55. ご来客は真っ黒でした(本編)
ハヴランに迷い子が現れたと聞かされたその翌日、ネアはさっそく窮地に立たされていた。
案の定、昨晩の内に、ハヴランでは鳥籠が展開されたらしく、エーダリア達はその対応に奔走している。
ガゼット滞在時に、鳥籠に転がり落ちるときはあっという間だと聞いていたので、すぐにでも開始されるのではとネアは考えていた。
終焉の魔物から、年末年始は何かと繁忙期になってしまうと聞いていたが、どうやら世間一般的には心が荒みやすい時期であるようだ。
(そして、なぜにこうなったのだ…………)
現在、ネアはリーエンベルクに通されたお客と面談している。
エーダリアとヒルド、グラストにゼノーシュまでが外出しているまさかのタイミングで、このお客はリーエンベルクを訪れたのだった。
魔術抵抗値の低い灰色の指先を持つ来訪者で、応対した騎士達もほとほと手を焼いていたらしい。
誰が応対しても症状が悪化してしまうので、若干現場が混乱を極めた時に、例の狼大好き騎士ゼベルが、魔術可動域蟻以下のネアの存在を思い出したのだった。
勿論、警護対象でもあるネアを表に出すことに、騎士達の間では議論があったらしい。
しかし、片手間に雪狼を手懐けられる功績や、魔物の指輪に妖精の庇護持ちであると早々にバラされ、寧ろこれ以上の猛者はあるまいと派遣されるに至る。
「しかしネア様、お一人なのですか?」
「ええ。うちの魔物は現在、宿敵が禁足地の森に出現したことによって、かなり不穏な話し合いに出向いています。是非に同席したかったのですが、お留守番をいいつけられてしまったところでした」
「宿敵とは……?」
「雪喰い鳥さんです。私は和解してるのですが、どうもディノはやはり気が合わないようで……」
「ゆ、雪喰い鳥と何かがあったんですね?」
「そんな心配そうになさらなくても、誓約をもぎ取って安全にしてありますので大丈夫ですよ」
「………え、誓約…………?雪喰い鳥と、誓約?」
そう呻くなり青くなってしまったゼベルは、心配の必要なんてなかったんだと、ぶつぶつと呟いている。
しかし、そう言いながらも一人でやって来たネアに同席してくれたのだから、騎士らしく面倒見のいいところもあるのだろう。
残念な狼具合しか見ていなかったので、ネアは小さな感動を覚えた。
(そもそも第二席という事は、グラストさんがいない時はゼベルさんが責任者なのか……)
しかし、そう考えるとまた不安になるのはなぜだろう。
長いケープを翻した魔術騎士の制服がとても似合うので、妙に残念さが倍増する。
ネアが訪れた部屋は、以前、麦喰いの魔物を通した場所だった。
本棟から外れた別棟の衛兵用の控え室にあたるのだが、王宮の建築を見事に反映させた結果、初めて訪れた者は充分に来客用の控室だと思ってしまうくらいの造りになっている。
リーエンベルクの建築にあたった者は、かなりの完璧主義者だったのだろう。
「ネア様、僕はこちらに控えておりますので」
「はい。有難うございます」
魔術浸食を抑える為に、ゼベルは部屋の一番隅に隔離結界を展開して留まるようだ。
言わば硝子ケースに収められて設置されているようなものなので、同席している御客人を傷付けないで済むらしい。
高位の魔物達が施すように、魔術そのものを内側にしまい込む技は、人間には難しいのだそうだ。
「初めまして、ネアと申します。上の者が出払っておりますので、代わりにご用件をお伺いいたしますが、本日はどのような用件でいらっしゃったのでしょうか?」
大きなテーブルを挟んで向かい側に座っているのは、ややくたびれた面持ちである一人の騎士だ。
鎖骨あたりまでの淡い金髪を一本に縛り、鮮やかな青い目をしている。
目の覚めるような美しい人という表現は、このような人間の為にあるのだろうとネアは思ったが、人ならざるものの美貌に慣れてしまった目には、なぜか色合いが弱々しく見えてしまった。
(…………この人が、魔術抵抗値がないの?)
確かにテーブルの上で組まれた手の指先は変色しているし、耳先にも灰色の部分があるようだ。
末端から侵食される症状のそれは、分かりやすく発症している。
寧ろ、魔術に長けているような容姿であるので少し意外だった。
ネアが見てきた限り、どうも魔術に長けた人間というのは一様に一般的ではない容貌であるのが常で、その法則を当てはめるならば、この人物はかなり高位の使い手でもおかしくはない。
ネアの挨拶を待ってから、慇懃に頭を下げて騎士は自分の身分を明かす。
「アルビクロムの国境域、ロンディアの砦におります、ラッカムと申します。実は、ウィームの領主殿に急ぎの伝言がありまして。ただ、ご不在にされており戻りも未定だと聞きましたので、どなたかに言伝をお願いしたい」
「わたくしで良ければお伺いしますが、機密を取り扱うには立場の弱い人間です。あまり人目を介さない方が良ければ、文章のようなもので残していかれますか?」
「いえ、そこまでご配慮いただくまでではありません。……実は、ハヴランの国境域で、仮面の魔物による騒乱にて、重篤な被害が出ております。今回は死者の王の姿を見たという者もおりまして、防壁の構築に際し、是非にガレンエンガディンの知恵をお借り出来ないかと申し付けられ参じた次第です」
「まぁ、仮面の魔物ですか。それは困りましたね」
しかし、この場面において本当に困ってしまったのは、ネアだった。
ネアは鳥籠というものがどういうものなのかを、身に沁みて知ってしまった珍しい人間だ。
何しろ鳥籠の制作側からの解説によるものなので、まず間違いない知識なのが珍しい。
そして今回のラッカムという騎士の説明は、その大原則に反した報告であるのだ。
(…………誤報告かもしれないけれど、鳥籠の外側から死者の王の姿は見えない筈。それにこの人は、ハヴランの国境という言い方をした。気にし過ぎているのかもしれないけれど、ハヴランとの国境という言い方じゃなかった……)
それに、どれだけ国境の向こう側が死屍累々であろうとも、鳥籠が展開されている間こそ、防壁などを展開するような心配をする必要などないのだ。
どんな些細な魔術的要素も漏らさないというのが鳥籠であり、それについてはこの世界の一定以上の階位の者であれば、誰だって知っている筈のことなのに。
(…………どうしよう。怪しいお客様だった)
困惑するしかない怪しさに、ネアは振り返ることも出来ずに途方に暮れる。
第二席だというゼベルであれば気付いてくれているかもしれないが、意志疎通をするには振り返る必要があるのと、ネア程度のひよこ交渉技術具合では、何かを伝えようとしても目の前の騎士に気付かれてしまう可能性が高い。
この申し出の内容がぺらっぺらだろうと、このリーエンベルク内部まで通されるくらいには有能なのだろう。
「………ごめんなさい。まさかここまで困った内容だとは思いませんでした。すぐにエーダリア様にご報告させていただきますが、………あら、足元は大丈夫でしょうか?この建物の中に巣作りをしている鼠さんなのですが、お邪魔だったら隅っこにどかしておいて下さいね」
「………おや、本当ですね。踏まないように気を付けますのでご安心下さい」
ラッカムと名乗った騎士の足元に転がりこんできたのは、真ん丸鼠こと冬籠りの魔物だ。
痩せて一回り小さくなった現在も尚、転がせば転がってしまうような真ん丸体型ではあるが、これでも立派な魔物である。
この冬籠りの魔物が見事なコースでラッカムの足元に転がってきたのだから、やはり騎士の誰かが彼を怪しんで罠を仕掛けてくれたのだろう。
ラッカムの足という、体を固定する良いストッパーを見付けて無事に眠りについた冬籠りの魔物を生温く見守りつつ、ネアは、いささか引き攣った顔でその鼠をどかそうとしている騎士に微笑みかけた。
(リーエンベルクの防壁は、魔術の有無に作用する。だからこの人は、自分の保有魔術をどうにかして、ここに入り込んだのかしら?)
ゼベルだけではなく、エーダリアでも完全に隠蔽するのは無理だと話していた保有魔術を、ここまで完全に消し去ってしまう技術というものがあるのだとすれば厄介だ。
しかし、潜入したところで、リーエンベルクの駐在者は皆魔術に長けているのだから、形勢は不利になるばかりではないか。
ラッカムは一体何がしたいのだろう。
御客人が自由に歩き回れる筈もなく、何かの作為を施そうにも、魔術を解放すればすぐに露見する。
この世界には、隠しカメラや盗聴器のように便利な品物はないのだ。
似たような道具があったとしても、必ずそれは魔術の仕掛けで作動するものなので隠しようもない。
「ゼベルさん、急ぎエーダリア様にご伝達いただけますか?」
「ええ。保安上、ネア様と御客人をお二人には出来ませんので、ネア様も一度ご退出下さい」
「そう言えば、そうですね。ラッカム様、申し訳ありませんが、規則上私も一度退席させていただきますね。お飲物はあるようですが、何か焼き菓子なども召し上がられますか?」
立ち上がろうとしながらそう声をかけると、ラッカムは微かな困惑を滲ませて首を振った。
形の良い眉を不安そうに顰めかけて、またふわりと穏やかな来客そのものの表情に戻る。
「………あなたは、歌乞いなのですか?」
不意に、そんなことをラッカムは尋ねた。
視線をラッカムに戻し、ネアは小さく首を傾げる。
ネアという歌乞いがどれだけ情報として開示されているのかわからないが、少なくとも、ぱっと見て歌乞いだとわかるような要素は皆無である筈だ。
「なぜそう思われたのでしょう?」
「いえ、リーエンベルクにはヴェルクレアの歌乞いがいると聞いていましたから」
「だから、私だと思われたんですね」
「……しかし、魔術可動域が低くていらっしゃる?」
「ふふ。これでも魔術可動域は六で、蟻以下なんですよ」
「………六?しかし、歌乞いなのでは?」
「色んな魔物がおりますから」
きっと含みあって問いかけた筈なのに、ラッカムはネアの答えた数字に呆然としてしまっている。
危うくそのまま退出されそうになって、慌てて手を伸ばした。
「申し訳ない、ラッカム殿」
さっとゼベルが割って入り、ネアは本物の騎士の立ち振る舞いの優雅さに圧倒された。
素早く動いた筈なのに、装備の音一つさせず、強引に割り込んだという感じすら出さなかったのだ。
「……っ、いえ、私の方こそ失礼いたしました。ネア様、あなたがヴェルクレアの歌乞いであるのなら、お聞きしたいことがあります」
ゼベルの背後に庇われながら、ネアは、いささか強引になってきたラッカムの言動に眉を顰める。
ここでどうこうするには圧倒的に不利な筈なのだが、その余裕のなさとでも言うべき気配に不安になった。
「私に、聞きたいことでしょうか?」
真っ直ぐにこちらを見た青い瞳にあるのは、したたかさと、嘘と、そして、
(………諦観?)
苛立ちであり、不快感であり、憎しみであり、そしてその行き着く先の諦観とでも言うべきもの。
こんな目をした誰かを、どこかで見たような気がした。
(…………ああ、あの金貨の瞳をした美しい魔物だ)
エマジュリア。
そういう名だと、アルテアに教えられた。
怒りと軽蔑を込めてこちらを見ていたあの少女と、目の前の騎士は良く似た眼差しをしている。
けれど、その剥き出しの色は一瞬で、その後の落ち着いた表情は、エマジュリアより遥かに凪いだ水面のような諦観、ネアにとって特別な人にも良く似ていた。
「あなたの契約の魔物こそが、仮面の魔物なのではないですか?」
「…………ん?はい?」
あまりにも想定と違う質問をされると、人は何も考えられなくなるらしい。
ぽかんとしたネアに、ラッカムも拍子抜けしたように目を丸くする。
「………違う、ようですね」
「ええ。私の魔物は薬の魔物ですので、そんな尖った名前の魔物ではありません」
「でもやはり、あなたがヴェルクレアの歌乞いであると」
「はい、そうです。とは言え、こんな感じで私は低品質ですので、あまり公にはしてないようです」
「……そうでしたか」
「ラッカムさん、」
名前を呼んだネアに、ラッカムは鮮やかな瞳を向ける。
目が合っているのに、その眼差しがちっともこちらを見ていないようで、ネアは溜息を吐きたくなった。
ラッカムが見ているのは一体何で、どうしてこんな風にリーエンベルクに押しかけてきたのだろう。
「…………はい?」
「大丈夫ですか?」
「え?」
「きちんと寝て、きちんと物事を考えていますか?何か困ったことがあって、心が追い詰められていたりはしませんか?……今のあなたが居る場所は、大丈夫なのでしょうか?」
ネアの問いかけは静かだった。
声を失って目を瞠ったラッカムに、隣にいるゼベルさえも絶句している。
「……な、何を」
「あなたを見ていると、断崖絶壁を歩く人を見ているような気がするのです。私は全くの他人ですが、こうして思わず声をかけたくなるくらい、あなたは見ていて不安になります」
「……は、……何を馬鹿なことを。……いや、……いえ、失礼いたしました」
「私の方こそ、初対面で踏み込んで申し訳ありません。ただ、もし今の場所が散々でしたら、投げ捨てて逃げ出しても案外どうにかなるのだと、どうか心に留めておいて下さいね」
「逃げ出す?」
「時に、試合放棄は恥ではなく、賢い戦略です。もうすぐ新年ですよ。美味しいものが沢山食卓に並びます。どうか、あまり無理をしないで下さいね」
意識して穏やかな微笑みを作った。
あの時には無関係ではなかったからこそ出来なかったことで、今のネアには無責任に向けることが出来る微笑みだ。
ゼベルに促されて扉を抜ける。
ぱたんと扉が閉まってからようやく、ネアは深い溜め息を吐いた。
少し歩いて結界の層でもある防壁を通り抜けてから、ゼベルはおもむろに立ち止まる。
「ネア様、どうしてあのようなことを?」
「ゼベルさん、早く退出させようとしてくれていたのに、申し訳ありません。……あの方を見ていたら、放っておけなくなりました」
「確かに美しい騎士でしたが、ネア様も気付かれたように、あれは、本当に魔術抵抗のない人間ではありませんよ?」
「ええ、真っ黒でしたね。魔術抵抗値のない方でしたら、冬篭りの魔物に足に寄り添われたら倒れてしまいますから」
「侵入者かもしれなくても、あれだけの美貌であれば、女性には魅力的に映るのでしょうか」
「と言うより、昔好きだった方に雰囲気が似ています」
「……え?!」
驚きに声を上げたゼベルが、次の瞬間ぞっとしたように蒼白になる。
その見上げた視線の高さを測って、ネアは自分の背後に誰が立っているのかを悟った。
振り返れば、やはり人間の美貌の域とは格の違う艶麗な生き物がひっそりと立っている。
喧嘩した様子もなく綺麗な姿で戻ってきたので、ネアは一安心した。
「………ネア、それは聞き逃せないな」
「ディノ、お帰りなさい。領土交渉の中に、こちらにも注意を割いてくれて有難うございます」
そう言えば、ゼベルが驚いたようにこちらを向いた。
ネアとて愚かではない。
見ず知らずの外来者に、魔物の同席なく足を運ぶ以上きちんと報告はしてから来た。
昨日、エーダリアから注意喚起されたばかりなのだ。
(離れた場所にいてもこちらを見ていてくれるって、とても大変だったと思うけれど)
きっとラファエルと話していても気が散って仕方なかっただろう。
実はそれも狙いの一つだ。
あわよくば、そちらを放り出して同席して欲しかったのだが。
「本当は、一人で外部の人間になんて会わせたくなかったけれどね」
「これだけ武装させておいて、ディノは心配性ですねぇ」
伸ばされた手が頬に触れる。
ここで不愉快そうにではなく、本気で心配そうにするのだから、ディノは心からネアの身を案じてくれたのだろう。
ネアを持ち上げようとして微かに逡巡した悲しそうな表情に、両手を伸ばして持ち上げ易いようにしてやった。
今回のようにネアの要求に妥協してくれた場合は、ネアの方でも素直に感謝の意を伝えようと思っている。
線引きをするだけでもまた、信頼関係は育たないと思うのだ。
嬉しそうな魔物に抱き上げられながら、ネアは事態の確認を急いだ。
「ラファエルさんはご無事でしょうか?」
「見つけた宝石の塊を、君にあげようとしたらしい。別に私でも構わないと託されたけど、見たいかい?」
「……くれる気はないのですね?」
「見るだけなら……」
「では、しっかり拝見した後に、リーエンベルク内の置物にしましょう。私の部屋でなければ構いませんよね?ご好意を傷付けるのは嫌ですから」
「………ずるい」
「狡くはありませんよ!寧ろ、これだけ譲歩したご主人様に感謝して下さい」
「宝石ですか。いいなぁ、それを売れば雪菓子が買えますね………」
「あげよ…」
「ディノ、勝手に私のものを人様に譲渡してはいけません!それからゼベルさん、雪菓子ならまた今度採りに行くので、少しお土産で差し上げますね」
ネアの采配に魔物はしょんぼりし、ゼベルはぱっと顔を輝かせた。
ゼベルが資金難であればあげてしまってもいいのだが、売り物として出回れば、ラファエルの目に触れて悲しませてしまうこともあり得る。
「ネア、浮気……」
「いいえ、ゼベルさんのお相手は雪狼さんなので、これは寧ろ慈善活動です」
「あの男も気に入ったのだろう?」
「………男?」
少し不貞腐れた魔物を見返して、ネアは首を傾げる。
何故、ディノだけでなくゼベルまで頷いたのだろうと、深々と眉を顰めた。
「君が、随分と気にかけていたさっきの男だよ」
「たった今お会いした、判定が真っ黒な騎士の方でしょうか?」
「うん。……ネア?」
「ディノ、あの方は女性でしたよ?」
「え………?」
「……は?!」
出会ってから初めて、外野と全く同じ反応をしたディノを見た気がする。
寧ろそのこと自体に驚かされたネアは、困惑の表情をいっそうに深めた。