ハヴランの鳥籠
重苦しい暗雲の下で、子供じみたイブメリアの明かりが喘鳴のようだ。
枯れ木にこの結晶石のランタンを飾り付けたこと自体が狂気の沙汰だが、その飾り付けを外す間も無く小さな家ごと崩れ落ちたのだろう。
ここは今、災厄の激震地の最中央。
かちりとライターが鳴り、炎の影が揺れる。
深い呼吸の音に、吐き出された煙。
「アイザックか、何の用だ?」
椅子の背もたれに寄りかかり、のけぞっても帽子が落ちないよう片手で深くかぶり直した。
「いえ。アルテア様が捕縛されたと耳にしておりましたので、ご無事なお姿を見かけてつい」
「歌乞いとの誓約なら、自由になってるぞ」
「そちらではなく、ハヴランの国境域で、あなたが拘束されたと声明が出ておりましたよ」
「………ほう」
「どうやら、ハヴランの迷い子があなたを捕縛したらしい」
「面白い冗談だな」
「そうであれば、月々の納品をどうしたものかと悩んでいたので、一安心いたしました」
「今月分は、ザルツの屋敷に届けておいてくれ」
「おや、災厄の鑑賞はもういいのですか?」
「ああ。ハヴランに挨拶に行って来た方が、こっちより楽しそうだろ?」
「それは確かに」
確かハヴランは水仙の季節だ。
それを考えて、帽子の縁を指先で撫でる。
災厄で滅びた曇天の地には漆黒の燕尾服がいいかも知れないが、ハヴランなら、艶のある妖精の糸で織り上げたオリーブ色のスーツの方が相応しい。
ステッキは、水仙と翼の意匠の彫り物がある純白のものにした。
真っ白なシャツの襟元のタイを好みの程度に緩め、胸ポケットから取り出した懐中時計の時刻を確認して微笑みを深める。
多くの人間達が悪意と呼び、死者の行列の者達が手を叩いて喝采する優雅な微笑み。
「さてと、呼び声に応えるのも配役の務めだからな」
そう嘯き、真っ白な雪竜の革靴の踵を鳴らして、件の領主の館の正面に立った。
「で、この有様は何なんでしょうね。俺を過労死させる魂胆か、それとも例の妖精を取り逃がした八つ当たりですか?」
ひと遊びしてから、肝心の領主が見当たらないことに眉を顰めていると、背後から口うるさい友人の声がかかった。
振り返りもせず、肩を竦めてから小脇にステッキを挟み、煙草に火を付ける。
「その毎回のお小言をやめろ」
「都度叱らないと、すぐに忘れてしまうのは誰ですかね」
「お前、少しネアに似てきてないか……?」
「あのシルハーンの躾が出来るんだから、アルテアも躾けられると俺は信じてますからね」
「取り入れたのかよ」
ウィリアムが階段を降りてくる軍靴の音が響き、終焉の気配が石造りの城をひたひたと満たしてゆく。
「死者の行列はいつも、あなたのショーに大喜びだ」
「その王だろ。お前ももっと楽しめよ」
「言ったでしょう。俺は、人間が好きなんですよ。まぁ今回は、自業自得だとは思わないでもないけど」
「呼ばれたから駆けつけてやったのに、肝心の迷い子がいないんだが、見かけたか?」
「そう言えば、疫病が国境を越える騎士を見たと話していましたね。雪食い鳥の子供が、逃してやっているのを見たとか」
その言葉に目を細めてから、ふうっと煙を吐き出して一匹の灰色の蝶に変える。
燃え始めた城内の至る所に、その蝶が優雅に羽ばたいていた。
「雪食い鳥が発端だそうだ」
「と言うことは試練絡みかな。つまり、アルテアが余計な恨みを買わなければ、俺は年末くらい休めたのかも知れないと……」
ウィリアムが溜息を吐きながら、小さな手帳を取り出して暗い顔をしている。
死者の王は多忙な魔物だ。
世界中の騒乱の火種を上手く調整して、大きな崩壊が重ならないように管理しているらしい。
(まぁ、鳥籠を広げすぎると、軽く一文化滅びるからな)
その文化にしか派生しない、魔物や妖精は多い。
種族そのものを滅ぼさないよう、丁寧に死者の行列の采配を振るうのが、このウィリアムである。
「ここが呼ばなければ、死者の行列はどこか別の土地で宴を始めるだけだろ」
「大国は嫌なんだ。特に、ヴェルクレアの国境沿いを崩さないでくれないか」
やや本気の不満に、片方の眉を持ち上げてみせる。
わざとらしい敬語を削ぎ落とす時のウィリアムは、それなりに怒っていることが多い。
「耳障りな博愛主義を気取りながら、俺より残忍なお前が、まるで本気の執着だな」
揶揄してみせれば、本当に慈愛に満ちた微笑みを浮かべてみせる。
前回、この微笑みで長剣で串刺しにされたのだから、つくづく食えない男だ。
「雪食い鳥の脅威を理解しないからと、本気で腹を立てたあなたに言われたくないですね」
「あのな……」
「本気でなければ、ただ雪食い鳥の巣に投げ込んで終わりにするでしょう。足の一本でも折っておけば、鳥は血に酔うし、彼女は逃げられない」
「……お前、自分は嫌な奴だって自覚しろよ?」
「俺ならそうします。幸いなことに、ネアは大切な友人なのでそんなことは絶対にしませんが」
「そうだね、そうしてくれると助かるよ。私としても、この世界から選択と終焉が失われると、後継者探しが面倒だからね」
不意に割り込んだ声に、ウィリアムと同時に振り返る。
途端にウィリアムは、小さく呻き頭を抱えた。
「……シルハーン!何でお前までいるんだよ」
「鳥籠の中に入らないで下さいと、あれ程に言いましたよね……」
「ここは殲滅する。土地も、記憶も。どれが必要な要素かわからないから、全て殺しておいで。いいね」
終焉特有の風に火の粉が散った。
その死の香りに髪を揺らして、シルハーンは婉然と微笑む。
魔物の王が何かを命じることは珍しい。
思わず、ウィリアムと顔を見合わせた。
「シルハーン、もしかして、この国の人間がネアに何かしましたか?」
「いいや。ただ、この領地の迷い子が、ネアのお気に入りでね」
「……迷い子同士、交流があったんですか?」
「雪食い鳥の試練に苛まれ、アルテアのお陰でここを追われて、今はリーエンベルクにいるよ。ネアとは初対面だが、どうやら彼はネアの琴線に触れるようだ」
「だったら、その迷い子とやらを引き渡してくれ。次の余興にちょうどいい容れ物を探していたところだ」
そう言えば、ちらりとこちらを一瞥して、シルハーンは微笑みを深める。
「ラッカムを君に?私はこれでも、その迷い子を助けてやろうとしているんだよ」
「……は?」
「その迷い子は、元の世界で取り替え子だったようだ。ネアの目には、美しい女性に見えるみたいでね」
ステッキを持ち直してから、愉快そうな目をしているシルハーンに向き合う。
「性別を違える取り替え子は珍しくもないが、取り替え子からの迷い子とは、随分愉快な人生じゃないか」
「本来、この世界でのラッカムは、取り替え子の効果が切れていい筈なんだ。だから恐らく、彼を呼び落とした者達が、ラッカムを男性として認識したことで、この世界でも男性という書き込みになったのだろう」
「成る程。であれば、その認識を持つ者を殲滅すれば、その迷い子は本来の女性に戻りますね」
「ん?女性に戻してどうするんだ?ネアの人形にでもするのか?」
遠くで遠雷のような死者の足音が聞こえる。
疫病の咆哮と、鎌で刈り取られる命の音。
その旋律に、ウィリアムが微かな微笑みを浮かべる。
無意識なのかも知れないが、この男が自分より余程酷薄だと思うのはこんな時だ。
「雪食い鳥の試練を、唯一穏便に免除される手段がある」
その言葉に得心した。
「雪食い鳥は、その雪食い鳥を誠に愛した乙女のことは解放しなければならない。……確かに女なら、生き延びる術はあるか」
「ネア曰く、ラッカムは雪食い鳥の王に恋をしているそうだよ」
「……シルハーン、ネアに嫌われないように、どちらも体良く追い払おうとしてますね」
「おや、心外だね」
「ってことは、この余興を始めたのは、あの雪食い鳥か」
「アルテアに嫌がらせをされた報復だそうだ。お陰でネアが散々振り回されて、睡眠時間を削られたと怒っていたよ」
「睡眠時間とは、彼女が割と本気で嫌がるやつですね。可哀想に」
「心配ないよ。雪食い鳥の巣に放り込まれたとかで、既にアルテアへの好意は残ってないから」
「………で、その雪食い鳥はどこに行ったんだ?」
「さてね。あれもしたたかに暗躍しているようだが」
思えばペンの材料にする冠羽を取りに行ったところから始まった一件だった。
そろそろあの雪食い鳥の翼を捻じ切ってもいいかも知れない。
「それにしても、お前らしくもない回り道だな。いつもなら、その迷い子と雪食い鳥を消してお終いだろ?」
「ラッカムは、ネアの好きだった男に似ているそうだよ」
静かな声に、怒りや悲しみはなかった。
ただ興味深そうに淡々と語り、また淡い微笑みを浮かべる。
万象というものの移ろいは曖昧で、これだけの付き合いを経た今でも、その心内は読み難い。
易々と読み解き、子犬でも愛でるかのように頭を撫でているネアが異常なのだ。
「だったら尚更だ」
「自分の手で殺したものを、彼女は今も不思議な形で愛している。殺してしまうのは簡単だけれど、喪われたことで、また同じように思われ続けても嫌だからね」
「でも、女に見えてるんだろ?」
「ネアも迷い子だからこそ、今は真実が見えてしまうだけだよ。いずれこの世界で、ラッカムが男性だという認識が固まれば、ネアにも男に見えるようになるだろう」
「元々は女性だったと知った上で、それでも彼女が心奪われたりしますかね?」
「さぁ、あの子の心ばかりはまるで読めないんだ」
どこか嬉しそうに、万象の魔物は呟いた。
(そうだな、確かにあいつの心は読めない)
そこまで強い執着や恋情を燃やしたりはしないくせに、真夜中に自分が殺した男の名前を呼んだりするのだ。
“ジーク?”
甘く柔らかな声でそう呼ばれたとき、なぜか息が止まった。
あれだけ本能のままに自由に生きておきながら、ネアという人間の魂の底には、誰にも覗かせない深い湖がある。
軽やかに淡々と微笑みながら、その水は計り知れない程に深い。
それだけのものをどう育てたと言うことではなく、恐らく彼女は元々そういうものを内包した人間なのだろう。
稀有なことではあるが、意図して用意されたような彼女の才覚によるものでもなく。
ただ、雨の夜が好きだとか、春よりは冬が好ましいと言うような嗜好の問題だからこそ、厄介にも目を惹いてしまう。
この手に摘み採れない季節や天候のように、彼女はいつだって捉え難い。
「雨になりそうだな」
お気に入りの傘を取り出そうとして、記憶を無くした彼女の言葉を思い出した。
知らないものなど惜しまないときっぱりと言い捨てた彼女に、あの時の自分は愕然としたのだ。
「人間というものが、あたらめて愉快なものだと再確認させて貰った」
「だから言ったでしょう。人間は面白いですよ」
愛用の剣を一振りし、ウィリアムは手を掲げて鳥籠の織りを少し緩める。
こうして中の密度を薄める度に緩めてゆき、終焉の完了と共に鳥籠を開くのだ。
「眉ひとつ動かさず、この一個大隊を殲滅したお前がよく言えたな」
「これでも年末の過重労働に気が立っているんでね。悠長に傘なんて取り出していないで、早く雪食い鳥を捕まえてきて下さい」
「動線は確認したさ。後はもう、巣に追い込んで捕まえるだけだ」
そう笑うと、ウィリアムは悪趣味な微笑みをこちらに向ける。
「アルテアは一人余裕かも知れませんが、俺達は彼女に忘れられてしまって、これでも焦っているんですよ?」
「…………お前、安定して嫌な奴だな」
いずれ、季節性の悪夢の時期になる。
もし、彼女の悪夢にかの想い人がまだ住み着いているのなら、その時に見てみよう。
万象の王にすら心を明け渡さない人間が、どんな男を愛したのか興味があった。