人生最悪の日 4
夜明けの森の中をどれだけ連れまわされただろう。
抱えて持ち運ばれているが、常にジェットコースターに乗っているようで少しも落ち着かない。
体感時間にして一時間ほど、空が白んできた頃になってようやく、二人は森を抜けた。
「ノアさんは強い魔物さんではなかったのでしょうか。正直、期待はずれです!」
「ネイ、あれは一応最高位の泉の精霊の一柱だ。森を閉じられるとさすがに解除に時間がかかる」
「そして、ノアさんの節操のなさにも驚きを禁じ得ません」
先ほどの泉の精霊は、かつてノアの恋人の一人だったのだそうだ。
別れを告げられてから半年あまり、かなりの怒りを溜め込んで、自分の領域にノアが訪れるのを待っていたらしい。
高位の精霊が半年かけて編み込んだ道のお陰で、これだけの時間を逃げ回ることになった。
「ネイ、疲れたかな。どこか休めるところを探そう」
「寧ろ、どこか人気のあるところで解放して下さい。永遠におさらばしましょう!」
「気が立ってるなぁ。どこか静かなところがいいな」
「ノアさんといると、ろくでもない騒動に巻き込まれそうです」
ノアはまだネアを下ろしていなかったが、森を抜けたとは言え自然豊かなところを歩いているので、ネアもまだその体勢に甘んじていた。
過分に厄介ごとを運んでくるが、人里離れたところでは貴重な戦力だ。
「もう一度転移するよ。さすがにこの界隈は物騒だから」
「………どちらの意味で物騒なのでしょう」
「嫌だなぁ、地域性の話だよ。僕が付き合ったことがあるのは、さっきの泉の精霊と森の乙女や菩提樹の精霊くらいだからね」
「まだいるのか……」
ふわりと空気が揺れ、視界が一変する。
空気に微かな香の香りが混ざり、屋内だということはわかったが、抜群に天井が高い。
「ここは……」
「僕の城の一つだよ。ここなら安全だから」
「え、帰して下さい。寧ろ森で構いません」
「こらこら、暴れないで」
「獣型の方とも恋を出来る節操なしの住処などお断りです!」
ノアは笑いながら、ネアをそっと下ろして床に立たせてくれる。
ノアの城は、濁り水晶のような不思議な建材で建てられていた。
曇り硝子のようでもあり、部位によっては限りなく透明でもあり、見渡す限り不思議な抜け感がある。
尖塔に向けて高く高く見上げる天井の上から、これもまた見事な塩の結晶によるシャンデリアが吊り下がっていた。
(そう言えば、コート着てなかったから)
白いシャツに黒いズボンのシンプルな出で立ちのノアがそこに立てば、不思議な現代画のよう。
「ネイ、泉の精霊はそれはそれは美しい乙女なんだよ?」
「鱗のある素敵な馬ではないのですか?」
「それも彼女の姿だけどね。もしかして、僕がただの馬と付き合ってたと思ったの?」
「寧ろそうとしか思いませんでした」
ノアはものすごく嫌そうな顔になり、大袈裟に不快感を示した。
ただのポーズなのがわかっているので、ネアは半眼になる。
(こういうジェスチャーに長けたお国柄の人みたい)
「ネイの目は、何でそんなに草臥れてるんだろう」
「そもそも、魔物さんの生態をさして知りませんし」
「……人間って、そんな謎に投げやりだったかな」
「特に興味深くない物事を、上辺だけの情報で判断しているからでしょうか」
「ネイ……」
(………あ、)
塩の城に朝日が行き渡る。
きらきらと輝く白い床が雪景色に見えて、ネアは不意に涙が込み上げそうになった。
迎えは来ない。
これだけの時間ネアがいなくても、彼等は特に気にしないような、そういう場所なのだろうか。
魔術というものはよくわからないが、転移があれば簡単にこちらに来られたりするのではないのだろうか。
「一度待つのをやめたらどうだろう。少し肩の力を抜いて、大らかにしておいで」
「ノアさん……?」
「ノアでいいよ。君にさん付けされると、何だかいけない気分になるから」
「ノア」
「うん。それでいい。ネイは、食事をしていても、妖精狩りをしていても、あの店にいても、泉の精霊から逃げていても、ずっと周囲を気にかけては悲しそうにしているんだ」
「……やはり、そう見えますか?」
「うん」
わざとらしく厳しい顔で、腰に手を当ててノアは頷く。
「きっと、ただ不安なんじゃなくて、今だから不安なんだろうな。君の魔物は悪い奴だな。こんなに可愛いネイを待たせるなんて」
「………ノア、徹夜明けでホットミルクの風味付け分とは言え、お酒も入っているのでやめて下さい。泣いてしまうかもしれません」
「頑張ったり怒ったりし尽くして、最後に不安が残ったんだね。安心していいよ、君は確かに向こう側と繋がっているのが見えるし、迎えは必ず来るから。君が歌乞いで、君の指輪の主が契約の魔物なら、それは必ずだ」
歩み寄ってきて頭を撫でられ、ネアは堰き止めていた不安が余計に揺らぎそうになる。
そのタイミングを図ったかのように、ノアは鮮やかに魔物らしく微笑んだ。
「でもきっと、君の魔物は君が安心するような形で、君を満たしてはくれないと思うよ。愛玩犬のように懐いたものなんて、所詮獣の気紛れだ。だから、君は恋をしなきゃ駄目だよ」
「………ノア、」
城の中に立っているからだろうか。
魔物は魔物らしく、鋭利なまでに世界から切り離された美貌で微笑む。
「君の家族はもういないんだ。君のその大事な魔物だって、指輪を与えてはいても君の恋人ではない。君だって彼を恋人だとは言わない。そうなると、魔物は己の欲求に忠実だからね。そいつだって、男としての欲で誰かを望んだりはするだろう。その職場の愉快な仲間たちは?彼らだって、その土地に駐在しているのも、君の傍にいるのも職務だ。いつか誰かがいなくなるかもしれないじゃなくて、いつか誰もいなくなるかも知れないだろう」
ネアは何も答えなかった。
ただじっとノアを見上げ、彼が続けるつもりであろう残酷な忠告に耳を傾ける。
「君は確かに一人上手だと思うよ。でも、とうとう何かに期待することを知ってしまった君が、もう一度一人で生きていけるのかい?」
ふっと、視界が揺れた。
滲んだ世界の中で、やけに朝日が綺麗に見える。
瞳に滲んだ涙を歪める朝の陽は、ちらりと虹色の煌めきを白い床に映した。
「心が離れなくても、彼等には彼等の生活がある。君の傍からは離れるかもしれないよ。今のネイが手にしているのは、みんなそういうものばかりだ。だから君は、その輪の外側で誰かを愛した方がいい」
「例えば、ノアを?」
「うん、僕を。でもね、君がもし僕を選ばなくても、これは僕からの忠告だ。覚えておくんだよ。……でも、君は誰かをと思うなら、きっと僕を選ぶだろう」
それはまるで呪いのように、或いは祝福のように朗々と響いた。
「一度君があるべき場所に帰ってから、また僕に会いに来て。記憶を取り戻してからまた僕に会って、確かめるんだ。もし君がその場所で、君が願うように誰かを愛せていなければ、僕に会った時にそれがわかるよ」
「…………ノアは、嫌なやつです。心臓を抉り出したくなった王様の気持ちがわかりました」
「あはは、ちょっと怒った?涙目のネイは、ムグリスみたいで可愛いね」
「……………ムグリス」
その途端、ネアの声がぐっと低くなった。
あまりにも荒んだ眼差しと声音に、ノアが微かに焦ったような顔になる。
「あれ、ムグリス嫌い?」
「あのまん丸な、鼠妖精ですよね」
「確かに耳は短いけど、あれは兎の妖精だよ」
「そして丸いです。ノア、私は確かにたくさん食べますが、きちんと括れています!あんな風に満月のようなもふもふではありません!」
「そこか!ごめんごめん、ネイの腰はちゃんと括れてるよ」
まさにそこで、ノアは決定的な過ちを犯したのだ。
そしてそれは、ネアにとっても記憶から抹消したい事件の幕開けとなった。
ただれた生活の所為であまりにも意識が低すぎたのか、ノアは特に躊躇することもなく、ネアの腰を両手で掴んだ。
「大丈夫、ほら確認したよ。と言うか、ネイは結構着痩せするのかな」
「…………ノア、念の為に伺いますが、今どこを触りました?」
「うん?胸だけど」
次の瞬間、物凄い音がして塩の魔物は城の床に沈められた。
特製のブーツで足払いされ、装甲と言うよりも遥かに頑強なケープで体当たりされたのだ。
「………あれ、殺してしまった?」
すぐに起き上がるだろうと思ったのだが、完全に落ちてしまったノアに、さすがのネアも慌てて床に座り、ノアの頭を膝に乗せた。
「良かった、息はしてる」
手のひらで唇に触れて、一安心する。
かなりがっつりと頭を打っていたが、幸い流血している様子もない。
単純に衝撃で気絶しただけのようだ。
先ほど変に心を掻き回されて動揺していたこともあり、手加減を忘れてしまったらしい。
危うく高位の魔物を殺してしまうところだった。
(………待って。となると、すぐに目を覚ますのかしら)
まじまじと見下ろしたのは、苦しげに眉を顰めてはいるが、眠っているかのような塩の魔物。
いや、あらため、痴漢の魔物である。
(正当防衛とは言え攻撃してしまったし、目を覚ましてから荒ぶっても困るな………)
素早く周囲を見回そうとしてから、ネアは先程の泉の精霊騒ぎの際に、ノアから渡されたロープの束をまだ持っていたことに気付いた。
馬の形をした生き物だったので、投げ輪で捕らえて動きを封じてはどうかという案が出た際に、ノアがどこからか魔術で取り出したものだ。
ネアが任されて持っていたが、落とさないようにと男前に肩に引っ掛けたままであった。
「…………これだ」
しかし数分後、ネアは出来上がったものに慄いていた。
しっかりと身動きを封じておこうと考えてのことだったが、腕を拘束した縛り方が、やけに専門的過ぎる気がする。
と言うか、これはもはやあれではないか。
(思い出した!栞の魔物の祝福!!)
厄介な能力を持っていることを忘れて、ついつい無意識に縛り上げてしまったらしい。
「どうしよう………」
仕上げてしまったもののその光景を見ていられなくなって、ネアは慌てて解こうとした。
こんな専門知識を実演したことを誰かに知られただけでも、過去最高の黒歴史になってしまう。
「いたた…」
「おのれ、何でこのタイミングで目覚めるのだ!」
「ネイ、何して………」
解こうとしてロープに手をかけたネアと、自分の腕を拘束したロープを発見したノアの視線が交わる。
暫し二人は無言で向かい合った。
「ネイ、………どうして突然積極的になったの?」
「ち、違います!これは痴漢を正当に動作不能にしてやっただけで…」
「顔、真っ赤だよ?そっか、こういうのが好きだったか。頑張ってみようかな」
「違います!おのれ、やはり殺しておけば良かった!!」
「あはは、恥ずかしがらなくていいのに。でも、とりあえず一回解こうか。さすがに床で試すには寝心地が悪いかな」
「黙り給え!」
人間風情に気絶させられたことは気にしていないのか、ノアは上機嫌で見事なナイフを取り出してくれた。
そんなものを何もないところから取り出せるのならば、是非に自分でロープを解いて欲しいのだが、ネアにやらせようとしているようだ。
「はい。一箇所だけ切ってくれるかい?変な持ち方して、自分の手を切らないようにね」
「あえて私にやらせてますよね……」
「そんなことないよ。こんな風に丁寧に縛られたのは初めてだから、さすがに自分では解けないな」
羞恥のあまり死にそうになりながら、ネアはロープの解けやすそうなところをぶつりと切った。
自分でも情けないことに、あまりにも華麗に結びあげてしまったせいで、解き方は一向に分からなかった。
「緩んだので、後は自分で…」
その時、ノアがふっと顔を寄せた。
ロープを切る為に近付いていたネアの耳元に唇を寄せ、甘い声で囁く。
「ネイ、僕にこんな凄い事をしたんだから、きちんと責任を取ってね」
「ノア…………」
楽しそうに微笑んだ塩の魔物を呆然と見返しながら、ネアはぎりぎりと眉を寄せる。
目の前では解けかけてきたロープから腕を引き抜こうとしている、まだ少しだけ無防備な魔物がいた。
「……あれ、ネイ何でナイフ見てるの?」
「やるなら今しかありませんね」
「ネイ、ちょっと待とうか。殺気をしまって!」
「古今東西、人間が殺人の罪を犯す理由の一つに、秘密の隠匿があります。私はどうやら、月並みな人間だったようです」
「いや、何で完全に覚悟を決めたんだい?落ち着いて、ネイちょっと待って…」
ぷつりと、空間が途切れた。
白く眩しい塩の魔物の城が、スイッチを切って照明を消したように搔き消え、代わりに薄暗い王宮の廊下に塗り替えられる。
頬に感じていた太陽の光の温度が失われ、ひんやりとした雪に囲まれた建物の温度になる。
「ネアちゃん!」
目を丸くしたネアの肩を掴んでいたのは、ダリルダレンの書架妖精だった。
薄暗い廊下とは言え、絶世の美女にしか見えないダリルのアップは、かなり迫力がある。
「………今は、いつですか?」
「ネアちゃんが、部屋の扉を開けた瞬間だよ。うん、その瞬間の筈!と言うか、そうだと言って!!」
いつになく必死のダリルに、がくがくと揺さぶられて、ネアは安堵の息を吐いた。
(そっか…………)
見捨てられたわけではなかったのだ。
魔術の不思議さはやはりよくわからないが、こちら側にとって、ネアの失踪はたった一瞬のことだったのだ。
(そっか、良かった)
なぜだか分からないけれど、安堵のあまり泣きそうになった。
瞬き程の間のことであんなに心を揺さぶられたなんて、馬鹿みたいだ。
怖くて、悲しくて、不安でいっぱいになった。
それは多分きっと、記憶が剥ぎ取られても、ここにあるものの大切さをどこかで覚えているからではないだろうか。
聞けば、アンナがこの王宮に襲撃をしかけ、ディノはそれを捕まえに行っているのだという。
ダリルがこの廊下を迷路で一掃していたのは、アンナが単独侵攻ではなく、他の侵入者がネアを狙った場合を警戒してだった。
たった一瞬のまさかそのタイミングで、ネアが部屋から出てくるとは思いもしなかったのだそうだ。
敷かれていたのは、飲み込んだものをどこに繋げてしまうのかダリルにもわからないような、一等に凶悪な迷路の一つだった。
(結局、絶望的な運の悪さで引っかかって、厄介な目に遭っただけだった)
嫌なことだけでもなかったけれどと思いかけて、蘇った見事なロープの仕上がりの光景に、ネアは壁に頭を打ち付けたくなった。
こちらではほんの一瞬の筈なのに、痴漢に遭い、黒歴史の自己ベストを更新してしまった。
思い出しただけでも、死にたくなる。
「ダリルさん、……私は今とても邪悪な気分ですので、事の発端になったアンナさんへの報復は二倍にします。毛深にキノコのやつを加えさせて下さい………」
「ネアちゃん、本当に何があったの………」
かくして、雪食い鳥へのお仕置きは倍増された。
「人生最悪の日です……」
勿論、それだけではない沢山の思い出が増えたのだけれど、人間は死にたい程の羞恥に勝る感情はないらしい。
ネアは重々しく首を振り、深い溜息を吐く。
目撃者を消し損ねたことだけが、とても心残りであった。