64. ご主人様も荒ぶります(本編)
その時、扉の外でカタンという音がした。
ディノのいない部屋でその音に気付いたネアは、慌てて室内履きを脱ぎ捨てて、部屋を見回す。
都合よく寝室には、純白の毛皮のケープがかけられており、それを羽織ると窓際に置いてあった白いブーツを履いて扉のところまで走ってゆく。
しかし、部屋の扉を開けるまでに一瞬躊躇した。
魔物の言う、“後から”というタイミングは、どれくらいの時差を挟むのだろう。
着替えなどで体感十分くらいは経っているが、謎の物音に我慢も限界である。
(もう、大丈夫だとは思うけれど……)
エーダリアからもディノからも、このリーエンベルクの守りは鉄壁だと聞いている。
今回の雪食い鳥の訪れも、何やら散々密談している気配があったし、故意に受け入れた節があった。
であれば、この部屋の扉を開けることで特に危険が迫るとも思えない。
(…………えいっ!)
両手で押せば、カチリと扉が開いた。
「…………え?」
目の前は一面のラベンダー畑だ。
そこをざあっと渡る風の中で、記憶の中の誰かにそっくりな人が振り返る。
「ネアちゃん!」
次の瞬間、ネアはダリルの声で現実に引き戻された。
パチパチと瞬きをしてから、肩を掴んで焦ったような目をしている書架妖精を見上げる。
「………今は、いつですか?」
「ネアちゃんが、部屋の扉を開けた瞬間だよ。うん、その瞬間の筈!と言うか、そうだと言って!!」
いつになく必死のダリルに、がくがくと揺さぶられて、ネアはふうっと深い息をつく。
「………ええ、扉を開けたところです」
「良かった!……って、何で手にナイフ持ってるの?!」
「たった今、人を殺そうとしていました」
「ええ?!」
「殺しておいた方が、確実に世の為だったのでとても残念です。……それはさて置き、何かあったのですか?」
「待って、ネアちゃん。今の話を詳しく!」
「話し出すと殺人衝動に駆られてしまうので、どうぞ忘れさせて下さい。私は、たった今、部屋の扉を開けたところです。人生最悪の一日を挟んでなどいません」
「………うわぁ。ごめん」
聞けば、ダリルがこの部屋の前で展開していたのはとても特殊な迷路だったのだそうだ。
しかし、寝入り端に叩き起こされてその任に当てられたので、つい物音を立てる不始末をしでかしたらしい。
「そうでなければ、物音ひとつ立てずにやりたい放題だからね」
「その宣言もどうかと思いますが、何となく事情はわかりました」
鮮やかな真紅のドレス姿のダリルの青い目が、ネアにぴたりと据えられた。
些細な損傷も見逃さないように、じっくりと観察されるので少しだけ居心地が悪い。
「それで扉が開く音がしてびっくりしちゃったわけ。咄嗟に隅っこを捕まえられたから良かったけど、ほんと、無事で良かったよ」
ネアは、少し前まで気になっていた単語が再登場したので、こてんと首を傾げた。
「その隅っことはどんなものなのでしょう?向こうで会った方にも、隅が繋がってるからすぐに帰れると言われたのですが」
その途端、ダリルが如実に嫌そうな顔で呻いた。
「……嫌だなぁ、それがわかるってかなり高位じゃん。………隅ってのは、魂や存在そのもののことだよ」
「成る程、そのお陰で帰ってこれたのですね」
「ディノの指輪があるから、完全に迷い込んじゃった方が、寧ろすぐに回収出来たかもね。それに、身体的な危険には巻き込まれなかったでしょ?だから、他の守護も動かなかったんだと思うよ」
「……確かに、危ない目には遭いませんでした」
思わずふっと苦く微笑んでしまうのは、この一日で少し心が燻んだからだろう。
大人の魅力が加算されたと思えば、安い冒険だったのかもしれない。
(しかし、今度会うことがあったら……)
「じゃあさ、何があったの?」
「この世の、最底辺の生き物に出会いました。それだけです」
「………うん。もう聞かないようにしよっと」
早々にダリルが諦めてくれたので、ネアは質問に切り替えた。
「で、何があったのですか?ディノが、ここに鳥さんを迎え入れるような発言をしていたのですが……」
「ネアちゃんに試練を与えた、例の雪食い鳥が襲来したんだよ。あ、ディノが捕まえているから安心していいよ。やっぱり、自分で捕まえたかったみたいだね。その代わりに、ここを任されたんだけどねぇ……」
「………ダリルさん、雪食い鳥さんはどこでしょう?」
「………ネアちゃん、殺すのは駄目だよ。雪食い鳥は、用心して殺さないと呪いを撒き散らすからね」
「そう言えば、正攻法で試練を克服すると、雪食い鳥さんは死んでしまうのですよね?」
「ああ、それは一般的にそういうことになるってだけ。試練に負けた雪食い鳥は、相手からの報復を受けなければいけないのも、魔術の規則だからね。……って、殺す気だったの?!」
「殺すものですか。それでは報復……教育的指導になりません」
「うん、報復だね。って言うか、目が怖すぎる」
行こうか、とダリルに連れて行かれたのは、リーエンベルクの本棟と離宮の重なり合う部分の中央、見事な噴水のある、最も大きな広場だ。
魔術の要素の一つである雪は、完全に掻いてしまわずに歩くところだけ道をつけてある。
なので、雪食い鳥がいるのは、しっかりと雪が積もった一角であった。
「………ネア、」
雪の上に座り込んだ少女の前に立った魔物が、ゆっくりと振り返る。
ふわりと揺れた長い髪の美しさに、思わず息を飲んだ。
やはりこれは、格別に美しい生き物だ。
「ディノ、雪食い鳥さんを捕まえたのですか?」
「そう。愚かにもここに降りてきたからね」
「……いや、捕まえたって表現で済むのか?あれが?叩き落としたんだろ」
呆れ顔でそう首を振ったのがアルテアで、その隣にいたエーダリアがつい頷いてしまう。
椅子まで出してきて完全に観劇のスタイルでいるアルテアに、ネアは胡乱げな顔でそちらを見た。
「大丈夫だよ、ネア。きちんと元通りにしてあるから」
「………元通り」
「雪食い鳥は頑丈ですからね」
「………ヒルド、その台詞はやめろ」
雪の上でぐったりとしているのは、淡い金髪の美しい少女である。
両手でなんとか上半身を起こしているが、肩を震わせて荒い息をしており、ひどく不穏な光景だ。
昼間のラファエルを思わせる体勢に、ふと兄妹の運命というものも似るのだろうかと感心しながら、一体魔物に何をされたのだろうと、ネアはぞっとする。
特に、隣で朗らかに微笑んでいる妖精がものすごく怖い。
「ダリルさん、例のものはありますか?」
「本当にこっちでいいの?もっと過激なものもあるよ?」
「女子にはこれですね!と言うか、二倍なのでまずはこちらで充分です」
さくさくと雪を踏み近付いてゆくネアに、雪食い鳥は美しい銀貨の瞳を険しくした。
「………あの方をどうしたの?」
軋るような声に、ネアは目を瞠る。
「ラッカムさんですか?」
「ここにいる魔物に引き続き、信奉者として侍らせるつもり?」
「私は、同性の方を侍らせる趣味はありません。ラッカムさんなら、ラファエルさんのお嫁さんとして、近い内に再会出来るのではないでしょうか」
その答えに、アンナは大きな目を割れんばかりに見開いた。
「……お兄様の、嫁?」
「はい。ラッカムさんは、実は女性の方なんですよ。とても綺麗な方です」
「…………女性?」
「ええ。ラファエルさんの試練を切り抜けた報酬に、ラッカムさんはお嫁さんになることを望んだのだそうです。可愛らしいお願いですよね。アンナさんも、是非仲良くしてあげて下さいね」
この場合、ラファエルの目が死んでいたという報告は、都合よく忘却させて貰おう。
ラッカムはさすが一国の王であっただけあり、交渉に長けているのは相変わらずのようだ。
その現場をネア自身が見た訳ではないのだが、いくらリーエンベルク側の後押しがあったとは言え、あまりにも鮮やかな嫁ぎっぷりに、エーダリアは小刻みに震えながら事の顛末を報告してくれた。
ぐいぐいと雪食い鳥の王を言いくるめ、抜け殻のようになったラファエルを肩に担ぎ上げて旅立って行ったのだとか。
その現場を話す男性陣は、みな一様にぐったりとしていた気がする。
(美人で強くて交渉上手とか、ラファエルさんは恐妻家になるのかしら……)
「………え?………ラッカム様が、女性?!」
激しく動揺しているアンナに向けて歩を進め、雪食い鳥の試練に纏わる魔術の理とやらを、どうにかしてくれるというアルテアに手で制されるところまで近寄った。
体勢を崩しているアンナに合わせて体を屈めることはせず、ネアは艶やかに微笑む。
どうしてなのか、青ざめたエーダリアが一歩後退した。
「アンナさん、あなたが出した試練としての問いかけの答えが出ました」
「ネア、答えなくてもいいよ?」
「答えるとまずいのでしょうか?」
「いや、アルテアが魔術の矯正を敷いているから問題ないけれど……」
少しだけ歯切れ悪く、ディノが視線を彷徨わせる。
その答えを知ってしまうのも複雑なのかもしれないが、ここは気付かないふりをして、ネアはアンナに向き合った。
そのネアの表情を見て、ディノがふと訝しげに目を細めるのがわかった。
「………答えが見付かったの?」
「はい。私の答えは簡単です。私の一番大切なもの、それは私自身なのですから」
「え………」
思わずそう漏らしたのは、ディノだろうか。
アンナも訝しげな顔になり、眉を顰める。
「だって、それだけの守護に守られておいて?魔物の指輪に、シーの庇護、王宮での暮らし。人間が溺れるには充分なものばかりだわ」
「人間というものを随分と買い被りましたね!人間はとても傲慢な生き物です。例え何かを愛そうと、贅沢さを享受しようと、それを心から自分自身より優先させるなど、無理な相談なのですよ」
「……傲慢?」
「はい。贅沢も愛も、自分が喜ばしいからこそ幸運の範疇となるもの。望まない愛や贅沢など、地べたの砂粒よりも無価値なものです」
「ネア、ちょっと待って。どうしてそこに、そんなに感情が篭ってるんだろう?」
「ディノ、これでも私は世慣れた大人の女性です。価値観が固まっていて、何の不思議があるでしょう」
「おい待て、よく見れば、何でこの短時間で百倍増しくらいで表情が荒んでるんだ?」
暗く微笑んだネアに、アルテアも顔色を悪くする。
慌てたディノがネアを持ち上げようとしたので、ネアはしっかりと叱りつけた。
「ディノ、ご主人様には為すべき使命があります。終わるまで大人しく待っていて下さいね」
「………ネア、もしかして、記憶が戻ったのかい?」
「はい。なので、この試練は私の勝ちですね。なので、心置きなく報復……教育的指導に移れます」
柔らかな微笑みを向けたネアに向き直られ、アンナはびくりと肩を揺らす。
だがすぐに、優美な眉を持ち上げて勝気な微笑みをこちらに向けた。
「ふん、拷問でもするつもり?今更人間に与えられる痛みなんて、翼にブラシをあてるようなものね」
(今更ということは、やはり何かされたのでは……)
その可能性に、人間らしくあらためてぞっとしたが、ネアは首を振って忘れることに努めた。
「もう既にくたくたのご様子ですが、一応当事者は私ですし、私は善良な人間ではありません。寧ろ、情け容赦ない属性です。お覚悟下さいね」
きゅぽん、といい音がする。
ダリルから貰った薬液の蓋を開け、ネアは躊躇うことなくアンナに振りかけた。
「ちょっ?!毒なんて子供染みたもの、……えっ?!……えっ、ちょっ?………ちょっと待って!!何これ、何なのよおっ?!」
見る間に効果を上げた薬による劇的な変化に、ネアは目を丸くする。
「………思っていたのと違う効果でびっくりです」
「うわぁ、雪食い鳥に使うとこうなっちゃうんだ」
ネアとダリルは思わず顔を見合わせてしまう。
ぼふんぼふんと膨らんでゆくのは、先ほどまでは美しい少女が座り込んでいた位置にある、羽毛の塊だ。
ポップコーンのように膨らんでゆき、見事にまん丸になってから成長を止めた。
「何だか、白くて太っちょの鳥さんみたいになりましたね」
「ネア、もしかして毛深くなる薬をかけたのかい?」
「はい。まさか、人型を失って、ここまで鳥さんそのものになってしまうとは思いませんでした」
「なぁ、それにしても丸過ぎないか?」
「これはこれは、雪食い鳥の根本は、鳥そのものだと、思いがけないところから証明されましたね」
「くっ、ガレンの記録師がいれば、良い論文が書けたのに!」
思い思いの感想を聞きつつ、ネアは第二剤をダリルから受け取り、容赦なくさっと振りかける。
今度はとろりとした液体なので、羽の隙間に染みて冷たかったのか、アンナはぴっと飛び上がった。
「な、何をかけたのよ?!」
「あら、嘴でも綺麗に喋れるのですね!不思議です」
「うるさい!今度は何をかけたの?!」
「秋になると、翼にとても気持ちの悪いキノコが生えてくる薬です。一種の呪いだそうなので、決して駆除することは出来ません」
「………え?」
「少し可哀想かなとも思ったのですが、あなたは私を食べる気満々でしたし、命の対価として相応しい報復は、このくらい重くても良いでしょう」
「……き、キノコが生えてくるの?」
「はい。オレンジ色のべたべたしたやつです。食べると笑いが止まらなくなるので、泣きたい日には是非食べてみて下さいね」
「べたべたしたキノコ……」
ふくふくの鳥は、力なく雪の上に倒れた。
あまりにも良い羽毛でふわふわなので、キノコの呪いがあるとわかっていても、つい抱き締めたくなってしまう姿である。
サイズはさして変わらず、十歳くらいの少女の大きさなのでそれなりに大きい。
まるで着ぐるみのようだ。
抱きつきたい欲求を抑えるべく目を逸らせば、その先で目が合ったアルテアが小さく息を飲んだ。
「お前、俺にはぜったいそれをかけるなよ?」
「む。私より、その薬の所有者である、ダリルさんに言っておくべきでしょう」
「何?アルテアも試してみたいの?」
「ふざけるな!」
実は、今回アンナにかけた薬には、どちらも解毒剤がある。
それはディノに頼んで作って貰ったもので、ヒルドに頼んで、ラファエルにこっそり渡しておいて貰った。
アンナが充分に懲りた頃に飲ませてあげるようにと伝言したのだが、ラファエルは翼に生えるキノコに興味津々だったそうで、解毒は少なくとも次の秋以降になるだろう。
「エーダリア様」
「な、何だ?」
ネアとダリルを見比べてはどんどん顔色を悪くしていっていたエーダリアは、呼びかけた途端小さく跳ねた。
「この度は、私の不始末でご迷惑をおかけしました。年末のお忙しい時に、お手間をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「いや、ハヴランの迷い子の事件が早々に解決したのは、お前の魔物の尽力も大きいからな。謝る必要はない」
「ハヴランの実働部隊は俺なんだがな」
「アルテアは自業自得だからね」
「そうでした!アルテアさんの意地悪から、今回のことは始まったのでした……」
「おい、ダリルの方を見るな!」
本気でアルテアが慌てたので、ネアは小さく笑い声を上げた。
「ふふ。別にそこまで怒ってはいませんよ」
「………え?」
老獪な瞳を珍しく無防備に瞠って、アルテアが驚いたように声を上げる。
「良くも悪くも、それがアルテアさんの個性です。あの時は、ウィリアムさんがしっかり躾けて下さったそうなので、私はもう特に怒ってません。怒っていたら、あのキノコの呪いはアルテアさんに使いました」
「やめろ……」
「それに私は、この世の最底辺を知ったので、これからはアルテアさんの意地悪程度では動じない所存です」
「ネア、何があったんだい?」
ディノに肩を掴んで振り向かされ、ネアは仮面のように整った微笑みを浮かべる。
あまりにも表情の作り方が整い過ぎており、魔物は一度言葉を失った。
「そして、私はちょっぴりディノに怒っています」
「え…………」
「雪食い鳥さんの試練は完全にアルテアさんからのとばっちりですが、私が今夜酷い目にあったのはディノの所為です」
「ネア……?」
「ディノ、今夜は雪食い鳥さんを懲らしめることで、頭がいっぱいだったでしょう?」
「……………ご主人様」
はっとしたように悲しげに目を瞠ってから、ディノはわかりやすく視線を彷徨わせた。
「記憶上、ディノと出会って二日目の状態だった私は、この魔物めは私が邪魔なのだろうかと、かなりもやもやしました」
ネアが腰に手を当てたまま冷やかにそう言ってやった途端、魔物はキノコの呪いの薬をかけられた時のアンナ以上に、ぴゃっと飛び上がった。
無駄に高位の魔物らしいスキルを駆使して、風のように飛び込んできて、渋い顔をしているご主人様を、ぎゅうぎゅうと抱き締める。
本気で指先が震えているのは、以前ネアが言質を取っているからだ。
「以前に言いましたよね?ディノが私を不必要になったり、あまり大事にしなくなったら、私はあなたから手を引きます。私は望まれないものと寄り添う程、自虐的ではありません、と」
「ネア、ごめん。いらなくなったりしないし、ずっと大事にする」
すっかり萎れてしまった生き物が、肩口に顔を埋めてへばりついている。
博物館で見上げたディノの途方に暮れた瞳を思い出し、ネアは厳しい表情を少し緩めた。
ふるふるしている魔物の頭を、そっと撫でてやると、恐る恐る顔を上げて覗き込まれた。
「今回は、記憶を失って私が先に怖い思いをさせましたので引き分けですが、自分自身で保険をかけておかなければ、失踪する可能性もありました。ディノの方が年上なのですから、次回以降は注意して下さいね?」
「約束するよ!」
「でも、とても悲しい思いもしたので、その慰謝料として、塩の魔物さんが、今後一切私に近付かないように手配して下さいね」
「………え、ネア、……………どこでノアベルトに会ったんだい?」
「しかしながら、食品としての塩は溺愛しています。食塩の恩恵を失わないよう、かつご本人とは会わずに済むように生きていきたいです!」
「ご主人様、どこで………」
何かを察したディノが視線を向けると、ダリルはさっと顔を背けた。
さっそく酷薄になりかけた魔物の額を、ネアは指先でばしりと叩く。
「そういうところです!今は、ご主人様の心のケアをして下さい」
「わかった!」
「お返事が足りていません」
「ノアベルトは、ネアに近付けさせないから安心していいよ」
「甘党より辛党の私にとって、塩分は日々の食卓の潤いです。決して、塩の魔物さん自身は損なわないように用心して下さいね」
「………わかった」
適切な魔物の躾が終わり、清々しい思いで顔を上げると、雪の上で潰れたお餅のようになっていたアンナが、目を丸くしてこちらを見ていた。
しかし、目が合ったのを誤魔化すように、ささっと雪に顔を埋めてしまう。
完全なる餅化にネアは心が震えた。
「ディノ、アンナさんはどうしましょうか?このふくふくの鳥っぷりを見ていると、何だかお腹が空きますね」
「ぴっ?!」
「美味しいチキンソテーが食べたい気分に………アンナさん?」
いつの間にかアンナは、アルテアとエーダリアの影に逃げ込み、隠れて震えている。
羽毛たっぷり過ぎて完全には隠れられていないが、はち切れんばかりの鳥のお尻が見えているのが、余計に可愛らしい。
「ネア、報復ならもう充分だろう」
「エーダリア様?単純に、アンナさんの丸い輪郭を見ていると、美味しい鶏料理が食べたくなりますねという話ですよ?」
「いいですね。ネア様は、どんな鶏料理がお好きですか?」
「割とまんべんなく好きですが、その輪郭を見ていると、唐揚げな気分にもなります。ヒルドさんはお好きですか?」
「から揚げ?」
「鶏肉に下味をつけて、粉をまぶして揚げるのです。とても美味しいですよ」
そう言えば、唐揚げはまだ見かけないなと思って食べたさに声が弾んだネアに、アルテアとエーダリアの影に隠れたアンナは、何をそこまでというくらいに羽をけばだたせて垂直に飛び上がる。
そのまま数回雪の上でじたばたと暴れてから、翼を広げて驚くべき速さで飛び去っていった。
「あ、逃げましたね………」
「あそこまで怯えられると、逃がしてやろうという気になるな……」
「エーダリア様、雪食い鳥さんは、やはり唐揚げの話題は、共食いのようで嫌なのでしょうか?」
「というより、ネアが自分を食べようとしていると思ったんだろうね」
「…………ディノ、いくら私でも、さすがにアンナさんは食べませんよ?元はと言えば、通り魔とは言え、可愛らしいお嬢さんです」
「いや、あの流れだとまずそう思うよな」
「それは、アルテアさんの心が捻くれているからでは?」
ふと空を見上げると、止んでいた雪がまた降り始めていた。
深夜をどれだけ回っているかはわからないが、朝食までまだ少し眠れるだろうか。
へばりついたままの魔物を一度引っぺがすと、ディノはすかさずご主人様を抱き上げた。
「ネア、疲れただろう?部屋に帰ろうか」
こちらを見た魔物の微笑みには、どこか安堵の喜びが滲む。
美しく無防備なその微笑みをたっぷりと堪能して、ネアは、記憶喪失の自分が、ここにあるものを安易に投げ捨てずに良かったと心の底から思った。
踏みとどまったのは、自分がここを大事にしているのだと知ることが出来たからに過ぎない。
(けれども、ここにあるものを、ただ手に負えないと感じていた私が、これだけみんなを大切に思うようになったんだわ)
なくなった記憶を取り戻してみて、ネアが実感したのはそのことだった。
自身の気持ちの変化が如実にわかり、何とも目の覚める思いである。
ふつりと込み上げてきた幸福感に、ネアは魔物の頭に額を押し付けた。
素っ気ない態度にハラハラさせられた分、甘えてみたのである。
「ネア、具合が悪いのかい?」
しかし、魔物はよりにもよってそんな最悪の驚き方をした。
「そう言えば、ディノに、愛情表現をするだけ損をするのだと思い出しました」
「ご主人様?!」
その後、魔物はしょんぼりし通しであったが、ザハのカフェでの一幕も思い出したネアのご機嫌が直ることはなかった。
記憶を無くしていた時のダリルの言葉を思い出す。
譲歩しているのは、魔物だけではない筈なのだ。