塔の絵と喪失
その日、夜明け前からネアは何かを考えているようだった。
瞼の奥に、初めてこの手で扱った簡素な花火の眩しさが残っている。
星屑のように弾けて、その向こう側で笑っているネアを見ていた。
その光景を何度も繰り返し思い浮かべる。
一緒に参加していた妖精の迷い子は、当初はとても気に入らなかった。
けれども、ネアが絡まりを解いたその本音を零したとき、ふっと、心が動いた。
動くと思わなかった心が動くとき、誰かを理由なく望むとき、その驚きと喜びの様のどこかが、自分が持つ感情に似ているような気がしたのだ。
これは初めてのことだった。
今まで、誰かを自分に似ていると思ったことなど、今までに一度もない。
ネアが似ていると言う雪食い鳥など、その最たるものだ。
それなのに、どうしてそう思ったのだろうか。
夜明け前にむくりと起き上がったネアは、寝台の上から窓の外を暫く見ていた。
瞳が切なげに揺れて、唇が無防備に開かれている。
今日はあんなに楽しそうにしていたのに、どうしてそんな顔をするのだろう。
不安になったが、今声をかけたら、ふっとこの場から消えてしまいそうな、そんな愚かな妄想に囚われた。
今、ネアが居るのはここではないどこかだ。
私の知らない世界を揺蕩っている。
雪が降り、部屋の壁にその降りしきる雪片の影を落とす。
その中でネアは小さく溜息をつき、もう一度横になった。
そうしてしまうともう彼女の姿は見えないが、呼吸の回数や身じろぎの音で、眠れないのだとよくわかる。
触れればここに繋ぎ止められる筈なのに、なぜか彼女と向き合うのが恐ろしかった。
こちらを意識していなくてもわかる。
そこにあるのは、明確な拒絶だ。
雪の夜は音が吸い込まれ、しんと静まり返る。
その静寂の中でずっと、眠れないまま、ネアの呼吸の音を聞いていた。
「今日はちょっと一人にして貰っていいですか?」
早朝に目を覚ますと、ネアは素早く身支度をし、一度どこかへ出かけていった。
その間一度もこちらを見なかったので、巣の中から出る事も出来ずに息を殺している。
我ながら、どうしてこんなに怯えているのか、よくわからない。
そして戻ってきたネアが起きている私に気付いて、そう言ったのだった。
「ネア……」
言われた瞬間に理解した。
恐れていたのは、きっとこういうことだ。
もし、何か大切なことを決断するとき、彼女はこうしてこちら側の扉を閉ざしたまま、自分だけで結論を出してしまうに違いないから。
その気配を感じて恐ろしかったのだと。
ネア、それは一体どういうことなんだろう。
私から離れて、どこに行くんだろう?
どうして私は、君がどこにも行けないように問答無用でこの扉を閉じてしまえないんだろう。
「私とて、時々は私自身と会話しなければ、新しい心の調律が不安定になってしまいます。今日はそういう日にしたいんです。夜までには帰ってきますね」
「ネア、」
もしそれで、君が私をいらないという結論を出した場合、どうすればいいのだろう。
君はどこにも行かないと言うけれど、もし、君に出会ってから知ったことを一つだけ挙げるとすれば、それは心というものが変わりゆくものだと知ったことなんだ。
誰も慈しまないと思っていた筈なのに、こうして君の気配ひとつに狼狽えてしまうように。
だからいつか、もしかしたら君の心だって変わるかもしれない。
私が望むようにではなく、さらりとこの手を払いのけてゆくかもしれない。
(それならば、迷っている内に引き留めてしまおうか)
こちらに触れたその手の温度に、胸が震える。
懇願にも似た感情が込み上げたが、その為に必要な言葉を一つも知らなかった。
(………何も思いつかない)
ネアと居ると、これまで長く自由に生きてきた手練手管を剥ぎ取られて、何も出来なくされてしまう瞬間がある。
それがとても心地良い時もあるし、ただ困惑する時もある。
けれど、今のこの瞬間の無力さは例えようもなく恐ろしかった。
伸ばした手が触れる前に、ネアはひらりと体を離して部屋を出て行った。
「…………ネア」
足音が躊躇いなく遠ざかってゆく。
戻ってくると言っていたけれど、この一日に私を邪魔だと思った彼女は、どんな結論を育ててくるのだろう。
「ネア………」
少しだけ躊躇したが、気付かれなければいいと判断して立ち上がった。
長い髪を結ぼうとして、いつもならネアが三つ編みにしてくれるのだと考えて、また胸が痛む。
彼女は今朝、髪を結ぶかどうかも尋ねなかった。
まるで、一刻も早くこの場から立ち去りたいかのように、焦ってさえいた。
(さすがに、リーエンベルクの前のこの通りはまずいだろうな)
完全に人通りがないところではないが、それでも王宮前のこの通りは、人影もまばらだ。
ここから姿を見られてしまえば、勘のいいネアは気付いてしまうに違いない。
魔術の道から眺めていれば、外に出た途端に彼女は安堵の表情を浮かべた。
(まるで、私から離れてほっとしたみたいだ)
そして、街に向けて暫し歩いてから、不意に立ち止まったネアは少しだけ泣いた。
(………ネア)
胸が潰れそうになる。
彼女が一人で泣くなんて、堪らないことだった。
それから、彼女は遠回りするように街中を歩き抜けて、ザハに入った。
魔術の道から眺めても良かったが、窓際の席に案内されたので、外からその姿を見ている。
静かに見守るつもりであったが、あっという間に見付かってしまう。
ぎくりとしたものの、ネアが微笑みかけてくれたので、慌てて合流した。
「怖い時はそう伝えればいいんだろう?」
席に着いてから、ここに来るまでに考えて、唯一知っているその言葉を伝えてみた。
鳩羽色の瞳を瞠って、ネアがじっとこちらを見上げる。
「怖かったんですか?」
「普通に出かけてゆくのなら我慢するけどね。今日のネアは揺れていたから」
「……伝わってしまったんですね」
そのことは認めたけれど、やはりその内容については教えてくれないようだ。
それだけで言葉を止めたネアに、また心がひやりとする。
(なぜ私は、こんなに不安定なものを手離せないのだろう?)
不愉快であれば、捨ててしまえばいいのだ。
でも、ネアは違う。
彼女が例えこの心を踏みつけて行ったとしても、それでも諦めることが出来ないたった一つのもの。
これだけが欲しいのだから、これだけは手離せない。
手離せないのに。
なぜかネアは、いつの間にか晴れ晴れとした目をしていた。
ちっとも読めない表情に途方に暮れて、またこちらから話しかけた。
「ネア、帰ってくるかい?」
「あらあら、もう合流しているのにそんな質問ですか?」
「………ご主人様」
(君はそういう形で、私に紐付くものなのに)
だから、手を離してはいけない筈なのに。
恨みがましくそう思ったが、綺麗な瞳を覗き込むとどうしていいかわからなくなった。
あの雪原で、嬉しそうに恋だと小さく呟いた妖精の取り替え子を思い出す。
そう、ここにあるのは、例え自分を滅ぼすとしても欲しい、特別なものなのだから。
(それでなければ駄目なもの)
いつか、ネアもそう話していたのだから、ネアにだってその感情は理解出来るに違いない。
であればそれは、いつかこちらを向くのだろうか。
「この後は、博物館にでも行きましょうか?」
そんな許容一つで、心が弾んだ。
こんな喜びがあることを、ネアに出会うまで知らなかった。
心が動くことは不愉快で苦しく、けれど例えようもない喜びや安堵もここにあるのだ。
「ご主人様!」
飲み物を選ぶように言われたので、メニューを手に取った。
よくわからないけれど、彼女と同じものを飲もうと思ったので、張り切ってメニューとネアの前にある飲み物を見比べる。
(クリームを先に飲む性格じゃないから、コンパンナではないかな。泡が随分白いし、マリアーナかメランジェだろうか)
ザハのメランジェは、ネアのお気に入りだ。
そんな事を考えていた時だった。
ふわりと空気が緩み、向かい側のネアが微笑む気配がする。
「ディノ、大好きですよ」
(…………え)
反応しきれず、手にしたメニューを取り落としてしまった。
声も出せず愕然としていると、今度は何故か冷ややかな眼差しになる。
すぐに反応を誤ったのだと気付いたが、もう手遅れなようだ。
悲しくなったままメランジェを飲み、ザハの喫茶室を出る。
ネアがお土産にチョコレートケーキを購入したのは、ゼノーシュへのお土産か、店員の気配りで出されたというケーキへのお礼だろう。
外に出ると、街には霧が出ていた。
音楽の魔物を象った彫像が霧に沈み、街中の街灯がぼんやりと光る。
雪が均された歩道を歩きながら、隣を歩くネアの揺れる髪を見ていた。
指でなぞり触れたいが、また不愉快にしてしまったらどうしよう。
今日はこれ以上刺激したくない。
博物館に入ると、ネアはエントランスのところで壁際に寄った。
「ディノ、ちょっといいですか?」
「……なんだろう?」
壁際に追い詰められて困惑する。
落ち着かなくそわそわとしていると、ネアは私の髪を一度解いてから、丁寧に三つ編みにし始めた。
「一本結びが曲がっていましたので、気になっていたんです。とは言え、先程のところは飲食の場ですので、髪の毛を弄るのはマナー違反ですからね」
「ネア!」
髪の毛を結び終えると、ネアは入場券を一枚渡してくれた。
これもネアと出会ってから知ったものだが、入場券を購入して入り口で切って貰い、中に入るのだ。
この中だけであれば、勝手知ったる場所である。
中央階段から二階に上がり、第二世紀の展示に連れて行く。
一階にある魔術の創世記の展示は、迫害の歴史も含む。
ネアには刺激が強そうなので却下しよう。
ちらりと一階の展示室の案内板を見てから、ネアも一つ頷いた。
「ディノ、二階の部屋の展示は何でしょう?」
「魔術の言語に応じる、史跡や道具だね」
魔術は言葉から始まる。
元となる力は世界のものだが、それを織り上げる技術は、言葉や陣などの形に成るものから始まるものだ。
初めて象られた転移門は、実際に小さな門の形を石から削り出してきたもの。
初めての結界は、鏡の外周に術式を刻んである。
その全てを丁寧に見ているネアに、今朝の揺れの痕跡はなかった。
少しずつ不安が緩み、編んでもらった三つ編みに触れると唇が綻んだ。
「…………ネア、その奥は見なくていいよ」
「……もしや、あの奥の絵画に描かれているのは、雪食い鳥さんですか?」
「ご主人様……」
「ディノはこの椅子でお留守番していて下さいね」
「ご主人様!」
ぴしゃりと言いつけられ、展示室の中央にある椅子に取り残された。
がっかりしたが、大人しく待つことにした。
離れる瞬間にこちらに微笑んだネアに、拒絶の色がなかったから言い付けを守ろうと思ったのだ。
ネアはその塔の絵を見上げ、暫く佇んでいた。
隣に並んだ親子連れの娘が、子供らしい笑顔でネアに何かを話しかけている。
親に促された子供が離れてゆき、ネアがその背中を見送り、やがて親子連れが展示室を出て行くとこちらを向き、困惑の眼差しをした。
不安そうに見開かれた瞳の美しさに、理由もなくはっとする。
「ネア?」
次の瞬間、ネアは体勢を崩した。
「ネアっ!」
床に崩れ落ちる瞬間に転移して受け止めたが、侵食が沈み込むのを防ぐことは出来なかった。
(血潮の侵食!!)
するりと忍び込んだ魔術には見覚えがあった。
奪われた血から忍び込む、守護の縫い目を侵すもの。
(誰かに血を盗まれたのか?いや、それは今はどうでもいい!)
慌てて修復をかけたが、相手の目的が損傷ではなく条件付けだと知るのにまた出遅れた。
攻撃ではなく、これは試練だ。
「くっ、………雪食い鳥か!」
博物館の敷地内全てを檻に入れたものの、その内部にはもう、雪食い鳥らしき気配は見当たらない。
ぎりっと噛み締めた奥歯が鳴り、覚えたことのないような怒りに目眩がする。
思わずきつく抱き締めてしまって、ネアの体が揺れた。
「…………ん」
腕の中の瞼が震え、ゆっくりと開かれる。
「ネア!」
開かれた溺れそうな灰色の澄んだ瞳には、魔術による侵食や攻撃の気配はない。
肉体的な苦痛や損傷を示す兆候も。
そのことに安堵して、困ったようにこちらを見たネアの髪を撫でる。
「ネア、どこか痛いところはないかい?すまない、悪意の在り処を見落として、君に怖い思いをさせてしまったね」
そう言えば、彼女は不思議そうに瞬きした。
(ネア……………?)
ぞくりと、戦慄が背筋を這い上がる。
この表情はまるで、
「ごめんなさい。……あなたは、どなたですか?」
その言葉に、思考が漂白された。