パンドラの匣とチョコレートケーキ
「今日は、ちょっと一人にして貰ってもいいですか?」
ネアがそう言うと、ディノはゆっくりと目を見開いた。
水紺に菫色の筋が煌めき、窓からの雪の白さを映してとても無垢な生き物に思えた。
「………ネア?」
「そう言えば、ここに来てから、一日一人で過ごしたことがないと気付いたのです。考え事をしたり、出かけたり、今日は自分だけで過ごしてみますね」
ネアは元々一人上手だ。
静かに世界と向き合い、自分の内側を整地することに慣れている。
こちらに来てからあまりにも賑やかで、楽しくて、今の自分がどんな様子なのかすら把握しきれていないようで不安になった。
「丸一日……?」
「ええ。私の朝食は断っておきましたので、ディノはお好きな時間に摂って下さいね。私は外出してきます」
「………一人では危ないよ?」
「大丈夫です。完全防護装備で出るので安心して下さい。勿論、何かあればきちんとディノを呼びますから」
巣から出たばかりの魔物は、途方に暮れて声を失った。
可哀想な気もするが、奇妙な切迫感に追われて、ネアは立ち上がる。
手を伸ばして魔物の髪を撫でてやり、いつものように微笑んだ。
「私とて、時々は私自身と会話しなければ、新しい心の調律が不安定になってしまいます。今日はそういう日にしたいんです。夜までには帰ってきますね」
「ネア、」
悲しげな声に、その頭頂部に口づけを落とした。
けれど、手が伸ばされる気配があったので、その手に捕まる前にさっと体を離す。
「行ってきますね」
部屋を出ると、幸い、追いかけてくる気配はなかった。
この廊下を一人で歩くことなど珍しくないのに、とてもがらんとしているような気がする。
また、ふつりと切迫感に襲われて胸を押さえた。
早足で部屋の前から離れ、駆け出したいような不思議な気持ちのまま、リーエンベルクを出る。
やっと外に出て雪の香りを嗅ぐと、ざわついていた胸がやっと落ち着いた。
「きれい、………だわ」
整然とした並木道だが、剪定で揃え過ぎずに自由に伸ばした枝葉の奥行きが素晴らしい。
真っ白な雪と、その中に咲いている満開の花々。
青みがかった雪がはらはらと落ちる。
振り返って見上げたリーエンベルクは、お伽話の王宮だった。
(写真があれば良かったのに)
たくさん記録しておいて、いつかその環境や誰かが失われても、そこにあったのだと振り返れるように。
(どうして今日はこんなに心が揺れているんだろう?)
見上げたリーエンベルクに、いつものような日常としての無関心さはない。
美しくてとても大切で、心が大きく揺らめく。
しっかりとした悲しみではなく、胸の奥がざわめく切なさのようなもの。
その揺らぎの息苦しさに、わぁっと声をあげて走り回りたくなる。
(沢山の過去を呑み込んだ所為かな?)
大切なものは、過去にも沢山あった。
それが失われた後の静寂を知っている。
だからこそ、その過去を改めて紐解いたことで、こんな風にナーバスになっているのかもしれない。
祭りの後に一人ぼっちで取り残されたような、何とも言えない途方に暮れた感じ。
そんな恐ろしい記憶に、胸が震えた。
当たり前のように続くものなどこの世にはない。
今手の中にあるものの煌めきに感謝したからこそ、それを失う瞬間が怖くなったのだ。
(こんな意味のない不安に揺らぐなんて、私は弱い人間だ)
でもこれもまた飲み干していかなければ、いつか息が止まってしまう。
だからこそ、今日は一日かけて丁寧に、この苦い杯を飲み込む日にしようと思った。
さくさくと雪を踏みながら歩いてゆき、ネアは途中で一度立ち止まった。
遠くで、路上で演奏される音楽が聞こえた。
音楽の都でもあるウィームでは、魔術の恩恵にあずかり、こんな雪の日でも路上演奏が楽しめる。
バイオリンと、何の音だろう。
繊細で美しくて、ほろりと心の端が崩れた。
「…………あ、」
溢れた涙に、思わず指先で頬に触れた。
こういう泣き方は苦手なのだ。
両親が死んだ時も、ネアはほとんど泣かずにいた。
家族を失うということでやるべき事が多過ぎたし、復讐を決意するまでの葛藤もあった。
泣いて立てなくなっても、誰も助けてくれる人はいないのだ。
(………ユーリが死んだときも)
小さな弟は、難病とされる病で幼い命を散らした。
ふわふわの巻き髪で、綺麗な青紫色の瞳をした小さなユーリは、いつも家族の寵愛の的であった。
子供らしい笑い声と、スカートの裾に掴まる小さな手の感触。
あのとき、大切な人の命が奪われてゆくという悲劇が、指先から溢れてゆく砂を搔き抱くような恐怖が、どれだけ願っても救われることがない現実があるのだと知った。
願い努力すれば叶う世界ではなく、びっくりするくらいに簡単になくなってしまうものがあるのだと、初めて知った。
こういう悲劇があることは知っていたけれど、どうしてその手に肩を叩かれるのが自分なのだろう。
どうしてみんなはまだ持っているのに、自分ばかりが手元に残った僅かなものさえ奪い取られてしまうのだろう。
きらきらと輝き、幸福だった日々が瞼の裏に残っている。
そこにあるのが当たり前だったもの。
それが失われた一人ぼっちの家で、泣き叫ぶよりも、ただ、呆然とした。
(悲しみよりも何よりも、あの時の私は狡いと思った)
世界はいつも通りに運行して然るべきなのに、なぜ自分だけがこの酷いくじを引かなければいけないのだろう。
どうして世界は公平ではなく、もっとたくさんのものを持っている人から奪わないのか。
あんなに、あんなに美しいものだったのに。
「うーん、もしやパンドラの匣……」
蓋をして、恐ろしく悲しいものを全部詰め込んだ匣のその蓋の上に、ネアは今まで腰掛けていたのだとしたら。
倒れないようにその中に詰め込んでから、一度も開けずに慢心していたツケがここで来たのであれば、俄然にもう一度蓋を閉めるにしても、中身がはみ出た今の状態では難しい。
目を閉じると、きらきらと輝く美しい世界の中にいる。
今はまた、あの幸福な時間のその真ん中に立っている。
歩き進む最後のページまで、その輝きが続くことは滅多にない。
物語の理というものは、そういうものだ。
(例え、その先が不幸ではなかったとしても)
例えば、大人になってそれぞれの道に進み、それなりに幸福である者たちが、最も人生で輝いていた時代を思い返すように。
眩く美しい花火の火花が消えてゆくのを見ているように。
この心の雪搔きで露呈したのは、そういう類の切なさへの予感のようなもの。
知っているからこそあまりにも想像し易いので、何だか困ってしまう。
目の縁と睫毛に残った涙を指先で払い、ネアは再び歩き出した。
やっぱり言い換えよう。
これは雪搔きのような作業なのだ。
骨が折れるが、いつかどこかでやらなければなるまい。
そう考えて奮起して、よいしょと微笑みを作り直す。
(パンドラの匣よりは、余程いい表現だ!)
苦しいもの、悲しいもの、恐ろしいもの。
それに息が止まりそうになるとしても、ネアは図太く頑丈でもある。
頑丈だからこそ、一人になった元の世界でだって、決して不幸なばかりではなかった。
あまり心が暗くなる比喩は遠慮しておきたい。
(どうしようかな。折角だし、リノアールであの憧れの靴でも買って、街のカフェでのんびりしてみる?それとも、美術館や博物館に行ってみようかな)
身に馴染んだ幸福が、今は贅沢になりつつあることに苦笑した。
魔物はきっと拗ねているだろうから、帰りには忘れずにお土産を買って行ってやろう。
少し泣いたらすっきりしたので、そう考えると何だか楽しくなってくる。
(うーん、まずはカフェに入って、暖かいメランジェでも飲もうかな)
頭の中で幾つかの店舗を精査してから、ネアは、ザハのカフェに行くことにした。
内装が綺麗だし、白とミントグリーンを基調にした上品な店内は落ち着く。
少しお値段は張るが、あそこから眺めるウィーム中心街の雪景色は格別だろう。
(ローゼンガルデンのカフェに行ったら、また感傷的になって泣いちゃいそうだし)
程々に街中なのがいい。
そう結論を出して、ザハに向かうことにした。
一人で歩く街までの道は、街中は、不思議な感覚がした。
孤独なようで無心でもあり、少し楽しく、なんとも言えない切実さがある。
そして、あらためてこの街が好きだと思った。
まだ見ていない他の都市がどんなに素晴らしくても、このウィームには及ぶまい。
もしいつか、仕事の都合やその他の理由でここを離れるのだとしても、必ず最後には帰ってきたい。
(何となくだけど、晩年はどこか静かな郊外でって考えていたけれど、あえて晩年こそ、今暮らしているウィームの離宮で過ごしてみたいな……)
とは言え、あそこはエーダリアの管轄地であるので、個人の都合で乗り込む訳にもいかない。
ひとまず、エーダリアには終生元気でいて貰うようにして、良い関係を築いていこう。
懐かしくなった時に、あの部屋に泊めて貰えるくらいの贅沢が許されればいいのだが。
「いらっしゃいませ」
ネアのコートにご執心な、馴染みのロマンスグレーな店員は、ほんの少し目元を腫らしたネアに微かに眉を動かした。
いつもより丁寧にコートを受け取ると、窓際の一番いい席に案内してくれる。
初めて一人で来たことを訝しんでいるような、年長者らしい心配そうな眼差しだった。
「メランジェを下さい」
「かしこまりました」
雪の降る街をぼんやりと見ている。
手を繋いだ子供と父親に、親密そうな恋人達。
貴族のものに違いない馬車が通り過ぎ、真っ赤な薔薇の束を抱えた花屋が小走りにすり抜けてゆく。
街というものの流動性は、心の澱を洗い流すような効果があった。
洗われた心がどんどん透明になってゆく。
途中で運ばれてきたメランジェは、持ち手の部分を見るに、以前来た時にネアが感動したスミレの花のカップだ。
真っ白なメランジェの泡に、スミレの絵柄が透けて美しい。
(小さなケーキが添えてある……)
薄くカットされた、ザハ特製のチョコレートケーキと生クリームが乗ったお皿が、さり気なく添えてあった。
慌てて振り返ると、先程の店員が小さく微笑みかけてくれる。
嬉しくなって、軽く頭を下げた。
こういう気遣いが出来るからこそ、最高峰のカフェサービスなのだろう。
(幸せだ……)
わかりやすく幸せでいっぱいになってしまう自分の単純さに、くすりと笑った。
こういう幸運に嬉しくなるとき、人生というものは不思議なものだなと思う。
妖精の祝福のような、煌めく小さな宝物。
小さな幸運を積み上げてゆけば、人生はあの儀礼用の白いケープのように素晴らしいものになるのかもしれない。
こうして過去に躓いて涙を流す日だって、うまく纏めれば必要な陰影のひとつになるだろう。
(きちんと、絵の一つになるように上手く人生の階段を歩いてゆけば……)
ふと、街角に佇んでいる男性と目が合った。
特に目立つところもない男性だが、その瞳の美しさに少しだけ見惚れてしまった。
大切な魔物の表情を思い出して、つい微笑んでしまう。
しかし、その途端に男性は明らかに体を強張らせた。
(…………あ、逃げられた)
ネアは、がくりと肩を落とした。
見知らぬ人と目が合って微笑まれたら、それは警戒するだろう。
得体が知れずに怯えたに違いなく、自分の恥ずかしさにネアは落ち込んだ。
せっかくチョコレートケーキで持ち直した幸福感が、不用意な行いで儚くも砕け散る。
また消したい記憶を増やしてしまった。
(辛い………)
寂しくチョコレートケーキを食べていたら、店員がネアの席に誰かを案内してきた。
驚いて顔を上げると、ディノがしょんぼりとこちらを見ている。
「ディノ、お留守番出来なかったんですか?」
まだリーエンベルクを出てから、二時間も経っていないだろう。
少し我慢の限界が短過ぎやしないだろうか。
「さっき、ネアに見付かってしまったから……」
「む……」
一瞬考えてから、街角に立っていた男性を思い出した。
(あ、あれは擬態したディノだったんだ)
だからあんな風に怯えたのかと思い、ネアは安堵の息を吐いた。
それを、ストーキングへのご立腹の溜息だと判断したのか、魔物がびくりと体を揺らす。
「怖い時はそう伝えればいいんだろう?」
綺麗な目を切なげに歪めて、美貌の魔物は少し曲がった髪の毛の編み目を指先で弄る。
悲しげにそう言うディノは、悪戯を見付かった子供のようで、可愛くて心が緩んだ。
「怖かったんですか?」
「普通に出かけてゆくのなら我慢するけどね。今日のネアは揺れていたから」
「……伝わってしまったんですね」
伝わってしまう前に部屋を出ようとしたのだが、間に合わなかったのか。
「ネア、帰ってくるかい?」
「あらあら、もう合流しているのにそんな質問ですか?」
「………ご主人様」
しょんぼりとした魔物が可哀想で、そして何故かその切実さに心が弾んで、ネアは首を傾げた。
「ディノ、何を飲みますか?寂しがらせてしまったので奢りです!」
「ネア……いいのかい?」
「この後は、博物館にでも行きましょうか?」
「ご主人様!」
正直なところ、リノアールであの靴を買って、久し振りに辛いものでも食べに行きたかったので口惜しさもある。
でも、今日はこれくらいでいいような気がした。
(何だろう。来てくれて、何だか嬉しかったし)
「ディノ、大好きですよ」
そう言葉にしたのは、怖がらせてしまったお詫びと、この奇妙な喜びに心が弾んだから。
だから、少しだけはしゃいでみる。
しかし、その瞬間、魔物はメニューをぼさりと取り落とした。
あまりに酷い反応が不本意なので、ネアは己の軽率さを心から呪った。
二度とこんなことは言うまい。
ご主人様は執念深いのだ。