ホイップバターとカイエンバター
「これが、ホイップバターですか?」
ネアは朝食のテーブルに並んだバターの種類の多さに、目をぱちくりさせた。
細長いお皿の上に、七種類ものバターが並んでおり、ネアのお皿だけ明らかにホイップバターが大盛りになっている。
(生クリームを絞ったみたい)
フレッシュバターだからこそ出来るらしく、元の世界でも高級ホテルなどの朝食でしか見かけないものだ。
そっとすくってパンにつけてみれば、あまりの美味しさに頬が緩んだ。
「柑橘系の香りがして、塩味とホイップの軽やかさの組み合わせが抜群です!」
「ネアはこっちの、香辛料のも好きだよ」
食卓の水先案内人に任せろと言わんばかりに、ゼノーシュがバター紹介に入ってくれる。
一通り全て試してみようと、ネアはその赤い粒々が見えるバターにも手を出した。
「カイエンペッパーと大蒜でしょうか。これもとっても美味しいです!こちらは?」
「岩塩バターと、これは冬だけの蜂蜜バター、今日のバターはオレガノとリンシャーの花、この花は林檎みたいな味だよ!」
「どうしましょう。バターとパンだけで永久運動になりそうです」
記憶喪失など遥か彼方に吹き飛び、ネアは素晴らしい朝食に邁進した。
こだわりのハムやチーズも美味しく、軽い前菜の盛り合わせのようなものにスープ、後はこのパン周りのものだけで心が満たされてしまう。
(種類をこれだけ万全にして、変に重たい料理を出さないのが素敵!)
スープも小さな器で出されているが、グヤーシュというメイン料理にも出来るものだ。
たくさん食べる者はこのスープを大皿にしたりして、幾らでも好きなように食卓をカスタム出来る。
前菜の量を見ていても、一口ずつ楽しめるネアのお皿と、それぞれしっかり食べるゼノーシュでは盛られている量が違う。
メニューを考案した者は、多様な要求に応えることに慣れており、とても有能なのだろう。
(グラストさんはスープ大盛りで、前菜もそこそこ。エーダリア様は、私とほぼ同じ配分で、ジャムが寄せてある。ヒルドさんは、前菜はしっかり、スープとバターはなし)
ネアの記憶喪失を受けて、普段はそれぞれの時間で食べている者も揃っていた。
いつもは、エーダリアとゼノーシュ、そしてネアと一緒に行動しているディノが食卓を共にしているのだそうだ。
仲良し度の差かと思ったが、ヒルドとグラストが食事の時間を変えているのは、単に業務の都合で時間を変えているからのようだ。
領主でもあるエーダリアだが、ネアと同じ時間に朝食としているのは、彼が夜型であまり早い時間の朝食だと、胃に負担がかかるからだとか。
王都は太陽の系譜の者が多く、そちらで暮らしているときは、毎日の朝食が苦行だったと聞いた。
「それこそ、日が昇るのと同時に、朝食の準備に入るからな。通常の朝食時間は、六時半だぞ?メニューも、朝から肉だの何だの、重たいものばかりで……」
「それは辛いですね。楽しみではなく、鍛錬になってしまいます」
「ガレンはそもそも雑多な集まり過ぎて、朝食の時間は自由だが、その代わり夜通し異音に悩まされることも多い。王都の狸達に、食事の誘いを受けることもあって、さして楽にはならなかった」
人間には、それぞれの体内時間に見合ったリズムがある。
あまりに自堕落なのは困りものだが、ある程度バランスを取りたいと思うのは仕方ない。
げっそりとした表情に、切実な悩みだったのだとよくわかった。
「では、こちらではゆっくりとお食事出来ますね」
「ああ。お前が来て何よりも感謝しているのが、私がリーエンベルクを拠点に出来たことだ。お陰で、時間の配分ばかりは自分の意思で行えるようになった」
「私が来てから、こちらになったのですか?」
「それまでは、ガレンと行ったり来たりだったからな。こちらにはダリルが居るし、どちらかといえば、ガレンに滞在する時間の方が多かった」
「しかしそれでは、ガレンの方々から不満が出たりしませんか?」
ネアは少し心配になったが、エーダリアは片手を振って苦笑した。
「いや、彼等は生粋の魔術師だ。自分の環境さえ整っていれば、文句などない。おまけに私がここに来てから、珍しいものや道具をよく持ち込むようになったからな、塔での評判は寧ろ上がるばかりだ」
「つまり、快適な住処に、煩い親は外出が多くなってくれて、愉快な玩具をたくさん与えてくれる。魔術師達にとっては、黄金時代ですね」
「……ヒルド、私は煩い親か」
「付き合い難い同僚に変えましょうか?」
「………どちらでも構わない」
そして、見ていると階位に関わらない真の序列も見えてくる。
グラストと食べ物以外に関しては我関せずのゼノーシュを除けば、この青緑の羽の妖精がリーエンベルクの最高権力者だ。
(ディノは、特にリーエンベルクのことには口出ししないみたい?)
この魔物は、どうやらネアが構ってあげてさえいれば、リーエンベルクでの扱いは気にならないようだ。
リーエンベルクの側でも、敬い過ぎることもなく、利用もせず、とても秀逸な関係性を築いている。
「ネア、海老……」
「くれなくても大丈夫ですよ。バターではしゃいで、パンを食べ過ぎてしまいました」
「ご主人様…………」
どうやらこの魔物とネアは、食卓での物々交換を常としていたらしい。
ネアが好きなものを差し出そうとする魔物と、最初からちょっと揉めた。
(食卓で誰かと食べ物のやり取りをするの、好きじゃないのにな……)
しかし、しょんぼりした魔物の覇気がなくなってしまったので、最終的には海老を貰う代わりに、比較的どうでもいいポテトを押し付けた。
非常に面倒臭いので、それだけで磨耗してしまう。
記憶喪失中に、手のかかる大型犬の育児までしている気分だ。
(………一人上手の私が、どうしてこんなことまでしていたのかしら)
そう考えて、ネアは首を傾げた。
きらきらと、硝子や水晶のオーナメントが窓辺で揺れる。
その楽しさに頬を緩めながら、ネアは恒例の行事に取り掛かった。
彩りが楽しい酢漬け野菜の中から、お気に入りのセロリとパプリカだけを残し、残りをディノのお皿に移設してやる。
ディノは、これが大好物なのだ。
特にトマトが好きなようなので、忘れず移し替えてやる。
それが終わる頃に、ディノはネアの好きな海老だったり、山羊のチーズや、ゼリー寄せ、或いはフォアグラのパテのかけらなどから、どれかをこちらにくれる。
料理妖精も心得たもので、この行為が毎朝のことだからといって、ネアのお皿から酢漬け野菜を排除したりはしない。
分け合う行為が、愛情表現のツールだと理解してくれているのだ。
これは多分、親しい人のグラスに飲み物を入れてあげるような、そんな日常のものに落とし込まれた親愛の作業なのだ。
ネアが受け取ったものを喜ぶと、ディノは頬を染めて嬉しそうに微笑む。
自分が選んだものをご主人様が喜んだということに、謎の達成感を覚えるようだ。
逆に、そんないらないものだとネアの表情が微妙になるので、魔物はしょんぼりする。
そういう時は、ディノのバター皿から少しだけ適当なバターを削り取って、ネアが貰うことにしていた。
何でもいいので分け合えば、ひとまず落ち着くのだ。
何かを共有したということが楽しいのであれば、可愛らしいものだ。
こういう作業に慣れていない大事な魔物が、こうやって無防備に幸せになってくれるのなら。
その表情を見ているだけで、ネアも幸せな気持ちになる。
(可愛いやつめ!)
甘やかし過ぎるのもいけないので、ご褒美の範疇のものを削減するにあたり、こうした日常の親愛の表現は大切なものだった。
「ネア、今日は何をするんだい?」
そう尋ねたディノの虹色の髪に、オーナメントの光が煌めく。
あらためてここにあるものが大切だと思えたとき、心の深くで動いた寄り添いたいという欲を覚えている。
愛情を言葉で伝えたり、触れたいと思ったり。
(まぁ、ディノ的にはそちらの方面は馴染まないみたいだから今後はやめておくとして……)
さすが変態と言うべきかな、月並みな愛情表現では寧ろ困惑してしまうのだろう。
やはり普通の関係性では深められないのだとがっかりしたが、それでもこれはネアの一番の宝物だ。
だからせめて、こうやって当たり前の日々のやり取りを慈しんでゆこう。
魔物の髪に結んでやったラベンダー色のリボンは、今日も完璧なリボン結びだ。
そこに込められたちょっぴりの二人の歴史に、ネアは心の奥が暖かくなった。
しかし、ぽいっと膝の上に投げ込まれた三つ編みに、ネアは遠い目になった。
数日空いてしまって禁断症状気味だとしても、食事中はやめて欲しい。