調伏士と雪食い鳥
「やあ、まばゆいばかりの紫銀の翼だな」
そう話しかけると、木の上で歌っていた美しい生き物はこちらを見下ろして馬鹿にしたように笑った。
調伏士だとは知らずにすっかり油断しているのだろう、そう考えて一歩近付けば、大きな四枚羽を持つ生き物は、ばさりと翼を打ち鳴らした。
「こちらに来ると、君を食べてしまうよ。この兵士達のようになりたいのかい?調伏士」
ぎくりと体を強張らせ、木の上にあった黒々とした塊を注視した。
それまでは牛か馬の塊だろうと考えていたのだが、よく見れば見慣れた騎士服のマントの切れ端が引っかかっている。
「私が調伏士だと気付いていたのか。……その騎士達を殺したんだな」
「殺すも何も、君たち人間は僕達の可愛い晩餐なのだけど?」
「その立派な羽を捩じ切られても、その調子で笑っていられるのか?」
そう揶揄した途端、すっと眇められた眼差しの暗さに、思わず後退しそうになる。
木の上でゆっくりと立ち上がった異形の生き物は、大きな翼を禍々しく広げて淡く光る。
翼や羽を持つ生き物が光るとき、それは相手を殺す時だけだとこの世界に来てから知った。
そんな生き物達とて跪かせてきたが、大きく広げた翼に真っ白な風切羽があるのを目にして、ふと嫌な汗が背筋を伝う。
(こいつ、白持ちか………)
生まれ育った世界に於いて、鳥の翼を持つ生き物は魔物、或いは悪魔と呼ばれていた。
蜻蛉の羽を持つ生き物を神とし、蝶の羽を持つものが妖精であった。
この世界ではその区分は変わってくる。
その代わり、ここで真っ先に覚えたのは白持ちが特等だということだ。
「最近ね、魔物の公爵が僕を不愉快にする為だけにこの翼を捩じ折ったことがあってね。それ以来、その挑発はとても不愉快なんだよ」
「へえ、魔物の公爵とやらとは気が合いそうだ」
「君が?彼と?」
こちらの言葉の何がおかしかったのか、紫銀の翼の青年は声を上げて笑う。
ぞわりと背筋が粟立つような、美しいからこそおぞましい笑い声に、手にしていた聖符が一枚腐り落ちる。
「まさか!あれは生粋の魔物。君達人間なんて、壊して遊ぶ玩具だと考えているような残忍な生き物だよ?」
「そんな魔物がなぜお前に制裁を加える。人間を喰らうお前の、その残虐さを憂いたんじゃないのか?」
もう一つ。
この世界に来て学んだのは、魔物という区分の生き物が、神であり、同時に悪魔でもある灰色の立ち位置の者だということだった。
こちらでは、教会の神とされる者ですら、鹿角の魔物なのだ。
(であれば、その魔物は神寄りのものなのではないか……)
木々に吊るされた騎士達の亡骸を見ても、目の前の生き物が善良なものには到底思えない。
隠し持った聖符の数を反芻し、調伏に相応しい詠唱を幾つか吟味する。
翼を持つものを手に入れることが出来れば、戦場での良い斥候になるだろう。
「君は無知だね」
薔薇色の唇の端をゆっくりと歪めて、青年はけだもののように微笑んだ。
美しく謎めいていて、そしてどこまでも蔑みに満ちた氷のような目に、ちらりと悪意の煌めきがしたたる。
「彼が僕を傷付けたのは、僕達雪食い鳥が、決して他の種族に膝を折らないからだよ。僕達はね、それが例え魔物の王であろうとも、頭を下げない。だから、あの夜はそれが彼の気に触ったんだろう」
羽ばたきの音が耳の奥で聞こえる。
そう感じて、訳もわからずはっとしたけれど、目の前の青年は翼を動かしてもいなかった。
けれども、それを理解しても尚、耳の奥で羽ばたきが聞こえる。
「君の価値観は醜悪だね。あの子みたいに面白くない」
「……あの子?」
「そう、とても可愛くて残酷な女の子。僕から誓約を取り付けた唯一人の人間で、とても不思議な子だよ」
わんわんと、耳の奥で鐘が鳴り響くような重たい音がこだましている。
ぐらりと揺れた視界に奥歯を噛み締めて、顎先から滴り落ちた汗を見ていた。
こんな様子になっても、まだ目の前の生き物から目が逸らせない。
(くそっ、私は……王だぞ)
雪と氷に閉ざされたあの貧しい国で、やっと手に入れた王座だった。
国境を面した小国を幾つか滅ぼし、ようやく大国と対等に交渉できるだけの足場を固めた矢先だ。
これからだった。
富も、戦場の名誉も、美しく気高い大国の姫も、何だって手に入れることが出来たのに。
奪い、食い、滅ぼしてゆくその最果てに、幼い頃から思い描いてきた千年王国を築く筈だった。
気付けば、見知らぬ世界の暗い食糧貯蔵庫に立っていて、駆けつけた領主付きの魔術師に、迷い子だと宣告された。
あの瞬間の絶望と怒りを、いったいどう言葉にすればいいのだろう。
国境域の脆弱な守りを強化する為だけに呼び落とされたのだと告げられた、そんな下らない理由だった。
(こんなところで、悪魔の魔術になど屈するものか!)
大きな利点を持つ魔物を捕らえる為にと、調伏士として見込まれ呼び落とされたのだそうだ。
それには得心がゆく。
元々、竜騎士として名を馳せた父親の血を引き、魔力に恵まれて生まれてきたのだ。
六人いた腹違いの兄弟達をこの手で葬り去ることが出来たくらいには、抜きん出た才能を持ち得ていると自負している。
「うん。ある程度は頑丈だね。これなら使えるかな」
視線の先で、美しい悪魔が微笑む。
祖国の聖典にあった、人を堕落させる為だけに神をも凌ぐ美貌を持って生まれた悪魔の話を思い出した。
「僕達雪食い鳥はね、出会った人間に試練を与える。そしてそれを克服出来なかった人間は、頭からばりばりと食べてしまうんだ」
「……試練?」
「そう。雪食い鳥の試練を克服出来たものは、祝福を手に入れることが出来るんだよ」
背後でいっせいに笑い声がさざめいた。
緩慢な動作で振り返り愕然とする。
周囲の木を覆い尽くすような数の、翼を持った悪魔達がこちらを見ていた。
女もいれば男もいる。子供も、老人も。
そしてその全てが、魂を奪われそうなくらいに美しい。
ただ、四枚の翼を持つのは、目の前の紫の目をした青年だけだった。
「上手くいけば、君の欲しい大きな国が手に入るかもしれないよ。君だって、苦労して手に入れた王冠がこんな辺境の領主のままで、国王にいいように利用されるのは嫌だろう?」
「お前のような生き物の、甘言になど惑わされるものか………」
「別に僕は君に無理強いはしないし、道筋も固定しない。ただ、周辺の国々が喜びそうな面白い話をしてあげるだけだ」
「そんなことをして、お前に何の得がある?」
「僕の翼を傷付けた魔物が嫌がるかな。それに、仮面の魔物は、僕の可愛いあの子を虐めたからね。ちょっとした嫌がらせだよ」
「ふざけるな!お前の私怨を晴らす為に、私がみすみす罠に踏み込むとでも思ったか!」
何とか震えずに声を張り上げられたが、青年は愉快そうに笑っただけだった。
ここまでだと、身に馴染んだ魔術を織り上げようとして、土地の魔術の道がほとんど言うことを聞かないことに今更気付く。
ぞっとして動けなくなったこちらを、鳥達が笑いながら見下ろしていた。
「罠も何も、君が今立ち竦んでいるここが、罠の中だ。だから君には、この試練を断るという選択肢は最初からない」
人間は馬鹿だねと、翼の悪魔は艶やかに微笑んだ。
「僕達の翼を見て、身の程も知らずに討伐部隊なんて差し向けるから、こうなったんだよ。この国に来たのはね、良い水仙を食べに立ち寄っただけだったんだ。それなのに、君達ときたら、自らの意思で雪食い鳥の営巣地にやってきてしまった!」
雪食い鳥達がいっせいに翼を打つ騒々しい音。
そして、禍々しい囀り。
「可哀想に。この世界で、調伏士が何を調伏して良くて、何が禁忌なのかを誰も教えてくれなかったんだね。さぁ、頑張ってみるんだよ。失敗したら、僕達に食べられてしまうからね」
ざわざわと木々が揺れる。
ふと我に返ると、そこにはもう雪食い鳥は一羽も残っていなかった。
しかし、簡素な石造りの城に戻ってからもずっと、耳の奥の羽ばたきの音は消えることがなかった。
仮面の魔物を捕縛したと領内に大々的に布告を出し、国境沿いの大国にも伝わるよう、大袈裟に王に伝令を出したのは、それから二日後のことだった。