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63. お別れと訪れで忙しい日になりました(本編)

アルテアが居るという特別隔離区画に向けて歩いていると、窓際に硝子のような素材のキラキラ光るオーナメントを飾り付けている家事妖精を何度か見た。

昨晩かなり気温が下がって雪の表面がざらりと固くなったので、その粉砂糖のような雪面の煌めきを反射してオーナメントはあちこちできらきらと揺れる。


それを目で追いながら歩いていると、反対側の廊下からやってきたヒルドが、ふわりと微笑んだ。


「それは、太陽の祝祭の飾りつけですよ。硝子を始め、陽光を集める結晶石で作られています」

「そうか。ネアは忘れてしまっていたんだよね」

「太陽の祝祭は何をするんですか?」

「太陽の眷属の力が強まるので、様々な民間信仰の催しがありますよ。リーエンベルクでは、こうして太陽の祝祭用の飾りつけをするぐらいでしょうか。太陽は王都の本領域ですので、エーダリア様の系譜でもありませんしね」

「その、王都に出向かれる必要はないのですか?」


ネアの質問にヒルドは含みのある微笑みを深めた。

微かに鋭利さが混ざり、決して穏やかなだけの話題ではないのだと窺い知れる。


「現国王と第一王子が太陽の属性を持っています。王位継承権を捨てたエーダリア様がその祝祭の儀に顔を出すと、色々な憶測を呼びますからね。ガレンの代表として祝辞を送るに留め、儀式の代理出席者はガレンの魔術師の誰かが。ある意味、あの方が穏やかに過ごせる、数少ない祝祭の一つです」


そう知ってしまえば、そんな息を吐ける時期に大変申し訳ないというような気持ちでいっぱいになる。

けれどもその心の動きまでも読んだかのように、ヒルドは首を振って、この時期だから良かったのだと言ってくれた。


「そもそも今回は、統括の魔物の失策による騒動から始まった、雪食い鳥に関わる案件です。中央にもその旨を抜粋した情報で下していますので、今回の案件は、エーダリア様に一任されていますから」

「ガレンエーベルハント、ではなくて個人にですか?」

「ええ。元より北の王族とウィームは、魔物や妖精等の統括を任されることが多い土地ですからね。特に利権の絡まない案件は、こうして一任されることも多い。第一王子が国政に関わるようになってからは、更に顕著に線引きがされています」


きっちりと羽を畳んだ美しい妖精は、重ねて、第一王子が有能かつ現実的な思考の持ち主だからだと教えてくれる。

感情論や派閥に囚われず、最適な対処方法を自身で決定出来る人なのだそうだ。


「その方が王様になる頃には、随分と行政も透明化されるのでしょうね」

「さて。決定権があり有能だということが、足枷になることもあります。私としては、今くらいの立ち位置の方が、あの方が暗躍しやすいのではと思っていますが」


(第一王子なのに暗躍でいいのだろうか………)



特別隔離区画は、リーエンベルクの中に何か所かあるらしい。

外部からの浸食を防ぎ内部の施設を守る為の場所と、内部で行われていることを外部より隠匿する場所の二種類があり、今回使用されているのは後者の方だ。


記憶を失って改めてリーエンベルクの地図を見たときに、大広間が多いなと感じた由縁の一つが、ここの“夜の広間”であった。

すぐそばにある冬の広間と同規模であり、あえて並べる必要があったのだろうかと首を傾げた記憶がある。


(王宮内の導線の関係かとも思ったけれど、用途そのものが違ったんだわ)


であれば、来訪者を多く招き入れたであろう大広間の近くなのも頷けた。

有事の際の隔離施設は、近い方が何かとやり易かろう。



大きな観音開きの扉を開ければ、既に揃っていた者達が顔を上げた。


扉に近いところにグラストとゼノーシュがおり、その前に立つのがエーダリアだ。

部屋の中央には、漆黒の絨毯に美しい翼を広げてラファエルが打ち伏している。

その翼や手足をうまく潰さないように椅子を配置し、上から体の動きを封鎖するような形で、アルテアが椅子に座っていた。

ラファエルが暴れれば椅子ごとひっくり返されそうでもあるが、恐らくそうはならないように魔術的な拘束もかけているのだろう。


「よお、遅かったな」


気障っぽく片手を上げたアルテアを見て、ネアはふと違和感を覚える。

左目の色彩が弱いような気がしたのだが、見間違いだろうか。


「君が何かを損なうなんて、珍しいね」


しかしディノの言葉は、まさにそのことに触れているようだった。


「一応、王だったからな。命がけの防壁になった奴らが少なからずいて、若干手間取った」


(翼が…………)


美しかった大きな翼が一対欠けていることに気付いて、ネアは思わず両手を固く組み合わせる。

美しいものが無残に損なわれるとき、そちらを選ばなかったとしてもやはり心は冷えるのだろう。

ましてや、今ここでネアが覚えている人は、彼とアルテアしかいないのに。


ふと、目が合ったラファエルが微笑んだ。


「ネア、悲しい?僕の翼ならまた生えてくるから、気にしなくていいよ」

「どうして当事者のラファエルさんが、そんな余裕のご様子なのでしょう?」


床に伏したまま話しかけてきたラファエルは、頬杖をつくようにして小さく溜息を吐いている。

高位の生き物としての老獪さに、遊び疲れた青年のような無防備さが重なって、とても奇妙な光景だった。


「まぁ、戦いで翼を損なうことはあるからね。それに、僕達はとても頑丈だし」

「…………痛くはありませんか?」

「痛みはあるけれど、子供の頃はよく飛ぶのに失敗して、断崖なんかで翼を捥がれたな」

「どうか、もう少し穏やかな飛行訓練をして下さい」


その言葉に、ラファエルは薔薇色の唇の端に微かな微笑みを浮かべる。

もしかしたら、安心させようとしてくれたのかも知れない。


「さてと、………ハヴランの迷い子はどうしたの?試練の主として、ここに彼がいるのはわかるんだよ」

「……彼、ではなく、彼女だな。お前が試練を与えたのは、男ではなく女だ」

「…………君、何を言ってるの?」


慎重に話し始めたエーダリアに、ラファエルはわかりやすく顔をしかめた。

残された背中の大きな翼がざわりと波打ち、ただの鳥とは違う見たこともない翼の動きをする。


「あなたが試練を与えた領主は、妖精の取り替え子です。ハヴランに迷い子として呼び落とされた際に、男性として誤認識されてしまったことで、この世界自体が惑わされていましたが、この度、ハヴランの国境域の一部が死者の行列で壊滅したことにより、無事にその惑わせる術界が解けましてね」


澱みなく美しい声でヒルドが後を引き継ぎ、その説明を聞いたラファエルの瞳が、驚きに大きく見開かれた。

漆黒の絨毯の上で、銀色の髪と紫の瞳は鮮やかな程だ。


「加えて今回は、慕情による恩赦が適用されますので、あなたは彼女を解放しなければならないようですよ」

「………え」

「なお、慕情による恩赦ですので、あなたはそれに応える義務も生じますね」

「………うそ。嫌なんだけど」

「試練を与えたのはあなた自身です。己の行為に伴う対価を支払うしかないでしょう」


「ディノ、恩赦というのは何でしょう?」


言葉に詰まってしまったラファエルを見ながら、ネアは隣りに立つ魔物にそっと聞いてみる。


「魔術の理によって優位的に守られるものも、必ず一つはこうして突破口があるんだよ。それを魔術的恩赦と言うんだ。そして、今回は試練を恩赦によって躱されたわけだから、あの雪食い鳥は、魔術比べに負けた対価を支払う必要がある」

「そう考えれば、ラッカムさんはとても運のいい方なのですね」

「まぁ、ネアが気付いてあげたからだと思うよ」

「その理論で考えると、ラファエルさんは、私と出会ったのが運の尽きだったというような気がしてきました」

「アルテアが、新しいペンを作ろうとしたからではないかな」

「そうでした。良かった。心残りはありません」


ほっと息を吐いたネアに、アルテアの椅子の下から、ラファエルが恨めし気な視線を向けてくる。

残っている大きな翼の先端部分で、ぱすぱすと床を叩いているのが妙に可愛らしい。


「大丈夫ですよ、ラッカムさんは凛としていて綺麗で、初めての恋に殉じようとした健気で可愛らしい人です」

「………苦手な気質だ」

「時には、好みを乗り越えて誰かを好きになることもあるかも知れませんよ」

「ネア、僕はネアの使い魔なのに、守ってくれないの?」

「使い魔にした記憶はないのですが。自由に生きて下さいと、放鳥しましたよね?」

「………記憶喪失だって聞いていたのに」

「とても大事な人は忘れてしまったようです。お気に入りのチーズの出荷元である酪農家さんすら覚えていませんが、ラファエルさんとアルテアさんは覚えています」


がくりと絨毯に沈んだラファエルの上で、アルテアが合わせて渋面になる。


「おい、その詳細説明は必要なのか……?」

「物事の輪郭がはっきりした方が、ラファエルさんも諦めやすいかと思いまして」

「…………ネアは、僕のことが気に入っていたんだろう?」

「ラファエルさん、諦めない子ですね!あなたがお気に入りなのは確かでしたが、身内のような括りとは違うのではないでしょうか?」

「酪農家も家族なの………?」

「む。………そうなると、もっと緩い線引きにもかかわらず、線の外側だったということに」

「……おい、その問題を追及するのはやめろ」

「ラファエルさん、アルテアさんも道連れになってしまうので、もうこの話題はやめませんか?」


何となく身内にも被害者が出たので、エーダリア達は生温く外周で見守っていてくれたようだ。

アルテアとラファエルの双方ががくりと肩を落としたところで、ディノが一歩だけ前に出る。


「ラファエル、君の群れに、アンナという名前の少女がいるだろう?」


一度絨毯に突っ伏していたラファエルは、その声にのろのろと顔を上げた。

不貞腐れてしまっているのかと思ったが、先程まで飄々としている余裕があった筈なのに、今は真っ青な顔をしている。

ネアが不思議になって隣の魔物を見上げたが、特に剣呑な雰囲気ということもないのにだ。


「…………それはやっぱり、ネアに試練を与えたのはアンナなんだね。知っているよ。僕の妹だから」


違うといいなと思ってたんだと、ラファエルは悲しげに目を伏せる。


「妹さん!成程、だからこそアンナさんの矛先は、私に向かったのですね。お兄さんっ子でしたか」


ようやく憎しみを向けられた理由が腑に落ちてネアがそう頷けば、ラファエルはきっぱり首を振った。


「違うよ。上にいる魔物から聞いたけれど、アンナの思い人は僕じゃない。僕たちはまるで気の合わない兄妹だからね。アンナが恋をしているのは、僕が試練を与えたあの男だ。だからこそ、僕の目を盗んで勝手にハヴランから逃がしてやったり、君の居場所を教えてしまったりと悪さをしているんだよ」


「え…………、ラッカムさん。と言うか、ラッカムさんは女性なのでは……」

「……込み入ってきましたね」


呆然としてしまったネアに、ヒルドも若干嫌そうな顔になる。

どっちにしろアンナが満足する結末にはならないのだが、とは言え背景が複雑過ぎた。


(ええと、ラッカムさんは男性に見えていた実は女性で、ラファエルさんが好き。ラファエルさんはラッカムさんを男性だと思って苛めていて、女性でも好みのタイプではない。そして、ラファエルさんの妹のアンナさんは、男性のラッカムさんが好き………)


「これはいわば、泥沼と称されるものなのでは?」

「見事なくらいに泥沼だな……」

「エーダリア様、同性を好きになってしまった者同士、アンナさんと気が合うのでは?」

「なぜその問題を蒸し返した?!」

「ダリルさんの横顔を、頬を染めて見ていらしたのに?完全に恋するお顔でしたが……」

「ダ、ダリルの場合は、顔面が好みなだけだ!!断じてあの妖精に恋をしている訳ではない!寧ろ、あんな性悪妖精と並べられるぐらいであれば、私は隠居して旅に出るっ!!!」


思いがけず荒ぶってしまったエーダリアに、ネアは慌てて両手を上げて降参の印を見せた。

ここまで激しく反応するのだから、今までにあちこちで疑われてきたのかもしれない。


「ネア様、勘違いされるのも当然ですよ。何しろ、エーダリア様の初恋の相手は、ダリルですから」

「ヒ、ヒルド?!」

「そうなのですね。もしかしたらまだ、心のどこかに憧れが残っているのかもしれませんね」


(あれだけ美しい妖精さんであることは間違いないし)


目が覚めるような美女というカテゴリでは、最近ラッカムにも出会ったネアだが、やはり誰かの人生を狂わせるような魔性の美女度合では、俄然ダリルに軍配が上がる。

高位の魔物であるレイラもはっとする程の美女であるが、それぞれに美しさの質が違うのだ。


「私とて見惚れてしまうくらい美しい方ですから、仕方ないと思います」

「ネア、それはダリルが女性だという前提でなければおかしい内容だぞ?」

「………確かにそうでした」


このままでは迷路に入ってしまうので、ネアはそそくさと話題を変えることにした。


「アンナさんを、ラッカムさんに会わせてあげればいいのでは?」

「ネア、忘れているようだけれど、雪食い鳥の試練は、攻撃の一種だ。君は、彼女に傷付けられているんだよ?」

「そうでしたね、ごめんなさいディノ。話題に恋話が絡み過ぎて、よくわからなくなってきました」

「それに、君がアンナを殺さないのであれば、どちらにせよ会えるだろう」

「アンナさんを殺したりはしません。もっと相応しい仕返しがありますので」


ちょうどそのところでラファエルと目が合ってしまい、ネアは微かに眉を下げた。


「構わないよ。前にも言った通り、僕達は折り合いが悪いからね。殺せるものなら、僕がとっくに殺しているよ。アンナは悪食だし、狩り場を荒らして群れの不利益になってばかりだ」

「でもそうしなかったのでは?」

「出来なかったんだ。あの子は僕より、ずっと強いから」


その発言に、ラファエルの上にいたアルテアが微かに眉を顰める。


「お前が王なんじゃないのか?」

「純粋に力だけで言えば、アンナの方が潤沢だ。でも、王の器じゃなかった。僕たちは群れで生きるから、他の者達が納得しなかったんだ」


(でも、ラファエルさんの言い方はまるで、到底敵わないみたいな……)


その疑問を、アルテアも感じたようだ。


「まさか、純白か?」


(……純白?)


ネアは、初めて聞く言葉に首を傾げる。

白持ちの魔物は高位だと言うのならば、純白の雪食い鳥はどれだけ強いのだろうか。


「純白は冬眠中。滅多に起きないよ。アンナは末っ子で、羽先以外は真っ白だね」


「……充分、最高位に近い雪食い鳥ですね」

「末っ子ということは、全部兄妹なのか」


そう話しているヒルドとエーダリアを横目で一瞥し、ラファエルは大仰な溜息を吐いた。

何だかもう面倒臭くなってきたのか、寝そべったまま、組んだ腕の上に顎を乗せて居眠りでも始めそうだ。


「まぁそういう訳だから、アンナは好きにして。僕より強いから、捕まえる手助けは出来ないけれどね。あのラッカムとかいう迷い子も、何なら、アンナにあげてしまって構わないよ」


「そう言う訳にはいきません。慕情の恩赦も魔術の理ですからね。彼女には別室に控えて貰っているので、そちらに来ていただきましょう。ディノ様、もう構いませんか?」


「群れにいないのであれば、訪れを待つしかなさそうだね。もういらないよ」


「では、こちらで引き受けさせていただきましょう」



獣の躾でも始めそうな恐ろしい微笑を浮かべたヒルドに、ネアは疑問を一つ覚えた。

ラファエルとラッカムを穏便な手段で会わせることが出来るのならば、それはこの場ではいけなかったのだろうか?

何か政治的な意図があって別室で行うのだとしても、せめてもう一度くらいラッカムに会えるといいのだが。


「エーダリア様、ラッカムさんにはまた会えますか?」


しかし、ネアがそう尋ねると、わかりやすくガレンの最高位の魔術師は固まった。


「………いや。色々な事情があってな、このままこの雪食い鳥と共に、リーエンベルクを発って貰うことにした」

「……………そうですか。他国の方ですし、政治的な事情も絡むでしょうね。残念ですが仕方ありません」



ここでネアに記憶があれば、政治的なものより遥かに幼稚な理由に気付いただろう。

取り替え子の呪縛から解放されたラッカムは、それはそれは美しい女性だった。

男性として生きてきた時間に育まれた豪胆さもあり、ネアとの親交を深めた結果、それなりにしなやかに前向きになった彼女と、魔物達やヒルドが対面した結果、ネアは意図的にラッカムから遠ざけられたのである。

下手に交友を繋げられて余計な知識を吹き込まれたり、或いは縁を切った筈の雪食い鳥の王との親交を深められてもいけない。

そんな血も涙もないような理由でネアはまたしても同性の友人を逃したのだが、幸い、その事実を知ることになるのは随分と後のことだった。


因みに、この会談の最中でずっとゼノーシュが無言であったのも、一刻も早く妙齢の美女であるラッカムをこの王宮から追い出すべく、早く終われと念じ続けていたかららしい。

何か異様な怨念を感じたのか、ラファエルも、一度もそちらを見ようとはしなかった。


(…………ディノ?)


視界の端っこに、物憂げな顔をした魔物が見えた。

どこかうんざりとした様子には冷淡ささえあり、ネアは何となく怯んでしまう。


「さてと、部屋に帰ろうか」

「ええ。………そうですね」


だから、もう一度その手を掴もうと伸ばしかけた指先を、ネアは丁寧に自分の領域に戻した。




その夜、ネアは何やら悶々としてしまい、寝つけずにいた。

ラファエルとの対面時のディノが、妙に余所余所しかったというか、心ここにあらずであったことが気になったのである。

記憶があれば汲み上げられたかもしれないものが、今のネアには理解出来ない。

どうしたのかと尋ねてしまえば良かったのだろうが、部屋に戻ると魔物はいつも通りの可愛らしくて何だか駄目な生き物に戻ったので、すっかりタイミングを逃してしまった。


ラッカムとは勿論、ラファエルとも、あのままさらりと引き離され、お別れの言葉を交わすでもなく今に至る。


(この世界では、人間同士のように、改めてさようならと言うこともないんだろうか)


長く強く生きる者達は、それではまたというぐらいの感慨しかないのかもしれない。

しかし、たった三人だけのはっきりとした記憶を残す相手の内、二人があっさり立ち去ってしまえば、言葉には出さなくてもネアとて少し寂しくなる。

そこで寂しく感じるということ自体が、忘れられてしまった者達からすれば不愉快なのだとしても。


(さようならと言えただけで満足なのだから、それくらい許してくれればいいのに)


なぜなら、これはただの感傷なのだから。

本物の孤独とは違う、人間特有のけじめのつけ方だったのだ。


そのとき、ぱたんと扉が開いた。

魔物の寝室との間にある扉で、世にも美しい生き物がちらりと顔を出す。


「む。侵入してはいけませんよ?」

「おや、違うよ。私は少し出てくるから、悪さをしないようにね、ご主人様」

「………どこかにおでかけですか?」


美しい唇の端に、ぞくりとするような凄艶な微笑みが浮かんだ。

夜のその真ん中で魔物らしく微笑んで、宝石のような瞳に鈍い光が揺れた。


「この王宮に、愚かな鳥が降りてきたようだ。ハヴランの迷い子の気配が消えたので、慌てて飛び込んできたのだろう」


「……アンナさんがですか?」


上半身を起こしたネアに、魔物は不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの?ネアは寝てていいよ」

「………え?でも、あの雪食い鳥さんが来たのでは?」

「私が対処するから、大丈夫だよ。……そうだね、もし来たいなら後からおいで」


魔物は機嫌よく微笑むと、体を屈めてネアの額に口付ける。

前髪を搔きあげた指先の温度にびくりとしてから、ネアは慌てて部屋を出て行くディノの背中を見送った。



(身勝手な生き物だと思ってしまうのは、私に記憶がないからなのかしら?)


慈しみ抱き締めておいて、時々魔物らしく人間の心の機微など顧みない。

ぱつんと切り落とされたように、問題から締め出されたように感じてしまう。

記憶がないから寒々しくなるだけで、これくらいのことは当たり前ならいいのだが。


(ここでディノを呼び止める言葉を、私は知らないし)


たった二日余りの絆では、こうして激しく落差をつけられると心が追いつかない。

幸福感を与えてくれる可愛らしいものだと感じたばかりなのに、この一方的な態度にふと、不安になった。


むくりと立ち上がり、明日の為に用意してあったシンプルな菫色のドレスに着替える。

裾丈が短めでブーツに合わせているので、ほとんどワンピースという扱いのものだ。

窓辺で夜の光に揺れた祝祭の飾り付けに、何とも言えない寂しさを感じた。


(どうか、こうして感じる不安が、記憶がない間だけのものでありますように)


そう願って瞼を閉じる。

一度小さく息を吐いてから、よいしょと気持ちを立て直した。

記憶喪失中なのだ。

心が揺れたりするのは、まぁある程度は許容範囲内だと割り切るしかない。



後になってから、ネアはこのときの自分の低空飛行のメンタルが、あの最低の一日を呼び寄せたのではないかと考えた。


けれども、扉を開いてしまうその時まで、不運を予測する術などある筈もなかったのだ。




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