59. 見知らぬ人達に囲まれます(本編)
博物館で、不思議な塔の絵を見ていたときだった。
バベルの塔の絵に似ている。
そして崩れゆくその塔の天上には天使のような雪食い鳥が描かれていた。
(知らなかった。鹿角の魔物より以前は、雪食い鳥が信仰の対象だったんだ……)
「こら、アンナ!」
低い叱責の声に顔を向ければ、父親に連れられた子供がこちらを見ている。
まだ十歳くらいの女の子だ。
微笑ましくなって、小さく笑いかけた。
月光のような淡い金髪に、展示室の光でははっきりとはわからないが、恐らく銀貨のような鈍い灰銀の瞳。
「あなたに試練を授けるわ」
無邪気な笑顔で、その女の子はそう言った。
「あ、喋っては駄目よ。動揺しても駄目。あなたが反応出来るのは、私達がここから立ち去ってから。……ふうん。血は偉大な魔術の檻ね」
声が出なくなった。
すぐ側にいるディノの方を振り返ることも出来ない。
「今から私はあなたの大切なものを奪うわ。もし、あなたが自分の力で、あなたの一番大切なものを思い出せたら、全てを返してあげる。これはね、あなたが私の大切な方の心を盗んだからよ」
少女はまた無邪気に微笑んだ。
無垢な笑顔の奥の方に、微かな憎しみの欠片が見える。
せめて心の中で魔物を呼ぼうとしても、心の中でさえ上手く言葉を紡げなかった。
「三日後にまた会いに来るわ。その時に私の試練を克服出来なければ、あなたを食べちゃうから」
コツコツと足音が遠ざかってゆく。
人懐こい子供を親が窘めるような離れ方は秀逸だ。
そんな風に思考を巡らせることは出来るのだから、この思考の制限にもある程度の縛りはあるのだろう。
やがて、彼女達の姿が見えなくなってから、ようやく体を捻った。
展示室の真ん中に置かれた椅子に座った、どきりとするくらいに美しい男性がこちらを見ている。
(…………あなたは誰?)
そう考えてしまった時、心が捻じ切れるような苦痛に苛まれた。
どうしよう、忘れてしまった。
それだけを何とか考えて、視界が暗転した。
「と言うことで、申し訳ありません。どなたのこともわからないのです」
そう告白して丁寧に頭を下げると、室内にいた全員が絶句した。
隣に座った、真珠色の髪の綺麗な男性の体が小さく揺れる。
「私のこともわかりませんか?」
抑えられた声でそう尋ねたのは、美しい青緑の羽を持つ妖精だった。
(うん。妖精というものも認識出来る)
魔術師に妖精、魔物に竜。
この世界の奇妙で美しい生き物達のことはきちんと理解出来る。
ここが、生まれ育ったのとは違う世界であるということも。
「ネア、僕のこともわからないの?」
大きな檸檬色の目を潤ませて、白混じりの水色の髪の少年がそう問いかける。
かなり罪悪感に苛まれたが、わからないものはわからないのだ。
有り体に言えば、現在のネアは限定的な記憶喪失の状態にある。
記憶を失ったことがないのでわからなかったが、このような個別確認の儀式はとても苦痛だと知った。
「ごめんなさい。わかりません」
そう答えると、彼は顔を覆ってよろめいた。
幼い仕草が痛ましく、とても可哀想で抱き締めてあげたくなる。
「雪食い鳥なんて滅ぼしてやる」
しかし、口にしている言葉はたいそう物騒なのでやめて欲しい。
「参ったな。こちらでも雪食い鳥の試練か……」
頭を抱えた美しい男性が、どうやらネアの上司兼、このウィームの領主であるらしい。
少し神経質そうな端正な顔立ちで、所謂、典型的なインテリタイプの王子様というところ。
しかしながら、この部屋での美貌の人外率が高過ぎる為、やや埋没している。
寧ろ、部屋の隅で額に手を当てている騎士の方が、穏やかそうな内面の滲み出た整い方で個性がある。
気の優しい虎のような容姿でとても安心感があった。
「覚えている者もいるんですよね?」
最初に自分を立て直したのは、孔雀色の髪をした妖精だった。
深い海のような目をしていて、理知的で冷静なイメージ。
どこか近寄り難い印象なのだけれど、先程かけられた言葉から、決して他人行儀ではないのだと知れる。
(つまり、この妖精さんは仲良しだったのだろうか……)
「はい。隣にいる魔物さんとお話しした結果、知っている名前と記憶にある方がいました」
「教えていただけますか?」
「お名前がわかる方が、ジゼルさんとサラフさん、アーヘムさんにラファエルさん。そしてゼベルさんにグレイシアさんです。他にもお店の方や、会ったことのある方も何人か。個人的にお付き合いがあって覚えている方は、アルテアさんだけでしょうか」
「……その線引きは何でしょう?」
「さあ……。あの女の子に言われた言葉から溢れたんでしょうか?」
「だとすれば、直近でそこまで好感度を下げてくれたアルテアには感謝するしかないですね」
「………ウィリアム」
首を傾げたネアに応じたのは、窓際の椅子に腰掛けていた白い髪の男性だ。
微かに目尻の下がった穏やかな微笑みが似合う人で、よく見れば隔絶された美貌の持ち主なのに、どこか親戚のお兄さん感がある。
その隣のアルテアについては、しっかり覚えているので省略しよう。
「そうですね。雪食い鳥の巣に放り込まれたことを、自分で思っているより根に持っていたようです」
「そのお陰で知り合いを一人保持出来たんだろう?良かったじゃねぇか」
「一概に頼り切れないので、何とも言えない複雑な気持ちです」
「おい……」
鮮やかな赤紫の瞳を半眼にし、前髪を搔き上げながら、アルテアはだらりと背もたれに寄りかかった。
捲ったシャツの袖口を見事な装飾のベルトで固定し、いつものスリーピースは上着を脱いで膝の上に置いている。
本人曰く、力仕事の途中で駆けつけたそうだ。
「三日後に姿を現した、その雪食い鳥を殺せば良いでしょう」
ヒルドという名前の妖精が、事もなげにそう断言する。
「魔術の理はどうする?副作用が出れば厄介だぞ?」
「込み入った魔術の抜け道にはなるが、それは俺がどうにかする」
背もたれに体を預けたままアルテアが手を挙げ、ネアの上司であるらしいエーダリアという魔術師がほっとした顔で一つ頷く。
「とは言え、そうならない為の守りを、相手も固めてくるのではないか?他にも秘められた魔術の仕掛けがなければいいが」
「他には何もなかったよ。あるのはこの、試練に紐付く条件付けだけだ」
そう答えたのはネアの隣に座る魔物で、博物館で一番最初に見た男性である。
静かな声は穏やかでさえあったが、どこか覇気がなく虚ろな気がした。
胸の奥底に微かな焦りが生まれたが、その理由がわからなくてネアは途方に暮れる。
(大切なものを奪われたというなら、私が奪われたのは大切だと思う人達の記憶なのだろう)
厄介なものに引っかかったとは思うが、特に支障があるようにも思えない。
この世界の、残虐でもある人外事情は一応記憶しているので言えるのだが、試練とやらが格別厄介な問題になるとは思えなかった。
食べられないで済むのなら、失ってもまた育み直せばいいものなのが幸いだ。
(勿論、思い出や信頼関係を組み直すのは簡単なことではないけれど、誰かが怪我をしたり死んでしまったりしたわけではないし)
ネアは事なかれ主義だ。
こうして雪食い鳥に食べられる可能性がないと保証されれば、もう肩の力を抜いてしまいたくなる。
そもそも、ここに来てまだ半年足らずと言うではないか。
相手側は積み上げた関係を元に接してくれるのだし、家族との記憶を失ったわけではないのだから、何とか許容範囲内だ。
(別世界の領域だとかで、家族や前の世界でのことを忘れていなくて良かった)
それを奪われない限り、ネアがネアであることは変動しない。
ここはあくまでも住み込みの職場であり、友達であるというウィリアムですら、会ったことがあるのは片手の指程の回数だった。
この短期間で知らない人を特別なものに格上げするには、自分が淡白な人間であり過ぎることを、ネアは理解している。
(出来事が抜け落ちてもいないし)
忘れてしまった人物とのみの、やり取りは失われる。
だが、その他のことはきちんと覚えていた。
例えば、アルテアに雪食い鳥の巣に放り込まれたことは覚えているが、そこに迎えに来てくれたというウィリアムのことは覚えていない。
送り火の魔物を探して捕まえたことは覚えているが、その時に隣の魔物が同行してたことは覚えていない、というように。
とても不思議な記憶の崩落具合であったが、この世界に来てからの自分の足取りが掴めるので有難い。
「それにしても、私はこんなに綺麗な魔物さんと契約したのですね。そんな自分に驚きます」
目を覚ました瞬間に見た、置き去りにされた子供のような綺麗な水紺の瞳。
それからずっと、この魔物はネアと目を合わせようとしなかった。
悄然とするあまり編み解けた髪の毛が顔にかかっていて、つい慰めてあげたくなる。
「………ネアはいつも髪の毛を引っ張ったり、椅子にしてくれた」
「急速に自分というものがわからなくなりました。私は一体何をしていたのでしょう……」
「ご主人様………」
「もしやこれは、思い出さない方がいい記憶なのでは……」
ずさっと後ずさったネアに、魔物はますますしょんぼりとしてしまう。
悲しげに瞠った瞳は可哀想だったが、示された言葉が不穏すぎて慌てて目を逸らした。
幸いなことに、自分の心に問いかけてみても、美貌の男性を椅子にして喜ぶご主人様嗜好は残っていないようだ。
(半年にも満たない期間で、私は一体どうやって道を踏み外したのだ?!)
「どうしよう、辛い……」
「諦めろ。お前はそいつを日常的に椅子にしていたぞ?」
「アルテア!シルハーンも、彼女が記憶の回復に後ろ向きになるような発言は控えて下さい!」
(この人が一番信頼出来そう、かな)
一連のやり取りでそう判断したネアだったが、残念ながら彼はすぐに仕事場に戻らなければいけないらしい。
「すまない、鳥籠を解放するまではあまり長く現場を離れていられないんだ。仕事を終えたらまた来るから」
「いえ、お仕事中にご迷惑をおかけしました。どうぞお気遣いなく」
「気遣うさ。今のネアが覚えていなくても。だから、困ったことがあればどうか無理をしないようにしてくれ」
「……はい」
頭に片手を乗せられ、ぽんぽんと軽く叩かれる。
兄妹のような親密さに微かに居心地が悪くなって、ネアは引き攣りそうな微笑みに力を入れた。
どれだけ好感が持てたとしても、見知らぬ人に触れられるのは違和感がある。
ましてや、このような接触はとても苦手なものの一つなのだ。
ウィリアムの退出を見送り、微かに安堵の息を吐いていると、檸檬色の瞳の少年が何かを差し出してくれた。
「……私にくれるのですか?」
「うん。何だか疲れてるから、甘いもの。ネア、困ってる?」
「そうですね。確かに困っているので、とても嬉しいです。これは、……飴ですよね?」
薄い油紙のようなものにくるまれていたのは、宝石にも見える小指の先程の欠片だ。
甘いものと言うくらいなのだから、食べ物なのだろう。
けれど、そう答えたネアに、ゼノーシュという魔物は驚いたように目を丸くした。
「ネア、……もしかして、これが何だかわからないの?」
「……飴、ではないのでしょうか?」
「雪菓子だよ。ネアも大好きで、良く採りに行ってた」
「雪菓子……」
「ネア、一番好きな朝食のメニューは?!」
「……え、……ハムやチーズでしょうか?」
「毎朝パンに塗ってたのが何だかわかる?」
「………塗るということは、ジャムかバターですよね」
「アルバンの山で羊を育てている魔術師のことは覚えている?」
「羊飼いさんですか?ごめんなさい、その方のことも覚えていないようです」
怒涛の事情聴取が終わり、どこか絶望的な顔でゼノーシュがヒルドに話しかける。
「どうしよう。ホイップバターや、お気に入りの酪農家も覚えてないよ!」
「困りましたね。そういうものにも影響があるとは……」
美味しいものの記憶を奪われたようなので大変遺憾であり、ネアとてさすがに眉を寄せる。
悔しさに渋面になっていると、長椅子の方から低い呻き声が聞こえた。
「アルテアさん?」
「お前にとって、俺は食卓の好物以下なのか……」
「お恥ずかしながら、どうやらそのようですね」
この場合判定を下すのはネア自身ではないので率直に謝罪すると、アルテアは頭を抱えてしまった。
不憫だがこれを機に、是非己の行いを改めて欲しい。
ネアだって、人間を捕食する生き物の巣に放り込む知人しか記憶上いないのだから、中々に悲しいというのが本音である。
「ネア様、ダリルのことは覚えていますか?」
「………ダリルさん、……あ、覚えていました。一瞬、わからないような気がしたんですが、お名前を聞いたら思い出しました」
「成る程。線引きの境界があるようですね」
「即答で思い出された俺は何なんだ」
「きっと、あの夜の恨みが深いということでは」
「お前、案外飄々としてただろ。そもそも、自力で雪食い鳥を屈服させた奴に言われたくないな」
「む。そう言うところですよ、反省して下さいね」
「……ネア、ラッカムのことは覚えているかい?」
「……はい。ラッカムさんのこともわかります」
「そうか」
変態の気配のある発言に怯えたせいで距離を開けたので、同じ長椅子の端と端に座っている契約の魔物。
真珠色の長い髪はゆるやかな曲線を描き、有りとあらゆる柔らかで繊細な色彩を備えている。
長い髪はきつくなり過ぎない程度に丁寧な三つ編みになっていて、綺麗なラベンダー色の天鵞絨のリボンで結ばれていた。
(このリボンを、どこかで見たことがある気がする………)
ふとそれが、とても大切なものだったような気がした。