60. 情報管理の大事さを知りました(本編)
「大体、どこで血を奪われたんだ?」
「恐らく、毛玉の精霊に触れた時だろう。どこかに血を落としたかもしれないと話していたが、私が行った時には雪面は綺麗だった」
「雪食い鳥は、雪の上から何かを喰らうことに長けていますからね」
「その博物館のときはどうだったんだ?」
「人間に擬態していたようだ。あのラファエルという雪食い鳥より高位の筈だよ。人間を一人籠絡して、父親のふりをさせていたようだから頭もいい」
「……ラファエルは雪食い鳥の王だ。あいつなら知ってるだろう。あの街の人間を滅ぼすのも勿論だが、先にそちらを捕まえるか……」
「僕も探すの手伝う!」
「では私は……」
「お前は、しっかりあいつの面倒を見ていろって」
見ず知らずの人達が自分の問題を深刻そうに話し合うのを、ネアは微かな驚きをもって眺めていた。
(私に紐付く誰かなんて、もういなかったのに)
当たり前のようにネアの問題を拾い上げて自分のものにするのは、一体どうしてだろう。
落ち着かなくなって、手持ち無沙汰にポケットに入れた手帳を出そうとして、指に見知らぬ指輪があることに気付いた。
そっと指先で触れると、不思議に心がざわめく。
装飾品を常につけているのは苦手なので、外出用にとつけたのだろう。
記憶にないということは、これは忘れてしまった誰かから貰ったものなのだろうか。
高価そうなので、外してしまっておく場所が思い出せるといいのだが。
(まぁ、散らかすタイプではないし、部屋を見てみればすぐにわかるかな)
ふむ、と頷いていたところで、立ち上がったアルテアに声をかけられる。
「ネア、俺は外すからな。シルハーンと一緒にいろ。とりあえずそいつと離れないようにな」
「え、まさか三日間べったりですか?」
「どうせ同じ部屋で暮らしてるんだ」
「………うわぁ」
「大型犬を飼っているとでも思え。と言うか、そう思ってたから、今までも気にしていなかったんだろ」
「…………犬」
視線を向ければ、やはりこちらを見ようとしない美しい魔物がいる。
落ち込みよりも、もう少し良くない状態のようだが、どのように対応してやればいいのかわからない。
さすがにこの精神状態で椅子にするのだけは勘弁して貰いたい。
と言うか、この美貌の魔物を椅子にしてきた自分は、一体どのような精神状態だったのだろうと、ネアは遠い目になった。
望まず厄介な方向に転がっていたのであれば、ここですっぱりリセットして人生をやり直すのも手かもしれない。
事なかれ主義におおざっぱの属性も加算されるネアは、物事が拗れると放り投げるタイプだ。
「………しんどいのか?」
静かな声に顔を上げれば、珍しく深刻にこちらを見ているアルテアがいた。
唇の端で微笑んで、ネアは小さくきっぱりと首を振る。
「悲しむふりは出来ますが、知らないものを惜しむ程、私は器用ではありません。もし、先程までの私が望まないような人生経験を積んでしまっていたのならば、いっそ再出発するのもありではないかと考えていたのです」
「…………お前」
続ける言葉を見失い、絶句するアルテアを見ている。
積み上げたものを勿体ないと思うのは、その全てを背負ってゆく気概のある人間だけだ。
静かな余生を送りたいネアとしては、特に危険がなく安定した生活が望ましい。
(記憶の中にある煉瓦の魔物さんは鍋になってしまったので捨て置くとして、ここからいっそリスタートで人生を見つめ直すのもありだと思うのだけれど……)
一言で表現するのならば、ここにあるのは罪悪感だけだ。
一人で生きてきた人間がまた一人になったところで、そう簡単に孤独感を得られる筈もない。
強いて言えば、一人上手なネアとしては、誰かと同室というのが堪らなく嫌だ。それくらいだろう。
「建前を繕う程、私はもう若くはありませんよ?」
「嘘つけ、成人もしていない奴が」
「失礼な!これでも私は立派な成人です」
「あのな、この世界の人間は、魔術可動域が二十を超えない限り、成人指定は得られない。六しか持っていない奴が何を言ってるんだ」
「なんて嫌な世界だ」
「……………お前、記憶失くした途端明らかに荒んだな」
「寧ろ正常になったのではないでしょうか」
いつの間にか部屋が静かになっていたので振り返れば、エーダリアやヒルド達がこちらのやり取りを何とも言えない眼差しで見守っていた。
目が合ってしまったエーダリアが、どこか疲れたように呟く。
「………確かに、出会ったばかりの頃はそんな様子だったな」
「なぜでしょうか。不当な評価を受けている気がします」
「あらためて、忠告だけではなく、命令としても伝えておこう。この三日間、契約の魔物から離れるなよ?」
「お風呂やその他の問題はどうするのでしょうか?人権を無視されるのなら、私とて黙ってはいられません」
「い、いや、…………そうだな、同じ部屋にいろ。それでいいだろう。それと、中庭にも出ないように」
「………軟禁」
「魔物を同伴すれば、王宮内は自由に出歩いて構わない。あくまでも、一人ではという意味だ」
そこまで釘を刺され、ひとまず出て行け的な空気になった。
ネアが部屋を出た後に何を話すのかはわからないが、知らない魔物と二人きりにされるネアが、少なからず憮然とした面持ちになってしまうのは許して欲しい。
「ええと、では………ディノさん、お部屋に戻りましょうか?」
そんな中、何とか優しい声を意識して頑張って呼びかけてみたのだが、なぜかディノは体を強張らせた後、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
本当に犬なら、厳しく叱りつけて躾に入るところだ。
「ネア、僕がグラストにそんな風に呼ばれたら、家出するよ」
「なんて面倒………いえ、繊細なんでしょう」
こちらに背中を向けてふるふるしている魔物を見上げ、ネアは重たい溜息を吐いた。
先程のウィリアムであれば、このような慣れない会話でも穏やかに対応してくれそうなので、つくづく厄介な魔物を引き当ててしまったような気がする。
(自立した魔物と、依存したがりな魔物がいるのかしら)
気遣って貰う必要はないのだが、どうか状況を察して欲しい。
「…………ディノ、お部屋に戻りましょう?」
ちらりとこちらを向いたようだが、まだネアの瞳を見返す勇気はないようだ。
かなり上位の魔物と聞いているのだが、まるで子犬を相手にしているような気分になってくる。
アルテアが犬だと言っていた気持ちが、妙にわかるような気がした。
(いや、あくまでもペット的な犬であって、決して変態的な意味での犬じゃないけれど!)
「私はそろそろ、自分の部屋の中も見てみたいです。離れてはいけないそうですので、付いて来てくれますか?」
「………ネア」
悲しげな声は美しくて胸を掻き毟るよう。
(ああ、きっとこの魔物は、私と目を合わせて、自分を覚えていない私を見るのが怖いんだ)
そう理解して、ネアはにっこり微笑んだ。
不意にぐっと下がった空気の温度に、ディノが綺麗な目を瞠っておろおろする。
両手はその胸元に握り込まれてしまっているので、ネアはこちら側に無防備に垂らした、立派な三つ編みに目を止めた。
おもむろにそれを鷲掴みにする。
「現実を直視出来ないなんて、子供ですか!さぁ、部屋に帰りますよ、きりきり歩いて下さい!」
「ご主人様!」
なぜか魔物は、非常に嬉しそうに付いて来た。
かなり乱暴な手段を選択したつもりのネアとしては、こんなことで大喜びの魔物に眩暈がする。
(………そう言えば、さっき、髪の毛を引っ張ってたって自ら告白してたような……)
過去の自分もきっと、このような場面に見舞われたのだろう。
変態のご褒美的なものではなく、あくまでも困った犬のリードの代わりだったのだろうと得心して、一つ安心を得た。
(この魔物に名前を呼ばれるまで、自分の名前もわからなかったし)
実はあの断絶の一瞬、自分の名前さえ思い出すのに苦労したのだ。
自分という人間がどういうものだったのか、変態のお世話係という注釈付きで、こんなところで思考の迷路に入りたくはない。
規則正しく床を踏み、大きな窓から差し込む雪の白さに瞬きをする。
青磁色の絨毯に、見事な壁のレリーフ、等間隔にある天井のシャンデリア。
本棟の大廊下は見事なものだ。
壁紙や天井画のうっとりとするような精緻な暗さと、窓の外の純白のコントラストで、胸の奥がすうっとするような感嘆をもたらしてくれる。
廊下を歩きながら、手の中の美しい髪の毛に視線を落とした。
ラベンダー色のリボンの一か所には、指先でさんざん触ってしまった癖のようなものがついている。
こうして見ていても手触りが良さそうだと思うのだから、この魔物もつい触ってしまうのだろう。
「そのリボンはね、ネアが初めて買ってくれたものなんだ。私の宝物だよ」
「……そうなんですね」
もう一度手の中のリボンに視線を戻す。
初めてのプレゼントを貰った子供のように、何度も何度も、指先で触れた跡。
この魔物は、まるで自慢するようにネアにそのことを言うのだ。
(だとすれば私は、煩わしさやその他の不利益の全てを飲み込んで、ここにあるものを愛そうと思ったんだろうか?)
自分にそんな心の深さがあるだろうかと、ネアは不思議な気持ちになる。
深い愛情や執着、そして怒りや憎しみ等で使う一生分の体力は、もう、家族とジーク・バレットで摩耗してしまったと思ったのだが。
ふと、窓の外の光に目を止めて、瞼の奥でチカチカきらきらと、残照のような煌めきが揺れた。
記憶の中にある、真っ白な雪に様々な色の光。
(ラッカムさんと花火をしたときの記憶だ)
その中で、誰かに微笑みかけたような気がする。
誰かと笑い合い、とても幸せだったような。
記憶の中で、今度は大きな花火がウィームの夜空に上がる。
(バベルクレアの夜に花火を見たのは、アルテアさん……だけだった?)
ではなぜネアは、大きな長椅子に一人で座っていたのだろうか。
記憶の中で空白のそこには、本当はこの魔物が座っていたのだろうか。
次の場面では、大きなテーブルに乗った、見事なイブメリアのケーキを見ている。
沢山のお皿が並んでいるのに、座っているのはネア一人だ。
そこにいた筈の誰かの姿は、記憶の中から欠け落ちている。
「………ネア?どこか痛いのかい?」
不意に立ち止まって、目元を片手で覆ったネアに、ディノが慌てて声をかけた。
正面に回り込まれて、体を屈めて顔を覗き込んでくる。
自分の呼吸の方が止まってしまいそうな動揺っぷりに、ネアは、記憶を失って初めて彼を見た瞬間のことを思い出した。
(あの瞬間、…………私は悲しかったんだ)
自分が忘れてしまった彼を見て、息が止まりそうになったのだ。
「……………だんだん、苛々してきました」
「え…………」
「自分らしくない馴染み方をしていたのかも知れないとか、何だか面倒臭そうだから思い出せなくてもいいかなとか、これ幸いとここから逃げ出すチャンスかもしれないとか、色々考えてしまいましたが……」
「え。ネア、ひどい……」
「ふと、この状態は私にとって、泣きそうなぐらいに少ない元手で運用している、なけなしの幸福を奪われた状態なのだと思い至ったのです」
「ご主人様………?」
ネアは、脳内に明確な設定を思い浮かべた。
こちらは防寒も出来ずに頑張って雪道を歩いているところに、難癖をつけられて、豪奢な八頭立ての馬車で轢かれたようなものだ。
「ましてや相手は、これから人生の春も夏も謳歌するであろう、年若いお嬢さんです。対する私は、隠居生活にも水を差された挙句、成人すら許されない魔術可動域。これを圧倒的不平等と言わずして何としましょう。年長者として、ここで一度人生の厳しさを教えてやるべきでしょう。あの鳥めを、焼き鳥にしてやります!」
ネアが陰惨な宣言をすると、魔物は綺麗な目を瞠ってぴゃっと後退した。
本気で困惑しているので、逃げないように髪の毛をきつく握り直す。
「…………焼き殺すのかい?」
「いえ、焼き鳥は比喩的な表現です。しかし、あの鳥には、人生が終わったと感じるくらいの制裁を与えてやりましょう。そのくらいの挫折は、心の成長に必要なものですからね」
「わ、わかった」
「そうと決まれば、まずは作戦を練ります!お部屋に帰って、少しお昼寝をして、お風呂に入ってさっぱりしてから、自分の持ち物から忘れてる分の情報を補填しますね!」
ネアは自分に正直な人間だ。
報復を決意したからとて、先程の顔合わせで疲れてしまったのは事実である。
まずは昼寝で英気を養ってから再始動しようと、行動を開始した。
しかしながら、魔物の巣とやらは、発見するなり寝室から放り出させていただいた。
良く知らない誰かと一緒の部屋で寝る趣味はない。
お風呂上がりに、無事かどうかをしつこく聞いてくる隣りの部屋の魔物を一喝して黙らせてから、ネアは、先程は見損ねてしまった手帳を引っ張り出してみることにした。
(……うん、この文字を書いた記憶はある)
手帳には見慣れた自分の字で、各種の薬の知識がまとめられていた。
この仕事を楽しんでいた記憶は正しいようで、会話などで得た知識をここに集約していたのだ。
ぱらぱらとめくっていると、縫い綴じの真ん中で一番開き易いページに、しっかりとした書き込みを見つけた。
まだそこまで書き進んでいないので、あえてページを飛ばして、その一番開き易いページに書いたに違いない。
(………私の用心深さに乾杯だ)
そのページには、“私へ、或いは、私を保護してくれたどなたかへ”という書き出しで始まる一文がある。
つまりそのページは、ネアなりに試行錯誤した身分証兼、個人情報であった。
その書き出しだけで、どこかで行き倒れる可能性や、記憶喪失になる可能性すら考慮していたことがわかる。
どうしてそこまでと考えてから、サラフと出会ったのが内戦中の他国であったことを思い出した。
そのあたりで、いずれ起きる事故や事件を警戒したのだろうか。
物語などを読んだことがあれば、起こり得る不幸のパターンは何となく想像がつく。
後半のページには、声などを奪われた時に意志疎通を図る為のものか、文字一覧の記載もあった。
(でも、これで少しだけ情報が手に入ったわ)
個人の心内を記したものなので、このページを誰かと共有したくはない。
自分一人で読み込むと、ぱたりと閉じた。
その手帳の真ん中には、
“ディノは、私の大事な魔物。何があっても、きちんとそこに帰ること”と、力強く記されている。
最初の一文と続きの分でペンの色が違うので、恐らく二度に分けて書いたのだろう。
時間差を置いて、心がそのように育ったのかも知れない。
入浴の際に、くれぐれも外さないように何度も注意された指輪を部屋の照明にかざして見る。
淡い乳白色にきらきらと幾つもの色が重なり、あの魔物の髪の色にとても良く似ていた。
そして見間違いでなければ、あの魔物がしていた指輪の石は、ネアの髪色とほとんど同じ色だ。
(指輪で、お互いの色彩を持ち合っていたってこと?)
あまりも親密な行為に、この手帳に記された文字。
と言うことはもしや、あの魔物はネアにとって恋人か何かだったのだろうか。
髪の毛を拭きながら、しばらく考え込む。
「……………いや、ないな」
そうであれば、この手帳の言葉とて、もう少し書きようがある筈だ。
自分の表現方法というものが、この短期間で劇的に変わる筈もない。
アルテアに言われた、犬という言葉をもう一度頭の中で反芻する。
(愛犬家的感性であれば、犬も家族の一員だってよく聞くから……)
「それだ………!」
重々しく頷き、ネアは部屋の扉を開けた。
どうやら、綺麗で寂しがり屋な大型犬を屋内飼いしていたようだ。