リースの魔物と白い礼拝堂
その日は朝から風の強い日だった。
ざあっと木々の枝葉を打ち鳴らし、細やかな雪を振り散らす。
夜半過ぎに随分と冷えたので、枝葉の上に積もった雪は粉砂糖のようにぱっと砕け散る。
きらきらと輝くその残滓に、ダイヤモンドダストの降る朝のようだった。
「この音が好きです。木々を渡る風の音と、室内で聞いている夜の雨音、美しい音はたくさんありますが、その二つが特別なのは、日常的な分愛着も深いからでしょう」
ネアがそう告白したのは、小さな礼拝堂の前だった。
真っ白な石造りの礼拝堂は、四百年ほど前にリースの魔物を鎮める為に建立されたものなのだそうだ。
礼拝堂までの道には、両サイドに天使の像のようなものがあり、まさかと思って聞いてみれば雪食い鳥ではなく、雪渡りという初めましての生き物であった。
ディノの隣にいるお陰で、木々を大きく揺らす風の身を切るような冷たさは感じないで済んでいる。
雪の冷たさもネアは好きなのだが、本日のお天気だと耳がちぎれそうな寒さだと知り、大人しくディノの魔術に守られることにした。
「この中には誰もいないのですね」
「リースの魔物は、他の生き物に悪さをするからね」
「現役のリースの時は厄除けであるのに、引退すると魔物になってしまうのはなぜでしょう?」
ネアの質問に、ディノは少し困ったような目をした。
「……さて。恐ろしいのかもしれないね」
「恐ろしい?」
風が鳴り、礼拝堂を覆うような大きな木を揺らす。
魔術が育てた林檎の大木には、どこか御伽話の中の荘厳さがあった。
(こちらの世界では、林檎の木がこんなに大きくなるんだ……)
家よりも大きな林檎の木は、両手で礼拝堂を包み込むように枝を伸ばして、真っ赤な林檎をつけている。
この土地の林檎は穢れを溜め込んだものなので、決して食べてはいけないと教えられた。
「送り火と違い、リースは一過性のものだ。どれだけ美しく仕上げてその力を借りても、祝祭が過ぎれば炎に焼べてしまう」
イブメリアのリースは、翌日の内に燃やして浄化するのが習わしである。
片付け忘れて三日以上放置されたリースは、とても醜悪な魔物になるのだそうだ。
そしてここは、魔物に成ったリースを鎮めるのと同時に、隔離する為の場所である。
「そう考えると、置き去りにされたリースは、確かに恐ろしく悲しいのかも知れません」
かつては重用され、もう二度と必要とされないもの。
ひび割れ朽ちてゆくというのに、正しく送られもしなかった無残なもの。
それに心を宿せば、もはや絶望以外の何物でもない。
「リースの魔物は、悪意をもって害を為す魔物ではない。その苦痛から穢れ、人を傷付ける哀れな魔物だよ」
「……助けて差し上げることは出来ないんですか?」
「無理だね。苦痛から成り立つものだから」
魔術に温度を失った風が、ディノの真珠色の髪を靡かせる。
ふっと揺らいだ眼差しと、微かに伏せた瞼の影と長い睫毛の色に、ネアはなぜだかはっとしてしまう。
「ディノ?この魔物さんは、お知り合いなのですか?」
「いいや。けれどもこの土地に染み付いた怨嗟の声は、……永劫に見捨てられるということは、……あまり気分のいいものではないからね」
ネアは、手にはめていた灰色の手袋をすぽんと外すと、無防備だった魔物の手をしっかりと捕まえた。
いつもは手を握ると恥じらう魔物が、綺麗な目を瞠ってじっとこちらを見ている。
「ディノには私が付いていますから、怖くないですよ」
「……君が見捨てるかもしれない。決別は、裏切りや拒絶ではないものも、この世界には数多にあるだろう」
「それは、前に私が話したように、私があなたを見捨てないと理解した上での新たな不安ですか?それとも、また不安になってしまいましたか?」
秀麗な眉を顰めて、ディノは少しだけ考えたようだ。
唇の端を微笑みの形に持ち上げようとして、また物憂げな顔になってしまう。
「………わからない」
複雑そうな声が愛おしくなって、ネアはそんな場面ではないのになぜか微笑んでしまった。
「では、怖くなったときは呼びかけて下さい」
「呼びかける?」
「はい。“不安なので傍に居て”ときちんと言葉にしてくれれば、私はいつだって、はいと答えます」
「……いつでも?」
「ええ、いつでも。その代わり、意図が伝わらないような曖昧な言葉は駄目ですよ?きちんと例題通りの言葉で、呪文のように伝えて下さいね。言い方が悪くて心がすれ違うのは嫌ですから」
「呪文……」
「そして、もし私が同じ呪文を唱えたら、ディノが傍に居てくれると嬉しいです」
「言わなくても傍に居るよ。ネアの要求は何でも叶えてあげたいけれど、手放すつもりだけは決してないから」
「………首輪」
「ネア?」
「いえ。そこまで確固たる意志があるのに、それでも不安になってしまうんですね」
「……心は、思い通りにしようと触れれば歪んでしまうものだからね」
「触れられないこともないと………」
「触れられるし、変えられるよ。でもそうなると、それはもう作りものだ」
「なぜでしょう、ディノがその感覚を持っていてくれたことにとても安堵しました」
視線の先には小さな灰の山がある。
さらさらと風に崩れ、まるで最初から何もなかったかのように。
“あまり良い仕事ではないが、土壌汚染が酷くてな。土地の毒抜きをする薬を作ってくれ”
エーダリアに依頼されたのは、リースの魔物の亡骸を浄化する薬だった。
リースの魔物は、毎年代替わりする、とても短命の魔物だ。
取りこぼされたリースから派生し、翌年のイブメリアの後に討伐される。
複数派生すると疫病を呼ぶので、毎年新たなリースの魔物が生まれるまでには滅びるように、太古より存在そのものに込み入った呪いがかけられているのだそうだ。
生まれた時から死の呪いをかけられた哀れな魔物は、この土地の中から出ることは出来ない。
うっかり迷い込んだ旅人や、波長が合ってしまい呼び寄せられた人間を捕食して生きている。
今年もリースの魔物が生まれるにあたり、昨晩、先代のリースの魔物は定められた討伐の運命を辿った。
(前年のイブメリアは、私の先代の歌乞いさんが亡くなるような事件があったので、随分と忘れられたリースが出てしまったとか)
その結果力を増したリースの魔物は、こうして滅びの間際に土地を深く深く汚染した。
風に崩れて行く灰の塊を見ながら、ネアはディノの調薬した薬を大地に染み込ませる。
真っ黒だった地面に大きな波紋が広がるように、さあっと光の輪が波打った。
でもこれはどこかで、ここで苦しみ死んでいった魔物の痕跡を消し去る残酷さでもある。
その酷薄さがわかるからこそ、ディノは色々なことを考えてしまったのだろう。
(私には、ディノと違って安心感がある)
長命で頑強な生き物が自分より早く失われはしないだろうという安心感と、いつもネアより早く不安になってくれる魔物のお陰で、ネアが見捨てられる恐ろしさに震えることはない。
契約した魔物がディノだからこそ、ネアが得る事が出来た心の平穏だった。
(その分、繊細なディノが毎回こうやってしょげてしまうんだわ)
「ディノ、今夜は私がグヤーシュを作ってあげましょうか?」
「いいのかい?」
ぱっと目を輝かせた魔物が、へたれていた口角を持ち上げる。
やっと嬉しそうにしてくれたので、ネアはほっとした。
「ええ。明日はお休みですし、夜食を作って夜更かししましょうか。今夜はたくさんお喋りしましょう」
「ご主人様!」
嬉しそうにへばりついてきた魔物を抱き締めてやると、なぜかディノは恥じらっておろおろする。
毎回、与え返しただけで動揺するのは、こちらが加害者な構図になるので是非にやめて欲しい。
(風が、誰かの慟哭のようだ)
転移でこの土地を離れる最後に耳に残ったのは、柔らかくさんざめく木々の風音とは違う、もっと重く苦しい風の音。
とても胸打つそんな音ですら、美しいものは美しい。
揺れる林檎の木と、今はもうなくなってしまった灰の山、そして誰もいない白い礼拝堂。
この景色はきっと、当分の間は記憶の棘のように残るだろう。
それも残酷な言葉だとわかってはいても、いつか、リースの魔物が生まれない年があればいいのにと、チリリと傷む胸の底で思った。