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人生最悪の日 3

「やめていただきましょうか」

「うん、何で二回言ったの?しかも最後命令形だよね」


ものすごく嬉しそうにしているノアに対して、ネアはどんどん暗い表情になってゆく。

誰がどれだけ飲んでいるのか知らないが、早く雨が止めばいいのにと心から思った。

面倒な場面からは、立ち去るのが最善の策だ。


「ノアさんのことは凄く嫌いではありませんが、異性としてのノアさんは一度痛い目に遭えばいいのにと思うくらい嫌いです」

「うん、いいねそういうの。新鮮だよ」

「そういう悦び方をするのは、うちの魔物だけで間に合っています。他所を当たって下さい」

「ネイ、……もしかして指輪の魔物は、そういう趣味の奴?大型犬って、そういう意味なのかい?」

「恐らくそういう趣味ですが、純粋に可愛らしい愛玩犬にも見えます」

「やっぱりその指輪は捨てよう。そんな不健全な追求はやめて、僕がもっと健全で楽しいことを教えてあげるよ」

「断る言葉に困る勧誘は止めて下さい!確かにそちらの趣味を掘り下げるつもりはありませんが、あなたとお付き合いするつもりもありません!」


いつの間にか距離を詰められたネアは、木彫りのカウンターを背にする格好で、ノアにぴったりと体を寄せられた。

相変わらず距離感が近いので、足を踏もうとすれば、さっと避けられた。


「ネイは毛を逆立てた子猫みたいで可愛いな!」

「毛を逆立てるのは嫌がっている証ですので、さっさと手を引いて下さい」


かなりぞんざいに切り捨てたのだが、ノアは首を傾げて微笑みを深めた。

誘惑するような微笑みを浮かべてもまだ、彼はアルテアのような毒めいた色香をしたたらせることはない。

とてもさらりとしていて、だからこそ防ぎ損ねてしまいそうな奇妙な欲の色だった。


「ネイ、君は結構僕のことが好きだと思うよ?」


魔物と話す時に大切なのは、足場を崩されないことだ。

だからネアは、本当の言葉で答える。


「そうですね。あなたは……多分、ある程度私の心を動かす要素を持っている人です。でも、それだけですよ」

「僕なら、君に色んなものを与えてあげられるよ?寵愛も贅沢も、君のようなお嬢さんには想像の出来ない悪徳かもしれない」

「そういう提示の仕方をする方から与えられるものに、興味はありません」

「寵愛なんて、欲しくても得られないものだ。それなのに要らないのかい?」


困ったように言うのだから、色恋に関して、この魔物は純粋な生き物なのだろう。

矛盾する嗜好や、情愛の狡賢さなどと無縁なのは、彼が選択肢に恵まれていたからなのだと思う。

心を多様に磨いてゆくのはいつだって、弱者だけに許された特権なのだ。


「ノアさん、人間はとても狡猾な生き物です。だから私は、まずは自分の欲求を満たしたいのです。ですので、自分を愛するものよりもまず、自分が愛せるものが欲しいんです」


そう言えば、青紫の瞳が悪戯っぽく笑いを滲ませた。


「やれやれ、思い通りにいかなくて感傷の畑に落ちてきた君が、随分と強気なことを言うんだから」


拗ねたように言いながら、この魔物はやはりからりと笑うのだ。

相変わらず一向に距離感が改善されないことに辟易としつつ、ネアは、彼が言葉で絡むより多くのことをきちんと理解しているような気がした。

わかった上で足場を崩しにきているような、そんな気がしたのだ。


(多分この魔物は、私なんかより遥かに頭のいい人達とだって、こうやって何度も質疑応答してきたんだろう。慣れている分、彼の方が崩し方が上手い筈……)


なのであえて、ネアは話題を彼自身のところから逸らした。

彼とだけ向き合ってしまえば、器用に丸め込まれそうな気がする。

ネアは色恋の問答は得意ではないので、遠慮なく会話の中間に契約の魔物の問題を差し込んだ。


「私はとても自分勝手な人間ですから、自分を苦しめるものを愛せる程に純粋ではありません。大切に思いたいものに、怖い思いをさせられたからこそ悲しかったんですよ。愛せないということは、とても寂しくて悲しいことですから」


その言葉になぜか、ノアは小さく息を呑んだ。


「………そうだね。愛せないということは、とても悲しいことだ」


「でもそれは、心から愛したいと思うものがあってこそですね。それが見付かるまでは、ゆったりと過ごせばいいのでは?」


「君はそれでも幸せだと言える?」


「ここに来る前に、私は自分だけで完全に閉じた生活を送っていました。一人きりでは埋められないものは必ずあります。それを悲しく思いましたが、日々は穏やかでしたし、幸福もありました」


それは多分、真夏の鮮やかさが訪れない代わりに、静かに美しい雪景色がどこまでも続くような静謐だ。

夏の代わりになるものはなくとも、そこに幸せを見いだせるかどうかは好みなのだと思う。


「恋もせずに生きて、寂しくはないのかい?」

「ええ。上手く表現出来ませんが、修道院で静かに余生を送っているような穏やかさでした。私的には悪くはなかったのですが、そこまで平坦だと、あなたには向かないかもしれませんね」

「そうだね、僕は一人で食事をするのも嫌だ。寝る時だって、一人では楽しくないしね」

「もういいお歳ではないのでしょうか?どうか精神的に自立して下さい」


伸ばされた手が、ネアの手を掴む。

手袋を外したノアの手は、人外の特等に相応しい滑らかさだった。

微かにひんやりとしていて、でも生き物らしい温もりもある。


「どうして君はこんな指輪をしているんだろう」

「私も不思議です。でも、今は困惑や不安しかなくても、私自身が受け入れたことなのでしょう。だから、私はその判断を大事にしたいと思います」

「記憶がないなら、こんなもの捨ててしまえばいいよ」

「さっきも話したでしょう?私は、私が大事なのです。自分の選択をおろそかにはしません」

「でも、立ち止まって精査することも必要じゃない?」


それはそうなのだ。

だからこそネアは、ディノの言動に不安を抱いた。

あんな風に一線を引かれて不安にされるのならば、やはり心の動きが違う生き物なのか、或いは客観的に見れば気質が合わない可能性もある。

けれど、記憶が戻る前に面倒だと切り捨ててしまうには、あの手帳の文字は強すぎた。


(私が、今まで、あんな風に何かを大事だと言い切ったことがあっただろうか)


それはただの覚書でも、心を繋ぎ止める鎖としては充分なもので、ネアにとっては大切なもの。

執着がそこにあるという、自分の心が動いたことへの証跡、希望そのものでもあった。


「私の記憶は数日で戻るそうなので、精査したものはそこまで持越します」

「ネイ~、どうして他では即答する子なのに、そこだけ裁定が甘いんだろう?」

「自分の判断を甘やかした結果ですね。それに、あなたはさして私のことは好きではないでしょう」


きらりと魔物の目が光った。

微かな冷淡さに少しだけ背筋が寒くなる。


「ネイ、それはいけないな。僕の気持ちは僕だけのものだ。君が決めつけていいものじゃない」


「不愉快だったらごめんなさい。でもあなたは、ぱっと目につく派手なものや、見慣れない珍しいものよりも、ゆっくりと時間をかけて愛せるものを見付けるべきです。その方がきっと寂しくないですよ」


「ネイ、君は意地悪だね。もしそれを見付けられなかったらどうするんだい?」


「かつての私のように、穏やかな隠居生活もありですが、今の私のように、恋とは違うところで誰かとの関係を深めてみてもいいかも知れません。覚えていないので断言は出来ませんが、私はこの新しい生活が気に入っているようです」


「お馬鹿さんだね、ネイ」


小さく声を上げてノアは笑った。

吐息が触れるほどの距離でおかしそうにされ、ネアは困惑する。

カウンターについた彼の両手の間に閉じ込められているので、そろそろブーツを活躍させるべきだろうか。


「君が恋をさぼっているのは、誰かが手に入れるべきものを我慢しているからだよ。僕は我慢するのは嫌いだ。取りはぐれる誰かが自分になるなんて、最低だからね」


(……………っ、)


それは一瞬のことだった。

まるで子供におやすみのキスをするような気軽さで、ノアは軽やかな口付けをネアの唇に落とす。


「ほら、怖くないだろう?……痛っ、ネイ、わ、ごめ、ごめん!ごめんなさい!!」


一瞬、思考が追いつかなくて呆然としてしまったネアだったが、すぐさま我に返り、力一杯ノアの爪先をぐりぐりと踏みつけた。


「いっそ、爪先を無くせば更生するでしょうか」

「やめて!本当に無くなりそうだからやめ、やめて下さい!…………本当に、そのブーツ誰が作ったんだろう」


ネアが爪先を解放すると、ノアは窓の方まで後退り、随分離れたところに避難した。

恨みがましくつま先をさすって嘆いている。


「まったく、これくらいで怒らないで欲しいな。ネイは恋愛に慣れた方がいいよ」

「確かにあまり得意分野ではないのですが、経験値の為だけに先に進める分野でもありません」

「欲を欲しないのは、欲を知らないからだよ。試してみたらどう?僕は楽しい恋人になるよ」

「わかりました。爪先は要らないんですね?」

「………要ります」



虐殺も厭わない覚悟のネアと、それでも誘いかけようとする懲りない魔物とで、暫しの睨み合いが続き、ややあって、ノアはふっと笑いを零した。


「ごめん。怒らせちゃったね。僕は心臓がないから、君みたいな繊細さが足りないんだろう。君が好きなのは本当だけど、もう嫌がることはしないから、怖がらなくていいよ」


「……心臓は、魔物の王様に取られてしまったんですか?」

「そうそう。怒ると怖いんだ。彼も相当困った魔物だから、君に一度叱られればいいのに、なんてね」

「いくら私でも、魔物の王様を叱るような……」

「ネイ?」

「いえ、記憶の断片に魔物の王様に纏わるものがあったような気がしたのです」


「念の為に言っておくけれど、今のは冗談だからね。さすがの君でも王に不敬を働いては駄目だ。僕たち公爵位の魔物でも、それどころか、かつて僕がもう一階位上の立場であった時でさえ、王にはやはり敵わなかった」


とても真剣に忠告してくれたのはわかったが、ネアとしてはそれよりも気になってしまったのが、ノアの素性だ。

公爵位より上の階位など、王族相当に間違いないではないか。


「………ノアさん、相当身分の高い魔物さんだったのですね」

「これでも塩の魔物だからね。生き物の命に関わるものだし、結界や魔術の根源にも位置する。惚れ直したかい?」

「いえ。ただ、食用にしか思い至らなかった自分を恥じてはいます」

「あはは。塩が好きなら、今度僕の城に連れて行ってあげるよ。城造りは好きだから、新しい城を君の為に造ってあげようか?」

「食用の範疇を超えるので結構です」

「ネイは冷たいなぁ」


そう言えばシュタルトで塩の城の跡地を見たのだと思い出した。

塩の薔薇が美しく、あの地下に下りる滑り台は楽しかった。

記憶の中では自分一人だが、一人であんなにはしゃいでいたら様子がおかしい。

きっと、ネアの大事な魔物が一緒に居たのだろう。


「ところでネイ、もういい時間になるよ。迎えが来るまでここに滞在すればいい。僕は店舗の方に寝るから、奥の家の方で少し休んだらどうだい?」


その提案にネアが逡巡したのは、ノアを警戒してというよりも、すぐにでも迎えに来て欲しいからだった。

ここで一晩を越えてしまえば、何だかあの王宮での自分の居場所が遠くなってしまうような気がする。

けれど時計を見ればもう、夜もいい時間だ。

徹夜をする覚悟でないのなら、そろそろ休むべきだろう。

何だか頼りない気持ちで頷こうとしたところ、ノアが穏やかに微笑んだ。


「それとも、今夜はここで僕とお喋りをしてる?」


そう指し示されたのは、店舗の奥にある大きなソファだ。

生成り色のしっとりとした風合いの生地が張られ、見るからに居心地が良さそうである。

店内のディスプレイの一環なのか、或いは接客に使っていたのだろう。


「お気遣い有難うございます。私はもう少しこちらで起きていようと思います。でも、ノアさんはご自分の部屋もあるでしょうし、どうか休んで下さい」

「君が起きていられるならお喋りしよう。眠くなったら寝ていて構わないよ」


そう言って一度バックヤードに引っ込んだノアは、厚手のストールやらクッションやらを抱えて戻ってきた。


「好きなのを選んで。あと、ポットはお茶だから、好きに飲んでね。茶葉は出してあるから渋くならないよ。状態保持の魔術をかけてあるから、火傷にだけ気を付けること。バスルームを使うかい?」


正直なところ、バスルームを借りたかったがやはり無防備さが気になる。

渋い顔で首を振れば、ノアは察した顔で笑って頷いた。

使わせて貰ったバスタオルを回収し、ブラシと鏡まで貸してくれる。

女性と一緒にいることに慣れた気の配り方は、慣れているだけにさらりとしていた。


(あれ、髪の毛が普通に乾いてる……)


根元の辺りが湿っていたような気もするのだが、こちらの世界のバスタオルは特別吸水なのかもしれない。

ブラシを通すまでもなく、髪の毛は特に問題のない状態になっていた。

雨に濡れた水分だけ引き抜かれたようで、不思議だが有難い。


二人はソファの両端に座った。

もっと距離を詰めてくるかと思ったが、眠たくなったらすぐに横になれるようにねと言われ、その心配りに感謝する。

疲れているときにあまり側にいられると、気を遣うので助かった。



それから、二人は色々な話をした。

取り止めもないようなくだらない世間話から、ネアのこと。ノアのこと。

好きな茶葉や、好きな色、雨上がりの香草畑に潜む妖精の話。

子猫そっくりの邪悪な精霊に、ノアが足を持っていかれそうになった事件。


ネアは勿論、伏せるべき情報は伏せて会話を進めたし、

ノアだって本当のことを話していない部分もあるだろう。

けれども何だか妙にしっくりと会話が進み、学園祭の前夜祭のような不思議な昂揚感がある。


「王にその言葉をかけたとき、確かに僕は少し尊大になっていたかもしれない。けれど、不思議だったんだよ。僕でさえ望めばなんでも手に入ったのに、どうしてあの方はいつも退屈そうなんだろうってね」


ノアの声には、自分の心臓を奪った王に対する嫌悪感のようなものはなかった。

ただ、今でも理解し難く思っているのは確かで、何とも噛み砕き難い顔になる。

雨はいつの間にかやんでおり、窓の外の夜はどこまでも静かだ。


「魔物の王様は、そんなに退屈なのですか?お仕事のようなものはないのでしょうか?」


「他の魔物のように、統括する領地を持つわけでもないしね。彼はただ、存在するだけで成り立つ王なんだ。僕もあちこち連れ出していたから、それこそ世界中の美女の心を奪っていたけれどね、寵を与えるも与えないも、彼の場合は気紛れなんだよ。気にいったかどうかですらなくて、気分次第なんだ」


「確かに困った方ですね。好みすら存在しないのですか?」


「うーん、好みはあるだろうけれど、あえて好みじゃない女性に手を出したりもしていたしね。王の周囲には、それこそ悪辣な遊び方をするような魔物も多かったし、随分と荒んでた時期もあったな」


そこまでに語られた人物像をまとめて、ネアは渋面になった。

魔物の王というくらいなのだし、相当に癖のある人物なのだろう。

異性関係もただれてそうであり、決して近付きたいタイプではない。


「厄介そうな方ですね。言われなくても近付きません!」

「でも周囲にいる白持ちが王の信奉者だと、機会がなくもないよね。ネイの契約の魔物は誰なんだい?」

「魔物さんの相関図がわからないので黙秘します」

「じゃあ、困ったことになったら僕を頼るようにして」

「そもそも、王様を悪い遊びに連れ出していた、その中の一人なのでは……」


胡乱気な切り返しに、ノアは慌てて弁解した。


「僕はいつだって楽しく遊ぶだけだよ。好かれるのも好きになるのも楽しいし、他の魔物達みたいに、道楽で殺したり壊したりはしない。司るものも、そちらの破壊活動は必要ないしね。まぁ、ソフィみたいに恋に破れると消えてしまうという理の子がいるから、一概に誰も傷付けていないとは言わないけれど…」

「……え?」

「ん?………あ、しまった」


ノアは慌てて取り成そうとしたが、ネアの眼差しは流氷のように冷やかになるばかりだ。

ぴたりと黙って氷のような眼差しを向けているネアに、ノアは額に手をあてて天井を仰いだ。


「妖精や人魚の一部には、恋が成就しなければ、風や水の泡になって消えてしまうという運命を持っている種族がいるんだ。それは特別に珍しいことではないし、彼女達がその運命を知った上でも危うい恋をするのも有名な話だよ」


「でも、消えてしまうというのは、死んでしまうということと変わりないですよね?」

「ネイ、そんな悲しい顔をしないで」

「ノアさんはもっと悲しい顔をするべきです!あまつさえ、最後のところで余所見していましたよね?」

「別れるかどうかの選択は、やはり僕とソフィの問題だからね」

「ふわっとした言葉で着地させましたが、私の評価としては屑の称号を差し上げます」


容赦ない裁定を下したネアだったが、ノアはおやっと首を傾げる。


「でも、ネイは僕のこと嫌いかい?」

「私はソフィさんのことを知りません。客観的に見て、ノアさんが屑めだという評価は変わりませんが、だからといって別にあなたが嫌いという訳でもありませんよ」

「じゃあ、恋人に…」

「絶対に嫌です。………おや、どなたか来ました?……ふぁっ?!」


真夜中もいい時間だったが、不意にお店の扉ががちゃりと開いた。

そちらを向こうとしたネアは、前置きなく毛布のようなものを頭から被せられる。

慌てて取り払おうとしたところで、毛布ごと誰かに抱き上げられ、毛布ごしの耳元で囁かれた。


「ごめん。ネイ、逃げるよ」

「え………」


「ノアベルト貴様、ソフィを裏切ったというのは本当か!」


毛布ごしに聞こえてきた第三者の尋常ではない怒りの声に、ネアは暴れるのをやめて石になる。

壮年の男性の声であり、ずしずしという足音の重さを考えれば体も大きそうだ。


「わーお、ムル、すごい恰好だね。ソフィとは別れたばかりだよ。因みに、もう耐えられないと切り出したのは、ソフィの方だからね」

「お前は、ソフィが黄水仙の妖精だと知った上で、彼女を捨てたのか?」

「いや、だから…………、ムル、もしかしてその手に持ってるのは斧かな?」

「おまけにその手に抱えているのは女だろう。ソフィが風に溶けたその日の内に、他の女を連れ込んだのか……。やはり、出会った時に殺しておけば良かったな。いや、今から殺そう」


(…………全力でとばっちりだ!!)


「それは困ったな。ムル、悪いけどこの子に何かあるとまずいから、僕は失礼するよ」

「なっ、ノアベルト!!!」

「ごめんね、ムル。またいつか、君が落ち着いたら飲みに行こう」


くるりと世界が暗転する。

毛布の織り目から見えていた照明の光がくるりと反転し、一度完全な闇色を挟んでから虫の声が聞こえる静かな夜の空気に入れ替わる。

毛布の中の薄闇で辟易としていると、そっと顔を覆っていた部分が剥がされた。


「………前言撤回します。嫌いになりました」

「ごめん。ムルはね、あの辺りの妖精達の兄貴分なんだ。巻き込まれて怖かったよね?」

「と言うより、最後にやけくそになったムルさんの投げたであろう、恐らくは石鹸的な固形物が頭に当りました。ムルさんも合わせて許しません」

「どこ?!見せて!」


ノアは慌てて患部を確認してくれ、たんこぶにはなっていないものの、ズキズキと痛みを主張しているネアの後頭部に手をあててくれた。

すっと痛みが引き、まず最初の不快感は消え去る。


「結界は本分なんだけれど、僕の不手際だ。守ってあげられなくてごめんね」

「思えば私は、とばっちりで不幸に遭い、諸々とむしゃくしゃしているところでした。この最後の石鹸で、沸点を超えそうな気がしています」


周囲を見回せば見事な森の中だった。

雨上がりの清浄な夜の空気に、やや夜明けを連想させる淡い光の筋。


「ネイ、落ち着いて。………あ……」

「え………」


ぞっとしたようなノアの声とほとんど同時に、ネアは振り返った。

森の奥へと続く暗い道をバックにして、ずいぶん大きな馬のような生き物が浮かんでいた。

きらきらと宝石のかけらのような鱗があり、金色の瞳が神秘的である。

空中で鬣をなびかせ淡く光るその姿に一瞬見惚れかけてから、ネアは明らかに動揺しているノアの横顔に気付いてしまう。


「ノアさん………?」

「ごめん、もう一度逃げようか」

「………さては、この方にも何かしましたね」



こうして、逃亡劇が始まった。



次回でノアベルト篇は終わりです。

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