毛玉の精霊とハシバミの呪い
部屋に戻ると、まだ魔物は留守にしていた。
休日にだらだらしようと思っていたことを幾つか棚上げして、ネアは雪靴を脱ぐ手を止めて靴紐を結び直すと、中庭に続く扉を開けて外に出た。
禁足地の森に繋がっているが、これだけの装備をつけておいて特に何かの危険があるとも思えない。
滑らかな毛皮のコートの襟下にある首飾りを思って、ネアは小さく微笑みを深める。
ここで繋がっていると思うと、ほんの少しの恐れと共に、絶対的な安心感があるのは確かだ。
(イブメリアと誕生日が終わって、後は太陽の祝日と、年末年始)
日付的にはクリスマスに当たるその日、こちらでは太陽を祀る祝祭日がある。
年に四回ある太陽の祝祭日の内、最も大きなものの一つだ。
沢山の硝子や水晶のオーナメント的なものを窓辺に吊るして、キラキラと光る陽光を楽しむ日でもある。
「あれ、何か落ちてる……?」
あまり奥まで歩いていかないようにしていたが、森の領域の方に綺麗な真円の毛玉が落ちていることに気付いた。
ふわっふわの毛玉は、蒲公英のような見事な黄色だ。
ころりと風に転がる様は、走って行って捕獲したくなる本能を掻き立てる。
(捕まえたくなる!)
自制したつもりなのだが、気付けばぱたぱたと駆け寄ってしまっていた。
直前で我に返り、はっと固まれば、毛玉はくるりとこちらを向いた。
「ムギィ」
「生きてる?!」
しかも三白眼で可愛くない。
思わず後ずさりしたネアに、毛玉はどこか意地悪そうな顔になった。
「どうして結界内にこんな毛玉が…」
言いながら思い出した。
結界の中でも避けられない出現に、その場での派生がある。
つまり、この毛玉は結界の中で生まれたのだろう。
「ムギィ…」
ころりと転がりながら毛玉が近付いてくる。
「近付いてはいけませんよ!そして転がる時に、顔面が地面に接しているのが心配になります」
「ムギィムギィ」
「いけません。人間は、丸いものが転がってくると、投げるか蹴るかしたくなる、とても罪深い生き物なのです」
転がってくる毛玉に押されて後退しつつ、ネアは背後に見えてきた自室の窓に眉を寄せる。
この生き物を、自分の部屋に近付けたくないと思ったのだ。
(蹴るか………)
ボールのように蹴り飛ばすことを思案したが、想定外に脆い生き物で死んでしまったりするのも後味が悪い。
生まれたばかりで蹴り殺されるのは不憫だろう。
今回は特に敵対しているわけでもなく、転がってくる毛玉というだけでは、悪意があるのかどうかもわからない。
(悪意を感じなくもないけど、この造作だと目つきが元々悪いだけの可能性も……)
悩みながら後退していたせいか、毛玉に追いつかれてしまった。
雪靴にぺたりと張り付いた毛玉に、ネアは激しく渋面になる。
このへばりつき方からして、もしべたべたした素材だったらどうしようと考えたのだ。
「毛玉、離れて下さい……っ!」
蹴り飛ばすわけにもいかず、体を屈めて手で剥がそうとしたところ、触れた指先に嫌な痛みが走った。
慌てて手を離して見てみると、紙で切ったような深い一直線の傷がある。
(痛い………)
見る間に血の粒が盛り上がり、ぽたりと真っ白な雪に滴る。
コートや靴を汚さないように慌てて口に含みつつ、ポケットの中のハンカチを探り当てて巻きつけた。
どうやら、この毛玉は見た目通りのふわふわではなく、かなり鋭利な切れ味を持った外皮をしているようだ。
「ムギィ!」
「……今度こそ確信しました。さてはその鳴き声は、私が怪我をして喜んでいますね?」
「ムギィ!ムギィ!」
足元から離れて、ぽんぽんと弾んで大喜びする毛玉に、ネアは剣呑な表情で目を細めた。
蒲公英色のファンシーさを裏切るように、やはりこの毛玉は表情に見合った邪悪な生き物であるらしい。
「おのれ毛玉め、私は借りは返すタイプです!」
「ムギッ?!」
蒲公英毛玉に誤算があったとすれば、目の前の人間が極悪非道な狩りの女王であったことだ。
相手に傷を負わせるだけの力を持つ敵に容赦などする筈もなく、ネアは何の手加減もせずに、両手で反動をつけて片足を振り抜いた。
見事に蹴り上げられた毛玉が飛んでゆく。
「ふっ、愚かな毛玉です。学生の頃、授業のサッカーで私は得点王だったのですよ」
黄色い点になりながらそこそこに離れた大きな木の根元にぽしゃりと落ちた毛玉は、予想外の反撃に、鳴き声が聞こえそうなくらいに激怒して力強く跳ね回った。
「む、まだ元気とはやりますね。これは徹底的に戦うしかありません」
対するネアも表情を引き締めたその時、毛玉は荒ぶるあまりに背後の大きな木の幹に激突した。
当たっても痛くもないのか、すぐに飛び上がる軌道を修正して弾み上がりに戻る。
ネアが目を瞠ったのは、ぶつかられた木の幹がざわりと波打ったからだ。
「………毛玉、後ろ」
思わずそう呟いてしまったのは、禍々しさという点では、毛玉の遥か上をゆく生き物が顕現したからである。
(………木のお化け?)
葉を落とした大きな木がざわりと体を畝らせ、ぎしぎしと枝を曲げてのたうつ。
波打っていた木の幹には明らかに大きな口と思われるもの裂け目が現れ、ネアでさえ震え上がるような容貌になった。
(これは、まずいかも………)
美しく厄介な生き物たちには耐性があるネアだが、実はホラーに寄せた外見の生き物は、たいそう苦手なのだ。
木の幹に口が現れた瞬間に、もう自分の手には負えないと判断した。
心が怖気付けば戦えないし、逃げようにも背後にあるのは自分の部屋、ネアの大切な牙城である。
そこに進入させるわけにもいかない。
一瞬、打ち合わせ中のディノではなく、城内にいるヒルドやゼノーシュを呼ぶことも考えたが、位置関係的に、ここに駆け付けるにはディノのテリトリーでもあるネアの部屋を通らないといけない。
すぐに諦めた。
「ディノ、」
慌てて指輪に向けて呼びかけると、ふわりと背後の空気が揺れた。
「ネア、どうしたんだい?おや、ハシバミの呪いだね」
「ディノ………」
当たり前のように現れた魔物に、背後からぎゅっと抱き締められる。
ほっとして膝から力が抜けそうになった。
「もしかして、ハシバミが怖かったのかな?」
振り返って魔物の腕に収まり直したネアに、ディノは酷く嬉しそうに破顔した。
滅多に自分を頼らないご主人様からの救助要請が、とても嬉しかったらしい。
「あの外見はなしです。ごめんなさい、会議中だとわかっていたのに、呼び出してしまいました」
「いくらでも呼んでいいんだよ。ネアはいつも、私を呼ばないから」
嬉しそうに微笑みを深めたディノに持ち上げられてから、ネアは怖々とハシバミの木を振り返る。
「……怖っ!」
「ご主人様……!」
ディノがハシバミと呼んだその大きな木は、枝で捕獲した蒲公英色の毛玉を、ぽいっと口の中に放り込むところだった。
震え上がったご主人様にしがみつかれて、ディノが更にご機嫌になる。
ややあってから、魔物は終息宣言を出してくれた。
「……もう大丈夫、終わったよネア。ほら、ハシバミは元通りだ」
「………普通の木に戻りましたね。ディノ、今の惨劇はハシバミの呪いというものだったのですか?」
「そう。ハシバミの老木はね、百年に一度だけ、自分を傷付けたものをああして呪うんだ。さっき捕食されたのは、毛玉の精霊のようだね」
「ええ、見た目は見事な蒲公英毛玉でした」
「リーエンベルクは派生率が高いそうだから、あの毛玉にも触れないように。ここで生まれる要素があるものだから防ぎきれないけれど、あれはとても邪悪な精霊だからね」
「……既に一戦交え、引き分けのところです」
「ご主人様……」
そこでディノは、自分の肩にかけられたネアの手が、右手の人差し指だけ浮かせていることに気付いたようだ。
びっくりするくらいに鋭い表情になると、ネアにその手を外させ、ハンカチに滲んだ血の色を見つめる。
「蒲公英毛玉が靴にくっついたので、手で取ろうとしてしまったのです。紙で切ったようなものですが、指先なので血が多く出たのでしょう」
あまりにも深刻な顔に慌ててそう弁解したが、ディノはぞっとするくらいに冷ややかな眼差しで一つ頷いただけだった。
丁寧にハンカチを剥がすと、ネアの指先にそっと口付ける。
さすがにまだ傷付いたばかりなので、押さえるものを外すと血が滲んだ。
「……ディノ、汚れますよ?舐めて消毒ならもうしました」
「意図しての攻撃ではなく、君が偶然触れたのだろう。こういう場合は、事故のような認識になるんだね。守護の線引きにも困ったものだ」
「これくらいであれば、日常生活の中で負う傷の範疇ですよ。この前も本のページで、ふぁっ?!」
指先を口内に含まれて、ネアは小さな悲鳴を上げた。
「デ、ディノ!」
ぞろりと舌を這わされてから解放された指先は綺麗に治っていた。
しっかり感覚に焼き付いてしまった舌の感触にネアは真っ赤になる。
激しく動揺するネアに対し、ディノはけろりとしていた。
「血はとても魔術的なものだからね。私が取り込む分には君との繋がりを深めるだけだが、逆に奪われると君への糸口とされてしまう」
「そ、そうなんですか……?」
「奪う者の階位にもよるが、高位のものに手に入れられると面倒なのは確かだ。他に、血を落としてはいないかい?」
「………そういえば、……あれ?気のせいだったかもしれません。コートを汚さないようにすぐにハンカチを巻いたので」
「血を落としたの?」
「いえ、蒲公英毛玉との戦いと、あの木が動き出したことで慌てていましたので、ちょっと記憶が曖昧ですが、どこにも血痕がなければ大丈夫だと思います」
辺りは真っ白な雪だ。
雪の上に血が落ちていればとても目立つ。
念の為に靴跡の部分も確認しておこうと思いながら地面を観察していると、ディノが小さく笑う気配があった。
「私がこの辺りの飛沫がないか見ておこう。一度血を得れば、探索も簡単になるしね」
「なんと……」
「君も一度私の血を得ているから、今回のことで守護と契約が深まったのは良い余禄だ」
「私も、ディノの血を?」
「前に黒煙のことで私が傷を負ったとき、君はその血のついた指先を舐めただろう?」
「………む」
表現が具体的なので頬に血が昇るが、確かにそんなことがあった気がする。
その時は特に何の意識もなく、ディノも何も言わなかった筈だ。
そんなことを考えていると、ディノは、今はもう静かなただの木に戻ったハシバミをちらりと一瞥した。
「やれやれ、ここに残っていれば私が消したけれど、ハシバミに捕食されてしまったし」
「蒲公英毛玉ですか?あれは、一体どんな精霊なのでしょう?」
「そのままの言葉通り、毛玉の精霊だよ。衣類や毛皮に出来る毛玉だね。王宮のように衣類を丁寧に管理する土地や、衣料店等に生まれる精霊で、その成り立ち故にとても邪悪なんだ」
「……確かに排除されることで生まれる精霊さんですものね」
「そう。悪意や害意、拒絶から派生するものは、得てして恨み深く攻撃的なんだ。次から、見付けたら私を呼ぶように」
「はい」
その後ディノは、ハシバミとの遭遇でご主人様が落ち込んでいると信じてとても甘やかしてくれたが、ウィリアムを案じたネアに会議に送り戻された。
(………やはり、あれはイメージだったのかしら)
雪の上に落ちた真紅の血の記憶があるような気がしたが、その場所の雪はとても綺麗でそんな気配はなかった。
ディノもしっかり調べてくれたし、すぐに口に含んだ記憶もある。
勿論、コートや靴も汚していなかった。
傷口から溢れる血に、そんな本能的なイメージをしたのだろうか。
そう考えてそのことをすっかり忘れてしまったネアが、この世界の生き物の狡猾さを知るのは随分と先のことだった。
一雫の血に、どれだけのことが出来るのかも。