに判明した。
ゼノーシュが発見したそのモグラは、あっという間にヒルドに収監されていった。