66. 獲物には協力者がいる模様です(本編)
しんとした生き物の気配のない森を歩いていると、途中でディノが立ち止った。
無事に地面に解放して貰ったので、ネアは自分の足で歩く喜びを噛み締めている。
真っ白な雪は、ふわふわの部分とざくざく硬い部分があり、ふわふわの部分には大抵草花や小さな妖精が潜んでいるのだが、今日ばかりは小さな妖精達の気配もなかった。
「シーがいるね」
「シー………。ご近所に、ヒルドさん以外のシーの方がいたのですか?」
「ダリルは人間の文化圏で派生しているけれど、シー相当だよ。他に二人居る。でもここに居るシーは、この土地の者ではないと思うよ。だから、森がこんな風に息をひそめているんだ」
「他の二人の方は存じ上げていませんでした」
「ヒルドよりは階位が下だから、ネアの前には姿を見せない筈だろう」
「そういうものなのですか?………それと、この森にいらっしゃる方は、物騒な感じなのでしょうか?」
「………この感じ、知ってるような気がするな」
「お知り合いなら一安心ですね」
「うーん」
いつになく歯切れの悪いディノの様子に、ネアは首を傾げた。
あまりそういう拘りはなさそうだったが、苦手な相手というものもあるのだろうか。
「ネア、一度戻ろうか」
「厄介なお相手なのですか?であれば、エーダリア様達にも注意喚起した方が良いでしょうか?」
「それは必要ないけれど、…………やれやれ、気付かれたかな」
小さく溜息をついて、ディノはネアを自分の背後に押し込む。
ゼノーシュがよくやる、相手に庇護する者を見せたくないという意志表示なので、ネアは緊張を深めた。
浮気防止以外で、ディノがこの警戒態勢に入ることはまずない。
よほどの難敵なのだろうかと、興味本位で顔を出すようなことは控え、しっかりと魔物の背中に隠れるようにしてへばりついた。
(あ、……………)
微かに歌うような声が聞こえる。
女性の美しい声で、歌うようでもあり、楽しげに笑うようでもある。
誰もいない森の中で聞こえてきたら、死ぬ気で逃げなければいけないような、魅力的だがどこかぞっとするような響きだ。
ゆらゆらと大きくなったり小さくなったりしながら近付いてきて、おおよそディノの正面でぴたりと止まった。
足音も聞こえなかったが、何者かがそこに居るという圧迫感に背筋が寒くなる。
「お久し振りねディノ。私が不在にしていて退屈させてしまったかしら」
朗らかな言葉は、今迄聞いてきた美しい人ならざる女性達のどの声よりも、円熟した女性としての深みがある。
濃密で柔らかな声音に、同性であるネアも総毛立つ。
妙齢の男性等であれば、その場で昏倒してもおかしくないくらい淫靡な声だった。
恐らく相当に美しい女性なのだろう。
そう思えば、こっそり盗み見たいような気もしたが、この世界の好奇心は本当に命に関わる恐れもある。
触れているディノの背中が僅かに強張ったようで、ネアは小さく息を詰めた。
「君がいなくても退屈はしないよ。と言うより、君が私の領域に立ち入るのは不愉快だね」
「自分の心を持てあましてしまうだなんて、可哀想な人。この夜渡り鹿を捕まえにきたの?」
「そうか。随分硬いとおもったが、君が餌を与えていたんだね」
「そうよ。可愛い子でしょう?それなのに、殺してしまおうというの?」
会話の流れを窺うに、どうやら先程の夜渡り鹿も同席しているようだ。
是非にその辺りにある何かを投げつけてやりたかったが、さすがに今は自重するしかない。
「ああ、そうだ。私の仕事に関わるものだからね」
「あなたが人間の足元で仕事をするなんて驚きだわ。ごめんなさい、すっかり困らせてしまったのね」
「君が私を困らせているとすれば、今だろうに」
「そうかしら。確かに十年程会えないわとは言ったけれど、そこまで動揺するとは思わなかったのよ」
(………む。これは何と言うか、痴話喧嘩的な……)
穏やかにゆったりと笑う女性の声に比べて、ディノの声は静かだが氷雪のように寒々しい。
あまり穏やかさを欠くことのない魔物の見慣れない様子に、ネアは、彼女はそれなりに特別な存在なのだろうと推察する。
その冷ややかな怒りに女性も気付いたのだろう。
けれども彼女は、鈴のように声を鳴らして笑っただけだった。
「怒らないで頂戴、ディノ。その背中の後ろに隠したお嬢さんを、あまり困らせてはいけないわ」
その時になってネアは、ようやく異質さに気付いた。
今迄の邂逅者達と圧倒的に違う点が一つあるとすれば、それは彼女の呼びかけ方だ。
ウィリアムやアルテア達ですら呼ばない響きで、この女性はディノのことを呼んでいる。
ダリルもそう呼ぶけれど、彼の場合はネアを真似して呼び始めたという経緯があり、エーダリアやヒルドが随分と難色を示していたのは記憶に新しい。
(確か、………)
敬称も付けない、ただの名前を許すのはとても親密な行為だからと、窘められていたのだ。
(ということは、この雰囲気からするに、ほぼ確実にこの方は恋人さん……)
元と指していいのかどうか、この会話ではかなり怪しい雰囲気だ。
甘い声音に含まれた微かに窘めるような響きの艶やかさに、この魔物の困った趣味も合わせて妙に腑に落ちるところもある。
一瞬ここは動揺するべきだろうかと思いかけて、ネアはさして意外に思っていない自分に気付いた。
ノアから聞いていた過去の件もあり、一瞥するだけでわかるこの魔物の魅力もあり、このような女性がどれだけいたところで、決して想定外の事件ではないのだ。
これだけ力にも美貌にも秀でた生き物が、望まれないわけもないのだけれど。
(でも何だろう、もやもやする。今度私を浮気者と言ったら、あの巣を部屋から放り出してもいいと思うくらいには、もやもやする……)
黄菊の魔物時とは違い、この女性はしっかりとディノの正面で、彼と対等に話をしている。
それだけ己に自信があるのだろうし、それを許されただけの過去もあるのだろう。
そう思い立った時、無意識にディノの背中に寄せていた手が少し離れた。
まるでそれを察したかのように、背中を向けたままのディノが小さく溜息を吐く。
「………ネア、目を閉じてくれるかい?」
「…………はい。閉じました」
素直に従ったネアに、魔物の温度が一度離れ、ふわりの目の前の空気が揺れる。
吐息の温度が触れたと思ったら、唇に柔らかな温度が落ちた。
淡く微笑む気配に、胸の奥が掻き毟られるような気がして、ネアは指先をきつく握りしめる。
「この後で、十秒間だけ目を閉じておいで。私は少し離れるけれど、君の周りに刻んだ輪が、不可侵の線となる。どんなことがあっても、決してその線から出てはいけないよ」
「………わかりました」
「どこにも行かないで。すぐに戻ってくるから」
声に含まれた切実さの何かに、ネアは目を閉じたまま微笑んだ。
はっとしたように、向かい側の気配が少しだけ緩み、そして霧散する。
ゆっくりと十秒数えてから目を開けば、そこにはもうディノも、声の主であろう女性の姿もなかった。
しんと静まり返った雪深い森の真ん中で、ネアは一人立ち尽くしている。
「………あれ、一人じゃない」
木立の陰に沈んでしまって気付くのが遅れたが、視線の先には、じっとりした目でこちらを見ているもふもふの鹿が残されていた。
案外詰めが甘いのか、あえてなのか、夜渡り鹿と二人きりにされた模様だ。
(あ、………足元に円が描かれている)
ネアの足元には、綺麗な円が雪に刻まれていた。
木の棒でひっかいて跡をつけたような線だが、惚れ惚れとするような真円である。
これがディノの言う、不可侵の線なのだろうと納得し、ネアは一つ頷く。
不可侵の効果とはどんなものだろうと考えたところで、雪の塊が飛んできて、ちょうど線のあたりで見えない壁に当り、じゅわっと藍色の光を放って見えなくなった。
「木の実を落したり、雪玉を投げたり、なんて幼稚な鹿さんなのでしょう」
「黙れ、鼠色」
冷やかな返答の声に、ネアはびっくりして目を丸くした。
ワンワン吠えている姿しか見ていないが、喋ることも出来るようだ。
「鹿もどきめは、お喋り出来るのですね」
「鼠色風情が、私に話しかけるな」
「私の髪の毛は、雨の日の空の色なのだそうです。語彙力もないのは、やはり鹿だからでしょうか」
「お前のように醜い生き物が、何を偉そうに」
吐き捨てるような言葉だったが、ネアはまじまじと鹿を見返し、ふっと唇の端を歪める。
「私は、確かに十人並みの容姿の人間ですが、毛むくじゃらに罵られたところで、片腹痛いと思うばかりなのです」
「私は人の姿を取ることも出来るぞ」
「化けずとも、その豊かなもふもふでいいではないですか。私はそちらのお姿の方が、心が動きますけれど」
「お前の興味を惹いたと思うだけでおぞましい」
「まぁ、口の悪い鹿さんですね!」
夜渡り鹿は立派な足で雪を掻くと、わざとらしくゆっくりした動きでネアの周囲を徘徊し始めた。
背後に回られると少しひやりとするが、ネアはあえて体の位置を変えずゆったりと構えていることにした。
ぐるぐると周りをうろつきながら、低い声で悪口を呟き続けているので、地味に苛々が蓄積されてゆく攻撃だ。
不可侵の円には少しゆとりがあるので、雪玉でも作って投げつけてやろうかと思ったが、何個か作ったところで、内側からの攻撃も弾かれる可能性があるので、失敗して馬鹿にされる危険を踏まえ諦めた。
「待っていろと言われて、このまま、あの魔物が戻ってこなかったらどうする?」
「ディノは戻ってきますよ」
「そうだろうか。もうどれだけ待っている?」
「我慢が出来なくなれば、ここを出てあなたを駆除して一人で帰ります。ディノが怪我などをしていてもいけませんので、やみくもに待つこともしません。でも、暫くは待ちます」
「可愛げのない女だな。魔物にも愛想を尽かされたのだろう」
「怖いもの知らずの鹿さんですね」
そこでふと、夜渡り鹿は歩みを止める。
幼くさえ見える真っ黒な瞳をこちらに向けて、ふさふさの尻尾を大きく揺らした。
「お前の魔物は、レーヌの恋人だ。黄昏のシーの愛情を受けた男が、お前のような鼠色を顧みると?」
「ディノは私の契約の魔物です。仮にあの方が恋人であったとしても、ここに戻るかどうかは別問題だと思うのです」
「そしてもしレーヌを排除したならば、あの魔物はこの国では反逆者とみなされる」
「……それは存じませんでした。あの妖精さんは、この国で権威のある方なのですか?」
「お前はウィームの歌乞いだと聞いていたが、知らないのだな。レーヌは第四王子の代理妖精だぞ?私を夜に近付け言葉を回復させるくらい、その魔術は潤沢なのだ」
その言葉に含まれた悪意の残響に、彼等がネアの正体も含め、こちら側の事情に詳しいのだと理解した。
(第四王子様……)
王族の並びは、婚約者だった頃のエーダリアから説明されていた。
その時の説明を思い出し、少し考える。
「あなた達は、私が誰なのかを知っているのですね」
「そうとも。レーヌはずっとお前を観察していたからな」
「………変質者でしょうか。尾け回しはやめて下さい」
「………雪食い鳥の試練からも、うまく逃げたのだそうだな。高位の恩恵を利用して、実にしたたかな女だ」
踏み替えた足に、雪がさくりと音を立てる。
首を傾げたネアは、つい先程まで抱き締めてみたいと思っていた魅惑の生き物をひと睨みした。
愛おしいと思えたのは、この鹿がシーの魔術の恩恵を受けて喋り出すまでだ。
「雪食い鳥さんとのことを、ご存知なのですね?」
「雪の妖精を一匹籠絡して、お前の血を盗んだのはレーヌだからな」
「………あの方が、私の血をアンナさんに渡したのですか?」
「そうだ。王宮の結界を超えて、お前の血を盗むだけの鋭敏さは、あの鳥にはなかった。言っただろう?イブメリアにお前達の姿を見かけてから、レーヌは、ずっとお前達を観察していたんだ」
その事実を黙っているだけの知略は、この鹿にはなかったようだ。
ただネアの知らないことを詳らかにし、傷付けて喜ぶその邪悪さの影には、まだ心の幼い生き物らしい無防備さが見える。
「鹿さん、あなたは愚かですね」
「どうした鼠色、怖くなったのか?」
「あなたが少し哀れになりました。今の情報は、もしかしたら知らせるべきではない事柄だったのかもしれませんよ」
「ふん。私はお前のような醜い生き物は食べない。レーヌが殺すか、あの魔物が心変わりして……はぶっ?!」
得意げになって話していた夜渡り鹿は、飛んできた雪玉を顔面に受けて仰け反った。
「成る程、こちらからは通るようです」
「……な、何という無作法な女だ!これだから女は…?!」
次の瞬間、鹿はネアのフェイントにまんまと引っかかり、一度投げる素振りをされて、避けようとした雪玉を再び顔面に受けた。
雪溜まりにのめり込み、もがいている鹿を冷ややかに眺めながら、ネアは歴戦の強者のような厳格さで、次なる攻撃の準備を整える。
輪の中から出られないだけであれば、鹿を一頭倒すくらい然程難しくはない。
一応、これでも業務時間内であるので、出来る範囲で仕事に忠実であろうと、ネアは思う。
「……おのれ口惜しや、醜い人間め!そこから押し出して引き裂いてやろうか」
案の定、意外に短気な鹿は、雪溜まりから這い出してくると輪のすぐ側までやって来て、がちがちと歯を鳴らしてネアを威嚇し始めた。
人間や妖精を引き裂くというだけのことはあり、見事な歯並びはどこか鮫を彷彿とさせる。
わざとらしく輪から押し出そうとするジェスチャーを取り脅そうとする鹿に、ネアは無言で手にした即席の武器を一振りした。
一瞬躊躇い、昨晩亡くなった騎士はもうすぐ子供が生まれるところだったのだと思い出して踏ん切りをつけて。
見知らぬ者に心を割くほど繊細ではないが、ネアにだって月並みな想像力はあるのだ。
「お前など………っ?!」
ごすっという良い音がした後、夜渡り鹿はくしゃりと雪の上に崩れた。
「あなたにとってとても残念なことに、私はこれでも狩りの女王です。私の上司が、私に出来るであろうと見込んだ程度のことを、出来ない筈もないのです。見くびりましたね」
雪の上に崩れた鹿は、一瞬で色褪せ、中身が風に崩れてしまったかのようにくたりと縮んでしまう。
ぱさぱさになった毛皮の塊も、一陣の風に崩れてあっという間に散り散りになっていった。
その跡には、夜渡り鹿がいたという痕跡すら残らない。
「うむ!」
一仕事終えた満足げな顔で微笑み、颯爽と毛布を惜しむ一雫の涙を払うと、ネアは靴紐を解いて振り回す武器としたブーツを丁寧に履き直す。
「もふもふは無念ですが、良い毛布ならお店でも買えますしね!」
持ち手部分として少し解いたとは言え、ブーツ部分にも編み込まれた靴紐は、ヒルドの織り上げた死の舞踏だ。
硬くて有名だという畑の賢者も滅ぼせたのだから、ある程度の攻撃にはなるだろうと思っていたが、あっさり滅びてしまった。
よく足を踏んでほしい魔物がいるので日常生活では注意しているが、ノアで試した限り軽い打撃程度では高位の魔物は死なないと考えている。
(さてと、……ディノは……)
「ネア、輪から出たのかい?」
音もなく背後から忍び寄った魔物に抱き締められて、ネアは心臓が止まりそうになった。
「……ディノ?!びっくりするので、声をかけて下さい!………ディノ?」
首筋に顔を埋められて、ぼすぼすと魔物を叩いていたネアは眉を顰める。
これはよく、甘える時と落ち込んでいるときにする仕草だ。
そっと斜め下から覗き込めば、ディノはやけに静かな目をしていた。
周囲を見回してみても、あの美しい声の主であるシーの姿は見当たらない。
「………私から、逃げようとは思っていないね?」
「どうして私がディノから逃げるのでしょう。どこにも行きませんよ?」
「では君に謝らないといけない。………ネア、ごめんね」
囁く美しい声は甘く、割れそうなくらいに悲しげだった。
体を捻って魔物の方を向けば、不安そうな顔をしてディノが目を伏せる。
水紺の瞳にちらりと浮かんだのは罪悪感のようなものだろうか。
「……あの妖精さんと復縁…」
「まさか。あれはもういないよ。どこにもいない」
今までネアの転職先の魔物を壊してきた時にはなかった、声に潜む痛みが奇妙だった。
どんなに美しく稚くても、ここに居るのは酷薄な魔物であり、彼はその酷薄さを隠しもしなかった。
(それなのに、………どうしたのかしら?)
けれども、こんな風に悲しそうにされれば、見ていて胸が苦しくなる。
(やはり、あの妖精さんは特別な存在だったのだろうか)
「あの方は、大切な人だったのでしょう?」
「どうしてだい?そう思ったことはないよ。だけど、……ほら、君はそう考えてまた離れてしまうんだ。だからとても不愉快だった」
「む……。私の反応が不愉快なのでしょうか?」
「やっと君を捕まえたのに、あの妖精がまた君の心を遠ざけてしまったから」
さもどうでも良さそうに言われると、逆にあの女性が享受したであろう寵愛が気になった。
心を添わせないのに、あれだけのものを許してしまうのなら、なんと厄介な魔物だろう。
「ディノ、私の心は、今日この森に来る前と何ら変わりませんよ?強いて言えば、あの鹿の言動に苛々したのと、恋人さんがいるのに、ディノが私にあんな申し出をしたのだとしたら、寝室から巣をぽいっと捨ててやろうと思ったくらいです」
「ご主人様………」
ぐっと低くなったネアの声に、魔物がおろおろとする。
「それに、私はきちんと、あなたの気分をわかっていたつもりです。だから、荒ぶらずに大人しく待っていたでしょう?」
あの時、ネアに目を閉じるように言って、振り返った魔物の気配には胸が痛くなるような不安があった。
何と言えばいいのだろう?
落胆や不安、そして懇願にも似たひと匙の絶望、そんなものを確かに感じたのだ。
だからネアは、心配しなくてもいいよと伝える為に微笑んだのだけれど。
「ディノは、あの方との邂逅を不安に感じていたでしょう?」
「ネア……!」
これだけ生活を共にしているのだから、ある程度の判断はつくつもりだ。
そう思って指摘すれば、魔物はほんのりと目元を染めて恥じらう。
相変わらず、謎に乙女のようになる生き物だ。
「さて、きちんと待っていたので、教えてくれますか?ディノは、どうして私に謝るのでしょう」
びくりと体を震わせて、背中に回された腕の力が強くなった。
深々と息が吐き出され、ネアは思わずその頭をそっと撫でる。
「先程のシーはね、ヴェルクレアの王子の代理妖精なんだ」
「それが、謝罪の理由なのですか?」
「君の大切な箱庭の者達の、親しい者があのシーの主人なのだろう。伏せておくのは簡単だが、それでも不安要因だ。あれはとても狡猾な妖精だからね。ここに来ることを誰かに申し伝えてきた可能性もある」
「と言うことは、内緒にするよりは、さっくり告白してしまった方が良さそうですね」
「ネア………?もしかしたら、君はあの箱庭を失うかもしれないよ」
「ディノは、もしかしてそのことで落ち込んでしまったのですか?」
「君は、私を厭わないのだろうか。あの場所は、とても大切な場所なんだろう?」
「はい、とても大切な場所なので、ディノがあの場所に悪さをしたら怒り狂いますが、不可抗力の範囲であれば仕方ありません」
「……私は知っていたんだ、……レーヌが代理妖精だと」
「まぁ。……それでも我慢出来ないような理由があったのでしょうか?」
少し体を離してそう問いかけると、ディノは悲しそうな顔でネアをぎゅっと引き戻す。
単純に落ち込んでもいるが、少しばかり、可哀想さを誇張して許してもらおうという戦略の欠片も見えて、ネアはひそかに苦笑した。
「あの妖精が、君を知っていることが嫌だった」
「……え、それだけですか?」
「あの妖精は、私が関わるものを壊すのが好きで、よく引き裂いていたんだ。執着はあまりしないから気にしていなかったし、煩わしい不愉快さも時には新鮮だからね」
「……ノアが、ディノは好みではない方にもあえて手を出していたと話していました」
「………ネア」
「そんな顔をしても、私は、あなたの過去まで余分に許容する程、善人ではありません」
その言葉は意外だったのか、ディノは目を瞠って声を失った。
ネアが不機嫌ではない理由がよくわからないのか、綺麗な目を瞬いている。
「なので、あまり褒められた嗜好ではないと思いますが、お二人の過去のことはぽいっとしましょう。それよりも、私の身の回りのことを心配してくれて嬉しかったです」
「ご主人様!」
「まずは、エーダリア様達にご相談します」
また少し不安そうに視線を彷徨わせたディノに、ネアは小さく微笑んだ。
「それでもし困ったことになったら、あの森のお家にでも引越ししましょうか。ディノがいれば怖いことはないでしょうし、諸国漫遊しても良いですね」
「……君はそれでもいいのかい?」
「私は、取捨選択が出来る人間です。以前にも話しましたよね?……その後のことは覚えてますか?」
「私の方が歳上だから、頑張るんだよね?」
魔物が正解したので、ネアは三つ編みを引っ張ってやった。
やっと安心したのか、ほろりと微笑んで、ディノはネアの頬に手を寄せる。
「それに、お仕事はきちんと終わらせたので、あんまり怒られないと思いますよ?」
「………そう言えば、あの鹿を忘れていたけれど、……ご主人様?」
「あやつは退治しました。これで今日の仕事はお終いです!」
「え、ネア……あの輪の中から、どうやったんだい?」
「靴紐を緩めたブーツを振り回して叩きのめしました」
「ご主人様………」
慄いているのか、頬を染めているのか、変態らしく分かり難い反応を示す魔物を見ながら、ネアは魔物には察し難い人間の狡賢い部分を思う。
(第四王子様の、代理妖精なら………)
ヴェルクレアの王子は、五人いる。
ネアも信頼の品質の第一王子に、第二王子であったエーダリア。
先代の歌乞いであった婚約者を亡くし、失意で身体と心のバランスを崩したという気が弱く聡明な第三王子。
そして、 エーダリアが妙に白けた眼差しで名前だけ挙げた第四王子と、まだ幼くて面識が薄いという第五王子。
(よくわからないけれど、あまり芳しくない関係性の異母兄弟の代理妖精が領地内に現れて、気付かないものなのだろうか)
魔物達は時に老獪だが、あまりにも自由であるが為に盲目なこともある。
その範疇でディノは気付いていないのかも知れないが、これは果たして偶然なのだろうか。
第四王子と言えば、凝りの竜の時にも言及されていた人物だったと記憶している。
直接の説明はなくても、一昔前に潜入調査をしていたネアは、ひっそり交わされる秘密の会話や視線の繋ぎ合せは大得意だ。
(エーダリア様は兎も角、ダリルさんかヒルドさんは折り込み済みだったりして……)
第一王子まで絡んだ割には、凝りの竜の事件はその後の展開が見えていない。
他の問題で失念していたが、リーエンベルクを巡る陰謀であるならば、少し話をしてみる必要がありそうだ。
そう考えて、自覚なく胃のあたりを押さえた。
これは、場合によっては本気で森の厨房に引越ししてもいいかもしれない。