62. 懐かしい記憶を披露します(本編)
「雪食い鳥への対処法は、決まったのかい?」
リーエンベルクに戻ると、ディノにそう問いかけられた。
あの会話の後で相対すれば、なんとも言えない気分になる。
「……ネア?」
過敏に反応し、魔物は綺麗な瞳を不安そうに曇らせる。
ばさばさの真珠色の睫毛に、色鮮やかな夜明けの空の色。
その造作の一つを取っても、震える程に美しい。
これだけ艶麗な男性が日常生活の中にいて、当たり前のように自分の管轄だと思えば、とにかく恐れ多いことだ。
じっと見上げれば、困惑したように目を瞬く仕草は無防備で、そのことにダリルの言葉を思い出した。
「………ご主人様?」
「ディノ、……何も覚えていない私だからこそのお願いなのですが、きっと私は、ディノのことを色々困らせているでしょう。不安な思いや、嫌な思いもあるかもしれません。……でも多分、私にとってあなたはとても大切な存在なのだと思います。だからどうか、私を見捨てないで下さいね」
ふつりと、音が途絶えた。
目を瞠ったまま、魔物がよろけて後退する。
よろよろと後退し、飾り机の脚に躓くと、両手で顔を覆ってしまった。
「ディノ……?」
「ネアは狡い」
「………え」
「……ご主人様はいつも狡い。………どうしよう、可愛い」
「ああ、良かった。嫌だったのかと思いました」
「………ネア、」
手を伸ばされた意図は理解したので、そこに自分の手を重ねてあげれば、魔物は世慣れた容貌を無視する形で、目元を赤く染めておろおろする。
(どうして要求したくせに動揺するのだ……)
仕方ないので、両手でその手を掴んでぶんぶんと振ってやると、魔物は頬を染めて俯いた。
「ご主人様が大胆過ぎる……」
「なぜそうなるのでしょう。こういう行為は、魔物的には大胆なのですか?」
「手を握るのは求愛行動なんだろう?」
「……む。人間にとってということでしょうか?」
「包丁の魔物がそう話していたよ。伴侶や子供達と手を繋ぐのは、相手に愛していると伝える為だと」
「………包丁の魔物」
不思議そうにそう言ったディノだったが、ネアとしては、包丁の魔物とやらが何者なのかという壮大な疑問に陥った。
(使用頻度が高そうな魔物だから、もしかしてとても強かったりするのだろうか……)
「包丁の魔物は、人間の伴侶を得たんだよ」
「だから、その方に教えて貰ったのですね」
「よく、自分の伴侶と手を繋いでいたからね。足を痛めているわけでもないし、はぐれるような場所でもないのになぜだろうと思って」
(確かに、そういう手の繋ぎ方であれば愛情表現だろうし、こうして手を繋いでいるのだって……)
ある程度の好意があるからこそには違いない。
とは言え、ここまで過剰反応されるようなことではないので、どう説明すればいいものか。
「……違うのかい?」
「………いいえ。おおよそ、それで合ってますよ」
「………大胆」
(もういいや、詳細の説明は復活後の私に任せよう!)
恐らく、この妙なところで稚い魔物に、今の距離感できちんと説明するのは難しいだろう。
記憶を取り戻してから、彼に相応しい言葉を選んで、丁寧に誤解を解くべきだ。
ネアはまたしても問題を先送りにし、頬を染めている魔物を疲れた目で見守る。
決して、突然一人にされた魔物が不憫で、未来の自分を生贄にしてまでご褒美をあげたわけではない。
………多分。
「因みに、雪食い鳥さんへの報復は、食事の度にお腹を壊す呪い、翼に気持ちの悪いキノコが生える呪い、毛深くなる呪い、足が猛烈に臭くなる呪い、等々、ダリルさん特製の心を抉る報復を教えて貰いました。雪食い鳥さんの価値観を打ち砕くには、やはり翼にキノコでしょうか……」
「………多分、全部嫌だと思うよ」
ディノの目には微かな怯えが過ぎる。
高位の魔物のくせに純粋培養なのかもしれないと、ネアは微笑ましく思った。
「しかし、キノコだと非常食としても有能です。恩恵ももたらしてしまいませんか?」
「ネア、生えてくるのは気持ちの悪いキノコなんだよね?」
「成る程。笑い茸とか、食べれないやつにすれば良いのですね!」
「そんなキノコがあるのかい?」
「はい。誤って食べてしまうと、笑いが止まらなくなります。ディノもキノコ狩りの時には注意して下さいね」
「キノコ狩り……には行かないんじゃないかな」
困惑する魔物を連れて部屋に戻りながら、ネアは、リーエンベルクの廊下の景色に概視感を持つ。
つい数日前に、ここを一人で歩いた記憶は鮮明だ。
雪食い鳥の試練が邪魔をして詳細までは掴みきれないが、幸福の煌めきがあまりにも儚くて、未来を思い切なく感じていたのだということは覚えている。
(私の大切なもの……)
大切な人はもう、この手の中には残っていない。
小さな手のひらが胸が潰れそうな程に愛しかった弟も、しっかりと寄り添いその弟の葬式で抱き合って一緒に泣いた両親も、残された心の最後の部分に触れたジークも、もう誰もいない。
擦り切れて希釈されたからこそ穏やかだったその先で、また眩い煌めきに触れたなんて。
(どうして私は、そんな怖いものを手放さずにいられたんだろう?)
きっともう、その結論は出しているのだ。
受け入れて死が二人を別つまで慈しむと決めたからこそ、あの手帳の文字であり、この指輪なのだろう。
そう考えれば、なぜか少し誇らしかった。
「……ネア、考え事?」
「ええ。昔のことを少し。雪食い鳥さんの試練にあたり、昔の大切な人達のことを考えていました」
魔物が少しだけ拗ねたように眉を顰める。
まだ見慣れていないせいか、ぞくりとするくらいに美しく悩ましい。
「……君が殺した男のことだろうか」
「あら、そのことを私は話したのですね」
「関わった唯一の男だからにしても、まだそんなにお気に入りかい?」
「…………いえ。幼馴染で、お付き合いしていた方がいましたよ」
「え……?」
ぎょっとしたように魔物がこちらを向いたが、ネアは握った魔物の手を握り潰さないように、精神統一に気を取られていた。
「母の友人の息子さんで、ずっと同級生だったのです。仲良しでしたし、双方の家族共、私自身も彼とはずっと一緒にいるのだと思っていました」
「彼が好きだった……?」
「ええ。でもそれは、恋人としてというより、もはや双子の兄妹のようだったのでしょう。今思えばですが」
「……別れたんだよね?」
「……彼は謂うところの、冴えない系男子でした」
「冴えない系男子……?」
ネアは遠い目で雪景色を眺めた。
彼は今どうしているのだろう。
「気弱でボサボサの髪の眼鏡っ子だったんです。けれど優しい男の子でしたし、そのままでも充分だったんですよ?……それなのに、うっかり男友達の助言で垢抜けてしまい……」
ぐっと低くなったネアの声に、隣の魔物がびくりとする。
「思春期に突然モテ始めてしまった彼は、見事に羽目を外しました。あのときに私は、人間の業深さを知ったといっても過言ではありません」
「そこまで……?」
「髪型を変えて脱眼鏡した彼は、そのまま調子付き毎晩夜遊びする子になり、彼女を六人作りました」
「うん。別れるべきだ」
「お勉強よりも、いかに制服を格好良く着崩すか、いかに格好よくサーフィンのポーズを決めるか、いかにセクシーな口元に出来るリップクリームを手に入れるか、どんどん暴走してゆきました……」
彼とは、一緒に図書館に行ったり、家族ぐるみで旅行や食事に行ったりと、ある意味、親戚のような付き合い方をしていた。
世間一般で言うところの、恋人らしい関係は深めておらず、だからこそ、幸いにも幻滅するのが早かったように思う。
今考えれば、やはりあれは恋とは違うものだったのだろう。
しかし、当時の苦労を思えば苦々しい気持ちになるのは仕方ない。
「ネア、落ち着いて……」
「一秒でも早く是非に別れたかったのですが、私が別れてしまうと付き合っている彼女の頭数が減ってしまうという謎の理由で逃げ回られ、とうとう頭にきた母が、彼を叩きのめしてくれて、ようやく縁を切れました」
「わ、わかった、ネアもういいよ。何か、美味しいものでも食べに行くかい?」
「可愛らしく穏やかな母が、その日ばかりは血の凍るような微笑みで帰ってきて、あの屑は記憶から抹消するようにと言ってくれました。それ以来、彼の話題は我が家では禁句となりました。なぜか、母が荒ぶってしまうのです」
「ご主人様……」
「彼はその後もどんどん派手好みになってゆき、その後、私の弟が病気になったりと縁遠くなった頃に、一家は田舎の方へ引っ越していってしまいました。それっきりです。……む、いつの間に?」
そこでネアは、いつの間にか魔物に抱えられ、あやされていることに気付いた。
どこかに向かっていると思えば、そそくさと会食堂に運び込まれ、魔物は給仕妖精に何かを指示している。
すぐにテーブルには、可愛らしい花びらの形のスープボウルに入ったスープが出てきた。
チーズクリームのスープだろうか。
見たところ、キノコとほうれん草が入っているようだ。
「ネア、これを飲んで落ち着いて」
「……美味しそうな匂いですね!お昼前ですが、やぶさかではありません。有り難く頂戴しますね」
湯気の立っているスープを飲んで、ネアは破顔した。
「山羊のチーズですか?すごく美味しいです!」
やっと怨念をしまってくれたご主人様に安心したのか、魔物は嬉しそうにネアの頭を撫でてくれる。
ほんとうに愛おしそうに撫でられて、ネアは微かな驚きを押し殺した。
(ああ、そういうことなのかしら………)
愛や恋というもの以前に、そして変態なのかもしれないというところや、高位の魔物を捕まえてしまったことに繋がる煩わしさ。
その全てを背負うとしても、手放せないその理由は、こういう幸福感なのかもしれない。
(これは、私にとって大事な魔物なんだ)
どうであれ、手放さないと決めた大事な大事なもの。
大事に慈しみ育ったものの美しさが垣間見えたようで、つい微笑みが溢れた。
「ディノ、あと二日ですが我慢して下さいね」
「ネアが私のことを忘れてしまったのは悲しいけれど、君がこうして傍に居るのだから不幸ではないよ」
「でも、記憶が戻るまでは、巣はお隣の部屋に置いておいて下さいね」
「ご主人様………」
しょぼくれる魔物を慰めつつ、ネアは二日後の自分が楽しみになってきた。
一瞬、あの雪食い鳥も、こんな風に絆のようなものを見直す機会を与えてくれるなど中々にいい働きをすると考えかけ、心強い仲間達がいなければとても苦労したのだろうと思い直す。
場合によれば、試練に敗れて食べられてしまったのかもしれないのだ。
(翼にキノコの刑は免除出来ないな……)
力強く頷いたとことで、ふと、もう一人の雪食い鳥の被害者はどうしているのだろうと考えた。
ネアまで雪食い鳥の試練を与えられてから、まだ一度も顔を見ていない。
そんなことを考えていたら、伝言を持ってきた家事妖精より、雪食い鳥の王を捕獲したアルテアが戻ったとの一報が入った。