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灰色の本と千年王国


その日は朝から静かな雪が降っていた。

少し調べたいことがあってダリルダレンの書架に訪れると、薄暗い書架の中で、思いがけない人物と行き合った。


「ウィリアムさん?」

「ネアか!奇遇だな」

「そう言えば、ダリルさんとは何度かお会いしてるんですよね」

「ああ。アルテアがここに入り浸っていたからな。少し彼と問題があった時に、何度か探しに来た」

「問題……」

「一時アルテアは、俺の城に赤羽の妖精を送りつける趣味を持っていたから」

「おのれ、罰してしかるべきです」

「勿論だ」



飴色の見事な書架に、検索灯の柔らかなオレンジの光が揺れる。

スライド式の梯子を移動させながら、同じ書架棚にいる不思議を思う。


「ウィリアムさんも、ウィームの歴史を?」

「ああ。ネアはどうして?」


仕事がない日なのか、ウィリアムは簡素な白いシャツに濃灰色のズボンというシンプルな服装だ。

いつでも戦場に出られるような編み上げの長靴でだいぶ雰囲気が変わるが、上だけ見ているとノアのことを思い出した。


「知り合いの思わぬ過去を知ったので、少し気になったのです」

「知り合い?リーエンベルクの彼等なら、もう少し左側だった筈だよ」

「いいえ。統一戦争の頃のものがいいのです。………ウィリアムさんは、塩の魔物さんを知っていますか?」


ここでネアが声を潜めたのは、背後の大テーブルでくしゃりと伸びているディノがいるからだ。

今朝から甘え倒されので先程一喝したばかりで、何となく拗ねているのがわかる。

今も、こちらをじっとりとした目で見ていた。


「ノアベルトについて知りたいのか?」


なぜか、そう問い返したウィリアムの表情は冴えなかった。

不思議に思って首を傾げれば、小さく苦笑される。


「彼は人間に好意的な魔物じゃないからな。あまり深入りしないように」


「それが不思議だったんです。私の出会ったノアは、人間という区分に無関心でしたから。それに、あのラベンダー畑ももうないそうですし」


朝食の席でのことだった。

ゼノーシュがノアの話題を聞きつけ、事情聴取をされたのである。

塩の魔物に何か酷いことを言われていないのか心配してくれたらしい。

少し話す内に双方の齟齬に気付き、ネアはとても驚かされる羽目になった。


「ラベンダー畑?」


「ええ。ノアと出会った、チェスカのラベンダー畑です。今朝その話をしたところ、ゼノに、あの国のラベンダー畑は百年前に戦争で燃えてしまったと聞きまして」


「…………そのラベンダー畑でノアベルトに会った?」


「はい。ですので、時間軸も少し混線していたのかも知れませんね。無事に帰れて良かったです。あの時代のディノは勿論、私を知らなかったでしょうし」



あのラベンダー畑がもう随分前に失われたのだと知って、不思議な安堵感に包まれるのと同時に、えも言われぬ切なさを覚えた。

そうしてふと、あれからのノアがどうしていたのか知りたくなったのだ。


「ネア、君がノアベルトに出会ったのは何時頃かわかるか?」


「時間までずれていると知りませんでしたので、特定出来るような情報がないんです。ラベンダー畑が失われたのは統一戦争より後なのですが、私の知るノアはまだ人間嫌いではありませんでした。エーダリア様が、塩の魔物は統一戦争で人間嫌いになったと話してくれたので、それより前なのでしょう」


その返答に、なぜかウィリアムは低く呻いた。

今朝のディノと全く同じ対応に、ネアは眉を顰める。

ぶつぶつと、いやまさか違うよなと呟いているが、何か気になることがあるのだろうか。


「………けれど、どうしてそのことを調べようとまで?」


それはディノにも聞かれた。

上手くは表現出来ないが、自分が続きを読み損ねた、気になる物語の続編を探すような感覚に近い。

知ったからどうということはなく、ただ知りたいだけなのだ。

それをたどたどしく説明し、少し付け加えた。


「私は多分、あの屑めが、月並みな幸福を得て、落ち着いていてくれればいいのにと思っていたのです。或いはそうではなくても飄々としていて欲しかったのに、悲しい思いをしていたなんて……」


「ノアベルトの絶望は彼だけのものだ。複雑な男だから、あまり深追いしないように」


「ふふ。難しくない魔物さんなどいるでしょうか。しかし、ノアが困った人であるのは知っていますし、色々と揺さぶられてしまうので、お会いしたいとは思いませんよ」


「……ん?そうなんだな」


「はい。ディノもそれで納得してくれたのですが、別に会いたくはないのです。もし会いたいような気持になるとすれば、勝利宣言でもしたくなったらでしょうか」


「勝利宣言?何か勝負でもしたのか?」


「ノアは私に、私の手元にあるものを、私がさも愛せないかのようなことを言ったのです。だから、私は自分を選ぶと。でもそれは大変に遺憾ですので、万事こちらで解決出来れば自慢してやりたいです。とは言え、そんな昔に出会った人間のことなど、ノアももう覚えてないでしょうね」


「遺憾なんだな………」


「ええ。そして彼が私のとある秘密を有している限り、出会い次第に消す予定だったのですが、流石に百年以上昔のことであれば忘れてくれていると信じたいですね」



そう言ってから、少しだけ躊躇した。

それを認めてしまうのは微かな敗北感を伴い、何となくもやもやする。

視線を落とした爪先で、あの日と同じ靴紐が揺れる。


「でも、ノアはちゃんと誰かを愛したのですね。統一戦争の頃のお話を聞いて、そう感じました。いっそうに捻くれたのは残念ですが、そこばかりは負けたような気分になります」


「ネアにとっては、それは負けになることなのか?」


「ええ。……あの日から、私はまだ特に進展もないですしね」


「………ん?もしかして誰か好きな相手が出来たのか?」


「いないので困っているのです。雪食い鳥さんの試練でも思いましたが、私は、所詮自分が一等に大切なのです。あまり他者を愛せないのであれば未熟者の範疇ですが、あれこれ移り気となると自分の将来が不安になります。早く特定の方を想って、身の潔白を証明したいのですが、ひとまずは経過観察で恋愛禁止にされている次第です」


「待ってくれ。ネアには……移り気な素質があるってことかな?」


「大変に不本意ですが、恋愛の定義に収めると、アルテアさんと一緒にいると苛々しますし、ヒルドさんと二人きりになるとハラハラします」


「うーん、人間の恋愛の定義がわからなくなった」


「好意と不利益が共存するのが、本物の恋なのだそうです」


その言葉に、ウィリアムは不思議そうな顔をした。

その疑問は種族的なものなのか、あるいは市場における強者の無知なのか、ネアも不思議に思う。

魔物の恋愛感情は、もっと単純明快なものなのだろうか。


「好意だけでは駄目なのか?」


「ええ。以前私がお付き合いしていた方に対して、私は家族に向けるような好意しか持っていませんでした。彼が浮気者に転身したとき、悲しくも苦しくもなかったので、不思議に思っていたところ、その恋の定義を知り、彼への想いは恋ではなかったのだと悟ったのです。人間の場合、恋というものは、もう少し業深く強い感情が動くものなのでしょう」


「ネア、背後のことを考えて、家族的な愛情は、すなわち恋ではないと断言するのはやめてやってくれ」


「けれど、家族のような愛情すら消え失せた方と、ディノは違いますよ?ディノは、もっと根強い契約のある存在です。恋ではないからといって、切れてしまう縁でないと信じているのですが」


「普通に考えればそれだけでも充分なところだが、シルハーンはそれでも足りないんだろう。彼は契約ではなくて、心が欲しいみたいだから」


「まぁ、困った魔物ですね。とても大事な魔物なので、心くらいある程度差し上げますが、あまり手持ちのないものを求められると、専門家と分業制にしたくなるのは致し方ないと思うのです」


そう答えて、テーブルの上で不貞腐れている魔物を一瞥すると、さっと目を逸らされた。

すぐにこちらを窺い直してくるので、単に構って欲しいだけの面倒臭いやつである。

不本意ながら可愛くもあるので、ついつい甘やかしたくなる気持ちを頑張って押さえた。


(おのれ、後で頭を撫でてあげるしかない……!)



「まさか、また悪化してるのか?」


「ええ、とても。今日も朝から、何度爪先を踏んでやり、何度体当たりを強要されたでしょう。あまり悪化されると本能的に振り切って逃げたくなるので、困っています」


「…………そうか、問題はそこなんだな。それが性癖となると、恋人になる以上はそちらの世話もしなければいけないからな……」


「ええ。そう思うと、どちらかと言えば心が後ずさりするのは否めません。しかしながら、大事な魔物の欲求を殺してしまうのも可哀想ですしね」


「その問題を考えると、シルハーンへの好意に関しても、ある程度の不利益があるんじゃないのか?」


「む。………確かに」


「それを恋には変換出来ない?」


「ウィリアムさん、結構辛いという感情も恋の匙加減に入れるのであれば、ノアも同じ舞台に上げる必要があるのでしょうか?」


「すまない。俺の勘違いだった。今の案は却下してくれ」


「良かったです。ちょっと背筋が寒くなっていたところでした」


そこで一度会話を切ったウィリアムは、一冊の灰色の革装丁の本を取って手渡してくれた。

千年王国と書かれた題名に指で触れ、ネアはお礼を言ってから該当するであろうページをぱらぱらとめくる。

渡された本をしばらく目で辿ってから顔を上げれば、ウィリアムはまだその場にいてこちらを見ていた。

心配そうな眼差しの他に、見慣れない懸念のような複雑な感情も窺い見える。


じりりと音を立てた蝋燭の火に、魔術の香りが立ち上る。

ダリルは領内の会議で出払っているが、こうして魔術の守護が書架を管理していた。

小さく息を吐いて、ネアはウィリアムの物言いたげな眼差しに首を傾げる。


「どう思った?」


「そうですね、………ほんの少し、羨ましくなりました。けれども恐ろしくもあります。何か、それではなければいけないものを手にしてしまうと、それが失われてしまうことも考慮しなければいけませんからね」


人間の歌乞いに恋をした、塩の魔物。

もしネアに出会ったのがその恋の後のことだとすれば、彼がネアに親切だったのも頷けるのだが、如何せんそのときのノアには、ソフィという恋人がいたところだった。

であればやはり、あの後に彼は恋をしたのだ。


(失われてしまうような、そんな悲しい恋を)


「シルハーンなら頑強だと思うよ」


「……なので私は、歌乞いで良かったのだと思います。もしこの世界に来て、誰か他の大事な人に出会ったのだとしても、その方が人間であれば、私は決して愛さなかったでしょうから」


それはとても身勝手な要求だ。

一度取り残されたことがあるので、今度はそちら側の役柄を受け持ちたくないと言ったところで、普通はそんな我儘が通る可能性はとても低い。

ディノが人間より遥かに長く生きるものでなければ、恐ろしくてこんな慈しみ方はしなかっただろう。


(だからこそ、幸せでいてもらいたいのだけどな)


自分より先に失われない命でいてくれる恩義に相当するだけ、彼にはせめて幸福でいて欲しい。

少しでも何か与えてやろうと紐の祝福も検討してみたが、栞の魔物のせいであまりにも専門的なところまで鍛え上げられてしまい、ディノに施してやる前にトラウマになってしまった。

あれを披露するとしたら、目撃者の全ては殲滅しなくてはなるまい。


(だから、私では足りないのだ)


ディノだからこそ。

とても大事な魔物だからこそ、ネアは彼に得られるだけの全てを得られる幸福を得て欲しいと考えてしまう。

そうなると、ネアには彼の恋人になる為の一番の資質が足りない。



「あれ?愛してはいるんだ?」


「愛情の一環としては充分に。私とて、どうでもいいものの為に、心を削ってやったりはしません。ウィリアムさんと一緒に、あちらの業界への視察に出たあたりでもう、特別枠であると自覚はしていました」


「………もう随分前のことに感じるな」


「ええ。あの日のことはそろそろ忘れたいのですが……」


「俺が忘れるまではどうか待ってくれ」


二人がしんみりしたのが気になったのか、ずしりと肩が重くなって、ネアは背後から魔物に拘束された。

叱られたばかりなのでどこかおどおどしているが、がっちり腹部に回した腕は揺るぎない。

反省は出来る魔物なのだが、自分の意志を曲げるつもりはないらしい。


「ネア、何を話していたんだい?」

「あらあら、聞こえていたでしょう?ディノを大事にしていますよというお話です」

「ウィリアムが防壁を展開していたようだ」

「ネアは、あなたのことを愛してはいるようですよ。現状、家族的な意味のようですが」

「………家族」

「ディノ、そんなにしょぼくれないで下さい。恋人の進化系が、いずれは家族になるものです。寧ろ、上位的なものかもしれませんよ?」

「伴侶のような?」

「あ、そうなると違うでしょうか」

「………ご主人様」


ますます魔物は落ち込んでしまい、ネアは頭の上にディノの顎を乗せられたまま、器用にウィリアムに肩を竦めてみせた。

重たいが、この背後霊はそう簡単に剥がせなさそうだ。


「ねぇ、ディノ、私はどこにも行きませんよ?」


つい一か月程前まで、そんなことを言い含めていた気がするのだが、どうしてこんなに問題が大きくなってしまったのだろうか。

ノアの忠告を真に受けて、あそこで真摯に話し合おうとしなければ良かったと、ネアは後悔を噛み締める。

不安に駆られて墓穴を掘り、より、こんがらがってしまった。



「他の誰かに恋をするのも嫌だな」

「でもそれは、恋愛禁止中なので大丈夫ですよ?」

「…………そういえば、そうだったね」

「シルハーン、恐らくその中にあなたも含まれていますからね」

「え、ネア……」

「大丈夫です、ディノは規制対象に入っていませんので、何の影響もありません」

「ネア、酷い………」


悲しげに身を震わせた魔物が、体当たりを要求したので、ネアは虚ろな微笑を浮かべた。

隣りのウィリアムも深い溜息を吐いて首を振っている。


(この大切さや執着が恋だと思いかけたこともあったけれど……)


彼の嗜好を性愛としても受け止めるのだろうかと思うと、全力で逃走してしまいたくなるので、やはり愛情の質が違うのだろう。


(うん。恋という意味で大好きならば、寧ろドキドキしてしかるべき分野なのだし)


普通、恋をした相手との色めいた場面を想定した時に、いかがわしいショーの記憶を掘り起こされて、壁に頭を打ち付けて死にたくなったりはするまい。

やはり恋ではなさそうだ。


(………なんだか、勿体無いな)


変態に寄せた趣味さえなければ、心揺さぶるくらいに魅力的な魔物なので、ネアだってとっくに恋に落ちていた筈なのだ。

こんなに大切なものをそういう意味でも愛せたら、どれだけの幸福だっただろう。


(私は多分、……ディノが良かったんだわ)


いつかそこに誰かの手が触れる可能性への諦めを用意したりせず、ずっと自分だけの魔物でいて欲しかったのだ。


そう考えたら、勿体無いなさのあまり少しばかり悔しくなった。


(もし私が、普通の歌乞いのようにあっという間に死んでしまう命であれば、そのくらいの時間ならディノを独占出来たのかな)


人間の命は儚い。

けれども、ようやく心を動かし始めたこの魔物の、大切な時間を無駄になんてしたくない。

いずれいなくなる命だからこそ、後に残るものを繋ぐ可能性があれば、そちらに譲るべきなのだ。


(そこまで分かっていて、幾つも可能性の糸を残した私は狡い……)


ただ待ち続けたノアのように、どうして相手のことだけを一番に考えてやれないのだろうか。

彼の方が余程相手を労れる人だった。



帰ろうという合図なのか、投げ込まれてきた三つ編みを手に取り、ネアは密かにしょんぼりする。

ディノにとって手を繋ぐということが、愛情の表現として認識されているのなら、今の関係でこちらから手を伸ばされるのはディノも嫌だろうと、最近は手を繋ぐことを自制していた。


(………普通に手も繋ぎたいのにな)


一度言葉で区切りをつけたことで、ディノは後どれだけネアだけの魔物でいてくれるだろう。

こんな風にずっと一緒にいられるのも、後少しかもしれないのに。


知ってしまうことで失う選択肢は、とてもほろ苦い。

ディノの場合それが特殊なものに偏るので、ネアの手に負えないのが切なかった。



「ディノは、残念な魔物です」

「え…………」



ネアとしては、多少の悔しさを込めてそう言ったのだが、その言葉を聞いた魔物は、その日いっぱいくしゃくしゃになって、巣に引きこもってしまった。



その発言の後、ネアはウィリアムに、言葉を短縮してはいけないと叱られた。

どうやら、まだまだノアに勝てる日は来ないようだ。



けれどもネアの弁解を聞いたウィリアムは、なぜかとても上機嫌で帰っていった。








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